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第3話: 白霜の森へ
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朝、リゼットはマリーに尋ねた。
「昨夜、森から甘い匂いがしたんです。あの森には、何かあるんでしょうか」
マリーは朝食の黒パンを配りながら、ああ、と頷いた。
「白霜の森だね。木の実がたくさん生えてるし、野生の蜜蜂もいるよ。ただ——」
彼女は少し眉をひそめた。
「あの森の木の実は、硬くてえぐくて、とても食べられたもんじゃない。蜂蜜も、誰も採りに行かないさ。危ないし、甘いものに興味もないしね」
リゼットの胸が高鳴った。
木の実。蜂蜜。
それは、菓子の素材そのものだった。
「行ってみたいんです。案内していただけますか」
マリーは目をぱちくりとさせたが、すぐに笑った。
「リゼが行くなら、あたしも付き合うよ。ただし、森に入るなら気をつけな。道を外れると迷うからね」
リゼットは急いで部屋に戻り、荷物から空の小瓶を取り出した。菓子師の道具と一緒に持ってきた、素材を保存するための瓶だ。エプロンのポケットにそっと忍ばせる。
何か見つかるかもしれない。そんな予感があった。
白霜の森は、宿から歩いて十分ほどの場所にあった。
踏み入れた瞬間、冷たい空気がリゼットの頬を撫でた。木々は背が高く、枝には白い霜が降りて、まるで砂糖菓子のように輝いている。
「ほら、あれが黒胡桃の木だよ」
マリーが指差した先には、太い幹の木が何本も生えていた。その根元には、拳大の黒い実がいくつも転がっている。
リゼットは駆け寄り、一つ手に取った。
ずっしりと重い。表面はごつごつとして、硬そうだ。
「これ……割れますか」
「石で叩けば割れるけど、中身は食べられないよ。苦くてえぐいんだ」
マリーはそう言ったが、リゼットは諦めなかった。
近くに落ちていた平たい石を拾い、黒胡桃を地面に置いて、力いっぱい叩いた。
ゴン、ゴン、ゴン。
三度目で、ようやく殻にひびが入った。指先に力を込めて、殻を剥く。中から現れたのは、濃い茶色の、複雑な形をした実だった。
リゼットは息を整え、一粒を口に含んだ。
——苦い。
舌に広がるのは、強烈な苦味とえぐみだった。思わず顔をしかめる。
「ほら、言ったでしょ」
マリーが肩をすくめた。
でも、リゼットは吐き出さなかった。
じっと、舌の上で転がす。
苦味の奥に——微かに、ほんの少しだけ——油脂の甘みがある。
ナッツ特有の、芳醇な香り。
これは……使える。
「焙煎すれば、苦味が飛んで香ばしくなるはずです」
リゼットは呟いた。
「バターと合わせて焼けば、きっと……」
頭の中で、レシピが組み上がっていく。
黒胡桃のタルト。クッキー。焼き菓子。
マリーは不思議そうにリゼットを見ていたが、何も言わなかった。
リゼットは屈み込み、足元の黒胡桃を拾い集めた。五つ、六つ——エプロンの裾に包む。試作するには、これくらいは要る。
二人はさらに森の奥へ進んだ。
マリーが「この先には蜂の巣がある」と教えてくれたからだ。
果たして、大きな樫の木の洞に、野生の蜂の巣があった。
蜂たちは静かに飛び回っている。冬が近いせいか、動きは鈍い。
「危なくないですか」
「今の時期なら大丈夫さ。でも、無理はしないでね」
リゼットは頷き、巣を見上げた。洞の奥に、蜜蝋の塊が見える。あの中に蜜が詰まっているはずだ。
「マリーさん、煙を出せるものはありますか」
「煙?」
「蜂は煙を吸うと大人しくなるんです。そうすれば、巣に近づけます」
宮廷にいた頃、蜂蜜の品質に納得がいかず、王立養蜂場まで足を運んだことがある。そこで養蜂翁《ようほうおう》に教わったのだ——蜂は煙を吸うと大人しくなる、と。菓子師仲間には呆れられたが、素材を知らずに良い菓子は作れない。
マリーは少し驚いた顔をしたが、すぐに近くの枯れ枝を集め、火打ち石で火を起こした。辺境の人間にとって、野営の火起こしは朝飯前らしい。
