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もう不要だ
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焼き菓子が冷める音を、リゼットは知っている。
窯から出した瞬間の、ぱちぱちという小さな囁《ささや》き。生地に閉じ込められた空気が抜けていく、ほんの数秒の声。それは菓子が「生まれた」合図であり、菓子師にとっては赤子の産声にも等しい。
——だから今、自分の耳に届いているこの音が何なのか、すぐには理解できなかった。
拍手だった。
宮廷の大広間に響く、乾いた拍手。王太子ヴァレンティン・フォン・クラウゼンが、宝石をちりばめた指輪の手で緩やかに打ち鳴らしている。翡翠《ひすい》の瞳には嘲《あざけ》りが浮かび、完璧に整えられた金の髪が、高窓から差す秋の陽光を弾いていた。
「素晴らしい。実に素晴らしい出来栄えではないか、メルヴェーユ嬢」
広間に並んだ貴族たちの視線が、リゼットの手元に注がれる。彼女が今日の茶会のために三日かけて仕上げた菓子——蜂蜜と林檎《りんご》の焼きタルト。黄金色の表面は均一に焼き上がり、切れ目から覗く果肉の層が琥珀色に輝いている。甘い香りが広間にふわりと広がっていた。
どこにも落ち度はないはずだった。
「ですが」
ヴァレンティンの声が、刃物のように空気を裂いた。
「もう不要だ」
広間がしん、と静まる。蝋燭《ろうそく》の炎が一瞬揺れた。
「殿下……?」
「聞こえなかったか? お前の菓子はもう不要だと言っている」
リゼットの手が、小さく震えた。銀の皿の上で、タルトが沈黙している。
「メルヴェーユ伯爵家は先日、爵位審議にかけられた。知っているであろう? お前の父上は宮廷への出仕も停止されている」
知っている。知っているどころか、毎晩眠れなくなるほど考え続けていた。だが、菓子師としての仕事と家の政治問題は別のはずだ。リゼットは三年前、十五歳の若さで宮廷菓子師の末席を与えられた。味覚の試験で首席菓子師をも唸《うな》らせて。実力で。
「殿下、わたしの菓子の品質に問題があるのでしたら、ご指摘ください。改善いたします。どのような——」
「問題?」
ヴァレンティンは小さく笑い、白い手袋を外しながら立ち上がった。
「問題は味ではない。お前がここにいること自体が問題なのだ。落ち目の伯爵家の娘が宮廷菓子師を名乗る——これ以上の不釣り合いがあるか?」
周囲から、くすくすと忍び笑いが漏れる。
リゼットは唇を噛んだ。握りしめた手の指先に、いくつもの小さな火傷の跡が白く浮いている。十年分の、菓子師の勲章。砂糖を煮詰めるときに跳ねた飴で。窯の縁に触れた指で。何百、何千と菓子を焼いてきた手。
その手が今、震えていた。
「後任はもう決まっている。引き継ぎは必要ない。本日中に荷物をまとめたまえ」
ヴァレンティンは踵《きびす》を返した。ほんの一瞬、翡翠の視線がテーブルの上のタルトを掠めた。黄金色の焼き面に、窓からの光が静かに反射している。だが王太子はそのまま歩き出した。タルトに一度も手をつけぬまま。
広間の扉が閉まる音が、妙に大きく響いた。
残されたリゼットの前に、完璧な焼き色のタルトだけが、静かに冷めていく。
——焼き菓子が冷める音を、リゼットは知っている。
今まで聞いた中で、いちばん寂しい音だった。
宮廷菓子房《さいぼう》。
リゼットがこの三年間、毎朝夜明け前に通い続けた場所。石造りの天井、煤《すす》で黒ずんだ壁、年季の入った石窯。ここに入ると、いつでも微かに甘い匂いがした。歴代の菓子師たちが焼いてきた何万もの菓子の記憶が、石壁に染み込んでいるかのように。
