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毒が効かない体になるまで毒を盛られた令嬢は、復讐なんて望まない——ただ、助けもしないだけ
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王立学院の大広間は、今宵、花の香りと弦楽の調べに満ちていた。
卒業の夜会——年に一度、貴族社会の視線がこの場に集まる、華やかな舞台。シャンデリアの灯火が天井の金箔を照らし、令嬢たちの宝石が星のように瞬く。笑い声、グラスの触れ合う音、社交辞令の応酬。すべてが完璧に調律された夜だった。
その片隅に、エレーナ・フォン・グリューネは座っていた。
壁際の長椅子。人の流れから少し離れた、影の落ちる場所。淡い紫紺のドレスに身を包んだ彼女は——青白く塗った肌、痩せて見えるよう仕立てたドレスの袖口、光を消すように伏せた灰紫《ラベンダーグレー》の瞳——まるで、この華やかな空間に紛れ込んだ幽霊のようだった。
病弱な侯爵令嬢。
それが、社交界におけるエレーナの肩書きだ。三年かけて作り上げた、もう一人の自分。
「——ああ、今夜の白ワインにはベラドンナの気配がないわね」
グラスを唇に近づけ、香りを確かめる。かすかに笑みを浮かべた。習慣だった。この三年間、食卓に出されるすべてのものに鼻を近づけるのが。
大広間の中央で、ソフィアが笑っている。蜂蜜色の巻き毛をリボンで飾り、淡いピンクのドレスを揺らしながら、アルベルト・フォン・シュテルンの腕に寄り添って。
——わたくしの婚約者、だったひと。
エレーナはその光景を、まるで劇場の観客のように眺めた。怒りはない。悲しみも、もう枯れた。残っているのは、水面に映る月を見つめるような、静かな距離感だけ。
「エレーナ、大丈夫? 無理をしないで、席に戻っていなさいな」
クラウディアが近づいてくる。蜂蜜色の巻き毛、琥珀の瞳、柔和な微笑み。慈愛に満ちた継母——社交界の誰もがそう信じている女性。
「ありがとうございます、お義母様。少し、お花の香りを楽しんでおりましたの」
エレーナは穏やかに微笑み返した。
クラウディアの目が、一瞬だけ冷たく光ったのを、エレーナは見逃さなかった。
——あと少し。あと少しだけ、この仮面を。
三年前の秋のことだった。
父が逝った。グリューネ侯爵——エレーナを誰よりも愛し、守ってくれたひと。その死は突然で、原因は心臓の発作とされた。
父の死後、屋敷の空気が変わった。
義母クラウディアが後見人として家を掌握し、使用人の配置が変わり、エレーナの侍女は一人減り、二人減り——やがて、食事の味が変わった。
最初は気のせいだと思った。
父を亡くした悲しみで、味覚がおかしくなったのだと。
けれど、ある夜。スープを口に含んだ瞬間、エレーナの頭の中に、自分のものではない知識が閃いた。
——この苦味。微量のアルカロイド系毒素。慢性投与で内臓機能を徐々に低下させる。致死量には遠い。殺すのではなく、衰弱させるのが目的。
スプーンが止まった。
なぜ、自分がこんなことを知っているのか。エレーナ自身にもわからなかった。時折見る夢——白い部屋で、白い衣を纏い、冷たい台の上の何かを調べている自分。薬品の瓶が並ぶ棚。分析データが映る光る板。それらの断片が、毒の名前を、症状を、解毒の方法を、確信に変えた。
夢の中の自分は、毒に詳しかった。
とても、詳しかった。
エレーナは震える手でスプーンを置いた。そして——泣かなかった。
「……なるほど。そういうことでしたの」
書庫に通った。薬草学の古い文献を片端から読み漁った。夢の中の知識と、この世界の薬草を照合していく。驚くほど正確に、毒の成分と一致する薬草が見つかった。
領地の薬草園。そこに解毒に必要な草が自生していることを確認したのは、毒に気づいてから十日後のことだった。
自室の奥、鏡台の裏に小さな調合道具を隠した。夜ごと、誰にも気づかれぬよう解毒薬《げどくやく》を作る。食事のたびに毒を確認し、対応する解毒薬を服用する。
そして——「病弱な姉」を演じ始めた。
毒を盛られていると気づいたと知られれば、義母はもっと確実な手段に出る。今の微量投与なら、解毒で対処できる。だが、次が来たら——。
エレーナは計算した。冷静に、正確に。
日に日に顔色を悪くしてみせた。食事の量を減らし、頬がこけるまで体重を落とした。廊下でよろめき、階段で足を滑らせ、社交の場を「体調不良」で辞退した。
義母の安心した目を、エレーナは見ていた。
ソフィアが「お姉様、大丈夫?」と心配するふりをして、その目の奥で微笑んでいるのも。
——演じなさい、エレーナ。弱い姉を。無力な令嬢を。
——あの人たちが安心して、油断して、証拠を残すまで。
転機は二年目の冬だった。
侍医マティアス・ヴェーバー。父の代から仕える医師。穏やかな茶色の瞳、薬草の匂いのする灰色のローブ。エレーナにとって、この屋敷でただ一人、信じられるかもしれない人。
定期診察の日。マティアスの表情が曇った。
「エレーナ様……体内から微量の、しかし継続的な毒素反応が検出されました」
診察具を下ろし、マティアスはエレーナをまっすぐに見た。
「これは……病気ではありません」
