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第11話 共感のち愛情 *

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※自慰行為あり。苦手な方はご注意ください。



ある日、彗は水端流からの伝言を伝えにイオと雄飛の研究室へ向かった。ノックしようと部屋の前に立った時、ドアの向こう側に微かな違和感を覚えた。

(えっ……この声って……)

彗は片耳をそっとドアに押し当て、耳を澄ませた。

「ああっ……やぁ……っ」

イオが漏らす吐息交じりの切なくも甘い声が微かに聞こえ、彗の胸が不意に高鳴った。

(ええっ?イ、イオ?で、でも雄飛くんは今、いないはずじゃ……も、もしかして一人で……?)

彗はドアを開けようとドアノブに手を掛けた。が、躊躇った。

(いやいや、覗いちゃダメだ……)

しばらくの間、葛藤していたが好奇心には勝てなかった。彗は意を決してそっとドアを開けた。イオはこちらに背を向けた状態でベッドに座っていた。床に脱ぎ捨てられた洋服、胸元の下着はズレて、肩紐は肩から滑り落ちている。乱れた下着の下からは滑らかな白い背中が覗く。自らの手で膨らみを愛撫し、快感に耐えて小刻みに震えている。あまりにも淫らな彼女の姿に、彗は心臓が飛び出そうになった。

「ゆうひ……んあっ」

(イ、イオ……!)

彗は驚きと気分が高揚するあまり漏れそうになる声を、口元に手を当てて必死に抑えた。あまりの予想外の事態に彗は激しく戸惑い、心を掻き乱された。

(もしかして……僕が拒んだから?)

すると、頭の中で声が響いた。

(そうですよ。あなたに拒まれた彼女は寂しさを紛らわすことが出来なくなってしまった。それで一人でするようになったんです。ホラ、気持ち良さそうでしょう?雄飛くんの名前を呼びながら……あなたの名前じゃないのは残念ですけどね)

(当たり前じゃないか。彼女が好きなのは雄飛くんなんだから)

すると、イオは片手を下に滑らせた。彗の位置からは彼女がどこに手をやったのか見えないが、彗には分かった。彼女は下着の中に手を入れたのだ。微かに妖艶な水音が聞こえてきて、彗はイオと肌を重ね、彼女の体を愛撫したことを鮮明に思い出して胸が高鳴った。

「どうして……?どうして最後まで抱いてくれなかったの……?彗……アタシ、こんなに寂しいのに……ううっ」

甘い吐息交じりの彼女の声は震えていた。涙を流しているようだった。その様子を見て、彼が言った。

(やっぱり、あなたに拒まれたことが辛かったんですよ、彼女は。いいですよねぇ。あなたは北翔が代わりに発散させてくれたんですから。イオには誰もいないんです。一人でするしかないんですよ)

切なさが入り混じった甘い彼女の声に、彗は胸が締め付けられそうになった。今すぐに飛び出して彼女を後ろから思い切り抱きしめたい衝動に駆られた。しかし、何とか堪えた。思わず白衣の胸元をぎゅっと握り締めた。

(イオ……ごめん、ごめんね……!僕は決めたんだ、君達を裏切らないって……)

すると、彼が意地の悪そうな声でこう言った。

(今からでも遅くはないんじゃないですか?)

(……は?君、何言ってんの?)

(イオを後ろから抱きしめてあげるんですよ。そして、彼女の愛撫を優しく手伝ってあげながらこう言うんです。この間はごめん、やっぱりぼくもイオとしたい。忘れられないんだ……ってね)

(冗談はやめろ。僕はそんなことしない)

(そうですか。じゃあ、ぼくがやります。あなたがやらないなら)

その瞬間、彗は強い力で腕を引っ張られ、暗闇に放り出された。体を起こすと、彼が小さく開けたドアを思い切り開けるところが見えた。咄嗟に振り返ったイオの顔が真っ赤に染まる。

「す、彗……?!い、今の見て……」

「イオ……」

彼はイオの体を後ろから思い切り抱き締めた。

(やめろ……!余計なことするな……やめろーーー!)