湿った落ち葉を被せると、白い煙がもうもうと立ち上った。
「これを洞の近くに」
マリーが煙のついた枝を掲げると、蜂たちがゆっくりと巣から離れていく。完全にいなくなりはしないが、動きはさらに鈍くなった。
リゼットはその隙に洞へ手を伸ばし、巣の端——蜜蓋《みつぶた》がかかった部分を慎重にちぎり取った。手のひらほどの蜂の巣の欠片が二つ。指の間から、とろりと金色の蜜が滴る。
持ってきた小瓶の口に巣を押し当て、ゆっくりと蜜を搾った。巣房が潰れるたびに、濃密な甘い香りが広がる。
小瓶が八分目まで満たされた。
透明で、ほんのり白く濁っている。
指先に付いた蜜を、そっと舐めてみる。
——これは。
リゼットの指先が震えた。
透明で、上品で、繊細な甘さ。
王都の養蜂蜜とは、まるで違う。
雑味がなく、花の香りがほのかに漂う。まるで、春の朝露を集めたような——そんな甘さだった。
「これ……信じられません」
リゼットは震える声で言った。
「王都の蜂蜜より、ずっと上質です」
マリーは驚いたように目を見開いた。
「本当かい?」
「本当です。これがあれば……」
リゼットの心が、初めて躍った。
黒胡桃。霜花蜜。
この土地には、素材がある。
菓子を作れる素材が。
宿に戻る道すがら、リゼットは小瓶と黒胡桃を抱えて歩いた。
足取りは軽く、胸は高鳴っていた。
追放されて、絶望していたはずなのに——今、リゼットは笑っていた。
「リゼ、楽しそうだね」
マリーが微笑んだ。
「はい。久しぶりに……菓子のことを考えられて」
王都では、菓子は義務だった。
王太子を喜ばせるため、宮廷の評価を得るため、リゼットは菓子を作り続けた。
でも、ここには誰もいない。
評価する者も、命じる者も。
ただ、素材と、リゼットだけ。
「ねえ、リゼ」
マリーが立ち止まった。
「厨房、使ってみる?」
リゼットは顔を上げた。
「……いいんですか」
「もちろんさ。あんたが菓子を作るなら、あたしも見てみたい」
マリーの言葉に、リゼットは深く頷いた。
そうだ。
リゼットは、菓子師だ。
この手で、この素材で——この土地で、菓子を作ろう。
リゼットは小瓶を握りしめ、宿の扉を開いた。
「昨夜、森から甘い匂いがしたんです。あの森には、何かあるんでしょうか」
マリーは朝食の黒パンを配りながら、ああ、と頷いた。
「白霜の森だね。木の実がたくさん生えてるし、野生の蜜蜂もいるよ。ただ——」
彼女は少し眉をひそめた。
「あの森の木の実は、硬くてえぐくて、とても食べられたもんじゃない。蜂蜜も、誰も採りに行かないさ。危ないし、甘いものに興味もないしね」
リゼットの胸が高鳴った。
木の実。蜂蜜。
それは、菓子の素材そのものだった。
「行ってみたいんです。案内していただけますか」
マリーは目をぱちくりとさせたが、すぐに笑った。
「リゼが行くなら、あたしも付き合うよ。ただし、森に入るなら気をつけな。道を外れると迷うからね」
リゼットは急いで部屋に戻り、荷物から空の小瓶を取り出した。菓子師の道具と一緒に持ってきた、素材を保存するための瓶だ。エプロンのポケットにそっと忍ばせる。
何か見つかるかもしれない。そんな予感があった。
白霜の森は、宿から歩いて十分ほどの場所にあった。
踏み入れた瞬間、冷たい空気がリゼットの頬を撫でた。木々は背が高く、枝には白い霜が降りて、まるで砂糖菓子のように輝いている。
「ほら、あれが黒胡桃の木だよ」
マリーが指差した先には、太い幹の木が何本も生えていた。その根元には、拳大の黒い実がいくつも転がっている。
リゼットは駆け寄り、一つ手に取った。
ずっしりと重い。表面はごつごつとして、硬そうだ。
「これ……割れますか」
「石で叩けば割れるけど、中身は食べられないよ。苦くてえぐいんだ」
マリーはそう言ったが、リゼットは諦めなかった。
近くに落ちていた平たい石を拾い、黒胡桃を地面に置いて、力いっぱい叩いた。
ゴン、ゴン、ゴン。
三度目で、ようやく殻にひびが入った。指先に力を込めて、殻を剥く。中から現れたのは、濃い茶色の、複雑な形をした実だった。
