「三番以下を取りなさい」と五年言われ続けたので、公開試験で本気を出しました

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三番以下を取りなさい

 春。王立魔法学院、年次公開試験の大講堂。
 国王陛下が上座に着席され、議員と魔法局幹部の方々が壇の両脇に並んでいる。
 天窓からの光が、長机に並ぶ答案用紙の白さを、いつもより白く見せていた。

 わたくしは自分の席で、ゆっくりとペンを握り直した。
 指先の温度が、珍しく少しだけ高い。
 ここ数年、一度も感じなかった熱だった。

「本日の試験を開始する」

 試験監督の宣言とともに、講堂に羽ペンの立てる細い音が満ちる。
 わたくしは答案用紙の余白に、視線を落とした。

(五年ぶりに、本気を出すわ)

 そう、心の中で呟いた。
 斜向かいの席で、レイナルト様が薄く笑っているのが見える。
 わたくしが今日もまた三番を取るのだと、信じ切っている顔。

 昨日までは、そうだった。
 昨日までは、わたくしも確かに、そう答え続けてきた。

 わたくしは最初の問題に目を落とす。
 暗算詠唱、三段式の変換問題。
 いつもなら、正解の一手前で筆を止めて、次点の答えを書く。

 今日は、止めない。

 筆が、白紙の上を走り始めた。
 五年ぶりに、最後の一手まで迷わず書き切る軌跡が、紙の上に生まれていく。



 ——五年前、春。わたくしは十四歳だった。
 王立魔法学院の入学試験で、史上最高点を取った。首席合格。
 父である侯爵は、朝食の席で静かに頷いた。

「よくやった、リュシエンヌ」

 それだけだったけれど、侯爵家の食卓で父の『よくやった』を頂くことは、わたくしにとって何よりの誉れだった。
 母は紅茶のカップの縁を指で撫で、「あの子らしいこと」とだけ笑った。

 入学式の翌日。学院の中庭の片隅、石造りの長椅子の影で、婚約者であるレイナルト・グレイツェル様に呼び出された。
 彼は一学年上、公爵令息で、入学時は次席だった。

「話がある」

 レイナルト様は、わたくしと同じ高さにまっすぐ立った。
 金髪が春の日差しを弾いて、視界を少し眩しくした。

「お前が首席では、私の格が保てぬ」

 最初に、耳に入った言葉はそれだった。

「今後の試験では、三番以下を取れ。女が公爵令息の上に立つことは、許されぬ」

 喉の奥が、冷たくなった気がした。
 けれどわたくしは、表情を変えなかった。

「……もし、拒めば」

「婚約は破棄する。ヴェルメイユ侯爵家の格も、今後の社交界での立場も、考え直していただくことになる」

 格、というひと言の重さを、わたくしは十四歳でも正確に理解していた。
 父の静かな頷き。母の細いため息。領地の若い職人たちの穏やかな顔。
 わたくしが首席を取り続ければ、レイナルト様の家はヴェルメイユ侯爵家に『格を落とされた』と周囲に受け取る。
 王国の序列は、学院の序列をそのまま縮図にしている。

 わたくしは、静かに頭を下げた。

「承知いたしました」

 それが、わたくしの五年間の始まりだった。



 一年次の、最初の年次試験。
 わたくしは、暗算詠唱の最後の一手を、わざと外した。

 出題は三段式変換の応用問題。
 正解の構築式まで、あと一手。
 その一手を書いた瞬間に、答えは完結する。

 ペン先を、紙から浮かせた。
 指は正解の軌跡を覚えている。覚えているからこそ、止めることが、難しかった。

 外した答えを書く。次点の、ほんの少し遅い答え。
 採点官には『惜しい』と見える、けれど確かに減点の対象になる一筆。

 ペン先を置き直して、次の問題に移る。
 暗算の速度を、意図的に一拍だけ遅らせる。
 速すぎても目立つ。遅すぎても不自然に見える。
 『三番』を取るための、極めて狭い幅を、毎回正確に射抜かねばならなかった。