夕暮れの厨房は静かだった。他の菓子師たちはリゼットの追放を聞いて、誰ひとり近寄ろうとしなかった。昨日まで「リゼットさん、今日の生地の配合を教えてください」と目を輝かせていた見習いの少年すら、目を合わせずに去っていった。
宮廷とはそういう場所だ。落ちた者に手を差し伸べれば、自分も巻き込まれる。
——怒っているのかと問われたら、答えに困る。
悔しいのは確かだった。殿下の言葉は不当だ。リゼットの菓子が劣っていたからではない。メルヴェーユ家の政治的な失墜。ただそれだけの理由で、三年間の仕事が「不要」と切り捨てられた。
だが、震えているのは怒りだけではなかった。
怖かったのだ。
菓子師でなくなった自分が、何者なのか分からなくて。
「……まず、荷物」
自分に言い聞かせるように呟いて、リゼットは動き始めた。
私物は驚くほど少なかった。菓子師用の道具一式——木べら、泡立て器、計量匙《けいりょうさじ》、型抜き、温度を測る銅の棒。どれも柄が手に馴染んで、リゼットの指の形に削れている。母のお下がりと、自分で買い足したものが混ざって、もう区別がつかない。
道具の隣に、小さな革の財布を入れた。中身は金クラウンが二枚と、銀が十数枚。宮廷菓子師の末席として三年。月の給金は金クラウン二枚——決して多くはない。贅沢をせずに少しずつ貯めたのが、これだけ。追放は今日中の通達。退職金も清算もなかった。この財布の薄い重みだけが、三年間の対価だった。
それから、一冊の帳面。
革表紙のレシピ帳。角が擦り切れ、蜂蜜の染みが幾つもついている。母——エレーヌ・フォン・メルヴェーユが遺した、たった一つの形見。
そっと表紙を開いた。母の筆跡が並んでいる。几帳面で、少しだけ右に傾いた文字。
——焼き菓子の基本。小麦粉は篩《ふるい》にかけること。卵は室温に戻すこと。バターは冷たいまま。
何百回と読んだ文字が、今日は滲《にじ》んで見えた。
母が逝ったのは五年前。病床の母は最後に「あなたの焼くもの、全部おいしかったよ」と笑って目を閉じた。あれ以来、リゼットは菓子を作るたびにあの言葉を思い出す。おいしかった。全部。
父のことが頭をよぎった。メルヴェーユ伯爵——いや、もう伯爵ではない。政争に敗れた父は半年前に爵位を剥奪《はくだつ》され、南部の修道院に身を寄せていると風の噂で聞いた。それきり、手紙も届かない。元々「伯爵令嬢が厨房になど」と口うるさい人だったが、音信が途絶えるほど薄情だとは思わなかった。
だから泣かなかった。泣く暇があったら手を動かせ。菓子は待ってくれない。
レシピ帳を布で丁寧に包み、道具と一緒に革鞄に詰める。
最後に、窯の前に立った。
石窯の火はもう落ちている。壁面にこびりついた焦げ跡の一つひとつが、リゼットが焼いた菓子の数だけある。朝にはリゼットの知らない誰かが、この窯に火を入れるのだろう。
——ひとつだけ。
リゼットは窯に残っていた余熱で、最後の菓子を焼いた。蜂蜜と胡桃のサブレ。材料は自分の持ち出し分で足りた。母のレシピ帳の一番最初に載っている、いちばん素朴な菓子。
焼き上がったサブレを布に包んで鞄にしまい、厨房を振り返った。
「……ありがとうございました」
誰もいない厨房に頭を下げて、リゼットは扉を閉めた。
王都を出る馬車は、北へ向かう商隊のものだった。
辺境行きの乗合馬車。乗客はリゼットのほかに、行商人の老人がひとりだけ。荷台には干し魚の樽が積まれていて、甘い香りとはほど遠い匂いが車内に漂っている。
リゼットは膝の上にレシピ帳を抱え、揺れる馬車の窓から王都の城壁が遠ざかるのを見つめていた。
