1 / 21
第1話: 暴食令嬢、追放される
「火入れが甘いですわね」
その一言が、宮廷晩餐の大広間を貫いた。
ベルモント侯爵家の令嬢マリカは、銀のフォークの先にテリーヌの欠片を載せたまま、首を傾げていた。琥珀色の瞳は手元の皿だけを見つめている。豚肉と鶏レバーのテリーヌ——表面にはゼラチンの艶やかな層が光り、断面には粗挽きの肉と翡翠豆の緑が美しい模様を描いていた。見た目だけなら申し分ない。宮廷料理人の美意識は確かだ。
だが。
隣席のエドモンド・ロワイヤル第二王子が、グラスを傾けかけた手を止めた。向かいに座る外交使節の顔が凍りつく。そんなことには、マリカはまったく気づいていなかった。
「素材は良いんですの。ベルモント領の豚肉は脂の融点が低くて舌の上で蕩ける。鶏レバーも臭みがない——おそらく血抜きを三回やった。丁寧な仕事ですわ。でも、火の通しがあと一歩甘い。三度上げて十五分維持すれば、肉の繊維が蕩けて舌ざわりがまるで変わりますのに——」
「ベルモント嬢」
エドモンドの声は静かだったが、指先が白くなるほどナプキンを握りしめていた。
「今は——その話は——」
「あら。なんでしたっけ」
マリカは琥珀色の瞳をぱちくりさせた。テリーヌのことで頭がいっぱいだったので、正直なところ、先ほどから何の話をしていたのかまったく覚えていない。
エドモンドが立ち上がった。椅子の脚が大理石の床を引きずる音が、嫌に大きく響いた。
「——私は、婚約の破棄を宣言する」
大広間が、静まり返った。
数秒の沈黙が降りた。
列席の貴族たちが息を呑む中、マリカは——テリーヌの二切れ目を口に運んでいた。
「……聞いていたか?」
エドモンドの声が震えていた。怒りの声ではない。唇の端が引きつり、握りしめた拳が小刻みに揺れている。
——この方、自分の言葉に怯えていますのね。
「ええ、聞いていましたわ」
マリカはフォークを置いた。ナプキンで唇の端を拭い、エドモンドをまっすぐに見上げる。
「婚約破棄、ですわね。理由をお聞きしてもよろしくて?」
「ベルモント嬢は——王妃にふさわしくない」
エドモンドの目が泳いだ。視線が左右の重臣の顔を順に追い、重臣たちがかすかに頷く。それを確認してから、エドモンドが次の言葉を絞り出した。
——言わされていますのね。
「王妃にふさわしくない。それは——食事の席で料理の話をするからですの?」
「それだけではない」
エドモンドが一歩前に出た。手袋をはめた手が、不自然に握られている。
「外交晩餐会で使節の料理を批評した件。宮廷に毒茸を持ち込んだ件。三週間も行方不明になって氷河地帯から帰ってきた件。城下町の食堂に勝手に乗り込んで経営を改善した件——」
「あれは美味しくなりましたでしょう? あの食堂」
「——そういうところだ!」
エドモンドの声が裏返った。列席の貴族たちの間からかすかな笑い声が漏れる。だがそれは嘲笑だった。「暴食令嬢」に向けられた、社交界の冷たい視線。
マリカは、その笑い声にまったく気づいていなかった。テリーヌの残りが気になっていたのだ。
「つまり」エドモンドが声を絞り出す。「ベルモント嬢を辺境へ追放する。ベルモント侯爵家との婚約は本日をもって——」
「辺境ですの?」
マリカの琥珀色の瞳に、炎が灯った。
それは怒りでも悲しみでもなく——純粋な好奇心の炎だった。
「辺境というと、東部の森でしょうか。あのあたりには分類されていない茸が百種類以上自生しているそうですわね。それから、獣人の方々の焚火料理。あれは一度でいいから食べてみたかったんですの。炙りの技術が人間とはまるで違うと聞きましたわ」
「……は?」
「ああ、それと。辺境の酒場には各地を旅した料理人が流れ着くこともあると聞きましたわ。宮廷の味しか知らない料理人とは違う、野性の技術体系。わたくし、ずっと気になっていたんですの」