 実技では、魔力最適化比を九割で止めた。
 完成ではなく、完成の一歩手前。
 使われない魔力の細い尾が、陣の外縁で散っていくのを、わたくしは静かに見送った。

 詠唱語では、母音をひとつだけ削った。
 威力が三段階落ちる。けれど、文法としては成立している。
 採点表の欄に、教授は『音節不足、三減点』と書くだろう。

 結果、わたくしは三位になった。
 一位はレイナルト様。二位は公爵家の遠縁にあたる令息。
 三位の席で、わたくしは微笑んで礼をした。
 レイナルト様は満足げに頷き、わたくしの肩に手を置いた。

「よくやった」

 わたくしはまた、静かに頭を下げた。



 二年次。三年次。四年次。
 わたくしの成績は、いつも三位だった。

 暗算を一拍遅らせる癖。
 詠唱語の母音をひとつ削る癖。
 実技で最適化比を九割で止める癖。
 その三つを、毎年、毎試験、変わらずに繰り返した。

 レイナルト様は、ずっと首席だった。
 彼は、わたくしの前でときどき『お前のおかげで、私の格が保たれている』などと冗談めかして言った。
 冗談の形でしか、感謝を口にできない人だった。
 もっとも、感謝の意味で言っているのかも、怪しかったけれど。

 学院の序列は、学院を出てからの序列に直結する。
 レイナルト様の首席は、卒業後の宮廷魔法局幹部への道を確定させる。
 その道が、わたくしの譲った点数の上に成立していることを、彼は知らない。
 いや、知る必要がないと思っているのだ。

 侯爵家の夕食の席で、父はときどき、わたくしの手元を見た。
 指先のペンだこが、三位を取る娘にしては、少し深すぎた。
 父は何も言わなかった。けれど、皿の上のスープの湯気越しに、一度だけ小さく頷いた。

 それだけで、わたくしは息が楽になった。



 二年生の、秋の夜だった。

 実技試験の答案返却の後、わたくしは自分の答案の余白に、微かな魔法式の断片が残っていることに気づかなかった。
 書いて、消した跡。
 正解の一手を書きかけて、途中で止めた、その細い線が、紙の繊維に薄く残っていた。

 学院の地下、旧館と呼ばれる古い建物の廊下で、わたくしは後ろから声をかけられた。

「ヴェルメイユ嬢」

 振り向くと、白衣の裾を払っている男性が立っていた。
 銀に近い灰色の髪を短く切り揃え、右手中指の外側にインクの染みがある。
 わたくしより五つほど年上の、魔法研究科の助教授代理、テオドール・ロランディ様。

 彼は、わたくしの答案の写しを一枚、手にしていた。

「これは、わざと外した式ですね」

 わたくしは、息を止めた。
 五年間のうちの二年目。
 誰にも見抜かれていないはずの、『意図』を。
 初めて、他人の口から指摘された。

 何と答えるべきか、言葉が見つからなかった。
 テオドール様は、わたくしの沈黙を追及しなかった。

「余白の繊維に、消し残りがあります。ペン先を二度浮かせた跡。最初は正解の軌跡、二度目は次点の軌跡。あなたは、最後の一手を書きかけて、止めていますね」

 わたくしは、静かに頷いた。
 否定する意味も、もう、失われていた。

「……理由は、問いません」

 テオドール様はそう言って、白衣の内ポケットから一冊の手帳を取り出した。
 厚紙の表紙、黒いインクで書かれた番号だけの背表紙。

「ただ、記録させてください。あなたが書きかけて止めた軌跡を、解析して残します。これは、学術的に価値のある現象です」

 彼は丁寧に、淡々と、そう告げた。
 わたくしの秘密を暴くためではなく、記録するためだ、と。

 わたくしは、少しだけ微笑んでしまった。
 他人に秘密を知られたのに、微笑めたのは、人生で初めてのことだった。

「……お好きに、なさってください」

 そう答えたとき、五年という数字の重さが、わずかに肩から降りた気がした。



 それから、わたくしとテオドール様の夜の研究室が始まった。

 旧館の地下、長らく公式には閉鎖されていた旧・第七研究室。
 鍵の壊れた扉を押すと、埃《ほこり》の匂いと、古い紙の匂いがした。
 テオドール様は、学院に許可だけは正式に取ってあると静かに笑った。

「夜間の個別研究枠です。公式には、私が一人で使っていることになっています」

 机の上には、彼が解析したわたくしの答案の写しが、年次ごとに整理されて積まれていた。
 書きかけた軌跡。ペン先の浮いた位置。詠唱語から削られた母音。
 それら全てを、彼は魔法式として復元し、『本来の答え』を数式として書き留めていた。