秋の風が吹き込んでくる。冷たさの中に、どこかの屋台で焼いている栗の香りが混じっていた。王都の秋は甘い匂いがする。豊穣神に感謝を捧げる収穫祭が近いからだ。「食は聖なる行為」——その教えのもと、街のあちこちで菓子が焼かれ、子どもたちが窓辺で湯気を追いかける季節。
通りごとにパン屋があり、菓子屋があり、屋台がある。職人たちが腕を競って新作を並べ、貴族は茶会の菓子で家の格を誇り、庶民も祝祭の日には焼き菓子をひとつ買って家族で分け合う。甘い匂いに満ちた街。リゼットが生まれ育った世界。
今年のリゼットは、その季節を王都で迎えない。
「嬢ちゃん、北の方へ行くのかい」
老人が声をかけてきた。日に焼けた顔に人の良さそうな皺《しわ》が刻まれている。
「はい。ヴィントヘルム辺境領まで」
「ヴィントヘルム! そりゃまた遠いところへ。あそこは寒いぞ。冬は雪で街道が閉ざされて、春まで誰も出入りできなくなる。知り合いでもいるのかね」
「いいえ」
リゼットは首を横に振った。知り合いはいない。当てもない。ただ、王都からできるだけ遠くへ行きたかった。辺境なら、宮廷の噂も追いかけてこないだろう。
「辺境で何をするつもりだい」
「菓子を……焼きます」
「菓子?」
老人はきょとんとした顔をして、それから気の毒そうに笑った。
「嬢ちゃん、あのあたりに菓子屋なんてないよ。砂糖だって手に入りゃしない。王都の五倍はする。北の連中が食うのはパンと干し肉と、よくて芋の煮たのだ。甘いものなんて、年に一回、蜂蜜を舐めるくらいのもんさ」
「それにね、十一月を過ぎたら雪で街道が閉まるんだ。五ヶ月間。その間は外から何も届かない。手紙も荷物も人もね。辺境の連中は秋のうちに食料を溜め込んで、ひたすら春を待つのさ。芋と干し肉と大麦の黒パンで冬を越す」
五ヶ月間。外界から完全に隔絶される土地。
「……そんなに、ですか」
「菓子師かい? だったら南に行った方がいい。南部の街なら砂糖も安いし、腕のいい菓子師は引く手あまただ」
南。温暖な農地の広がる、豊かな土地。そこなら確かに菓子師として働ける。けれど南に行けば、王都の噂はすぐに追いかけてくる。「追放された宮廷菓子師」という烙印《らくいん》が。菓子を焼くたびに、あの嘲笑を思い出すことになる。
「ありがとうございます。でも、北へ参ります」
老人は肩をすくめた。
「まあ、若いうちは好きにしなさい。ヴィントヘルムの辺境伯は若いが筋の通った人だと聞くよ。少なくとも、悪い土地ではない」
辺境伯。公侯伯子男の爵位序列とは別格の、王国の北端を守る特殊な位階だ。セドリック・フォン・ヴィントヘルムという名前は聞いたことがある。三年前の大侵攻で先代が戦死し、わずか十九歳で辺境伯を継いだという話。王都では「北の番犬」と呼ばれている——敬意よりも蔑みの色を含んで。
リゼットにとっては、ただの辺境の領主でしかない。
菓子を焼ける窯があるかどうか。それだけが問題だった。
馬車は三日間走り続けた。
一日目は王都の近郊を抜ける道程だった。石畳の街道は広く、すれ違う馬車も多い。沿道には収穫前の小麦畑が金色に広がり、農家の庭先では果実が陽に干されていた。この辺りの小麦や砂糖が、王都の菓子屋に届く。リゼットがこれまで当たり前に使っていた素材の、一粒一粒が通った道。
二日目の朝から景色が変わった。石畳は土の道に変わり、農地はなだらかな丘陵に取って代わられた。吐く息が白い。馬車の中にも冷気が忍び込んでくる。すれ違う旅人がめっきり減り、たまに南へ向かう商人の荷馬車とすれ違うだけになった。
老人は途中の宿場で降りていった。「嬢ちゃん、死ぬんじゃないよ」と笑って手を振る。リゼットは頭を下げた。名前も聞いていなかった。