沈黙が降りた。暖炉の火が爆ぜる音だけが響く。
エレーナは、迷った。
これまで一人で戦ってきた。誰にも言わず、誰にも頼らず。けれど——証拠を集めるには、医師の記録が必要だった。法的に有効な診断書が。
「マティアス」
エレーナは、初めて仮面を外した。
「あなたにだけ、お話しします」
マティアスの目が見開かれたのは、エレーナが毒の正体を告げたときではなかった。
「——ジギタリス系の強心配糖体《きょうしんはいとうたい》を基剤に、アルカロイドを二種混合。投与サイクルはおよそ五日。直近では昨日の夕食のスープに含まれていました」
毒の種類、投与量、投与タイミング、体内の代謝経路まで。十五歳の令嬢が、まるで熟練の法医学者のように語る。それに、マティアスは息を呑んだ。
「エレーナ様……なぜ、そこまで」
「わたくしにも、わかりません」
エレーナは微笑んだ。少しだけ、寂しそうに。
「ただ——知っていたのです。夢の中で」
マティアスは問い詰めなかった。医師として、目の前の患者が毒殺されかけているという事実の方が、はるかに重要だったから。
「……協力します」
低く、しかし揺るぎない声だった。
「患者を守ることが、医師の務めです」
その日から、二人の密《ひそ》やかな共闘が始まった。
マティアスは毎月の定期診察で、毒物検出の記録を正式な診断書として残した。日付、検出された毒の種類、推定投与量、エレーナの身体症状——すべてを、法的に有効な形式で。
台所の購入履歴も調べた。特殊な薬草——通常の料理には決して使わない種類の——購入記録が、毒物検出の時期と正確に一致する。
マティアスの旧友に、王家の監察官がいた。信頼できる人物だという。
「まずは匿名で、定期的に報告書を送ります。いつか——この証拠が必要になる日のために」
最初の一年は、匿名の報告書。差出人のない封書に、診断記録の写しだけを入れて。監察官に「何かが起きている」と知らせるための、静かな布石。
そして三年目——卒業の夜会まで残り一年となった時、マティアスは名前を明かした。正式な告発状を添えて。
「もう、隠れている必要はありません。証拠は十分です」
分厚い書類の束が、マティアスの診療室の二重底の引き出しに、静かに積み上がっていった。
アルベルトが見舞いに来るのは、月に一度だった。
形式的な訪問。義務。婚約者としての体裁。
「エレーナ、体調はどうだ?」
碧い目。金の髪。社交界の令嬢たちが溜息をつく美貌。彼はいつも、寝台の脇の椅子に腰かけ、五分ほど当たり障りのない話をして、帰っていく。
「お医者様に診てもらっているわ。ありがとう、アルベルト様」
「そうか。無理をするなよ」
それだけ。
エレーナの顔色が月ごとに悪くなっていることに、彼は気づかない。食事の量が減っていることにも、侍女が一人もいなくなったことにも。
気づかないのではない。気づこうとしないのだ。
「お姉様が心配で、アルベルト様に相談に乗っていただいていますの」
ソフィアがいつの間にかアルベルトの傍にいた。蜂蜜色の髪を揺らし、琥珀の目を潤ませて。「お姉様の代わりに」という名目で、婚約者の隣に立つ義妹。
アルベルトは——拒まなかった。
ある日、エレーナは廊下で倒れた。もちろん演技だったが、誰もそうとは知らない。使用人が騒ぎ、ソフィアが「お姉様が!」と駆けていった——アルベルトのもとへ。
アルベルトは来なかった。
翌日の見舞いで、「聞いたよ、大丈夫か?」と言っただけだった。
その瞬間、エレーナの中で何かが静かに消えた。怒りではなかった。悲しみですらなかった。ただ——透明な、完全な諦め。
「ああ——この人は、知ろうとしないのだ」
愛していたかと問われれば、わからない。政略婚だった。それでも、婚約者としての誠意くらいはあると信じていた。
信じていた自分が、少しだけ、可笑しかった。
エレーナは寝台の上で天井を見つめ、静かに息を吐いた。そしてもう、アルベルトのことを考えるのをやめた。
——そして今夜。三年目の、卒業の夜会。
大広間の壇上に、ソフィアが立った。
華やかなピンクのドレス。蜂蜜色の巻き毛にティアラを載せ、隣にはアルベルトが並んでいる。会場の視線が集まる中、ソフィアは可憐に微笑んだ。
「本日は、皆様にお伝えしたいことがございますの」
甘い声が広間に響く。
「お姉様は病弱でいらっしゃいますから、グリューネ家のことは……わたくしがお支えしなくてはと思っておりますの。シュテルン家のアルベルト様にも、ずっとお力添えをいただいて——」
会場がざわめいた。婚約者の横取り——いや、「病弱な姉を支える健気な妹」という物語を、ソフィアは完璧に演出しようとしていた。
クラウディアが客席で満足げに微笑んでいる。三年間の計画の、総仕上げ。
その時だった。
壁際の長椅子から、人影が立ち上がった。
「——少し、よろしいかしら」
声は小さかった。けれど、大広間の隅々まで届いた。弦楽が止まる。ざわめきが止まる。すべてが——止まった。
エレーナ・フォン・グリューネが、歩いていた。
青白い顔。痩せた体。けれどその足取りには、三年間、一度も見せなかった確かさがあった。灰紫《ラベンダーグレー》の瞳に、揺るぎない光が宿っている。
会場に、戸惑いが広がった。
——あの病弱な姉君が? 立ち上がって? あんな目で?