マリカは立ち上がった。テーブルに両手をついて、身を乗り出す。
「エドモンド様。追放の日程はいつですの? 明日? 明後日? 早いほうがよろしいですわ。東部の茸は春が旬ですもの」
大広間が、二度目の沈黙に包まれた。
今度の沈黙は、先ほどとは質が違った。誰もが、目の前の令嬢が何を言っているのか理解できなかった。婚約を破棄されたのだ。辺境に追放されるのだ。泣くか、怒るか、すがりつくか——それが普通の反応だろう。
マリカ・ベルモントは、嬉しそうだった。
「……明後日だ」
エドモンドは、乾いた声で答えるのが精一杯だった。
「まあ。では明日中に非常食の仕込みを済ませなければなりませんわね。干し肉は最低でも半日漬け込みたい——ああ、でも時間がないから塩と香草だけで簡易版にしましょう。チーズは硬質のものを。保存が利きますもの」
マリカはそこでようやくテリーヌを思い出し、皿に残った最後の一切れを口に放り込んだ。
「ごちそうさまでした。テリーヌは惜しかったですわね。宮廷の料理人に伝えてくださいませ——あと三度、十五分。それだけで、この一皿は大陸に誇れる逸品になりますのに」
深々と一礼し、マリカは大広間を出た。
振り返らなかった。
残されたエドモンドは、空になったテリーヌの皿を呆然と見つめていた。
——私は、正しい判断をしたのだ。
そう自分に言い聞かせた。だが、去っていくマリカの背中は、解放された鳥のように軽やかで——追放された者の歩き方では、まるでなかった。
翌日の夜。
マリカは自室で、旅の準備に没頭していた。
といっても、荷造りの内容は常軌を逸している。ドレスは一着も入れない。代わりに、腰のスパイスポーチを三つに増やし、服の隠しポケットに乾燥ハーブの小袋を仕込み、背嚢の底には岩塩の塊を忍ばせた。
「お嬢様……」
侍女が泣きそうな顔で立っている。目元が赤い。マリカが荷造りを始める前から、ずっと泣いていたのだろう。
「本当に行かれるのですか。お父様に嘆願すれば——」
「行きますわ」
マリカは振り向きもしない。東部辺境の地図を広げて、そこに自生する食用植物の分布を書き込んでいる最中だった。
「お父様には申し訳ないけれど、わたくしが宮廷にいても仕方ありませんもの。ここの料理はもう全部食べましたわ。知らない味がないんですの」
侍女がついに声を上げて泣いた。
マリカの手が、止まった。
ペンを置いて、初めて侍女のほうを振り向いた。侍女の肩が震えている。十年来の侍女だ。マリカが厨房に忍び込んでは怒られていた頃から、ずっと側にいてくれた人。
「……泣かないでくださいませ」
マリカの声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
「わたくしね、五つの時に厨房で食べたことのない味に出会ったんですの。あの瞬間、世界がこんなに広いのだと知りましたわ。——あれからずっと、止まれませんの」
侍女はまだ泣いている。マリカはしばらく、その泣き声を聞いていた。
「……あなたの焼いてくれた焼き菓子。あれは宮廷のどの菓子よりも好きでしたわ。ちゃんと覚えていますの」
それだけ言うと、もう地図に戻っていた。赤い印が一つ増える。「未分類茸・要調査」。
侍女は知らなかった。マリカが地図に向き直ったとき、一瞬だけ、唇を噛んでいたことを。
その翌朝——追放の日の朝。
王都ロワイヤルの執務室で、エドモンドは朝食のスープに手をつけられないでいた。
宮廷料理人が今朝出した季節の野菜のポタージュ。品のある盛り付け、温度も適正、配膳も完璧——のはずだった。
スプーンを口に運ぶ。いつもの味——のはずだった。