三日目。針葉樹の森が馬車を包んだ。街道の轍《わだち》は薄くなり、本当にこの先に人が暮らしているのか疑いたくなるほど道が細い。窓から白い峰が見えた。北の山脈。あの向こうから、数年に一度、魔物が南下してくると聞く。
空気が変わっていた。王都の空気には、いつも微《かす》かに甘い匂いが混じっていた。パンの焼ける匂い、砂糖の煮詰まる匂い、果物の熟れる匂い。ここにはそれがない。木の樹脂と、冷たい土と、遠くの薪の煙。それだけ。
三日目の夕暮れ。馬車が街道から外れ、森の中の細い道に入ったころ、リゼットはレシピ帳の最後のページを開いた。
母の字で、こう書いてある。
——菓子は人を幸せにする。材料が乏しくても、窯が古くても、食べてくれる人がいる限り、わたしたちの手は止まらない。リゼット、あなたの手は、きっとたくさんの人を笑顔にする。
五年前から何度も読んだ言葉。だが今日は、その意味が少し違って響いた。
王都では、食べてくれる人を失った。
ならば——次の「食べてくれる人」を探しに行けばいい。
鞄の底から、布に包んだサブレを取り出した。宮廷菓子房の窯で焼いた、最後の一枚。
一口、齧《かじ》った。
甘い。
蜂蜜の丸い甘さと、胡桃の香ばしい苦み。バターの余韻が舌の上でゆっくりとほどけて、鼻に抜ける。生地はさくりと軽く割れて、口の中で消えていく。
完璧な味だった。
なのにヴァレンティン殿下は、これを「不要」と言った。一口も食べずに。
涙が、ぽたりとサブレの上に落ちた。塩味が混じった。
「…………」
リゼットは残りのサブレを布に包み直し、鞄にしまった。泣きながら食べる菓子は、菓子師として許せない。菓子は笑って食べるものだ。母がそう教えてくれた。
「——泣くのは、あとにしよう」
ぱん、と自分の頬を両手で叩く。蜂蜜色の髪が揺れる。
馬車の窓の外には、紅葉し始めた森が広がっている。木々の隙間から、遠くに白い峰が見えた。北の山だ。あの向こうに辺境がある。
砂糖もない。菓子屋もない。寒くて厳しい、名前も知らない土地。
でも、窯さえあれば。
火と、小麦粉と、何か甘いものが——ほんの少しでもあれば。
リゼット・フォン・メルヴェーユは、菓子を焼ける。
それだけは、誰にも奪えない。
革鞄を抱き締め、北の山を見つめた。
冷たい風の向こうに、まだ見ぬ辺境が待っている。
窯から出した瞬間の、ぱちぱちという小さな囁《ささや》き。生地に閉じ込められた空気が抜けていく、ほんの数秒の声。それは菓子が「生まれた」合図であり、菓子師にとっては赤子の産声にも等しい。
——だから今、自分の耳に届いているこの音が何なのか、すぐには理解できなかった。
拍手だった。
宮廷の大広間に響く、乾いた拍手。王太子ヴァレンティン・フォン・クラウゼンが、宝石をちりばめた指輪の手で緩やかに打ち鳴らしている。翡翠《ひすい》の瞳には嘲《あざけ》りが浮かび、完璧に整えられた金の髪が、高窓から差す秋の陽光を弾いていた。
「素晴らしい。実に素晴らしい出来栄えではないか、メルヴェーユ嬢」
広間に並んだ貴族たちの視線が、リゼットの手元に注がれる。彼女が今日の茶会のために三日かけて仕上げた菓子——蜂蜜と林檎《りんご》の焼きタルト。黄金色の表面は均一に焼き上がり、切れ目から覗く果肉の層が琥珀色に輝いている。甘い香りが広間にふわりと広がっていた。
どこにも落ち度はないはずだった。
「ですが」
ヴァレンティンの声が、刃物のように空気を裂いた。
「もう不要だ」
広間がしん、と静まる。蝋燭《ろうそく》の炎が一瞬揺れた。
「殿下……?」
「聞こえなかったか? お前の菓子はもう不要だと言っている」
リゼットの手が、小さく震えた。銀の皿の上で、タルトが沈黙している。
