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6章◆触れてはいけない、触れてほしい
不安
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◆
イリスがテーブルの上で、陶器のポットを傾けている。
二人ぶんのマグカップが琥珀色の液体で満たされ、鼻に抜けるような爽やかな香りがキッチンの入り口まで漂ってくるのを、タビトはぼんやりと眺めていた。
茶を注ぎ終わったイリスが、ポットを端切れで作ったマットの上に置く。その拍子に、入口で自身を見つめる存在に気付いた。
「あ、おはよう。起きてたんだ。今起こしにいこうかと……タビト?」
「……えっ? はい、……」
「どうかした? なんか今日の君、顔色が……」
イリスの表情にさっと陰りがさす。彼は速足でキッチンの入り口まで歩み寄ると、白い手のひらをタビトの方に向ける。
「もしかして熱? ねぇ、ちょっと頭を……」
その手がタビトの額に触れようとした刹那、タビトの脳裏に魔人の言葉が蘇った。
――毒を撒く力。第三番。『夜の蝶』。
「ぃ……、!」
気付けばタビトは爪先で後方に跳び、廊下の壁にへばりついていた。中途半端に手を掲げたイリスが、ぽかんとした顔で立ち尽くしている。
「た、……タビト? ちょっと、本当にどうかし――」
「だ、大丈夫です! 大丈夫なんで先生、オレに触らないで……」
「え?」
「あ、」
イリスの顔がぎくりと強張り、自分の失言に気付く。傷付いたような表情でこちらを見るイリスに、タビトの胸も軋むように痛んだ。
「い、今のは違うんです、また夢に魔人が出て……、せ、説明するので聞いてください!」
「え。魔人が、また……?」
タビトは怪訝そうな顔をするイリスに触れないように注意しながら、朝食が整った食卓を素通りしてソファに移動した。てっきりイリスはテーブルの方に座ると思っていたのに、イリスまでソファに腰かけて隣合うことになったは誤算だったが、ただちに肌が触れる訳でもない。これ以上イリスと距離を取ることも忍びなく、そのままの距離感でタビトは夢で見たことを話した。もちろん、魔人が最後に仄めかした部分だけは伏せて。
「だ、だから……うっかり先生に何かの毒を移しちゃったらって思うと不安で。それでつい避けちゃいました」
何かの毒、というより目下頭にあるのは『夜の蝶』だけだが、他にも危険な毒がたくさんあることには違いない。
タビトが説明を終えると、イリスはほっとしたように息を吐いた。
「そういうことか。びっくりした。……ついに君にも嫌われてしまったのかと……」
「そ、そんな訳ないじゃないですか。……いやでも、急にあんな風に言われたら驚きますよね。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。……それに、分かってみるといかにも君らしい」
イリスは疲れたように笑うと、一時考えるように遠くを見た。それからそっと、生身の右手をタビトに伸ばす。
「えっ!? いや先生、だから今の話……!」
「逃げないで」
タビトは即座にソファの上で身を捩って体を退けようとしたが、イリスが硬い口調でそれを咎める。そしていとも容易く、タビトの手を握った。緊張で強張るタビトの拳を、両手で優しく握り込む。
「そんなに警戒しなくても大丈夫。君の毒を撒く力については、既に一度確認しているから」
「えっ……。ど、どういうことですか?」
「えっとね」
イリスは一度思い起こすように目線を彷徨わせてから口を開いた。
「魔人は『怒りで我を忘れるようなことがあれば』……と言っていたんだよね。それはおそらくサンサリーズで私が斬られた時のことを言っているんだと思うよ。君には黙っていたけど、君が蹴り飛ばしたオードという男に、あの後『終わり桜』の症状が出たんだ」
「えっ、終わり桜!? ……って、何でしたっけ」
「……第十二番、『終わり桜』。一般的な症状は十日間に及ぶ異常な高熱。桜の散り際のような発疹が出て、それが全身にまで広がると死に至ると言われている。君の場合熱は五日程度で引き、発疹も出なかった。だけど君にしては珍しく長引いた方だったし、当時は記憶が新しかったこともあって、無意識のうちに与えてしまったのだろうね。オードが一番苦しむような毒を」
