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第一章
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館の奥にある小さな薔薇園は、亡き父親からエスメが与えられたものだ。
庭の世話は庭師の仕事だが、それとは別に庭いじりの好きなエスメのために造ってもらったものである。
八角形の小さな四阿があり、そこで過ごすことは姉妹の日常でもあった。こんな風に、朝食前に二人だけでお茶を楽しむこともある。
「エスメお姉様の淹れてくれるハーブティーが、いちばん美味しいわ」
「もう褒めても何も出ませんよ」
「出るわ、お姉様の笑顔が。……ねえ、お姉様。ご相談したいことがあるの」
フレアはうつむく。
(ああ。きっと)
エスメは何を言われるのか察した。
「終戦の報せがありましたか? 王城から」
ゲームの最中、フレアの回想で、そういうシーンがあったのだ。足下にいた灰色さんが、ぴくり、と《終戦》の言葉に反応するように身を起こした。
「そうよ。ようやく戦が終わるの」
「……そのわりに浮かない顔をしていますね。フレア」
「戦が終わることは、もちろん嬉しいわ。亡くなったお父様、領地のために戦ってくださったオルコット領の者たち。前線で力をふるってくださった王子殿下たちや軍の方々も。ようやく戦わなくて済むのだもの。……でも、戦が終わったら、オルコット領の跡継ぎのことを考えなくてはならないでしょう? 皆、お姉様に婿を取らせるつもりなのよ」
「本家の人間は、私とフレアしか残っていません。だから、仕方のないことでしょう」
エスメを辺境伯にするには、エスメだけは心許ない。
だから、親族から婿を迎えいれて、エスメと共にオルコット領を治める。
そういった話は、父が亡くなった後から、あがっていた。
特に、父亡き後、エスメとフレアを後見してくれている大叔父からは、何度も後継者の話をされている。
戦争が終われば、いよいよ具体的な話になってくるだろう。
「オルコットの領地なら、フレアは心配しないでください。私は頼りないかもしれないけど、大叔父様をはじめとした親戚の方々もいらっしゃいます。……それに、戦争では何もできず、ただ守られるしかなかったのです。こんな私にもできることがあるなら、喜んで、と思っています」
(前世でも結婚はしていませんでした。だから、立てる操もありません)
エスメは、ブラック企業に務めていた前世の記憶を、一から十まで、すべて憶えているわけではない。
虫に食われた葉っぱみたいなもので、ところどころに穴が空いている。
この乙女ゲームのことは、ばっちり憶えているのに、自分の名前は分からない、といった具合だ。
それでも、あの暮らしを思えば、結婚などしていなかったことは明らかである。あんな激務で、職場と家の往復しかしていなかったのだから。
「エスメお姉様がお嫌なら、私が婿を迎えるのでも……」
「ダメよ。フレアには、もっと良い道があります」
「良い道?」
「もう少ししたら、あなたの力を必要としている方々がたくさん現れます。私の妹は、この国で一番、女神様に愛されているのですよ」
「知らない誰かよりも、お姉様に必要とされたいわ。お姉様と一緒にいたい」
「いいえ。私などよりも、ずっと素敵な殿方があなたと一緒に」
「素敵な殿方? お姉様の分からず屋。そんなに私から離れたいのですか? 一緒にいたくないのですか? 私がいなくなったら寂しいくせに!」
フレアはハーブティーを飲み干すと、そのまま庭を去ってしまった。
追いかけようと思ったが、どうにも足に力が入らなかった。
「離れてゆくのは、私ではなくフレアなんですよ。フレアには、これから王都で素敵な未来が待っているんです。だから、一緒にいられない。……ねえ、私の可愛い灰色さん、あなたはどうでしょうか? ずっと、私と一緒にいてくれますか?」
美しく優秀な妹にコンプレックスを持っているくせに、妹と一緒にいたい、寂しい、と思う自分が、ときどきエスメは嫌になる。
(誰も私なんかとは一緒にいてくれない。そう、分かっているくせに)
灰色さんは、エスメを慰めるように、エスメの足に鼻先を押しつけてきた。
エスメは手を伸ばして、彼の頭を撫でてやる。
これからも続く人生。ゲームには存在しなかったエスメという異物の未来に、この可愛い犬が一緒にいてくれたら、どれだけエスメの心は慰められるだろうか。
だが、その数日後、灰色さんは姿を消した。