「メルヴェーユ伯爵家は先日、爵位審議にかけられた。知っているであろう? お前の父上は宮廷への出仕も停止されている」
知っている。知っているどころか、毎晩眠れなくなるほど考え続けていた。だが、菓子師としての仕事と家の政治問題は別のはずだ。リゼットは三年前、十五歳の若さで宮廷菓子師の末席を与えられた。味覚の試験で首席菓子師をも唸《うな》らせて。実力で。
「殿下、わたしの菓子の品質に問題があるのでしたら、ご指摘ください。改善いたします。どのような——」
「問題?」
ヴァレンティンは小さく笑い、白い手袋を外しながら立ち上がった。
「問題は味ではない。お前がここにいること自体が問題なのだ。落ち目の伯爵家の娘が宮廷菓子師を名乗る——これ以上の不釣り合いがあるか?」
周囲から、くすくすと忍び笑いが漏れる。
リゼットは唇を噛んだ。握りしめた手の指先に、いくつもの小さな火傷の跡が白く浮いている。十年分の、菓子師の勲章。砂糖を煮詰めるときに跳ねた飴で。窯の縁に触れた指で。何百、何千と菓子を焼いてきた手。
その手が今、震えていた。
「後任はもう決まっている。引き継ぎは必要ない。本日中に荷物をまとめたまえ」
ヴァレンティンは踵《きびす》を返した。ほんの一瞬、翡翠の視線がテーブルの上のタルトを掠めた。黄金色の焼き面に、窓からの光が静かに反射している。だが王太子はそのまま歩き出した。タルトに一度も手をつけぬまま。
広間の扉が閉まる音が、妙に大きく響いた。
残されたリゼットの前に、完璧な焼き色のタルトだけが、静かに冷めていく。
——焼き菓子が冷める音を、リゼットは知っている。
今まで聞いた中で、いちばん寂しい音だった。
宮廷菓子房《さいぼう》。
リゼットがこの三年間、毎朝夜明け前に通い続けた場所。石造りの天井、煤《すす》で黒ずんだ壁、年季の入った石窯。ここに入ると、いつでも微かに甘い匂いがした。歴代の菓子師たちが焼いてきた何万もの菓子の記憶が、石壁に染み込んでいるかのように。
夕暮れの厨房は静かだった。他の菓子師たちはリゼットの追放を聞いて、誰ひとり近寄ろうとしなかった。昨日まで「リゼットさん、今日の生地の配合を教えてください」と目を輝かせていた見習いの少年すら、目を合わせずに去っていった。
宮廷とはそういう場所だ。落ちた者に手を差し伸べれば、自分も巻き込まれる。
——怒っているのかと問われたら、答えに困る。
悔しいのは確かだった。殿下の言葉は不当だ。リゼットの菓子が劣っていたからではない。メルヴェーユ家の政治的な失墜。ただそれだけの理由で、三年間の仕事が「不要」と切り捨てられた。
だが、震えているのは怒りだけではなかった。
怖かったのだ。
菓子師でなくなった自分が、何者なのか分からなくて。
「……まず、荷物」
自分に言い聞かせるように呟いて、リゼットは動き始めた。
私物は驚くほど少なかった。菓子師用の道具一式——木べら、泡立て器、計量匙《けいりょうさじ》、型抜き、温度を測る銅の棒。どれも柄が手に馴染んで、リゼットの指の形に削れている。母のお下がりと、自分で買い足したものが混ざって、もう区別がつかない。
道具の隣に、小さな革の財布を入れた。中身は金クラウンが二枚と、銀が十数枚。宮廷菓子師の末席として三年。月の給金は金クラウン二枚——決して多くはない。贅沢をせずに少しずつ貯めたのが、これだけ。追放は今日中の通達。退職金も清算もなかった。この財布の薄い重みだけが、三年間の対価だった。
それから、一冊の帳面。
革表紙のレシピ帳。角が擦り切れ、蜂蜜の染みが幾つもついている。母——エレーヌ・フォン・メルヴェーユが遺した、たった一つの形見。
そっと表紙を開いた。母の筆跡が並んでいる。几帳面で、少しだけ右に傾いた文字。