ソフィアの笑顔が凍りつく。クラウディアの目が見開かれる。
エレーナは壇上に向かって、ゆっくりと、しかし真っ直ぐに歩いた。
「エ、エレーナ——」アルベルトが一歩下がる。
「お姉様、お体が——無理をなさらないで——」ソフィアが遮ろうとする。
エレーナは立ち止まった。壇上のすぐ前。会場の全員が、息を呑んで見守っている。
「ソフィア」
穏やかな声だった。笑みすら浮かべている。
「あなたが話すより先に、わたくしから皆様にお伝えすべきことがございますの」
懐から、分厚い書類の束を取り出した。
「お医者様の診断書がございますの」
会場が、水を打ったように静まり返った。
「三年分の毒物検出記録と——お台所の購入履歴の照合結果を」
——毒。
その一語が、大広間の空気を凍らせた。
エレーナは淡々と続けた。
「グリューネ侯爵家の台所において、過去三年間にわたり、通常の調理には用いない特殊な薬草が定期的に購入されております。その時期と種類は、侍医マティアス・ヴェーバーの定期診察で、わたくしの体内から検出された毒物の種類と時期に——完全に一致いたしますの」
書類を一枚ずつ、見せていく。日付、毒物名、検出量、購入記録。几帳面《きちょうめん》な文字で記された三年分の記録。
「そ、そんな——嘘よ! でたらめですわ!」
クラウディアが立ち上がった。顔が蒼白に変わっていた。
「エレーナ、あなた、何を——!」
「嘘ではございませんわ、お義母様」
エレーナは微笑んだ。穏やかに、静かに。
「王家の監察官にも、同様の報告書をお送りしてございます。一年前から」
大広間の入口で、王家の紋章を掲げた監察官が二人、静かに控えていた。
クラウディアの膝が崩れかけた。
「な——そんな、いつの間に——」
「三年間ございましたもの」
エレーナは、初めて義母の目をまっすぐに見た。
「お義母様が安心して毒を盛り続けてくださったおかげで、十分な証拠が集まりましたわ」
会場がどよめいた。貴婦人たちが扇で口元を隠し、紳士たちが顔を見合わせる。「毒殺ですって……」「あのグリューネ侯爵夫人が?」「三年間も?」——ささやきが波紋のように広がり、クラウディアを見る目が一斉に変わった。先ほどまで「慈愛の母」を演じていた女が、今は会場中の疑惑と軽蔑を一身に浴びている。
ざわめきの中で、ソフィアの甲高い声が響いた。
「い、嘘よ! わたくしは何も知らないわ! お母様が——お母様が全部——!」
ソフィアは泣き崩れた。ピンクのドレスの裾が乱れるのも構わず、両手で顔を覆って叫んだ。
「わたくしは手を出していないもの! 知っていただけで——知っていただけよ!」
——知っていて、止めなかった。
エレーナはソフィアを見なかった。視線を、アルベルトに向けた。
アルベルトは壇上で立ち尽くしていた。碧い目が大きく見開かれ、顔から血の気が引いている。
「知らなかった……! 僕は——僕は何も知らなかったんだ、エレーナ!」
震える声。怯えた目。——嘘ではないのだろう。本当に知らなかったのだろう。
エレーナは、一度だけ、目を伏せた。
それから——静かに、アルベルトを見上げた。
「知らなかった?」
一拍の間。
「——知ろうとしなかっただけでしょう?」
アルベルトの顔が歪んだ。
「三年間、わたくしの顔色が変わり続けていたことも。食事が減っていたことも。侍女がいなくなったことも。月に一度、五分だけ見舞いにいらして——『医者に診てもらえ』と仰って、帰っていかれましたわね」
エレーナの声は震えなかった。
「あなたは悪人ではございません、アルベルト様。ただ——臆病なだけ」
会場が静まり返った。誰も、何も言えなかった。
エレーナは背筋を伸ばした。
「婚約の破棄を申し出ます」
静かな、しかし揺るぎない宣言だった。
「アルベルト様。あなたにはソフィアがお似合いですわ——牢の中で、お会いになれるかもしれませんわね」
監察官が動いた。クラウディアとソフィアのもとへ、静かに、しかし確実に歩み寄る。
「グリューネ侯爵夫人クラウディア殿、令嬢ソフィア殿。侯爵令嬢エレーナ殿に対する毒殺未遂の嫌疑により、王家監察局への同行を求めます」
クラウディアが何か叫んだ。ソフィアが泣き喚いた。
エレーナは、もう振り返らなかった。
夜会の喧騒が遠くなった。
バルコニーに出ると、冬の夜風が頬を撫でた。冷たくて、澄んでいて——三年ぶりに、空気が美味しいと思った。
足音がした。
「お疲れ様でした、エレーナ様」
マティアスだった。灰色のローブに薬草の匂い。いつもと変わらない穏やかな声。
「マティアス」
エレーナは手すりに寄りかかり、星空を見上げた。
「……復讐がしたかったわけではないの」
「存じております」
「ただ——もう、庇って差し上げる義理がなくなっただけ」