不味くはない。温度も適正、盛り付けも品がある。だが今朝はなぜか、食が進まなかった。
——朝から調子が悪いのか。
エドモンドはそう結論づけた。昨夜はよく眠れなかった。あの令嬢の、嬉しそうな顔がちらつく。追放を告げたのに、微笑まれた。あの琥珀色の瞳に「怯えていますのね」と見抜かれた気がして——いや、あれはこちらの気のせいだ。
スプーンをもう一度運ぶ。やはり何か引っかかる。だがそれが料理のせいなのか、自分の体調のせいなのか、エドモンドには判別がつかなかった。
彼女なら、一口で言い当てただろう。「あと三度、十五分」——あの煩わしい注文が、今は聞こえない。
エドモンドはスプーンを置いた。食欲がないだけだ。それ以上のことは、考えなかった。
「……私の判断は、間違っていない」
誰もいない執務室で、そう呟いた。
声は震えていなかった。まだ。
同じ朝。馬車が王都の門を出た。
春の朝もやが地平線を霞ませている。王都ロワイヤルの白い城壁が、背後に遠ざかっていく。護衛の兵士が二人、馬車の前後についていたが、彼らの表情は沈痛だった。追放令嬢の護送など、誰も好き好んでやりたい仕事ではない。
馬車の中で、マリカは——昨日仕込んだ干し肉を頬張っていた。塩と風香草で漬けた即席品だが、悪くない。
窓の外で風景が変わっていく。整備された街道が荒れ、麦畑が減り、森の緑が濃くなる。
知らない風景だった。
知らない匂いがした。
知らない——味が、この先に待っている。
追放令嬢は干し肉を齧りながら、これ以上ないほど上機嫌だった。
日が傾き始めた頃、馬車は辺境の森に差しかかった。マリカは背嚢から革の手帳を取り出した。食べたいものリストだ。最初のページから最後のページまで、びっしりと食材と料理の名前が書き連ねてある。
一番上に新しく書き加えた。
『辺境の森・未分類茸(推定100種以上)』
『獣人の焚火料理(炙り技術の違い)』
『場末の酒場の料理人(宮廷と異なる技術体系)』
窓の外で、森の木々が風に揺れている。春の新緑が馬車の中に緑の光を落とす。その光の中に、マリカは知らない匂いを嗅いだ。
土の匂い。腐葉土の匂い。その下に——かすかに、甘い。
「……茸ですわ」
マリカの琥珀色の瞳が、見開かれた。
「この匂い——知らない種ですわ。わたくしの記憶にない。分類——」
言い終える前に、体が動いていた。馬車の扉を蹴り開ける。
「お嬢様!?」
護衛の兵士が咄嗟に腕を掴んだ。マリカの体が半分、走る馬車の外に飛び出している。地面が流れている。そんなことはマリカの目に入っていなかった。森の奥——あの甘い匂いの方角だけを、琥珀色の瞳が射抜いている。
「離してくださいませ! あの茸、今を逃したら——」
「落ちます! お嬢様!」
兵士が両腕でマリカの腰を引き戻す。マリカはなおも身を乗り出し——そのとき、反対側の窓から別の匂いが飛び込んできた。
煙。肉を焼く煙だ。
マリカの鼻腔が、自動的に分解を始めた。脂が炭に落ちる匂い——滴り方が均一だ。火からの距離を精密に保っている人間の焼き方。素人は脂を散らす。この焼き手は、脂の落ちる位置まで計算している。
なのに。
肉そのものの香ばしさが薄い。表面の焼き色が足りない匂いだ。火力を操る腕がありながら、仕上がりに魂が入っていない。
「……あら?」
マリカの首がくるりと回った。森の茸のことが、一瞬で頭から消える。好奇心のスイッチが別の対象に切り替わった瞬間だった。
兵士はその隙にマリカを座席に押し戻した。
「はっ。——ああ、茸!」
二秒遅れで思い出したマリカは、慌てて手帳を開いた。
『森の入口付近。甘い匂いの未分類茸。要調査。必ず戻る』
『その先の村方面。肉を焼く煙——火力制御は一流。だが味を作る意志がない。要確認』