彗はデスクの上に飛び起きた。パソコンに向かっていて、いつの間にかうたた寝をしてしまったようだった。全身に汗をぐっしょりと搔いていた。

「夢の内容が……変わってる……」

彗は額の汗を拭い、戸惑いながら呟いた。

「……彗、どうしたの?なんか、うなされてたみたいだけど」

ベッドの上に体を起こし、北翔が尋ねた。表情は変わらないが、声には彗を心配するような色が混じっている。

「な、なんでもないよ!」

北翔がセンターに来てから数日が経っていた。しかし、事態はあまり進展してはおらず、北翔の記憶も依然として喪失したままだった。彗はデスクから立ち上がると、カーテンを開けて窓の外を眺めた。昨晩から降り続いた雪が積もっている。もうすぐ夜の9時を回る今、澄んだ夜空に星が瞬いている。

(少し風に当たりたい。あの悪夢の余韻を拭いたい……)

彗はあっという顔をして閃くと、北翔に言った。

「そうだ。この裏に雪が積もると綺麗な場所があるんだ。一緒に行こうよ」

「……でも、わたし、ここから出ちゃいけないんでしょ」

「大丈夫だよ。職員は今日、もう殆ど帰ったから。それに、君をずっと僕の部屋に閉じ込めておくのは申し訳ないし……」

「そう。じゃあ、連れてって」

北翔はそう言うと、ベッドから降りた。

「その検査着じゃあ寒いから着替えてね。僕は外にいるから……」

白衣を脱いでジャンパーを羽織った彗が出ようとすると、北翔は彼の腕を掴んで首を横に振った。

「別に、いてもいい。待ってて、すぐに着替えるから」

「えっ、で、でも……」

彗が戸惑っている間に北翔は迷うことなく検査着を脱いで下着姿になった。純白の上下の下着、形の整った美しい谷間、首元には雪の結晶のネックレスが光る。その姿はあまりにも可憐で美しかった。彗は真っ赤になって、咄嗟に後ろを向いた。

(み、見ちゃダメだ……い、いや、確かに彼女の裸は何度も見たけど……別に付き合ってる訳でもないから……)

あれ以来、彗は北翔と度々肌を重ねた。断っても北翔に駄々をこねられるので、断り切れないのだ。とはいっても、セックス――というか彗の性欲を発散するために北翔が動いたのはあの一度きりで、それ以降はただ温もりを感じ合うだけの行為だった。それでも、彗の中で確実に彼女に対する愛情は大きくなっていた。

(僕はイオが好きなんじゃなかったのか……でも、北翔のことを考えてる時も胸がドキドキするんだ……欲張りじゃないか、僕……)

「……い、……彗」

名前を呼ばれ、彗は我に返った。咄嗟に振り返ると、厚着をした北翔が少しだけ眉をひそめてじっと見つめていた。助けた時に着ていたダボっとしたトレーナーにパンツ、その上から白いダウンジャケット。耳当てがついた可愛らしいニット帽の下からは綺麗な白い髪が覗く。

「何回も呼んでるのに」

「ご、ごめん」

(こういう格好をしてると男の子みたい……それでも可愛いことに変わりないけど……)

彗は北翔の格好を見て、ぼんやり見惚れながらそう思った。じっと見つめている彗に北翔は首を傾げながら言った。

「ん?なに?」

「な、何でもない。じゃ、じゃあ行こうか」

センター内はところどころ電気がついており、人の気配がした。残業をしている職員達のようだ。しかし、殆どの部屋がしんと静まり返っていた。彗の部屋に監禁状態だった北翔は、物珍しそうな顔で施設の中をキョロキョロと見回していた。彗は北翔を連れて裏口から外に出ると、雪の中をゆっくりと歩いた。