声が、少しだけ揺れた。
三年間。毒を盛られながら、解毒しながら、弱い姉を演じながら、証拠を集めながら——ずっと、一人で。途中からはマティアスがいたけれど、それでも。食卓の皿を見つめるたび、義母の笑顔の裏を読むたび、婚約者の無関心に耐えるたび——。
「……よく、頑張られました」
マティアスの声も、少しだけ震えていた。
エレーナは泣かなかった。涙は出なかった。代わりに、深い深いため息をついた。三年分の重荷を下ろすように。長い長い息だった。
「ねえ、マティアス」
「はい」
「わたくし、これからどうしましょう」
マティアスは少し考えて、それから笑った。
「薬学を、正式に学ばれませんか」
エレーナが振り向いた。
「あなたの知識は——どこで身につけたものかは、私には分かりません。けれど、本物です。この世界のどの学者よりも深い」
「……夢の中で見た知識ですのよ?」
「夢だろうと、本物は本物です」
エレーナは、ふっと笑った。
夢の中の自分。白い衣。冷たい台。薬品の棚。——あの人は、毒と向き合う仕事をしていた。死者から真実を読み取る仕事を。
「ええ。それが——わたくしのやりたかったこと、かもしれませんわ」
数ヶ月が過ぎた。
グリューネ侯爵邸の一室は、今や小さな薬学研究室になっていた。棚には薬草の瓶が整然と並び、調合台の上には乳鉢と天秤が置かれている。部屋中に、薬草の青い香りが漂う。
エレーナの頬には血色が戻っていた。銀灰色の髪は本来の輝きを取り戻し、灰紫の瞳は——今は、光に満ちている。
マティアスのもとで薬学を学び始めて三ヶ月。義母とソフィアの裁判は進行中で、アルベルトとの婚約は正式に破棄された。侯爵家の家督はエレーナが正式に継承し、領地の運営は信頼できる家臣に任せている。
そんなある日、来客があった。
「失礼するよ」
暗い栗色の髪。深い緑の瞳。学者然とした細身の青年が、薬学研究室の扉をくぐった。質素だが仕立ての良い衣服。ポケットから薬草のメモがはみ出している。
ライナス・フォン・ヴァイスブルク。第二王子。
「初めまして——いや、夜会で一度お見かけしているね。あの時は声をかける暇がなかったが」
エレーナは立ち上がって一礼した。
「ライナス殿下。わざわざのお越し、恐れ入ります」
「堅苦しいのは苦手なんだ。ライナスでいい」
王子は研究室を見回し、薬草の瓶を一つ手に取った。
「マティアスから聞いたよ。君の薬学の知識は——独学にしては体系的すぎる、とね。実際に見せてもらいたくて」
「独学、と申しますか……夢で見た知識ですので、体系的かどうか」
「その謙遜は不要だよ、エレーナ嬢」
ライナスの目が輝いた。言葉が少し早くなる。
「僕は王宮に薬学院を作りたいと思っているんだ。魔法では治せない毒や病に対抗する、体系的な薬学教育の場を。治癒魔法は万能じゃない、慢性毒にも呪い由来の疾患にも限界がある、だからこそ薬学が——」
一度言葉を切り、照れたように咳払いした。
「……すまない、つい早口になった。要するに——君のような人材が、この国には必要だ」
エレーナは目を見開いた。
薬学院。魔法に頼らない治療の道。魔法適性が低くても、知識と技術で人を救える場所。
「……わたくしの力で、お役に立てることがあるのですか」
「役に立つどころか、君がいなければ始まらない」
ライナスは真剣な目でエレーナを見た。
「君の才能を埋もれさせるのは、この国の損失だよ」
能力を認められた。正当に、まっすぐに。
三年間、「病弱で無力な令嬢」として生きてきた。魔法が使えないことを蔑まれ、婚約者に忘れられ、義母に殺されかけた。
——それなのに、この人は。わたくしの知識を、夢を、まっすぐに「必要だ」と言ってくれる。
胸の奥で、何かが温かくほどけた。
「また話を聞かせてくれないか」
ライナスが少し照れたように目を逸らした。
「その……薬学の話を、だよ。僕も知りたいことが山ほどあるんだ」
エレーナは微笑んだ。今度の微笑みには、仮面はなかった。
「ええ、喜んで」
窓から差し込む午後の光が、薬草の瓶を琥珀色に染めている。
エレーナは思った。
——わたくしの人生は、ようやく、わたくしのものになったのですわ。
卒業の夜会——年に一度、貴族社会の視線がこの場に集まる、華やかな舞台。シャンデリアの灯火が天井の金箔を照らし、令嬢たちの宝石が星のように瞬く。笑い声、グラスの触れ合う音、社交辞令の応酬。すべてが完璧に調律された夜だった。
その片隅に、エレーナ・フォン・グリューネは座っていた。
壁際の長椅子。人の流れから少し離れた、影の落ちる場所。淡い紫紺のドレスに身を包んだ彼女は——青白く塗った肌、痩せて見えるよう仕立てたドレスの袖口、光を消すように伏せた灰紫《ラベンダーグレー》の瞳——まるで、この華やかな空間に紛れ込んだ幽霊のようだった。