 わたくしは、最初の夜、彼の前で一枚の答案を書いた。
 昼間に書かなかった、最後の一手を。

 書き切った瞬間、ペン先が紙の繊維を静かに撫でて、その音が研究室の空気に溶けた。
 わたくしの背骨の、入学以来ずっと強張っていたどこかが、ほんの少しだけ、緩んだ。

「これが、本来の答えです」

 テオドール様は、紙を灯りにかざして、長く見つめた。

「……美しい」

 それが、研究者としての感想なのか、別の何かなのか、わたくしには判別できなかった。
 けれど、判別する必要もなかった。

 夜ごと、わたくしは旧・第七研究室に通った。
 昼の答案で『三番』を取り、夜の答案で『最後の一手』を書く。
 二重の五年間が、そこに静かに積み上がっていった。

 テオドール様は、わたくしの癖の精度を、ある夜こう評した。

「あなたが譲っている点数は、毎年ほぼ同じ幅です。これは、偶然では決して起こり得ません。本当に高い制御能力がないと、『一定の幅で負ける』ことは不可能です」

 わたくしは答えなかった。
 ただ、ペン先を置き直して、次の問題に移った。

 三年生の、春の夜。
 研究室の窓の外で、雨が降り始めた日があった。
 わたくしは、その夜、一枚の答案を書きながら、手を止めた。

「……どうされました」

 テオドール様が、机の向かいから静かに問うた。

「正解の一手を、忘れかけています」

 そう言ってしまってから、自分で驚いた。
 五年間の途中で、一番危なかった瞬間だったのだと思う。

 昼間、三番を取るために書き続けた『次点の答え』の方が、指先にとって自然になっていた。
 本来の軌跡が、少しずつ、わたくしの身体から離れていきそうだった。

 テオドール様は、しばらく黙って、それから自分のノートを開いた。

「あなたの一年次の答案、二十三問目の最後の一手は、ここです」

 彼は、解析された魔法式を指先でなぞった。
 わたくしは、それを真似て、自分の手で同じ軌跡を一度書いた。

「二年次、十七問目の最後の一手は、ここ」

 また、一緒になぞった。

「三年次、九問目は、ここ」

 そうして、古い答案の『本来の答え』を、一枚ずつ、書き直していった。
 わたくしの指は、少しずつ、五年前の軌跡を思い出していった。

「忘れないように、年に一度、ここで一緒に書き直しましょう」

 テオドール様は、そう言って笑った。
 控えめな笑顔だったけれど、研究室の灯りの下で、その笑みは、わたくしがこの五年で見たどの表情より、温かかった。

「わたくしの本当の答えを、あなたが預かっていてくださるのですね」

「ええ。お返しする日までは、預かります」

 その夜から、わたくしの本来の軌跡は、テオドール様のノートの中で眠ることになった。
 昼の答案で『次点』を書くたびに、わたくしは心のどこかで、『本物はあそこにある』と呟けるようになった。

 それだけで、昼の三番は、ずっと書きやすくなった。

 四年次の、冬。
 テオドール様のノートは、百四十八枚に達していた。



 五年目の春。
 わたくしは十九歳。レイナルト様は二十一歳。
 婚約披露の宴を、二ヶ月後に控えていた。

 その日、学院の図書館の小さな閲覧室で、レイナルト様は、わたくしの斜向かいの椅子を引いた。
 そして、もう一脚、隣の椅子を引いた。

 誰を伴っているのか、見なくても予感は働いた。

「紹介しよう。ソフィー・ルミエール男爵令嬢だ」

 穏やかな栗色の髪の令嬢が、わたくしに向けて浅く礼をした。
 顔立ちは愛らしく、けれど、視線の置き所に少し迷いがあった。
 彼女自身、どうやら今日この場に連れて来られるとは聞いていなかったらしい。握りしめた手巾《ハンカチ》の端が、指の関節の白さで裏切っている。