——焼き菓子の基本。小麦粉は篩《ふるい》にかけること。卵は室温に戻すこと。バターは冷たいまま。
何百回と読んだ文字が、今日は滲《にじ》んで見えた。
母が逝ったのは五年前。病床の母は最後に「あなたの焼くもの、全部おいしかったよ」と笑って目を閉じた。あれ以来、リゼットは菓子を作るたびにあの言葉を思い出す。おいしかった。全部。
父のことが頭をよぎった。メルヴェーユ伯爵——いや、もう伯爵ではない。政争に敗れた父は半年前に爵位を剥奪《はくだつ》され、南部の修道院に身を寄せていると風の噂で聞いた。それきり、手紙も届かない。元々「伯爵令嬢が厨房になど」と口うるさい人だったが、音信が途絶えるほど薄情だとは思わなかった。
だから泣かなかった。泣く暇があったら手を動かせ。菓子は待ってくれない。
レシピ帳を布で丁寧に包み、道具と一緒に革鞄に詰める。
最後に、窯の前に立った。
石窯の火はもう落ちている。壁面にこびりついた焦げ跡の一つひとつが、リゼットが焼いた菓子の数だけある。朝にはリゼットの知らない誰かが、この窯に火を入れるのだろう。
——ひとつだけ。
リゼットは窯に残っていた余熱で、最後の菓子を焼いた。蜂蜜と胡桃のサブレ。材料は自分の持ち出し分で足りた。母のレシピ帳の一番最初に載っている、いちばん素朴な菓子。
焼き上がったサブレを布に包んで鞄にしまい、厨房を振り返った。
「……ありがとうございました」
誰もいない厨房に頭を下げて、リゼットは扉を閉めた。
王都を出る馬車は、北へ向かう商隊のものだった。
辺境行きの乗合馬車。乗客はリゼットのほかに、行商人の老人がひとりだけ。荷台には干し魚の樽が積まれていて、甘い香りとはほど遠い匂いが車内に漂っている。
リゼットは膝の上にレシピ帳を抱え、揺れる馬車の窓から王都の城壁が遠ざかるのを見つめていた。
秋の風が吹き込んでくる。冷たさの中に、どこかの屋台で焼いている栗の香りが混じっていた。王都の秋は甘い匂いがする。豊穣神に感謝を捧げる収穫祭が近いからだ。「食は聖なる行為」——その教えのもと、街のあちこちで菓子が焼かれ、子どもたちが窓辺で湯気を追いかける季節。
通りごとにパン屋があり、菓子屋があり、屋台がある。職人たちが腕を競って新作を並べ、貴族は茶会の菓子で家の格を誇り、庶民も祝祭の日には焼き菓子をひとつ買って家族で分け合う。甘い匂いに満ちた街。リゼットが生まれ育った世界。
今年のリゼットは、その季節を王都で迎えない。
「嬢ちゃん、北の方へ行くのかい」
老人が声をかけてきた。日に焼けた顔に人の良さそうな皺《しわ》が刻まれている。
「はい。ヴィントヘルム辺境領まで」
「ヴィントヘルム! そりゃまた遠いところへ。あそこは寒いぞ。冬は雪で街道が閉ざされて、春まで誰も出入りできなくなる。知り合いでもいるのかね」
「いいえ」
リゼットは首を横に振った。知り合いはいない。当てもない。ただ、王都からできるだけ遠くへ行きたかった。辺境なら、宮廷の噂も追いかけてこないだろう。
「辺境で何をするつもりだい」
「菓子を……焼きます」
「菓子?」
老人はきょとんとした顔をして、それから気の毒そうに笑った。
「嬢ちゃん、あのあたりに菓子屋なんてないよ。砂糖だって手に入りゃしない。王都の五倍はする。北の連中が食うのはパンと干し肉と、よくて芋の煮たのだ。甘いものなんて、年に一回、蜂蜜を舐めるくらいのもんさ」
「それにね、十一月を過ぎたら雪で街道が閉まるんだ。五ヶ月間。その間は外から何も届かない。手紙も荷物も人もね。辺境の連中は秋のうちに食料を溜め込んで、ひたすら春を待つのさ。芋と干し肉と大麦の黒パンで冬を越す」