病弱な侯爵令嬢。
それが、社交界におけるエレーナの肩書きだ。三年かけて作り上げた、もう一人の自分。
「——ああ、今夜の白ワインにはベラドンナの気配がないわね」
グラスを唇に近づけ、香りを確かめる。かすかに笑みを浮かべた。習慣だった。この三年間、食卓に出されるすべてのものに鼻を近づけるのが。
大広間の中央で、ソフィアが笑っている。蜂蜜色の巻き毛をリボンで飾り、淡いピンクのドレスを揺らしながら、アルベルト・フォン・シュテルンの腕に寄り添って。
——わたくしの婚約者、だったひと。
エレーナはその光景を、まるで劇場の観客のように眺めた。怒りはない。悲しみも、もう枯れた。残っているのは、水面に映る月を見つめるような、静かな距離感だけ。
「エレーナ、大丈夫? 無理をしないで、席に戻っていなさいな」
クラウディアが近づいてくる。蜂蜜色の巻き毛、琥珀の瞳、柔和な微笑み。慈愛に満ちた継母——社交界の誰もがそう信じている女性。
「ありがとうございます、お義母様。少し、お花の香りを楽しんでおりましたの」
エレーナは穏やかに微笑み返した。
クラウディアの目が、一瞬だけ冷たく光ったのを、エレーナは見逃さなかった。
——あと少し。あと少しだけ、この仮面を。
三年前の秋のことだった。
父が逝った。グリューネ侯爵——エレーナを誰よりも愛し、守ってくれたひと。その死は突然で、原因は心臓の発作とされた。
父の死後、屋敷の空気が変わった。
義母クラウディアが後見人として家を掌握し、使用人の配置が変わり、エレーナの侍女は一人減り、二人減り——やがて、食事の味が変わった。
最初は気のせいだと思った。
父を亡くした悲しみで、味覚がおかしくなったのだと。
けれど、ある夜。スープを口に含んだ瞬間、エレーナの頭の中に、自分のものではない知識が閃いた。
——この苦味。微量のアルカロイド系毒素。慢性投与で内臓機能を徐々に低下させる。致死量には遠い。殺すのではなく、衰弱させるのが目的。
スプーンが止まった。
なぜ、自分がこんなことを知っているのか。エレーナ自身にもわからなかった。時折見る夢——白い部屋で、白い衣を纏い、冷たい台の上の何かを調べている自分。薬品の瓶が並ぶ棚。分析データが映る光る板。それらの断片が、毒の名前を、症状を、解毒の方法を、確信に変えた。
夢の中の自分は、毒に詳しかった。
とても、詳しかった。
エレーナは震える手でスプーンを置いた。そして——泣かなかった。
「……なるほど。そういうことでしたの」
書庫に通った。薬草学の古い文献を片端から読み漁った。夢の中の知識と、この世界の薬草を照合していく。驚くほど正確に、毒の成分と一致する薬草が見つかった。
領地の薬草園。そこに解毒に必要な草が自生していることを確認したのは、毒に気づいてから十日後のことだった。
自室の奥、鏡台の裏に小さな調合道具を隠した。夜ごと、誰にも気づかれぬよう解毒薬《げどくやく》を作る。食事のたびに毒を確認し、対応する解毒薬を服用する。
そして——「病弱な姉」を演じ始めた。
毒を盛られていると気づいたと知られれば、義母はもっと確実な手段に出る。今の微量投与なら、解毒で対処できる。だが、次が来たら——。
エレーナは計算した。冷静に、正確に。
日に日に顔色を悪くしてみせた。食事の量を減らし、頬がこけるまで体重を落とした。廊下でよろめき、階段で足を滑らせ、社交の場を「体調不良」で辞退した。
義母の安心した目を、エレーナは見ていた。
ソフィアが「お姉様、大丈夫?」と心配するふりをして、その目の奥で微笑んでいるのも。
——演じなさい、エレーナ。弱い姉を。無力な令嬢を。
——あの人たちが安心して、油断して、証拠を残すまで。
転機は二年目の冬だった。
侍医マティアス・ヴェーバー。父の代から仕える医師。穏やかな茶色の瞳、薬草の匂いのする灰色のローブ。エレーナにとって、この屋敷でただ一人、信じられるかもしれない人。
定期診察の日。マティアスの表情が曇った。
「エレーナ様……体内から微量の、しかし継続的な毒素反応が検出されました」
診察具を下ろし、マティアスはエレーナをまっすぐに見た。
「これは……病気ではありません」
沈黙が降りた。暖炉の火が爆ぜる音だけが響く。
エレーナは、迷った。
これまで一人で戦ってきた。誰にも言わず、誰にも頼らず。けれど——証拠を集めるには、医師の記録が必要だった。法的に有効な診断書が。
「マティアス」
エレーナは、初めて仮面を外した。
「あなたにだけ、お話しします」
マティアスの目が見開かれたのは、エレーナが毒の正体を告げたときではなかった。
「——ジギタリス系の強心配糖体《きょうしんはいとうたい》を基剤に、アルカロイドを二種混合。投与サイクルはおよそ五日。直近では昨日の夕食のスープに含まれていました」
