アンドロイドの歪な恋 ~PROJECT III~

松本ダリア

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第10話 投げつけられたバースデーケーキ 後編

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その日は明彦の誕生日だった。今晩は家に帰ると言う彼の言葉を信じて、暁子はケーキやご馳走を作って待っていた。しかし、深夜を回っても彼が帰ってくる気配はない。待ちくたびれた暁子はケーキとご馳走を目の前にしながら、そのまま眠ってしまった。朝になってようやく帰宅した明彦は酒に酔い潰れていた。暁子は信じられない思いで、顔を真っ赤にしながら玄関先で倒れ込む彼を見つめた。

「……どこで飲んできたのよ」

「ああ、会社の近くの店だ。今日は俺の誕生日なんだぞっつったら、奢ってくれるっつうから。ちょっとだけだぞっつって行ったら、ついつい飲み過ぎちまったのさ~いやぁ、悪かったな!」

明彦は全く悪びれる様子もなく、ヘラヘラしながらそう言った。暁子は頭に血が上るのが分かった。全身が震え、いてもたってもいられなくなった。彼女はキッチンからケーキを持ってくると、明彦の顔面目掛けて投げつけた。

「ぶはっ!お、お前!何すんだ!」

「知ってた?このケーキ、あんたの為に作ったの。あんたが酒に酔い潰れてる最中にね。だから、食べてもらおうと思っただけよ」

ショートケーキで顔面がぐちゃぐちゃになった明彦を、暁子は上から見下ろし、毅然とした態度で言った。明彦はぐちゃぐちゃになったケーキを顔面から剥がし、握り潰すとヨロヨロと立ち上がった。そして、そのケーキの欠片を暁子目掛けて思い切り投げつけた。暁子は咄嗟に両手で顔を覆った。

「何するのよ?!」

「それはこっちのセリフだっての!良い気分で帰ってみりゃあ、いきなりケーキぶつけやがって!」

明彦は酔いが回っているせいか真っ直ぐに立っていられずフラフラしていた。酒と怒りで顔を真っ赤にして、暁子を怒鳴り散らした。その時、暁子は自分の頭の中で何かが切れる音を聞いた。その瞬間、これまで我慢していた不満が爆発した。

「あんたね……私が今までどんな思いであんたを待っていたか分かる?!私はアンドロイドだけじゃなくて、あんたとの子供も欲しかったのよ!待っていれば、いつか分かってくれると思ってた!でも、そんなの……時間の無駄だったわ!もういい……あんたはアンドロイドと一緒にぐちゃぐちゃになったケーキでも食べてればいいのよ!」

暁子は床に散らばったケーキの残骸ざんがいを拾うと、再び明彦に向かって投げつけた。そして、きびすを返すと自分の部屋へ向かった。

「ぶはっ!黙って聞いてりゃ好き勝手にごちゃごちゃ言いやがって……!このクソ女!」

明彦は暁子の背中目掛けて更にケーキを投げて来たが、暁子はもう応戦しなかった。

「どうとでもいいなさいよ。私はもうこの家を出て行くから」

「なっ……」

驚いている明彦を無視して、暁子は自室にこもった。そして、ケーキで汚れた洋服を脱ぎ捨て着替えると、クローゼットの奥からすぐにキャリーバッグを取り出し、荷物を詰め始めた。暁子の中には怒り、悔しさ、悲しさ、寂しさ、色々な感情が激しく渦巻いていた。

(普通の女ならきっとここで泣くんでしょうね。でも、私は泣かないわよ。あんなクズ男のために涙なんか流してやるものか)

暁子はそう強く決意した。歯を食いしばりながら荷物を詰め終えると、再び玄関へ向かった。明彦はまだそこにいた。ケーキの海の中で横になり、いびきをかいて眠っていた。あまりの醜態に暁子は呆れ返った。

(普通、このタイミングで寝る……?家を出ていこうとする妻をなだめたり、追ったりするもんじゃないの?)

暁子は大きくため息を吐くと、玄関の扉を開けた。そして、最後に明彦の顔を一瞥いちべつすると何も言わずに扉を閉めた。暁子と明彦はそれ以来、二度と顔を合わせることはなかった。

その後、暁子はしばらくクリニックで寝泊まりをしていたが、タイミング良く近くに新築マンションが建ったので、その最上階の部屋に移り住んだ。暁子が家を出てから1年程経ったある日、康寛から連絡があった。

「明彦から聞いたよ。君達、離婚したんだって?」

暁子のクリニック近くのカフェで久しぶりに会った康寛は、開口一番に目を丸くしてこう尋ねた。しかし、暁子はコーヒーを飲みながら平然として言った。

「ええ、そうよ」

「いやあ、驚いたよ……誕生のケーキ投げ合ったんだって?なんていうか……君達らしいっちゃらしいよね。こう言ったら申し訳ないけど、思わず笑ってしまったよ。ケーキを投げ合って喧嘩する夫婦って……」

康寛は困惑しながら笑みを浮かべた。そして言葉を続けた。

「でも、暁子。『宵月』のままなんだろ?旧姓に戻さないのかい?そもそも、今は昔と違って夫婦別姓っていう選択肢もあったのにあえて同姓を選ぶなんて……ちょっと意外だったよ。暁子だったら別姓にするだろうなって勝手に思ってたから」

