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第三章
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エスメは私室の鏡台の前で、はぁ、と息を零した。
(外で、あんな乱れるなんて。信じられません)
ふとしたとき、数日前、薔薇園での出来事を思い出してしまう。
あやうくフレアに見つかるところだった。
それなのに、あのときのエスメは、そんな危機感すらも悦んでいたような気がする。
「溜息などつかれて、どうされましたか?」
エスメの髪を櫛で梳いていた侍女のマリーが、心配そうに聞いてくる。
午後から外出の用事があるため、今日はマリーが仕度を手伝ってくれていた。
いつもは出かけるための支度もほとんど一人で済ませてしまうのだが、今日の外出は、世話になっている大叔父のところを訪ねるものだ。
大叔父は気にしないかもしれないが、身なりで失礼があってはならない。
「マリー。ごめんなさい、何でもないの」
「何でもない、ということはないかと。婿様にいじめられましたか?」
「いいえ! グレイ様は、とてもお優しいから」
「優しいんですか? ……毎晩、盛っているようなお人が。高貴な方って、夜は淡泊なものかと思っていました」
侍女のマリーの言葉に、エスメは、びくん、と肩を揺らした。
「ま、マリー?」
「あんなに初心で控えめだったエスメ様を、こんなに変えてしまうなんて。見てください、鏡を。以前とぜんぜん違いますよ」
そう言われても、鏡に映っているエスメは以前と変わらない。
垂れ目で頬にそばかすの散った、自信のなさそうな地味な女だ。
だが、マリーが以前と違うというのなら、何か違うところがあるのだろう。良い意味ではなく、悪い意味で。
「そ、それは。以前と違って、はしたない、という意味でしょうか? そう見えますか?」
マリーは眉をひそめる。
「はあ? そんなこと言っていませんよ。エスメ様、そういう卑屈なところが良くないかと。フレア様くらい胸を張ってくださいよ、自信満々に」
「……フレアは特別でしょう?」
「フレア様が特別なことは否定しませんけど、エスメ様にはエスメ様の良さがあること、このマリーは良く知っていますよ」
「ありがとう。あなたは本当、小さい頃から良く仕えてくれて。私、あなたを侍女にできて、幸せ者よ。フレアもきっとそう思っているでしょう」
マリーは溜息をついた。
「幸せ者は、こちらの方なんですけどね。わたしみたいな孤児を取り立てて、自分たちの側仕えの侍女に推薦するのなんて、エスメ様くらいですよ」
「そんなことないわ。あなたのことを侍女にしたい、と思う方は、たくさんいるはずよ。マリーは素晴らしい侍女だもの」
「……フレア様のお気持ちが、少し分かりました。エスメ様は褒め上手だから困りますね。……少し窓をお開けしてもよろしいですか?」
マリーは照れ隠しのように、そう言った。
「どうぞ。今日は風が気持ちいいでしょうから」
マリーが窓を開けると、部屋のなかに心地よい風が吹く。
「薔薇姫のうわさ、本当だったのですね」
ふと、聞こえてきたのは、男の声だった。
館の使用人の声ではないから、誰の声だろう、とエスメは思う。
(薔薇姫。フレアのことですね)
オルコットの薔薇姫。
真っ赤な薔薇のような髪を持っているフレアにふさわしい呼び名である。
王都の社交界には顔を出したことがないものの、フレアは、すでに貴族のうわさにのぼるくらい有名なのだ。
あのゲームの開始後、フレアが王都に行ってからも、ことあるごとにオルコットの薔薇姫という呼び名は言及される。
「薔薇姫のうわさが、本当、というのは? どういう意味だ?」
知らない男に応えたのは、グレイの声だった。
(相手は、グレイ様を訪ねてきた王城からの遣いの方でしょうか?)