 レイナルト様は、わたくしに向き直った。

「婚約破棄の話をしに来た」

 声は、驚くほど事務的だった。

「お前では並び立てぬ。学力も身分も、足りなすぎる。卒業後の宮廷で、私の横に立つ女は、もう少し……釣り合いの取れた者でなければならない」

 わたくしは、少しだけ瞬きをした。
 五年間、三番を取り続けてきた相手から、『学力が足りない』と言われる瞬間を、わたくしはどこかで予期していた。
 予期していたから、驚きより先に、奇妙な静けさが胸に降りた。

 ソフィー様は、レイナルト様の半歩後ろで、申し訳なさそうに目を伏せた。
 彼女自身は、悪い方ではないのだろう。
 むしろ、この序列の盤面に、自分が駒として置かれたことにまだ慣れていないように見えた。彼女もまた、別の形で『格』の命令を受けた側なのだろう。

「ヴェルメイユ侯爵家には、正式な書簡をお送りする。慰謝料についても、慣習の範囲で処理させていただく」

 慣習の範囲、という言葉に、わたくしは一瞬だけ笑みそうになった。
 けれど、こらえた。

「……承知いたしました」

 わたくしは、静かに頭を下げた。
 それから、席を立つ前に一言だけ添えた。

「明日の年次公開試験、国王陛下も臨席されると伺っております」

「ああ。今年は特別だ。お前のような三番常連には、関係のない話だろうが」

 レイナルト様は鼻で笑った。

「ええ。わたくしのような者には、関係ございませんわね」

 わたくしはそう返して、閲覧室を静かに出た。
 扉を閉めた瞬間、廊下の空気が、五年間で一番冷たく感じられた。

 その夜。
 旧・第七研究室に降りて、テオドール様にだけ、短く告げた。

「明日、本気を出します」

 彼は顔を上げた。
 手にしていた羽ペンを、机の上にそっと置いた。

「五年分ですか」

「ええ。五年分、お返しいたします」

 テオドール様は、少し黙ってから、ゆっくり頷いた。

「では、私はこれを提出します」

 彼が指さした先に、厚い束が重ねられていた。
 五年間の解析ノート。書きかけの軌跡から復元された、『本来の答え』の記録。

「魔法局長官への、正式な研究報告の形で。もし明日、『推計点の復元』の命令が下りるようなら、この資料が、その根拠になります」

「もし下りなかったら」

「そのときは、学術論文として発表するだけです」

 彼の静けさに、わたくしは助けられた。
 わたくしが望まなければ、この資料は論文に変わる。
 わたくしが望めば、これは、わたくしの五年間の証拠になる。
 選ぶのは、わたくしだ。

「……望みます」

 わたくしは、一言だけ答えた。
 テオドール様は、また、ゆっくり頷いた。



 そして、当日の朝。
 冒頭の場面に、物語は戻ってくる。

 わたくしは答案用紙の一枚目を、最後の一手まで書き切った。
 二枚目、三枚目、四枚目。
 暗算詠唱の一拍を、遅らせなかった。
 詠唱語の母音を、削らなかった。
 実技の魔力最適化比を、九割で止めず、十割まで回した。

 ペン先が紙の上を走る速度が、わたくし自身でも、少し怖いくらい速かった。
 毎回ペン先を浮かせて止めていた手が、今日は一度も止まらなかった。
 止まる必要が、なかった。
 覚えていた軌跡を、そのまま、そのまま、紙に降ろしていけばよかった。

 実技試験の場で、わたくしの陣の外縁は、細い尾を散らさなかった。
 魔力が隅々まで回り、構築式が完成した瞬間、陣の中心で小さな音が鳴った。
 それは、入学以来初めて、公の場で響く、わたくし本来の魔法の音だった。