五ヶ月間。外界から完全に隔絶される土地。
「……そんなに、ですか」
「菓子師かい? だったら南に行った方がいい。南部の街なら砂糖も安いし、腕のいい菓子師は引く手あまただ」
南。温暖な農地の広がる、豊かな土地。そこなら確かに菓子師として働ける。けれど南に行けば、王都の噂はすぐに追いかけてくる。「追放された宮廷菓子師」という烙印《らくいん》が。菓子を焼くたびに、あの嘲笑を思い出すことになる。
「ありがとうございます。でも、北へ参ります」
老人は肩をすくめた。
「まあ、若いうちは好きにしなさい。ヴィントヘルムの辺境伯は若いが筋の通った人だと聞くよ。少なくとも、悪い土地ではない」
辺境伯。公侯伯子男の爵位序列とは別格の、王国の北端を守る特殊な位階だ。セドリック・フォン・ヴィントヘルムという名前は聞いたことがある。三年前の大侵攻で先代が戦死し、わずか十九歳で辺境伯を継いだという話。王都では「北の番犬」と呼ばれている——敬意よりも蔑みの色を含んで。
リゼットにとっては、ただの辺境の領主でしかない。
菓子を焼ける窯があるかどうか。それだけが問題だった。
馬車は三日間走り続けた。
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空気が変わっていた。王都の空気には、いつも微《かす》かに甘い匂いが混じっていた。パンの焼ける匂い、砂糖の煮詰まる匂い、果物の熟れる匂い。ここにはそれがない。木の樹脂と、冷たい土と、遠くの薪の煙。それだけ。
三日目の夕暮れ。馬車が街道から外れ、森の中の細い道に入ったころ、リゼットはレシピ帳の最後のページを開いた。
母の字で、こう書いてある。
——菓子は人を幸せにする。材料が乏しくても、窯が古くても、食べてくれる人がいる限り、わたしたちの手は止まらない。リゼット、あなたの手は、きっとたくさんの人を笑顔にする。
五年前から何度も読んだ言葉。だが今日は、その意味が少し違って響いた。
王都では、食べてくれる人を失った。
ならば——次の「食べてくれる人」を探しに行けばいい。
鞄の底から、布に包んだサブレを取り出した。宮廷菓子房の窯で焼いた、最後の一枚。
一口、齧《かじ》った。
甘い。
蜂蜜の丸い甘さと、胡桃の香ばしい苦み。バターの余韻が舌の上でゆっくりとほどけて、鼻に抜ける。生地はさくりと軽く割れて、口の中で消えていく。
完璧な味だった。
なのにヴァレンティン殿下は、これを「不要」と言った。一口も食べずに。
涙が、ぽたりとサブレの上に落ちた。塩味が混じった。
「…………」
リゼットは残りのサブレを布に包み直し、鞄にしまった。泣きながら食べる菓子は、菓子師として許せない。菓子は笑って食べるものだ。母がそう教えてくれた。
「——泣くのは、あとにしよう」
ぱん、と自分の頬を両手で叩く。蜂蜜色の髪が揺れる。
馬車の窓の外には、紅葉し始めた森が広がっている。木々の隙間から、遠くに白い峰が見えた。北の山だ。あの向こうに辺境がある。
砂糖もない。菓子屋もない。寒くて厳しい、名前も知らない土地。
でも、窯さえあれば。
火と、小麦粉と、何か甘いものが——ほんの少しでもあれば。
リゼット・フォン・メルヴェーユは、菓子を焼ける。
それだけは、誰にも奪えない。
革鞄を抱き締め、北の山を見つめた。
冷たい風の向こうに、まだ見ぬ辺境が待っている。
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※今回は1話ごと、普段投稿しているよりも短めにしてあります。
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