「……」
「私が知る限り、君が力を使ったのはその一回きりだ。あくまで私の体感でしかないけれど、ずっと一緒に暮らしてる私がそう思うのだからかなり確かだと思うよ。魔人の言う通り、普通に生活しているぶんには暴走する危険はないと言っていいと思う。だから君も、そんなに身構える必要はないんだよ」
言葉の終わりでイリスはもう一度、励ますようにタビトの手をぎゅっと握った。
その体温で、強張っていた筋肉がほぐれていくのが分かる。けれどタビトは、心の底ではまだ安心しきれていなかった。なるほど確かに日常生活を送っているぶんには問題ないかもしれない。だけど同時に我を忘れてしまった時には、毒を撒いてしまったという確固たる事実もある。つまりタビトが性欲を抑えきれずに我を忘れれば、――イリスに対してだって。
「あ、……ありがとうございます。……でも、」
タビトはイリスの手に自分のそれを重ねて握ると、そっと解いた。
「やっぱり不安なので……。万が一のことがあっちゃいけないから、必要な時以外は先生に触らないようにします。あ、でも別に変に避けたりはしないんで!」
必要以上に心配させないようにと、最後は明るい声音を出すことを意識した。けれどイリスはどこか納得いかないような表情で、「君がそうしたいならいいけど」ともごもごと言う。
「と、……とにかく、朝飯食いましょうか。ってオレ、何も手伝ってないけど……」
はは、と無理やり笑顔を作って立ち上がろうとした時、勝手口の方からどんどん、と荒いノックの音がした。何事かと目をやるのとほとんど同時に、小さなドアが開く。
「おはようございまーす! 先生まだ……あ、よかった、まだいた。タビトも」
リウルだった。いつもは両手に荷物をいっぱいに抱えてやってくるが、今朝は藤のバスケットを片手に提げているだけだ。
「おはようございます。あれ、今日リウル先輩来る日だったんですか?」
リウルが朝から来る日は、即ち彼がとっておきの朝食を作ってくれる日でもある。
既に用意された食卓を見ながらタビトが尋ねれば、リウルは首を振りつつ靴を脱ぐ。
「いや、今日はちょっとお前に話があって来た。一応土産もあるけど」
イリスがテーブルの上で、陶器のポットを傾けている。
二人ぶんのマグカップが琥珀色の液体で満たされ、鼻に抜けるような爽やかな香りがキッチンの入り口まで漂ってくるのを、タビトはぼんやりと眺めていた。
茶を注ぎ終わったイリスが、ポットを端切れで作ったマットの上に置く。その拍子に、入口で自身を見つめる存在に気付いた。
「あ、おはよう。起きてたんだ。今起こしにいこうかと……タビト?」
「……えっ? はい、……」
「どうかした? なんか今日の君、顔色が……」
イリスの表情にさっと陰りがさす。彼は速足でキッチンの入り口まで歩み寄ると、白い手のひらをタビトの方に向ける。
「もしかして熱? ねぇ、ちょっと頭を……」
その手がタビトの額に触れようとした刹那、タビトの脳裏に魔人の言葉が蘇った。
――毒を撒く力。第三番。『夜の蝶』。
「ぃ……、!」
気付けばタビトは爪先で後方に跳び、廊下の壁にへばりついていた。中途半端に手を掲げたイリスが、ぽかんとした顔で立ち尽くしている。
「た、……タビト? ちょっと、本当にどうかし――」
「だ、大丈夫です! 大丈夫なんで先生、オレに触らないで……」
「え?」
「あ、」
イリスの顔がぎくりと強張り、自分の失言に気付く。傷付いたような表情でこちらを見るイリスに、タビトの胸も軋むように痛んだ。
「い、今のは違うんです、また夢に魔人が出て……、せ、説明するので聞いてください!」
「え。魔人が、また……?」
タビトは怪訝そうな顔をするイリスに触れないように注意しながら、朝食が整った食卓を素通りしてソファに移動した。てっきりイリスはテーブルの方に座ると思っていたのに、イリスまでソファに腰かけて隣合うことになったは誤算だったが、ただちに肌が触れる訳でもない。これ以上イリスと距離を取ることも忍びなく、そのままの距離感でタビトは夢で見たことを話した。もちろん、魔人が最後に仄めかした部分だけは伏せて。