 壇の脇で、教授たちが顔を上げた。
 その視線の温度が、いつもの『三番のヴェルメイユ嬢』を見るときの、それとは明らかに違っていた。

 試験監督の教授が、採点板の上で手を止めた。
 隣の教授と、視線を交わした。
 壇上の魔法局長官が、静かに背筋を伸ばした。

 筆記の採点結果が読み上げられたのは、試験終了から二時間後のことだった。

「……筆記、満点。実技、満点。総合点、学院開設以来の最高点を更新」

 読み上げたのは、魔法局長官その人だった。
 低く、落ち着いた声だった。

「ヴェルメイユ侯爵家令嬢、リュシエンヌ・ド・ヴェルメイユ嬢。今年度年次公開試験、首席」

 大講堂が、ざわめいた。
 貴族の席で、扇が動く音。議員席で、咳払い。
 斜向かいの席で、レイナルト様が、ゆっくりと立ち上がろうとして、立てずに椅子に沈んだ。

 わたくしは立ち上がり、一礼した。

「ありがとうございます」

 それだけだった。
 胸の奥は、むしろ静かだった。
 五年ぶりの『最後の一手』を書き切ったときには、もう、すべての熱量は紙の上に残してきていた。

 魔法局長官は、答案を壇の脇に置いて、次の言葉を継いだ。

「ここで、臨席の国王陛下に申し上げる」

 声の調子が、わずかに変わった。

「ヴェルメイユ嬢は、学院入学以降の全ての年次公開試験——一年次から四年次までの過去四度——で、毎回三位を取られてきた。本日の答案と、過去四年分の答案の筆致、魔法式の構築癖、実技の制御痕跡を比較した結果、『書きかけて止めた軌跡』が四年すべての答案に存在することが、学院の魔法研究科から正式に報告されている」

 ざわめきが、一段深くなった。

「つきましては、教授陣にお願い申し上げる。ヴェルメイユ嬢の過去四年分の答案を、記録室から取り寄せていただきたい。加えて——もし本気で受けていたら出せた推計点を、魔法局公式算定式に基づいて算出し、本日この場で公表していただきたい」

 魔法局長官は、一度だけ、国王陛下の方を見た。
 陛下は、静かに頷いた。

「許可する」

 その一言で、大講堂の空気が変わった。



 教授陣が、記録室に人を走らせた。
 四年分の答案が、大きな木箱で運び込まれた。
 木の蓋が開いたとき、中の紙束の重さで、床の板がわずかに軋んだ。
 あとから聞いた話では、魔法局は前夜のうちに『明日、過去答案の復元命令が下る可能性がある』という予備申請を受け付けていたらしかった。テオドール様が解析ノートの提出日を事前に長官へ届け出ていたからだ。記録室の司書は、一年次から四年次までのヴェルメイユ嬢の答案冊子を夜明け前に棚から下ろし、いつでも運べるよう大講堂裏の控室まで台車で移してあったという。

 壇の前に長机が追加で並べられ、教授たちが一斉に答案を広げた。
 筆記担当の教授、実技担当の教授、暗算詠唱担当の教授。
 それぞれが自分の年度分を取り、答案の余白に残された魔法式断片を確認していく。

 テオドール様が、ノートの束を両手で抱えて、長机の一番端に進み出た。

「魔法研究科、テオドール・ロランディ助教授代理。解析ノートを、こちらに提出いたします」

 長官が短く頷き、教授陣にそれを配布させた。
 配布されたのは、四年分の答案全てについて、書きかけ軌跡の座標と復元された構築式、算定式への代入値までが通し番号で整理された資料だった。教授たちは、自分の担当年度の数字を追うだけでよかった。
 それでも、テオドール様のノートと、答案の原本の照合は、一問ごとに行われた。
 最初に顔を上げたのは、筆記担当の古参の教授だった。

 彼の手が、明らかに震えていた。

「一年次、筆記……推計点、満点」

 一度、言葉を切った。
 声が、うまく次の言葉を繋げられなかった。

「……実測点、九十三点。減点七点、全て『最後の一手』の書き止め箇所から逆算可能。意図的な未完成と判定」

 議員席で、誰かが息を呑んだ。
 わたくしは、ペンを握り直した指を、自分の膝の上で静かにほどいた。

 実技担当の教授が続いた。

「一年次、実技……推計点、満点。実測点、九十一点。減点九点、魔力最適化比の意図的抑制による」

 暗算詠唱担当の教授が続いた。

「一年次、暗算詠唱……推計点、満点。実測点、九十点。減点十点、詠唱音節の意図的削減による」

 読み上げは、続いた。

「二年次、筆記。推計点、満点。実測点、九十二点。減点八点、同じく最後の一手の書き止めによる」
「二年次、実技。推計点、満点。実測点、九十点。減点十点、最適化比の意図的抑制」
「二年次、暗算詠唱。推計点、満点。実測点、八十九点」