王城からの遣いとグレイが話しているらしい。
おそらく、隣の部屋からの声だ。もともとは使っていない部屋だったのだが、グレイの婿入りに合わせて、彼の私室として整えている。
声が聞こえるということは、隣室も、きっと窓を開けているのだろう。
「オルコット領には、赤い髪の御令嬢がいる。特別な、女神の加護を持っている娘」
「ああ。そこにいるだけで、他の女神の加護持ちの力を強める、という、あれのことか。たしかに珍しいな。建国以来、そのような加護持ちはいなかった」
「そうです。それに、あれほど美しい御令嬢は、王都でも見たことがありません。まさしく、薔薇姫ですね。辺境伯は、御令嬢がたを王都の社交界には連れていらっしゃらなかったので、はじめてお目にかかりましたが」
「娘たちに悪い虫がつくことを恐れたのだろう。辺境伯からしたら、そちらの方が困ったことになったはずだからな」
「そうこうしているうちに、十九でしょう。嫁ぎ遅れと言われるような年齢ですよ。薔薇姫の美貌なら、相手には困らないでしょうが」
「フレア嬢の性格を知ると、薔薇姫というのは似合わない。そうだな、さながら灼熱の炎のようだから、灼熱姫、というのは、どうだろうか?」
「御令嬢につける名前ではありませんね。――実際のところは、どうなのですか? 王太子殿下」
「もう殿下ではない」
「殿下ですよ、我々にとっては。婿入りと言いますから、その薔薇姫がお相手かと思ったのに、お相手は何の力もない薔薇姫の姉君ということではありませんか。本当の狙いは、薔薇姫の方だったのではありませんか?」
「マリー。窓を閉めてください」
そこから先を聞きたくなくて、エスメはそう言ってしまった。
マリーは慌てた様子で窓を閉める。
「え、エスメ様! 何も気にされる必要はありませんからね。グレイ様は、エスメ様しか眼中にないわけで……」
「フレアを前にしたら、皆、フレアを好きになるもの。……卑屈になっているのではないのです。事実として、私も、そう思います。マリー。少し一人にしてください。仕度を手伝ってくださり、ありがとうございます」
「でも」
「今日は、たしかフレアも外出の予定があったはずよ。街に出る、と言っていったの。あの子、きっとドレスに迷っているだろうから、手伝ってあげて」
「……分かりました。失礼します」
一人きりになって、エスメはうつむく。
(そうですよね。誰だって、私よりもフレアが良いに決まっています)
オルコットの薔薇姫。
小さなときから、美しい令嬢として有名だったフレア。
それに加えて、女神の加護を与えられなかったエスメとは違って、特別、女神から愛されてもいる。
今までだって、いつも誰かに選ばれるのはフレアだった。
グレイだって、その誰かと同じなのではないか。
そもそも、グレイは乙女ゲームの攻略対象――フレアのためのヒーローの一人だったのだから。
(でも。……でも、あんなに好きだって、愛しているって、言ってくれる人を疑うなんて)
疑いたくないのに、いつまでも疑ってしまう。
エスメは、そんな自分の心の卑しさが嫌いだった。
しばらく、エスメは動けなかった。
ぼうっとしているうちに、気づいたら、ずいぶん時間が経っていたようだ。
(あまり、ぼうっとしていたらダメ。大叔父様のところに伺わないと。この冬の雪害対策について、ご相談する予定があるのですから)
大叔父は、父を喪ったエスメとフレアの後見してくれた人だ。
自分はもう高齢だから、と表には出てこないのだが、領主であった父が存命の頃から、いろいろと良くしてくれた親類だった。
エスメの婿についても親族から候補を見繕ってくれていたのだが、グレイの婿入りで、そのあたりは白紙になった。
(大叔父様には、婿のことについても、あらためて謝罪もしないと)
そろそろ出なければ、と思ったとき、ふと、エスメは窓の外を見た。
門のところに、オルコット家の馬車が停まっている。
(ああ。これから、フレアが街に出るから……)
そう思ったエスメは、目を見開く。
停まっていた馬車が動きはじめる。
一瞬、その窓から見えたのは。
(グレイ様と。フレア?)
グレイの横顔と、わずかに見えた真っ赤な髪。
その鮮烈な赤髪を、見間違えるはずがなかった。
生まれたときから一緒にいた妹のことなのだから。
(どうして、ふたりが一緒に?)
頭のなかに浮かんだのは、ゲームで知っているグレイとフレアの話だ。
城下街でばったり出逢ったことをきっかけに、二人は何度も街での逢瀬を重ねる。ここは王都ではないが、これから二人で街を歩くならば、ゲーム内のシーンと似ている。
前世の記憶があるから、エスメの頭は、そうやって重ねてしまう。
きゅう、と、エスメの胸は締めつけられた。
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