毒の種類、投与量、投与タイミング、体内の代謝経路まで。十五歳の令嬢が、まるで熟練の法医学者のように語る。それに、マティアスは息を呑んだ。
「エレーナ様……なぜ、そこまで」
「わたくしにも、わかりません」
エレーナは微笑んだ。少しだけ、寂しそうに。
「ただ——知っていたのです。夢の中で」
マティアスは問い詰めなかった。医師として、目の前の患者が毒殺されかけているという事実の方が、はるかに重要だったから。
「……協力します」
低く、しかし揺るぎない声だった。
「患者を守ることが、医師の務めです」
その日から、二人の密《ひそ》やかな共闘が始まった。
マティアスは毎月の定期診察で、毒物検出の記録を正式な診断書として残した。日付、検出された毒の種類、推定投与量、エレーナの身体症状——すべてを、法的に有効な形式で。
台所の購入履歴も調べた。特殊な薬草——通常の料理には決して使わない種類の——購入記録が、毒物検出の時期と正確に一致する。
マティアスの旧友に、王家の監察官がいた。信頼できる人物だという。
「まずは匿名で、定期的に報告書を送ります。いつか——この証拠が必要になる日のために」
最初の一年は、匿名の報告書。差出人のない封書に、診断記録の写しだけを入れて。監察官に「何かが起きている」と知らせるための、静かな布石。
そして三年目——卒業の夜会まで残り一年となった時、マティアスは名前を明かした。正式な告発状を添えて。
「もう、隠れている必要はありません。証拠は十分です」
分厚い書類の束が、マティアスの診療室の二重底の引き出しに、静かに積み上がっていった。
アルベルトが見舞いに来るのは、月に一度だった。
形式的な訪問。義務。婚約者としての体裁。
「エレーナ、体調はどうだ?」
碧い目。金の髪。社交界の令嬢たちが溜息をつく美貌。彼はいつも、寝台の脇の椅子に腰かけ、五分ほど当たり障りのない話をして、帰っていく。
「お医者様に診てもらっているわ。ありがとう、アルベルト様」
「そうか。無理をするなよ」
それだけ。
エレーナの顔色が月ごとに悪くなっていることに、彼は気づかない。食事の量が減っていることにも、侍女が一人もいなくなったことにも。
気づかないのではない。気づこうとしないのだ。
「お姉様が心配で、アルベルト様に相談に乗っていただいていますの」
ソフィアがいつの間にかアルベルトの傍にいた。蜂蜜色の髪を揺らし、琥珀の目を潤ませて。「お姉様の代わりに」という名目で、婚約者の隣に立つ義妹。
アルベルトは——拒まなかった。
ある日、エレーナは廊下で倒れた。もちろん演技だったが、誰もそうとは知らない。使用人が騒ぎ、ソフィアが「お姉様が!」と駆けていった——アルベルトのもとへ。
アルベルトは来なかった。
翌日の見舞いで、「聞いたよ、大丈夫か?」と言っただけだった。
その瞬間、エレーナの中で何かが静かに消えた。怒りではなかった。悲しみですらなかった。ただ——透明な、完全な諦め。
「ああ——この人は、知ろうとしないのだ」
愛していたかと問われれば、わからない。政略婚だった。それでも、婚約者としての誠意くらいはあると信じていた。
信じていた自分が、少しだけ、可笑しかった。
エレーナは寝台の上で天井を見つめ、静かに息を吐いた。そしてもう、アルベルトのことを考えるのをやめた。
——そして今夜。三年目の、卒業の夜会。
大広間の壇上に、ソフィアが立った。
華やかなピンクのドレス。蜂蜜色の巻き毛にティアラを載せ、隣にはアルベルトが並んでいる。会場の視線が集まる中、ソフィアは可憐に微笑んだ。
「本日は、皆様にお伝えしたいことがございますの」
甘い声が広間に響く。
「お姉様は病弱でいらっしゃいますから、グリューネ家のことは……わたくしがお支えしなくてはと思っておりますの。シュテルン家のアルベルト様にも、ずっとお力添えをいただいて——」
会場がざわめいた。婚約者の横取り——いや、「病弱な姉を支える健気な妹」という物語を、ソフィアは完璧に演出しようとしていた。
クラウディアが客席で満足げに微笑んでいる。三年間の計画の、総仕上げ。
その時だった。
壁際の長椅子から、人影が立ち上がった。
「——少し、よろしいかしら」
声は小さかった。けれど、大広間の隅々まで届いた。弦楽が止まる。ざわめきが止まる。すべてが——止まった。
エレーナ・フォン・グリューネが、歩いていた。
青白い顔。痩せた体。けれどその足取りには、三年間、一度も見せなかった確かさがあった。灰紫《ラベンダーグレー》の瞳に、揺るぎない光が宿っている。
会場に、戸惑いが広がった。
——あの病弱な姉君が? 立ち上がって? あんな目で?