 議員席の最前列で、年配の議員が扇をぱちりと閉じた。閉じた扇の先が、となりの議員の膝の上にそのまま置かれる。置かれた扇は、もう二度と開かれなかった。
 書記官の羽ペンが、一度紙から外れて、手の中で向きを変えた。記録を続けるかどうかを迷ったような間《ま》が、インクの垂れる音に変わった。

「三年次、筆記。推計点、満点……」
「三年次、実技。推計点、満点……」

 教授たちの声が、だんだん、淡々と続かなくなっていった。
 誰かが詰まると、隣の教授が替わって読み上げた。
 議員席では、扇を握る手が止まり、書記官の羽ペンが途中で揺れた。

 国王陛下は、壇の上でまっすぐ前を見ていた。
 陛下の表情は変わらなかった。
 けれど、御召しの法衣の裾を握る指先だけが、一度、強く結ばれたのが、斜め下からでも見えた。

 一年次、二年次、三年次、四年次。
 筆記、実技、暗算詠唱。
 合計十二科目分の『推計点、満点』が、国王陛下の御前で、順番に読み上げられた。

 四年分のわたくしの点数が、紙と声という二重の形で、講堂の空気に積み上がっていった。

 最後の一科目の推計点が読み上げられた後、魔法局長官が、ゆっくり顔を上げた。

「つまり、過去四度の年次公開試験で、ヴェルメイユ嬢は毎回、全科目で満点を取る能力を有していた。実測点との差は、すべて意図的な『最後の一手の抑制』から生じている」

 長官は、少し沈黙した。

「そして——過去四度の首席は、いずれもグレイツェル公爵令息である」

 そこで、また一度、間を取った。

「本日の結果と、推計点の公表を踏まえ、臨席の国王陛下に、一つの問いを差し上げたく存じます」

 国王陛下が、静かに頷いた。

「申せ」

「——この四年間の首席は、誰であったのか」

 その問いが、講堂の石の天井に、長く反響した。



 レイナルト様の顔から、血の気が引いていくのが、斜向かいの席からでも分かった。
 彼は、三度ほど、口を開いた。
 一度目は何も音が出なかった。二度目は、小さな咳のような音だけ。
 三度目、ようやく絞り出した声は、かすれていた。

「……そ、そのような、馬鹿げた算定が、正式に認められるはずが……」

「算定式は、建国以来の魔法局公式算定式です」

 魔法局長官の声は、低く、落ち着いていた。

「加えて、ヴェルメイユ嬢の過去四年分の答案の余白に残された軌跡は、魔法研究科の解析で、すべて再現可能です。教授陣による二次照合も、本日この場で完了いたしました」

 レイナルト様は、机の端を掴んだ。
 指先が、白くなっていた。

「リュシエンヌ……取り下げてくれ……推計点の、公表を……」

 彼はそう、わたくしの方を見た。
 五年間、『女は三番以下を取れ』と告げてきた声と、同じ口から出る、懇願の声。

 わたくしは、一度だけ、彼の目を見返した。
 そこに、五年分の中庭の石造りの長椅子が、ふっと重なって見えた。
 十四歳のわたくしを見下ろしていた、あの春の金髪の青年が、いま、机の端に縋りついて青ざめている。

 わたくしは、彼を責める言葉を、特に用意していなかった。
 責める必要が、もう、どこにもなかったからだ。
 記録は、すでに講堂の空気に染み渡っている。

 わたくしは、ゆっくりと立ち上がった。

 振り返らなかった。
 顔を、彼の方に向けなかった。
 壇の上の国王陛下と、魔法局長官に向けて、まっすぐ頭を下げた。

「陛下、長官。公表に、異議はございません」

 そして、一拍だけ置いてから、斜め後ろに向けて——静かに、告げた。

「レイナルト様。わたくしの三番は、全部あなたの一番でしたわね」

 講堂の空気が、一瞬、ぴたりと止まった。
 誰も、声を出さなかった。

 ソフィー様が、レイナルト様から半歩、身を引いた。
 それは、とても静かな、半歩だった。
 けれど、その半歩が、彼女の立つ場所を、確かに変えた。

 わたくしは、そのまま、壇の前へ進んだ。
 自分の答案を、魔法局長官にお渡しするために。

 通路を歩きながら、わたくしは一度だけ、テオドール様の方を見た。
 彼は、長机の端で、ノートの束にそっと手を置いていた。
 目が合うと、ほんの少しだけ、頷いた。

 それだけで、十分だった。



 試験の翌週。

 魔法局から、わたくしへの正式な採用通知が届いた。
 若手研究員として、旧・第七研究室を公式研究室として再開し、過去の『書きかけ軌跡』解析を、学術的な研究テーマとして登録する——そういう内容だった。