馬車は辺境の村へ向かって揺れ続ける。
追放は罰だと、王宮の人々は思っている。マリカ・ベルモントにとって、それは——世界で一番嬉しい旅立ちだった。
だが、マリカの鼻の奥にはまだ、先ほどの煙が残っていた。
腕があるのに、美味しく作っていない。
——腕があるのに、作ろうとしていない。
「……面白いですわ」
マリカの琥珀色の瞳の奥で、新しい炎がちらりと揺れた。
「この煙の主に——会わなくてはなりませんわね」
その一言が、宮廷晩餐の大広間を貫いた。
ベルモント侯爵家の令嬢マリカは、銀のフォークの先にテリーヌの欠片を載せたまま、首を傾げていた。琥珀色の瞳は手元の皿だけを見つめている。豚肉と鶏レバーのテリーヌ——表面にはゼラチンの艶やかな層が光り、断面には粗挽きの肉と翡翠豆の緑が美しい模様を描いていた。見た目だけなら申し分ない。宮廷料理人の美意識は確かだ。
だが。
隣席のエドモンド・ロワイヤル第二王子が、グラスを傾けかけた手を止めた。向かいに座る外交使節の顔が凍りつく。そんなことには、マリカはまったく気づいていなかった。
「素材は良いんですの。ベルモント領の豚肉は脂の融点が低くて舌の上で蕩ける。鶏レバーも臭みがない——おそらく血抜きを三回やった。丁寧な仕事ですわ。でも、火の通しがあと一歩甘い。三度上げて十五分維持すれば、肉の繊維が蕩けて舌ざわりがまるで変わりますのに——」
「ベルモント嬢」
エドモンドの声は静かだったが、指先が白くなるほどナプキンを握りしめていた。
「今は——その話は——」
「あら。なんでしたっけ」
マリカは琥珀色の瞳をぱちくりさせた。テリーヌのことで頭がいっぱいだったので、正直なところ、先ほどから何の話をしていたのかまったく覚えていない。
エドモンドが立ち上がった。椅子の脚が大理石の床を引きずる音が、嫌に大きく響いた。
「——私は、婚約の破棄を宣言する」
大広間が、静まり返った。
数秒の沈黙が降りた。
列席の貴族たちが息を呑む中、マリカは——テリーヌの二切れ目を口に運んでいた。
「……聞いていたか?」
エドモンドの声が震えていた。怒りの声ではない。唇の端が引きつり、握りしめた拳が小刻みに揺れている。
——この方、自分の言葉に怯えていますのね。
「ええ、聞いていましたわ」
マリカはフォークを置いた。ナプキンで唇の端を拭い、エドモンドをまっすぐに見上げる。
「婚約破棄、ですわね。理由をお聞きしてもよろしくて?」
「ベルモント嬢は——王妃にふさわしくない」
エドモンドの目が泳いだ。視線が左右の重臣の顔を順に追い、重臣たちがかすかに頷く。それを確認してから、エドモンドが次の言葉を絞り出した。
——言わされていますのね。
「王妃にふさわしくない。それは——食事の席で料理の話をするからですの?」
「それだけではない」
エドモンドが一歩前に出た。手袋をはめた手が、不自然に握られている。
「外交晩餐会で使節の料理を批評した件。宮廷に毒茸を持ち込んだ件。三週間も行方不明になって氷河地帯から帰ってきた件。城下町の食堂に勝手に乗り込んで経営を改善した件——」
「あれは美味しくなりましたでしょう? あの食堂」
「——そういうところだ!」
エドモンドの声が裏返った。列席の貴族たちの間からかすかな笑い声が漏れる。だがそれは嘲笑だった。「暴食令嬢」に向けられた、社交界の冷たい視線。
マリカは、その笑い声にまったく気づいていなかった。テリーヌの残りが気になっていたのだ。
「つまり」エドモンドが声を絞り出す。「ベルモント嬢を辺境へ追放する。ベルモント侯爵家との婚約は本日をもって——」
「辺境ですの?」
マリカの琥珀色の瞳に、炎が灯った。
それは怒りでも悲しみでもなく——純粋な好奇心の炎だった。