ソフィアの笑顔が凍りつく。クラウディアの目が見開かれる。
エレーナは壇上に向かって、ゆっくりと、しかし真っ直ぐに歩いた。
「エ、エレーナ——」アルベルトが一歩下がる。
「お姉様、お体が——無理をなさらないで——」ソフィアが遮ろうとする。
エレーナは立ち止まった。壇上のすぐ前。会場の全員が、息を呑んで見守っている。
「ソフィア」
穏やかな声だった。笑みすら浮かべている。
「あなたが話すより先に、わたくしから皆様にお伝えすべきことがございますの」
懐から、分厚い書類の束を取り出した。
「お医者様の診断書がございますの」
会場が、水を打ったように静まり返った。
「三年分の毒物検出記録と——お台所の購入履歴の照合結果を」
——毒。
その一語が、大広間の空気を凍らせた。
エレーナは淡々と続けた。
「グリューネ侯爵家の台所において、過去三年間にわたり、通常の調理には用いない特殊な薬草が定期的に購入されております。その時期と種類は、侍医マティアス・ヴェーバーの定期診察で、わたくしの体内から検出された毒物の種類と時期に——完全に一致いたしますの」
書類を一枚ずつ、見せていく。日付、毒物名、検出量、購入記録。几帳面《きちょうめん》な文字で記された三年分の記録。
「そ、そんな——嘘よ! でたらめですわ!」
クラウディアが立ち上がった。顔が蒼白に変わっていた。
「エレーナ、あなた、何を——!」
「嘘ではございませんわ、お義母様」
エレーナは微笑んだ。穏やかに、静かに。
「王家の監察官にも、同様の報告書をお送りしてございます。一年前から」
大広間の入口で、王家の紋章を掲げた監察官が二人、静かに控えていた。
クラウディアの膝が崩れかけた。
「な——そんな、いつの間に——」
「三年間ございましたもの」
エレーナは、初めて義母の目をまっすぐに見た。
「お義母様が安心して毒を盛り続けてくださったおかげで、十分な証拠が集まりましたわ」
会場がどよめいた。貴婦人たちが扇で口元を隠し、紳士たちが顔を見合わせる。「毒殺ですって……」「あのグリューネ侯爵夫人が?」「三年間も?」——ささやきが波紋のように広がり、クラウディアを見る目が一斉に変わった。先ほどまで「慈愛の母」を演じていた女が、今は会場中の疑惑と軽蔑を一身に浴びている。
ざわめきの中で、ソフィアの甲高い声が響いた。
「い、嘘よ! わたくしは何も知らないわ! お母様が——お母様が全部——!」
ソフィアは泣き崩れた。ピンクのドレスの裾が乱れるのも構わず、両手で顔を覆って叫んだ。
「わたくしは手を出していないもの! 知っていただけで——知っていただけよ!」
——知っていて、止めなかった。
エレーナはソフィアを見なかった。視線を、アルベルトに向けた。
アルベルトは壇上で立ち尽くしていた。碧い目が大きく見開かれ、顔から血の気が引いている。
「知らなかった……! 僕は——僕は何も知らなかったんだ、エレーナ!」
震える声。怯えた目。——嘘ではないのだろう。本当に知らなかったのだろう。
エレーナは、一度だけ、目を伏せた。
それから——静かに、アルベルトを見上げた。
「知らなかった?」
一拍の間。
「——知ろうとしなかっただけでしょう?」
アルベルトの顔が歪んだ。
「三年間、わたくしの顔色が変わり続けていたことも。食事が減っていたことも。侍女がいなくなったことも。月に一度、五分だけ見舞いにいらして——『医者に診てもらえ』と仰って、帰っていかれましたわね」
エレーナの声は震えなかった。
「あなたは悪人ではございません、アルベルト様。ただ——臆病なだけ」
会場が静まり返った。誰も、何も言えなかった。
エレーナは背筋を伸ばした。
「婚約の破棄を申し出ます」
静かな、しかし揺るぎない宣言だった。
「アルベルト様。あなたにはソフィアがお似合いですわ——牢の中で、お会いになれるかもしれませんわね」
監察官が動いた。クラウディアとソフィアのもとへ、静かに、しかし確実に歩み寄る。
「グリューネ侯爵夫人クラウディア殿、令嬢ソフィア殿。侯爵令嬢エレーナ殿に対する毒殺未遂の嫌疑により、王家監察局への同行を求めます」
クラウディアが何か叫んだ。ソフィアが泣き喚いた。
エレーナは、もう振り返らなかった。
夜会の喧騒が遠くなった。
バルコニーに出ると、冬の夜風が頬を撫でた。冷たくて、澄んでいて——三年ぶりに、空気が美味しいと思った。
足音がした。
「お疲れ様でした、エレーナ様」
マティアスだった。灰色のローブに薬草の匂い。いつもと変わらない穏やかな声。
