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第四章
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ト領には、腕の良い職人がいる、と」
途端、エスメのまなじりから、一粒の涙が零れた。
「え、エスメ? どうした? 何か悲しいことがあったのか?」
「先日、フレアと出かけられたのは、この髪飾りを買うために、だったのですか?」
「俺ひとりでも良かったのだが、フレア嬢が、いちばん、あなたに似合うものを知っているだろう?」
「……フレアとは、生まれたときから、一緒でしたから」
「あと、誤解をさせていたなら申し訳ないが。あのとき、フレア嬢だけでなく、あなたたちの侍女にも同席してもらっている」
「マリー?」
「そうだ。職人のもとを訪ねるついでに、領地を案内しながら、二人ともあなたのことを良く教えてくれたよ。二人とも、あなたのことになると、びっくりするくらい饒舌だ。普段は、俺にはあたりが強くて、まともに会話してくれないというのに」
「フレアとマリーが、グレイ様に失礼を?」
「ああ、いや、失礼というわけではない。ただ、二人とも、あなたのことが好きで、あなたを俺に渡したくなかったんだろうな」
「フレアは分かりますけど。マリーも、ですか? いえ、マリーは良く仕えてくれますが」
エスメのことを、好き、というのは違う気がした。
もちろん良くしてくれている。だが、マリーは、エスメより、フレアとの方がずっと仲が良いのだ。
「あなたの侍女は、あなたには返しきれない恩がある。だから、俺があなたを幸せにしないと許さない、とまで言っていたよ」
「ぐ、グレイ様。マリーは良い侍女なのです、どうか」
まさかマリーが、そのような口を利いているとは思わず、エスメは言う。
グレイは笑ったまま続ける。
「あなたの侍女に、不敬だなんだとは言わない。あの娘は、孤児院も案内してくれた。自分は、この孤児院の出身で、エスメ様が拾ってくれたのだ、と。エスメ様がいなければ、こんな風に幸せな生活は送れなかった、と」
たしかに、マリーはオルコット領の孤児院の出身だ。
「いいえ。マリーを私たちの侍女にしてくださったのは、お父様です」
「だが、きっかけは、あなただった。熱心に孤児院の支援を願っていたのは、先代ではなくあなただったのだろう?」
それは、エスメの自己満足だった。
前世の記憶を思い出したとき、エスメは、当時の自分がどれだけ恵まれていたのか分かった。
ブラック企業に勤めていたこと、身も心も限界であったことは確かだった。そのことを、肯定的に受け入れるつもりはない。
あれは恐ろしいことだった。
だが、この世界には、この世界の恐ろしいことがあった。
様々な理由から、親を失い、今日食べるものにも困っている子どもたちがいた。力なく息絶えていく小さな命があることを知った。
そんななか、辺境伯の娘として生まれたという幸運で、エスメはつらい思いをしなかった。
エスメのような幸運に恵まれなかった子たちが、たくさんいるというのに。
この世界はゲームだ。
つくりものの世界なのだ。
そう思っていたのに、見て見ぬ振りができないことがあった。
「偽善です。ただ、私が嫌だっただけ。子どもたちが傷つくのを見たくなかったんです」
「偽善かどうか判断するのは、あなたではなく、その偽善の恩恵を受けた者たちだろう。マリーも、孤児院の院長も、あなたに感謝していたよ。あなたは、月に一度、必ず顔を出しているそうだな。子どもたちも、あなたに会いたい、と笑っていた。院長は、恐れ多いかもしれないが、と言いながらも、こう言った。皆、あなたのことを姉や母のように思っている、と」
「そんな。そんな立派なものではありません」
「立派なことだ。どうして、あなたは、そうやって卑下するのだろうな。あなたは素敵な人なのに、あなたは自分の素敵なところを認めてくれない」
「だって。女神様の加護が、私にはありませんでした」
フレアには、素晴らしい女神の加護が与えられている。
そのことを、エスメは乙女ゲームを通して知っていた。
しかし、エスメには、そんな加護は与えられなかった。
フレアだけが特別だった。
ここはフレアのための世界で、本来、エスメは要らないものだ。
「女神の加護がない、か。そのことが、どうして、あなたを貶めることになる? あなたは女神の加護がなくとも、傷ついた生き物を放っておけない。手を伸ばしてしまう人だ。――あんな森にいた、傷だらけの犬に慈悲をかけるように」
エスメは弾かれたように顔をあげる。
「……グレイ様が、灰色さん、というのは」
「隣国との和平交渉を交わす、直前のことだった。俺と弟は、隣国の魔女から呪いをかけられた。獣に変化させられるという、恐ろしい呪いだった。そのうえ、ひどい傷を負わされて、自軍からも、同じく呪いをかけられた弟からも引き離されてしまって、な。気づいたときには、この館の裏にある森にいた」
そうして、エスメと出逢ったのだという。
(あのとき、灰色さんが怪我を負っていたのは、そういうことだったのですね)