「辺境というと、東部の森でしょうか。あのあたりには分類されていない茸が百種類以上自生しているそうですわね。それから、獣人の方々の焚火料理。あれは一度でいいから食べてみたかったんですの。炙りの技術が人間とはまるで違うと聞きましたわ」
「……は?」
「ああ、それと。辺境の酒場には各地を旅した料理人が流れ着くこともあると聞きましたわ。宮廷の味しか知らない料理人とは違う、野性の技術体系。わたくし、ずっと気になっていたんですの」
マリカは立ち上がった。テーブルに両手をついて、身を乗り出す。
「エドモンド様。追放の日程はいつですの? 明日? 明後日? 早いほうがよろしいですわ。東部の茸は春が旬ですもの」
大広間が、二度目の沈黙に包まれた。
今度の沈黙は、先ほどとは質が違った。誰もが、目の前の令嬢が何を言っているのか理解できなかった。婚約を破棄されたのだ。辺境に追放されるのだ。泣くか、怒るか、すがりつくか——それが普通の反応だろう。
マリカ・ベルモントは、嬉しそうだった。
「……明後日だ」
エドモンドは、乾いた声で答えるのが精一杯だった。
「まあ。では明日中に非常食の仕込みを済ませなければなりませんわね。干し肉は最低でも半日漬け込みたい——ああ、でも時間がないから塩と香草だけで簡易版にしましょう。チーズは硬質のものを。保存が利きますもの」
マリカはそこでようやくテリーヌを思い出し、皿に残った最後の一切れを口に放り込んだ。
「ごちそうさまでした。テリーヌは惜しかったですわね。宮廷の料理人に伝えてくださいませ——あと三度、十五分。それだけで、この一皿は大陸に誇れる逸品になりますのに」
深々と一礼し、マリカは大広間を出た。
振り返らなかった。
残されたエドモンドは、空になったテリーヌの皿を呆然と見つめていた。
——私は、正しい判断をしたのだ。
そう自分に言い聞かせた。だが、去っていくマリカの背中は、解放された鳥のように軽やかで——追放された者の歩き方では、まるでなかった。
翌日の夜。
マリカは自室で、旅の準備に没頭していた。
といっても、荷造りの内容は常軌を逸している。ドレスは一着も入れない。代わりに、腰のスパイスポーチを三つに増やし、服の隠しポケットに乾燥ハーブの小袋を仕込み、背嚢の底には岩塩の塊を忍ばせた。
「お嬢様……」
侍女が泣きそうな顔で立っている。目元が赤い。マリカが荷造りを始める前から、ずっと泣いていたのだろう。
「本当に行かれるのですか。お父様に嘆願すれば——」
「行きますわ」
マリカは振り向きもしない。東部辺境の地図を広げて、そこに自生する食用植物の分布を書き込んでいる最中だった。
「お父様には申し訳ないけれど、わたくしが宮廷にいても仕方ありませんもの。ここの料理はもう全部食べましたわ。知らない味がないんですの」
侍女がついに声を上げて泣いた。
マリカの手が、止まった。
ペンを置いて、初めて侍女のほうを振り向いた。侍女の肩が震えている。十年来の侍女だ。マリカが厨房に忍び込んでは怒られていた頃から、ずっと側にいてくれた人。
「……泣かないでくださいませ」
マリカの声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。
「わたくしね、五つの時に厨房で食べたことのない味に出会ったんですの。あの瞬間、世界がこんなに広いのだと知りましたわ。——あれからずっと、止まれませんの」
侍女はまだ泣いている。マリカはしばらく、その泣き声を聞いていた。
「……あなたの焼いてくれた焼き菓子。あれは宮廷のどの菓子よりも好きでしたわ。ちゃんと覚えていますの」
それだけ言うと、もう地図に戻っていた。赤い印が一つ増える。「未分類茸・要調査」。