「やっぱり。一緒にはいてくれないのですね」
胸の痛みを感じながら、エスメは目を伏せた。
庭の世話は庭師の仕事だが、それとは別に庭いじりの好きなエスメのために造ってもらったものである。
八角形の小さな四阿があり、そこで過ごすことは姉妹の日常でもあった。こんな風に、朝食前に二人だけでお茶を楽しむこともある。
「エスメお姉様の淹れてくれるハーブティーが、いちばん美味しいわ」
「もう褒めても何も出ませんよ」
「出るわ、お姉様の笑顔が。……ねえ、お姉様。ご相談したいことがあるの」
フレアはうつむく。
(ああ。きっと)
エスメは何を言われるのか察した。
「終戦の報せがありましたか? 王城から」
ゲームの最中、フレアの回想で、そういうシーンがあったのだ。足下にいた灰色さんが、ぴくり、と《終戦》の言葉に反応するように身を起こした。
「そうよ。ようやく戦が終わるの」
「……そのわりに浮かない顔をしていますね。フレア」
「戦が終わることは、もちろん嬉しいわ。亡くなったお父様、領地のために戦ってくださったオルコット領の者たち。前線で力をふるってくださった王子殿下たちや軍の方々も。ようやく戦わなくて済むのだもの。……でも、戦が終わったら、オルコット領の跡継ぎのことを考えなくてはならないでしょう? 皆、お姉様に婿を取らせるつもりなのよ」
「本家の人間は、私とフレアしか残っていません。だから、仕方のないことでしょう」
エスメを辺境伯にするには、エスメだけは心許ない。
だから、親族から婿を迎えいれて、エスメと共にオルコット領を治める。
そういった話は、父が亡くなった後から、あがっていた。
特に、父亡き後、エスメとフレアを後見してくれている大叔父からは、何度も後継者の話をされている。
戦争が終われば、いよいよ具体的な話になってくるだろう。
「オルコットの領地なら、フレアは心配しないでください。私は頼りないかもしれないけど、大叔父様をはじめとした親戚の方々もいらっしゃいます。……それに、戦争では何もできず、ただ守られるしかなかったのです。こんな私にもできることがあるなら、喜んで、と思っています」
(前世でも結婚はしていませんでした。だから、立てる操もありません)
エスメは、ブラック企業に務めていた前世の記憶を、一から十まで、すべて憶えているわけではない。
虫に食われた葉っぱみたいなもので、ところどころに穴が空いている。
この乙女ゲームのことは、ばっちり憶えているのに、自分の名前は分からない、といった具合だ。
それでも、あの暮らしを思えば、結婚などしていなかったことは明らかである。あんな激務で、職場と家の往復しかしていなかったのだから。
「エスメお姉様がお嫌なら、私が婿を迎えるのでも……」
「ダメよ。フレアには、もっと良い道があります」
「良い道?」
「もう少ししたら、あなたの力を必要としている方々がたくさん現れます。私の妹は、この国で一番、女神様に愛されているのですよ」
「知らない誰かよりも、お姉様に必要とされたいわ。お姉様と一緒にいたい」
「いいえ。私などよりも、ずっと素敵な殿方があなたと一緒に」
「素敵な殿方? お姉様の分からず屋。そんなに私から離れたいのですか? 一緒にいたくないのですか? 私がいなくなったら寂しいくせに!」
フレアはハーブティーを飲み干すと、そのまま庭を去ってしまった。
追いかけようと思ったが、どうにも足に力が入らなかった。
「離れてゆくのは、私ではなくフレアなんですよ。フレアには、これから王都で素敵な未来が待っているんです。だから、一緒にいられない。……ねえ、私の可愛い灰色さん、あなたはどうでしょうか? ずっと、私と一緒にいてくれますか?」
美しく優秀な妹にコンプレックスを持っているくせに、妹と一緒にいたい、寂しい、と思う自分が、ときどきエスメは嫌になる。
(誰も私なんかとは一緒にいてくれない。そう、分かっているくせに)
灰色さんは、エスメを慰めるように、エスメの足に鼻先を押しつけてきた。
エスメは手を伸ばして、彼の頭を撫でてやる。
これからも続く人生。ゲームには存在しなかったエスメという異物の未来に、この可愛い犬が一緒にいてくれたら、どれだけエスメの心は慰められるだろうか。
だが、その数日後、灰色さんは姿を消した。
「やっぱり。一緒にはいてくれないのですね」
胸の痛みを感じながら、エスメは目を伏せた。
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