あのままでは、死んでしまう。
そう思って、灰色の犬を抱きあげた夜のことを思い出した。
途端、エスメのまなじりから、一粒の涙が零れた。
「え、エスメ? どうした? 何か悲しいことがあったのか?」
「先日、フレアと出かけられたのは、この髪飾りを買うために、だったのですか?」
「俺ひとりでも良かったのだが、フレア嬢が、いちばん、あなたに似合うものを知っているだろう?」
「……フレアとは、生まれたときから、一緒でしたから」
「あと、誤解をさせていたなら申し訳ないが。あのとき、フレア嬢だけでなく、あなたたちの侍女にも同席してもらっている」
「マリー?」
「そうだ。職人のもとを訪ねるついでに、領地を案内しながら、二人ともあなたのことを良く教えてくれたよ。二人とも、あなたのことになると、びっくりするくらい饒舌だ。普段は、俺にはあたりが強くて、まともに会話してくれないというのに」
「フレアとマリーが、グレイ様に失礼を?」
「ああ、いや、失礼というわけではない。ただ、二人とも、あなたのことが好きで、あなたを俺に渡したくなかったんだろうな」
「フレアは分かりますけど。マリーも、ですか? いえ、マリーは良く仕えてくれますが」
エスメのことを、好き、というのは違う気がした。
もちろん良くしてくれている。だが、マリーは、エスメより、フレアとの方がずっと仲が良いのだ。
「あなたの侍女は、あなたには返しきれない恩がある。だから、俺があなたを幸せにしないと許さない、とまで言っていたよ」
「ぐ、グレイ様。マリーは良い侍女なのです、どうか」
まさかマリーが、そのような口を利いているとは思わず、エスメは言う。
グレイは笑ったまま続ける。
「あなたの侍女に、不敬だなんだとは言わない。あの娘は、孤児院も案内してくれた。自分は、この孤児院の出身で、エスメ様が拾ってくれたのだ、と。エスメ様がいなければ、こんな風に幸せな生活は送れなかった、と」
たしかに、マリーはオルコット領の孤児院の出身だ。
「いいえ。マリーを私たちの侍女にしてくださったのは、お父様です」
「だが、きっかけは、あなただった。熱心に孤児院の支援を願っていたのは、先代ではなくあなただったのだろう?」
それは、エスメの自己満足だった。
前世の記憶を思い出したとき、エスメは、当時の自分がどれだけ恵まれていたのか分かった。
ブラック企業に勤めていたこと、身も心も限界であったことは確かだった。そのことを、肯定的に受け入れるつもりはない。
あれは恐ろしいことだった。
だが、この世界には、この世界の恐ろしいことがあった。
様々な理由から、親を失い、今日食べるものにも困っている子どもたちがいた。力なく息絶えていく小さな命があることを知った。
そんななか、辺境伯の娘として生まれたという幸運で、エスメはつらい思いをしなかった。
エスメのような幸運に恵まれなかった子たちが、たくさんいるというのに。
この世界はゲームだ。
つくりものの世界なのだ。
そう思っていたのに、見て見ぬ振りができないことがあった。
「偽善です。ただ、私が嫌だっただけ。子どもたちが傷つくのを見たくなかったんです」
「偽善かどうか判断するのは、あなたではなく、その偽善の恩恵を受けた者たちだろう。マリーも、孤児院の院長も、あなたに感謝していたよ。あなたは、月に一度、必ず顔を出しているそうだな。子どもたちも、あなたに会いたい、と笑っていた。院長は、恐れ多いかもしれないが、と言いながらも、こう言った。皆、あなたのことを姉や母のように思っている、と」
「そんな。そんな立派なものではありません」
「立派なことだ。どうして、あなたは、そうやって卑下するのだろうな。あなたは素敵な人なのに、あなたは自分の素敵なところを認めてくれない」
「だって。女神様の加護が、私にはありませんでした」
フレアには、素晴らしい女神の加護が与えられている。
そのことを、エスメは乙女ゲームを通して知っていた。
しかし、エスメには、そんな加護は与えられなかった。
フレアだけが特別だった。
ここはフレアのための世界で、本来、エスメは要らないものだ。
「女神の加護がない、か。そのことが、どうして、あなたを貶めることになる? あなたは女神の加護がなくとも、傷ついた生き物を放っておけない。手を伸ばしてしまう人だ。――あんな森にいた、傷だらけの犬に慈悲をかけるように」
エスメは弾かれたように顔をあげる。
「……グレイ様が、灰色さん、というのは」
「隣国との和平交渉を交わす、直前のことだった。俺と弟は、隣国の魔女から呪いをかけられた。獣に変化させられるという、恐ろしい呪いだった。そのうえ、ひどい傷を負わされて、自軍からも、同じく呪いをかけられた弟からも引き離されてしまって、な。気づいたときには、この館の裏にある森にいた」
そうして、エスメと出逢ったのだという。
(あのとき、灰色さんが怪我を負っていたのは、そういうことだったのですね)
あのままでは、死んでしまう。
そう思って、灰色の犬を抱きあげた夜のことを思い出した。
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