リゼットは息を整え、一粒を口に含んだ。
——苦い。
舌に広がるのは、強烈な苦味とえぐみだった。思わず顔をしかめる。
「ほら、言ったでしょ」
マリーが肩をすくめた。
でも、リゼットは吐き出さなかった。
じっと、舌の上で転がす。
苦味の奥に——微かに、ほんの少しだけ——油脂の甘みがある。
ナッツ特有の、芳醇な香り。
これは……使える。
「焙煎すれば、苦味が飛んで香ばしくなるはずです」
リゼットは呟いた。
「バターと合わせて焼けば、きっと……」
頭の中で、レシピが組み上がっていく。
黒胡桃のタルト。クッキー。焼き菓子。
マリーは不思議そうにリゼットを見ていたが、何も言わなかった。
リゼットは屈み込み、足元の黒胡桃を拾い集めた。五つ、六つ——エプロンの裾に包む。試作するには、これくらいは要る。
二人はさらに森の奥へ進んだ。
マリーが「この先には蜂の巣がある」と教えてくれたからだ。
果たして、大きな樫の木の洞に、野生の蜂の巣があった。
蜂たちは静かに飛び回っている。冬が近いせいか、動きは鈍い。
「危なくないですか」
「今の時期なら大丈夫さ。でも、無理はしないでね」
リゼットは頷き、巣を見上げた。洞の奥に、蜜蝋の塊が見える。あの中に蜜が詰まっているはずだ。
「マリーさん、煙を出せるものはありますか」
「煙?」
「蜂は煙を吸うと大人しくなるんです。そうすれば、巣に近づけます」
宮廷にいた頃、蜂蜜の品質に納得がいかず、王立養蜂場まで足を運んだことがある。そこで養蜂翁《ようほうおう》に教わったのだ——蜂は煙を吸うと大人しくなる、と。菓子師仲間には呆れられたが、素材を知らずに良い菓子は作れない。
マリーは少し驚いた顔をしたが、すぐに近くの枯れ枝を集め、火打ち石で火を起こした。辺境の人間にとって、野営の火起こしは朝飯前らしい。
湿った落ち葉を被せると、白い煙がもうもうと立ち上った。
「これを洞の近くに」
マリーが煙のついた枝を掲げると、蜂たちがゆっくりと巣から離れていく。完全にいなくなりはしないが、動きはさらに鈍くなった。
リゼットはその隙に洞へ手を伸ばし、巣の端——蜜蓋《みつぶた》がかかった部分を慎重にちぎり取った。手のひらほどの蜂の巣の欠片が二つ。指の間から、とろりと金色の蜜が滴る。
持ってきた小瓶の口に巣を押し当て、ゆっくりと蜜を搾った。巣房が潰れるたびに、濃密な甘い香りが広がる。
小瓶が八分目まで満たされた。
透明で、ほんのり白く濁っている。
指先に付いた蜜を、そっと舐めてみる。
——これは。
リゼットの指先が震えた。
透明で、上品で、繊細な甘さ。
王都の養蜂蜜とは、まるで違う。
雑味がなく、花の香りがほのかに漂う。まるで、春の朝露を集めたような——そんな甘さだった。
「これ……信じられません」
リゼットは震える声で言った。
「王都の蜂蜜より、ずっと上質です」
マリーは驚いたように目を見開いた。
「本当かい?」
「本当です。これがあれば……」
リゼットの心が、初めて躍った。
黒胡桃。霜花蜜。
この土地には、素材がある。
菓子を作れる素材が。
宿に戻る道すがら、リゼットは小瓶と黒胡桃を抱えて歩いた。
足取りは軽く、胸は高鳴っていた。
追放されて、絶望していたはずなのに——今、リゼットは笑っていた。
「リゼ、楽しそうだね」
マリーが微笑んだ。
「はい。久しぶりに……菓子のことを考えられて」
王都では、菓子は義務だった。
王太子を喜ばせるため、宮廷の評価を得るため、リゼットは菓子を作り続けた。
でも、ここには誰もいない。
評価する者も、命じる者も。
ただ、素材と、リゼットだけ。
「ねえ、リゼ」
マリーが立ち止まった。
「厨房、使ってみる?」
リゼットは顔を上げた。
「……いいんですか」
「もちろんさ。あんたが菓子を作るなら、あたしも見てみたい」
マリーの言葉に、リゼットは深く頷いた。
そうだ。
リゼットは、菓子師だ。
この手で、この素材で——この土地で、菓子を作ろう。
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