「だ、だから……うっかり先生に何かの毒を移しちゃったらって思うと不安で。それでつい避けちゃいました」
何かの毒、というより目下頭にあるのは『夜の蝶』だけだが、他にも危険な毒がたくさんあることには違いない。
タビトが説明を終えると、イリスはほっとしたように息を吐いた。
「そういうことか。びっくりした。……ついに君にも嫌われてしまったのかと……」
「そ、そんな訳ないじゃないですか。……いやでも、急にあんな風に言われたら驚きますよね。ごめんなさい」
「いや、いいんだ。……それに、分かってみるといかにも君らしい」
イリスは疲れたように笑うと、一時考えるように遠くを見た。それからそっと、生身の右手をタビトに伸ばす。
「えっ!? いや先生、だから今の話……!」
「逃げないで」
タビトは即座にソファの上で身を捩って体を退けようとしたが、イリスが硬い口調でそれを咎める。そしていとも容易く、タビトの手を握った。緊張で強張るタビトの拳を、両手で優しく握り込む。
「そんなに警戒しなくても大丈夫。君の毒を撒く力については、既に一度確認しているから」
「えっ……。ど、どういうことですか?」
「えっとね」
イリスは一度思い起こすように目線を彷徨わせてから口を開いた。
「魔人は『怒りで我を忘れるようなことがあれば』……と言っていたんだよね。それはおそらくサンサリーズで私が斬られた時のことを言っているんだと思うよ。君には黙っていたけど、君が蹴り飛ばしたオードという男に、あの後『終わり桜』の症状が出たんだ」
「えっ、終わり桜!? ……って、何でしたっけ」
「……第十二番、『終わり桜』。一般的な症状は十日間に及ぶ異常な高熱。桜の散り際のような発疹が出て、それが全身にまで広がると死に至ると言われている。君の場合熱は五日程度で引き、発疹も出なかった。だけど君にしては珍しく長引いた方だったし、当時は記憶が新しかったこともあって、無意識のうちに与えてしまったのだろうね。オードが一番苦しむような毒を」
「……」
「私が知る限り、君が力を使ったのはその一回きりだ。あくまで私の体感でしかないけれど、ずっと一緒に暮らしてる私がそう思うのだからかなり確かだと思うよ。魔人の言う通り、普通に生活しているぶんには暴走する危険はないと言っていいと思う。だから君も、そんなに身構える必要はないんだよ」
言葉の終わりでイリスはもう一度、励ますようにタビトの手をぎゅっと握った。
その体温で、強張っていた筋肉がほぐれていくのが分かる。けれどタビトは、心の底ではまだ安心しきれていなかった。なるほど確かに日常生活を送っているぶんには問題ないかもしれない。だけど同時に我を忘れてしまった時には、毒を撒いてしまったという確固たる事実もある。つまりタビトが性欲を抑えきれずに我を忘れれば、――イリスに対してだって。
「あ、……ありがとうございます。……でも、」
タビトはイリスの手に自分のそれを重ねて握ると、そっと解いた。
「やっぱり不安なので……。万が一のことがあっちゃいけないから、必要な時以外は先生に触らないようにします。あ、でも別に変に避けたりはしないんで!」
必要以上に心配させないようにと、最後は明るい声音を出すことを意識した。けれどイリスはどこか納得いかないような表情で、「君がそうしたいならいいけど」ともごもごと言う。
「と、……とにかく、朝飯食いましょうか。ってオレ、何も手伝ってないけど……」
はは、と無理やり笑顔を作って立ち上がろうとした時、勝手口の方からどんどん、と荒いノックの音がした。何事かと目をやるのとほとんど同時に、小さなドアが開く。
「おはようございまーす! 先生まだ……あ、よかった、まだいた。タビトも」
リウルだった。いつもは両手に荷物をいっぱいに抱えてやってくるが、今朝は藤のバスケットを片手に提げているだけだ。
「おはようございます。あれ、今日リウル先輩来る日だったんですか?」
リウルが朝から来る日は、即ち彼がとっておきの朝食を作ってくれる日でもある。
既に用意された食卓を見ながらタビトが尋ねれば、リウルは首を振りつつ靴を脱ぐ。
「いや、今日はちょっとお前に話があって来た。一応土産もあるけど」
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