侍女は知らなかった。マリカが地図に向き直ったとき、一瞬だけ、唇を噛んでいたことを。
その翌朝——追放の日の朝。
王都ロワイヤルの執務室で、エドモンドは朝食のスープに手をつけられないでいた。
宮廷料理人が今朝出した季節の野菜のポタージュ。品のある盛り付け、温度も適正、配膳も完璧——のはずだった。
スプーンを口に運ぶ。いつもの味——のはずだった。
不味くはない。温度も適正、盛り付けも品がある。だが今朝はなぜか、食が進まなかった。
——朝から調子が悪いのか。
エドモンドはそう結論づけた。昨夜はよく眠れなかった。あの令嬢の、嬉しそうな顔がちらつく。追放を告げたのに、微笑まれた。あの琥珀色の瞳に「怯えていますのね」と見抜かれた気がして——いや、あれはこちらの気のせいだ。
スプーンをもう一度運ぶ。やはり何か引っかかる。だがそれが料理のせいなのか、自分の体調のせいなのか、エドモンドには判別がつかなかった。
彼女なら、一口で言い当てただろう。「あと三度、十五分」——あの煩わしい注文が、今は聞こえない。
エドモンドはスプーンを置いた。食欲がないだけだ。それ以上のことは、考えなかった。
「……私の判断は、間違っていない」
誰もいない執務室で、そう呟いた。
声は震えていなかった。まだ。
同じ朝。馬車が王都の門を出た。
春の朝もやが地平線を霞ませている。王都ロワイヤルの白い城壁が、背後に遠ざかっていく。護衛の兵士が二人、馬車の前後についていたが、彼らの表情は沈痛だった。追放令嬢の護送など、誰も好き好んでやりたい仕事ではない。
馬車の中で、マリカは——昨日仕込んだ干し肉を頬張っていた。塩と風香草で漬けた即席品だが、悪くない。
窓の外で風景が変わっていく。整備された街道が荒れ、麦畑が減り、森の緑が濃くなる。
知らない風景だった。
知らない匂いがした。
知らない——味が、この先に待っている。
追放令嬢は干し肉を齧りながら、これ以上ないほど上機嫌だった。
日が傾き始めた頃、馬車は辺境の森に差しかかった。マリカは背嚢から革の手帳を取り出した。食べたいものリストだ。最初のページから最後のページまで、びっしりと食材と料理の名前が書き連ねてある。
一番上に新しく書き加えた。
『辺境の森・未分類茸(推定100種以上)』
『獣人の焚火料理(炙り技術の違い)』
『場末の酒場の料理人(宮廷と異なる技術体系)』
窓の外で、森の木々が風に揺れている。春の新緑が馬車の中に緑の光を落とす。その光の中に、マリカは知らない匂いを嗅いだ。
土の匂い。腐葉土の匂い。その下に——かすかに、甘い。
「……茸ですわ」
マリカの琥珀色の瞳が、見開かれた。
「この匂い——知らない種ですわ。わたくしの記憶にない。分類——」
言い終える前に、体が動いていた。馬車の扉を蹴り開ける。
「お嬢様!?」
護衛の兵士が咄嗟に腕を掴んだ。マリカの体が半分、走る馬車の外に飛び出している。地面が流れている。そんなことはマリカの目に入っていなかった。森の奥——あの甘い匂いの方角だけを、琥珀色の瞳が射抜いている。
「離してくださいませ! あの茸、今を逃したら——」
「落ちます! お嬢様!」
兵士が両腕でマリカの腰を引き戻す。マリカはなおも身を乗り出し——そのとき、反対側の窓から別の匂いが飛び込んできた。
煙。肉を焼く煙だ。
マリカの鼻腔が、自動的に分解を始めた。脂が炭に落ちる匂い——滴り方が均一だ。火からの距離を精密に保っている人間の焼き方。素人は脂を散らす。この焼き手は、脂の落ちる位置まで計算している。
なのに。
肉そのものの香ばしさが薄い。表面の焼き色が足りない匂いだ。火力を操る腕がありながら、仕上がりに魂が入っていない。
「……あら?」