 テオドール様の五年分のノートは、学院の公式蔵書に組み込まれた。
 表紙には、二人の名前が並んで記された。

 レイナルト様は、過去四度の首席位を学院から剥奪された。本日の試験の首席も含めれば、計五度分の首席訂正である。
 官報の訂正欄に、一年次から四年次までの首席が『ヴェルメイユ嬢』と書き換えられる処理がなされた。本年度の首席もまた、同じ名で新しく刷られた。
 訂正欄は、五年分が縦に並ぶ長さになった。
 貴族の朝の食卓で、その縦の長さを誰もが一度は目に留めたという話を、後日、父から聞いた。

 宮廷魔法局幹部候補の名簿から、レイナルト様の名前が静かに消えた。
 代わりに、若手研究員『リュシエンヌ・ド・ヴェルメイユ』の名が、別の頁に新しく刷られたと聞いた。

 公爵家からは、表向きの抗議は一度もなかった。
 内々に『事実誤認の訂正申し立て』を試みた動きがあったとも聞いたが、魔法局の算定式と魔法研究科の照合資料の前に、抗議の根拠そのものが用意できなかったらしい。公爵家は、沈黙を選んだ。

 ソフィー様は、レイナルト様との婚約を辞退されたと聞いた。
 ご実家の男爵家に戻られ、落ち着いた方とのご縁を進められているそうだ。
 彼女の半歩は、彼女自身の人生を、正しく救ったのだろう。

 わたくしは、以前と変わらず、旧・第七研究室に通い続けた。
 違うのは、もう答案の余白に『書きかけの軌跡』を残す必要がないこと。
 昼の答案でも、夜の答案でも、同じ人間が、同じ最後の一手を書き切れることだった。

 ある夕方、雨が降り始めた中庭で、テオドール様が並んで歩いた。
 春の雨は細く、長く、石畳の上に細い線を何本も引いていった。
 旧館の軒下で、二人で雨宿りをした。
 軒の縁から、ぽつ、ぽつ、と雫が落ちて、足元の小さな水たまりに丸い波紋を増やしていく。

 わたくしは、白衣の袖から覗いている彼の右手中指の、インクの染みを見ていた。
 五年分の解析の、ほとんどがあの一本の指に染みついている。

「ヴェルメイユ嬢」

 彼が、静かに口を開いた。

「あなたの五年間のうち、私はどの辺りに立っていましたか」

 わたくしは、空を見上げた。
 雨粒が軒の縁で光って、長い尾を引いて落ちていった。

「……最後の一手の、少し手前に」

 テオドール様は、少し笑った。
 肩の力が、ほんの少しだけ抜ける笑い方だった。

「それは、光栄です」

「これから先は、最後の一手の、すぐ隣にいていただけますか」

 言葉にしてから、自分で少し驚いた。
 五年間、一度も口にしなかった種類の言葉だった。

「ええ。喜んで」

 彼は、短く答えた。
 それ以上、何も付け足さなかった。
 わたくしも、付け足さなかった。

 雨の音が、軒先で細く続いていた。



 五年間の三番は、記録に残された。
 推計点も、書きかけ軌跡も、答案の余白のすべても。

 レイナルト様から、謝罪の言葉は、最後まで一度も届かなかった。
 けれど、それで、よかった。
 認めることと、謝ることは、違う。
 そして、謝らせる必要は、もう、どこにもなかった。

 記録が残れば、それで、十分だ。

 わたくしは、旧・第七研究室の扉を押して、夜の長机に戻る。
 テオドール様が、明かりを点けて、わたくしの席にペンを置いてくれている。
 わたくしは、そこに座って、一枚の白紙を前に置く。

 書きかけずに、最後まで書く。
 五年ぶりに当たり前になった、ただの一筆が、いまは一番静かに、胸に馴染む。

 振り返らない。
 五年前の中庭も、昨日の大講堂も、振り返らない。

 わたくしの三番は、記録の中にだけ、残してある。
 それで、十分。

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