「旧姓があまり好きじゃないだけよ。それに私『宵月』っていう言葉の響きが好きなのよ。神秘的で」

強がってそうは言ったが、暁子の内心は違っていた。彼女は結婚、出産、子育てに昔から強い憧れを抱いていた。結婚するなら夫と同じ姓を名乗り、一生添い遂げることを夢見ていたのだ。男勝りな暁子にしては意外な一面だった。彼女自身もそれを分かっていて、驚かれるのが嫌だから、あえて本当のことは言わなかったのである。

(でも、それだけじゃない。私は本当は心の中ではまだ明彦のことを……)

暁子はハッとして首を横に振った。そして、思い直したようにコーヒーを飲むと、康寛に尋ねた。

「宇佐美は?最近どうなのよ。医者は辞めたんでしょ?」

「うん。僕は今、全く別の仕事をしてるよ」

「どんな仕事?」

すると、康寛は口を開いて、少し躊躇った。

「どうしたの?」

「……いや、引かないで聞いてくれるかい?」

「ええ。大丈夫よ」

すると、康寛は向かい側に座っている暁子に顔を寄せると、小声でこう言った。

「風俗だよ。女性専門のね」

暁子は一瞬、驚いた。が、すぐに彼ならそういう仕事も選ぶのだろうと思い直した。何故なら、彼は昔から女性を喜ばせることに長けていたからである。医大に通っていたのは、医者である両親の強い希望だった。康寛本人はあまり乗り気ではなかったのである。

「僕にはやっぱり医者は向いてなかったよ。毎日、人間の生死に左右される生活。神経を擦り減らして、心を病みそうだった。医者は高給だけど、自分の好きなことをする時間は殆どない。患者の病気を治す前に自分が病気になってしまいそうだった。だから、思い切って辞めたんだ」

「そうだったの……でも、宇佐美。女の患者はもちろん、看護師達にもモテモテだったじゃない。もったいないわね」

すると、康寛は楽しそうに笑った。

「ハハハッまあ、それなりに良い思いはさせてもらったよ。みんな、僕と付き合うのを楽しんでくれたみたいだしね」

「でも……なんでまた風俗?女を喜ばせる仕事なら他にも沢山あるじゃない。ホストとか」

「うーん。こう言ったら引かれるかもしれないけど……」

そう言って康寛はまた小声で言った。

「僕は女の子に気持ち良くなってもらいたいんだ。僕の手でね。それで、少しでもその子の苦しみや不満を取り除くことができればいいなって……ほら、セックスってストレス発散にもなるっていうだろ?」

「そうね。聞いたことあるわ」

「だろ?僕は元々、女の子を喜ばせることが生き甲斐みたいな人間だからさ」

「宇佐美が楽しいならいいけど……ご両親は?反対してるんじゃないの?」

康寛は苦い笑いを浮かべると言った。

「言ってないよ。医者を辞めたってことは伝えた。けど、物凄く怒られてそれ以来、連絡も取ってない」

「そう……」

二人の間に気まずい沈黙が流れた。しばらくすると、康寛がカフェオレを飲み干して言った。

「まぁ、暁子も何かあったら言ってよ。僕で良ければいつでも力になるから」

そして、名刺を差し出した。

「ありがとう。でも、たぶんあんたの世話になることはないわ。私はね」

暁子はふふっと笑ってそう言うと、名刺を手帳に挟んだ。彼は後にベネラの初体験の相手となるが、それはまだ先の話だ。

それから数年後、暁子は資格を取り、婦人科医からカウンセラーに転身した。キッカケは康寛との会話だった。

(私も悩める女の子達を救ってあげられたら……。いや、女だけじゃない。男もだ。それに、結婚、離婚、子供を作る事ができなかったという私の経験が役に立つかもしれない)

暁子が立ち上げたクリニックは、院長である暁子の他に数人の医者がいたので、彼女達に譲った。そして、暁子は精神科と心療内科を専門とするクリニックにカウンセラーとして就職。元婦人科医という肩書を持つ暁子のカウンセラーは女性を中心に評判を呼び、予約が殺到する程の人気カウンセラーになった。評判を聞きつけた水端流が暁子をスカウトしたことで、暁子は再びアンドロイドの研究・開発に携わるようになったのだった。

デスクの上に置いたコーヒーはいつの間にか冷めていた。暁子が明彦のことやこれまでの人生を思い返していた時間はそれだけ長かったのだ。

(ケーキを明彦に投げつけたあの時は、私から明彦を奪ったアンドロイドが憎かった。でも、今は……。まさか私がアンドロイドの開発に関わることになるなんてねえ。一体どんな巡り合わせなんだか)

すっかり冷めきったコーヒーを口に運びながら、暁子は口元を微かに緩めた。

(北翔……。あの子は明彦が思い描いていた理想に最も近いアンドロイドだ。もしかしたら、彼女を作ったのは……)

暁子はカップをデスクに置くと、椅子から立ち上がった。そして、すっかり橙色にそまった窓の外の風景をじっと見つめたのだった。
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