「……なんか、懐かしい感じがする」

空には満天の星。周りは高い木立に囲まれている。くるぶし辺りまで積もった雪を踏み締めながら、北翔が呟いた。

「えっ?なんか思い出したの?」

「ううん、別に。でも、こういう雪の中を歩いたことがあるような気がする」

「そうなんだ。じゃあ、もしかして北翔は雪深いところに住んでいたのかな?」

「……そうかもしれない」

と、その時。雪に埋もれた小枝に足を取られ、北翔が転びそうになった。

「だ、大丈夫?!」

彗は咄嗟に北翔の体を抱き留めた。一瞬、至近距離で見つめ合った。灰色がかった彼女の綺麗な瞳がじっと彗を見つめた。その真っ直ぐな眼差しに彗の胸が高鳴った。

「……ありがとう」

「う、ううん。足元が悪いところに連れてきてしまってごめんね」

「そんなことない」

彗は微笑んで、歩き出そうとした。北翔は咄嗟に彗の手を掴んだ。手袋越しに感じる彼女の細い手の温もり。彗は少しだけ頬を赤らめると、彼女の手を握り返した。そして、二人は手を繋いで目的地へ急いだ。やがて、高い木立がなくなり開けた場所に出た。

「着いた……!ここだよ、北翔」

そこには正面に大きなもみの木が一本だけ立っていて、その上には満天の星空が広がっていた。北翔はしばらくの間、その絶景に見入っていた。

「……すごい。キレイ」

「まるで天然のクリスマスツリーみたいでしょ?」

「うん。もみの木の、ちょうどてっぺんに明るい星。ツリーみたい」

その時、北翔の脳裏にある光景が過った。

「……っ?」

「北翔、どうしたの?」

彼女は咄嗟にダウンジャケットの前を開けると、ネックレスを取り出した。雪の結晶のモチーフが雪明りに照らされてキラキラと輝いていた。

「……これ、クリスマスにもらった」

「えっ?だ、誰から?」

北翔はしばらくの間、考え込んだ。しかし、静かに首を横に振って言った。

「分からない。思い出せるのは……窓の外の雪景色と大きい手。たぶん男の人」

彼女のその言葉に彗は少しだけ胸が痛んだ。

「えーっと、その人は……君の恋人なのかな?それとも作ってくれた人?」

「それも分からない。でも、なんかあったかい感じがする」

「そっか……」

北翔はしばらくの間、その雪の結晶を眺めていた。彗はおもむろに口を開いた。

「僕は都会――雄飛くん達が住んでいるエリアはあまり好きじゃないんだ。あの辺り、君は行ったことあるかな?近未来的なタワーとか高層マンションが立ち並んでるところだよ」

「うん、行ったことある」

彗は頷くと言葉を続けた。

「僕は小さい頃から田舎が好きなんだ。自然が豊かな土地、四季を感じられる場所。そういうところ。僕には母親がいないんだ。小さい時に出て行ってしまってね。だから、母親っていう存在がどんなものなのか殆ど分からない。それからは父親とずっと二人暮らしだったけど、仕事で家にいないことが多かった。だから、そんな時は近くの森林公園に行った。自然が寂しさを紛らわせてくれた。だから、この星に来た今でもこういう景色を見るのが好きで、息が詰まりそうになった時、落ち込んだ時、自然の中に身を委ねるんだ。すると、とても心が落ち着く。不思議だよね」

彗はそう言ってそっと目を閉じると、深呼吸をした。澄んだ空気を体全体に取り込み、あの悪夢を追い払うように。北翔は彗の言葉に胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。それは『共感』と『愛情』が入り混じった感情だった。

「……どこなのかは分からない。でも、わたしも自然の中で生まれ育った。そんな風に思う。この景色を眺めていると断片的な記憶が蘇る。どれも大して重要な記憶じゃない。でも、いつも自然の中にいる」

彗は少し驚いた様子で北翔の顔を見た。

「自然の中にいると心が落ち着くし、懐かしい感じがする。彗のその気持ち、わたしにはよく分かる」

北翔は静かにそう言うと、彗の顔をじっと見つめた。その口元には微かな笑みが浮かんでいるのを彗は見逃さなかった。

(北翔……少し笑ってる……?)

その微かな笑顔には温かさが込められていた。大自然を愛する自分達にしか分からない感情だった。彗は自身の胸がまた高鳴るのを感じたのだった。
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