「マティアス」
エレーナは手すりに寄りかかり、星空を見上げた。
「……復讐がしたかったわけではないの」
「存じております」
「ただ——もう、庇って差し上げる義理がなくなっただけ」
声が、少しだけ揺れた。
三年間。毒を盛られながら、解毒しながら、弱い姉を演じながら、証拠を集めながら——ずっと、一人で。途中からはマティアスがいたけれど、それでも。食卓の皿を見つめるたび、義母の笑顔の裏を読むたび、婚約者の無関心に耐えるたび——。
「……よく、頑張られました」
マティアスの声も、少しだけ震えていた。
エレーナは泣かなかった。涙は出なかった。代わりに、深い深いため息をついた。三年分の重荷を下ろすように。長い長い息だった。
「ねえ、マティアス」
「はい」
「わたくし、これからどうしましょう」
マティアスは少し考えて、それから笑った。
「薬学を、正式に学ばれませんか」
エレーナが振り向いた。
「あなたの知識は——どこで身につけたものかは、私には分かりません。けれど、本物です。この世界のどの学者よりも深い」
「……夢の中で見た知識ですのよ?」
「夢だろうと、本物は本物です」
エレーナは、ふっと笑った。
夢の中の自分。白い衣。冷たい台。薬品の棚。——あの人は、毒と向き合う仕事をしていた。死者から真実を読み取る仕事を。
「ええ。それが——わたくしのやりたかったこと、かもしれませんわ」
数ヶ月が過ぎた。
グリューネ侯爵邸の一室は、今や小さな薬学研究室になっていた。棚には薬草の瓶が整然と並び、調合台の上には乳鉢と天秤が置かれている。部屋中に、薬草の青い香りが漂う。
エレーナの頬には血色が戻っていた。銀灰色の髪は本来の輝きを取り戻し、灰紫の瞳は——今は、光に満ちている。
マティアスのもとで薬学を学び始めて三ヶ月。義母とソフィアの裁判は進行中で、アルベルトとの婚約は正式に破棄された。侯爵家の家督はエレーナが正式に継承し、領地の運営は信頼できる家臣に任せている。
そんなある日、来客があった。
「失礼するよ」
暗い栗色の髪。深い緑の瞳。学者然とした細身の青年が、薬学研究室の扉をくぐった。質素だが仕立ての良い衣服。ポケットから薬草のメモがはみ出している。
ライナス・フォン・ヴァイスブルク。第二王子。
「初めまして——いや、夜会で一度お見かけしているね。あの時は声をかける暇がなかったが」
エレーナは立ち上がって一礼した。
「ライナス殿下。わざわざのお越し、恐れ入ります」
「堅苦しいのは苦手なんだ。ライナスでいい」
王子は研究室を見回し、薬草の瓶を一つ手に取った。
「マティアスから聞いたよ。君の薬学の知識は——独学にしては体系的すぎる、とね。実際に見せてもらいたくて」
「独学、と申しますか……夢で見た知識ですので、体系的かどうか」
「その謙遜は不要だよ、エレーナ嬢」
ライナスの目が輝いた。言葉が少し早くなる。
「僕は王宮に薬学院を作りたいと思っているんだ。魔法では治せない毒や病に対抗する、体系的な薬学教育の場を。治癒魔法は万能じゃない、慢性毒にも呪い由来の疾患にも限界がある、だからこそ薬学が——」
一度言葉を切り、照れたように咳払いした。
「……すまない、つい早口になった。要するに——君のような人材が、この国には必要だ」
エレーナは目を見開いた。
薬学院。魔法に頼らない治療の道。魔法適性が低くても、知識と技術で人を救える場所。
「……わたくしの力で、お役に立てることがあるのですか」
「役に立つどころか、君がいなければ始まらない」
ライナスは真剣な目でエレーナを見た。
「君の才能を埋もれさせるのは、この国の損失だよ」
能力を認められた。正当に、まっすぐに。
三年間、「病弱で無力な令嬢」として生きてきた。魔法が使えないことを蔑まれ、婚約者に忘れられ、義母に殺されかけた。
——それなのに、この人は。わたくしの知識を、夢を、まっすぐに「必要だ」と言ってくれる。
胸の奥で、何かが温かくほどけた。
「また話を聞かせてくれないか」
ライナスが少し照れたように目を逸らした。
「その……薬学の話を、だよ。僕も知りたいことが山ほどあるんだ」
エレーナは微笑んだ。今度の微笑みには、仮面はなかった。
「ええ、喜んで」
窓から差し込む午後の光が、薬草の瓶を琥珀色に染めている。
エレーナは思った。
——わたくしの人生は、ようやく、わたくしのものになったのですわ。
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