銀の旅人

日々野

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6章◆触れてはいけない、触れてほしい

第十八番『鏡の目』

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「……それでその後、別のテーブル行ってもその男の子がずーっとついて来ちゃって。先生が教えてくれた『逃げ口上』も男相手だと何て言えばいいか分かんないから困りましたよ。王子様っていうのもなんか違うし」

 小鹿の馬車亭での初出勤を終えた翌日、霧のような雨が降る昼下がり。タビトは自室のベッドに腰掛け、昨夜の出来事を話していた。イリスはいつものように書類に何か書きつけたり、トレイの上で茶色の小瓶を傾けたりガラス製のコップの中身をかき混ぜたりしている。

「これから考えていけばいいよ。親方や店の人は仲良くなれそうだった?」
「あ、はい。あんな大きな店の親方っていうからもっと堅苦しい人だと思ってたのに、気さくなおじさんって感じでびっくりしました。喋り方がリウル先輩とそっくりで」
「そうそう、そっくりだよね。二人と同時に話してるとたまにどっちが喋ったのか分からなくなるよ」

 魔人の毒の投与前だというのに、至極和やかな時間が流れていた。あらかじめ聞かされていた第十八番『鏡の目』の症状が、軽微なことも関係しているだろう。効果は数時間、視界が鏡のように反転するだけ。その上これもイリスの治癒の魔法でいくらか短縮できるらしい。
 そういう訳で今日もタビトは、寝間着に近い楽な服装でベッドの上に待機していた。すぐに症状が治まらなかったとしても数時間大人しく横になっていれば何事もなく済むという、過去にも何度か実行済みの作戦だ。

「それじゃ今日はこれを舐めてくれる?」

 イリスがガラスの棒をタビトに差し出す。その先端には飴を溶かしたような、粘着質で半透明の塊がへばりついていた。

「味は甘くて美味しいよ。人によっては病みつきになるほどハマるらしい」
「へぇ、毒なのにですか。……」

 タビトは何でもない風を装いながら、イリスの手に触れないよう慎重に棒を受け取る。普通に生活しているぶんには魔人の『毒を撒く力』は発動しない――ということは昨夜の経験からも分かっていたが、イリスに対しては未だに注意を払っていた。タビトが普通でいられなくなるとしたら、それはイリスに関することに決まっているからだ。

「うん、毒と分かっていても辞められない。その依存性が『鏡の目』の怖いところなんだ。一度舐めただけならさっき言った通りの症状で済むけれど、何度も舐め続けると視界が元に戻らなくなり、やがて精神そのものが鏡の世界に囚われると言われている。鏡の世界、というのが具体的に何なのかはよく分かっていないけど」
「ふぅん。……あ、本当だ。甘い」

 タビトがガラスの棒の先端を口に含むと、上質な砂糖のような甘い味が口内に広がった。今ならこれくらいの菓子はリウルに頼めばすぐ作ってくれる、と思えるが、王都に来る以前だったらどうだったろう。野山にこんな味がする果実が生っていれば、多少視界がおかしくなっても気にせず食べていたかもしれない。そう思うと、やはりこれも『魔人の書』に相応しい毒なのだろう。

「全部舐めました」
「うん。それじゃ早めに横になっておこうか」
「はい」

 イリスにガラス棒を返し、彼がそれをトレイに戻している間にそそくさとベッドの上に横たわる。『強烈回転眼』の時のように、うっかりイリスを押し倒してしまったりしたら大変だ。無事頭の下に枕を押し込んだところで、目に違和感を感じた。ぱちぱちとまばたきをしていると、何度目かのタイミングで見知った天井の木目の模様がぱっと左右逆になる。

「あ。……始まったみたいです」
「分かった。それじゃ目を閉じて……」

 指示通りに目を閉じた直後、目蓋全体を覆うようにイリスの手のひらを当てられたのが分かり、ぎくりと肩を震わせてしまった。

 ――だ、大丈夫大丈夫。普通にしてるぶんには毒を撒いたりしないんだから。普通に。普通に……。

 イリスの手を意識しないよう、目蓋の裏の暗闇に集中する。陽だまりのように心地良いイリスの治癒の魔法も、今日は早く終わってくれと願うばかりだった。
 そうやってずっと心の中で「普通に、普通に」と唱えていたせいで、具体的にどれだけ時間が経過したのか分からなかった。

「タビト。ちょっと目を開けてみて」

 というイリスの声と共に目蓋が解放され、何度かまばたきしてみる。逆になっていた天井の木目の模様が、元に戻っていた。

「治ったみたいです」
「そう、良かった。気分は悪くない? 目以外に気になるところとか」
「そうですね……」

 のそりと上体を起こす。周囲を見渡して異常がないことを確認しようとしたが、思っていた以上に近いところにイリスの顔があってどきりとした。

 ――あ。やっぱかわいい。

 ……というのが率直な感想だったが、もちろん口にすることなく目を逸らす。

「特に……ないですね。フツウです、フツウ」
「分かった。フツウね」

 タビトの返事を繰り返しながら、イリスが手元の書類にさらさらと書きつける。最後にしゃっ、と音を立てて羽ペンを滑らせ、顔を上げた。

「それで……今回はどうするの?」
「え? どうって、何がですか?」
「決まってるでしょう。ご褒美だよ」
「あっ」

 また、タビトの心臓がどきんと跳ねる。

 ――そうだ、忘れてた。最近はずっと先生のキスをねだってた。でも、今回ばかりは。

 タビトはイリスに向き直ると、精一杯の笑顔をつくる。

「そうだなぁ……あ、久しぶりに小鹿の馬車亭で何か作ってもらおうかな! 『鏡の目』が美味しかったから甘いもの食べたくなっちゃいました。先生も一緒にどうです?」
「いや、……私はいいよ。君のご褒美なんだから」
「そう言わずに、一人で食べたって味気ないですから。あ、じゃあ次出勤する時にオレもらってきますよ。そんでうちで一緒に食べましょう」
「そ、……そう? 君がそう言うなら、ご相伴に預かろうかな……」

 イリスは遠慮がちに答えると、どこかぎこちない様子で荷物をまとめた。

「それじゃ、今日と明日は一応安静にしておいて。仕事に行くなら明後日からね。ご褒美のことは私からリウに頼んでおくから」
「はい、よろしくお願いします。……」

 イリスは目だけで返事をすると、そそくさと部屋を出て行った。
 一人きりになった部屋の中、タビトはイリスが消えたドアを見つめる。

 ――なんか先生、ちょっと元気なかった? オレ別に変なこと言ってないよな。ご褒美用の飯を一緒に食べるのだって別に初めてじゃないし。この前のミートパイだって普通に分けて食べたし。食欲ないとか? 仕事で疲れてるとか……?

「……あっ」

 その時、タビトの脳に閃きが走った。

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