マリカの首がくるりと回った。森の茸のことが、一瞬で頭から消える。好奇心のスイッチが別の対象に切り替わった瞬間だった。
兵士はその隙にマリカを座席に押し戻した。
「はっ。——ああ、茸!」
二秒遅れで思い出したマリカは、慌てて手帳を開いた。
『森の入口付近。甘い匂いの未分類茸。要調査。必ず戻る』
『その先の村方面。肉を焼く煙——火力制御は一流。だが味を作る意志がない。要確認』
馬車は辺境の村へ向かって揺れ続ける。
追放は罰だと、王宮の人々は思っている。マリカ・ベルモントにとって、それは——世界で一番嬉しい旅立ちだった。
だが、マリカの鼻の奥にはまだ、先ほどの煙が残っていた。
腕があるのに、美味しく作っていない。
——腕があるのに、作ろうとしていない。
「……面白いですわ」
マリカの琥珀色の瞳の奥で、新しい炎がちらりと揺れた。
「この煙の主に——会わなくてはなりませんわね」
あなたにおすすめの小説
追放王子の気ままなクラフト旅
九頭七尾
ファンタジー
前世の記憶を持って生まれたロデス王国の第五王子、セリウス。赤子時代から魔法にのめり込んだ彼は、前世の知識を活かしながら便利な魔道具を次々と作り出していた。しかしそんな彼の存在を脅威に感じた兄の謀略で、僅か十歳のときに王宮から追放されてしまう。「むしろありがたい。世界中をのんびり旅しよう」お陰で自由の身になったセリウスは、様々な魔道具をクラフトしながら気ままな旅を満喫するのだった。
追放された引きこもり聖女は女神様の加護で快適な旅を満喫中
四馬㋟
ファンタジー
幸福をもたらす聖女として民に崇められ、何不自由のない暮らしを送るアネーシャ。19歳になった年、本物の聖女が現れたという理由で神殿を追い出されてしまう。しかし月の女神の姿を見、声を聞くことができるアネーシャは、正真正銘本物の聖女で――孤児院育ちゆえに頼るあてもなく、途方に暮れるアネーシャに、女神は告げる。『大丈夫大丈夫、あたしがついてるから』「……軽っ」かくして、女二人のぶらり旅……もとい巡礼の旅が始まる。
城で侍女をしているマリアンネと申します。お給金の良いお仕事ありませんか?
甘寧
ファンタジー
「武闘家貴族」「脳筋貴族」と呼ばれていた元子爵令嬢のマリアンネ。
友人に騙され多額の借金を作った脳筋父のせいで、屋敷、領土を差し押さえられ事実上の没落となり、その借金を返済する為、城で侍女の仕事をしつつ得意な武力を活かし副業で「便利屋」を掛け持ちしながら借金返済の為、奮闘する毎日。
マリアンネに執着するオネエ王子やマリアンネを取り巻く人達と様々な試練を越えていく。借金返済の為に……
そんなある日、便利屋の上司ゴリさんからの指令で幽霊屋敷を調査する事になり……
武闘家令嬢と呼ばれいたマリアンネの、借金返済までを綴った物語
土属性を極めて辺境を開拓します~愛する嫁と超速スローライフ~
にゃーにゃ
ファンタジー
「土属性だから追放だ!」理不尽な理由で追放されるも「はいはい。おっけー」主人公は特にパーティーに恨みも、未練もなく、世界が危機的な状況、というわけでもなかったので、ササッと王都を去り、辺境の地にたどり着く。
「助けなきゃ!」そんな感じで、世界樹の少女を襲っていた四天王の一人を瞬殺。 少女にほれられて、即座に結婚する。「ここを開拓してスローライフでもしてみようか」 主人公は土属性パワーで一瞬で辺境を開拓。ついでに魔王を超える存在を土属性で作ったゴーレムの物量で圧殺。
主人公は、世界樹の少女が生成したタネを、育てたり、のんびりしながら辺境で平和にすごす。そんな主人公のもとに、ドワーフ、魚人、雪女、魔王四天王、魔王、といった亜人のなかでも一際キワモノの種族が次から次へと集まり、彼らがもたらす特産品によってドンドン村は発展し豊かに、にぎやかになっていく。
