あの日、君は笑っていた

紅蘭

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第二章

アオイの真実Ⅳ

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「麗奈」


ひろ君も玄関から戻ってくる。

その顔が見れなかった。顔を見たら責めてしまいそうで。

俯いたままの私にひろ君は近付いてきて、私の頬に触れた。

顔を上げるように促されて目が合う。

ひろ君は真っすぐ私を見つめていた。

私はその目をいつものように見ることはできなかった。

目をそらすとひろ君は私の頬から手を離して言った。


「そのままだと制服がしわになるよ。着替えておいで」


そういえばそうだった。

ひろくんがはずしたリボンを回収して部屋に向かう途中で、「ごめん」と小さな声が聞こえた。

私は何も言えずにただその響きだけを胸に閉じ込めて、振り返らずに部屋に入った。



それから数日間は特に何もなく、次に弘介さんと会ったのは日曜日だった。


近くの河原でギターを弾く。

今日は本当に天気が良くて、周りには子供連れの家族がたくさん見える。

外で遊ぶには暑いくらいだけど、子供たちは元気に走り回っている。

一人一人は意味のある言葉を離しているというのに、どうしてそれがたくさん重なったらこんなにも耳障りな音になるのだろうかと思った。

だけど私のギターだって他の人からすればそうなんだろうなとも思う。


本当は来たくなかった。このギターに触れる気分ではなかった。

だけどひろ君が私に弾いて欲しいって言ったから。

その時点で分かっていた。何かがあるんだろうな、と。

だけど私はギターを弾いた。それがどんな気持ちだったのかは自分にも分からない。

ひろ君が弾いて欲しいなら、と言い訳のように言って私は、あの日弘介さんにもらったギターを鳴らした。


「やっぱり麗奈の音は綺麗だね」


ひろ君は私のギターを聞いてそう言った。

よく分からない。我ながら上手になったものだとは思う。

だけどこの五年間、どんなにギターを弾いても満たされることはなかった。

今日は歌う気にならなくて黙ったまま手だけを動かした。

ふっと視界が暗くなって、地面を見ると誰かの影が私に落ちていた。

手を止めて座ったまま見上げる。


「……こんにちは」


この数日で覚悟はできていた。

そして全部言ってやろうと決心した。

私が挨拶をしたことに驚いたのか、弘介さんは少しの間私を見つめて、ようやく口を開いた。


「うん、こんにちは」


ギターをケースにしまい、右隣にいるひろ君に渡すと、ケースにつけたストラップが音を立てた。

ひろ君は向こう側に置いてくれ、弘介さんは空いた私の左隣に座った。

そのまま沈黙が降りる。こうしているとまるで五年前に戻ったみたいで少し嬉しかった。

だけど今はもうあの頃のような心地のいい空気ではなく、ただ苦しいだけだった。

ひろ君を見てみるが、何も言わない。

私と弘介さんのことをどう思っているのか気になった。

早く家に帰りたい。ひろ君と二人でゆっくりと過ごしたい。

だから余計なことは言わずにさっさと話してしまおうと思った。


「何から話しましょうか」


冷静な自分の声がまるで他人のもののように聞こえるが、喋っているのは確かに私だった。


「麗奈ちゃんがアオイちゃんなの?」


弘介さんは川面に視線をやったまま言った。私も川に目を向けたまま頷いた。


「はい、私がアオイです」


三上麗奈。それが私の名前。

それだけしか知らないとまさか私がアオイだとは思わないだろう。

それが分かっていて私は弘介さんに近づいた。この先はひろ君すら知らないことだ。


「かつて私は青井麗奈でした」
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