「宮廷魔導師の私が解雇されたので、辺境で最強の薬草園を作ります」 ~王都が大変なことになっているらしいけど、今日も畑が忙しい~
まさき
恋愛
「時代遅れ」と解雇された宮廷魔導師のリア、三十二歳。
動揺ゼロ。未練ゼロ。退職金を交渉してその日のうちに王都を去る。
辺境の荒れ地で魔素を調べたリアは、ふと思う。
「この魔法が弱かったのではなく、王都が合わなかっただけだったのか」
十五年間、誰にも証明できなかった答えが、ここにあった。
薬草園を始めたリアは、誰に認められなくても、今日も淡々と畑を耕す。
でも気づいたら——幻の薬草が育ち、隣国とも取引が始まり、王宮が焦り始めていた。
さらに視察に来た第三王子が、なぜか何度も畑に顔を出すようになっていた。
「先生、あの方絶対に好きですよ」とエミに言われても、リアは「そうですか」と返すだけ。
本人は今日も、収穫が忙しい。
婚約破棄された上に国外追放された聖女はチート級冒険者として生きていきます~私を追放した王国が大変なことになっている?へぇ、そうですか~
夏芽空
ファンタジー
無茶な仕事量を押し付けられる日々に、聖女マリアはすっかり嫌気が指していた。
「聖女なんてやってられないわよ!」
勢いで聖女の杖を叩きつけるが、跳ね返ってきた杖の先端がマリアの顎にクリーンヒット。
そのまま意識を失う。
意識を失ったマリアは、暗闇の中で前世の記憶を思い出した。
そのことがきっかけで、マリアは強い相手との戦いを望むようになる。
そしてさらには、チート級の力を手に入れる。
目を覚ましたマリアは、婚約者である第一王子から婚約破棄&国外追放を命じられた。
その言葉に、マリアは大歓喜。
(国外追放されれば、聖女という辛いだけの役目から解放されるわ!)
そんな訳で、大はしゃぎで国を出ていくのだった。
外の世界で冒険者という存在を知ったマリアは、『強い相手と戦いたい』という前世の自分の願いを叶えるべく自らも冒険者となり、チート級の力を使って、順調にのし上がっていく。
一方、マリアを追放した王国は、その軽率な行いのせいで異常事態が発生していた……。
神獣転生のはずが半神半人になれたので世界を歩き回って第二人生を楽しみます~
御峰。
ファンタジー
不遇な職場で働いていた神楽湊はリフレッシュのため山に登ったのだが、石に躓いてしまい転げ落ちて異世界転生を果たす事となった。
異世界転生を果たした神楽湊だったが…………朱雀の卵!? どうやら神獣に生まれ変わったようだ……。
前世で人だった記憶があり、新しい人生も人として行きたいと願った湊は、進化の選択肢から『半神半人(デミゴット)』を選択する。
神獣朱雀エインフェリアの息子として生まれた湊は、名前アルマを与えられ、妹クレアと弟ルークとともに育つ事となる。
朱雀との生活を楽しんでいたアルマだったが、母エインフェリアの死と「世界を見て回ってほしい」という頼みにより、妹弟と共に旅に出る事を決意する。
そうしてアルマは新しい第二の人生を歩き始めたのである。
究極スキル『道しるべ』を使い、地図を埋めつつ、色んな種族の街に行っては美味しいモノを食べたり、時には自然から採れたての素材で料理をしたりと自由を満喫しながらも、色んな事件に巻き込まれていくのであった。
解雇された薬草係は、隣国の薬師院に見つかりました
くるみ
ファンタジー
聖女付きの薬草係リアナは、伯爵令嬢の進言により王宮を去ることになった。
誰にも目を向けられない仕事だった。
けれどリアナがいなくなってから、聖女の体調と王宮結界に少しずつ異変が起こり始める。
そんな中、王都の薬草店に戻ったリアナのもとへ、隣国ルフェル薬師院の調査官が訪ねてきて――。