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一章

迷惑な抜擢

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「どういう事だ、木戸」

営業三課の事務所に奥野の声が響いたのは、あれから十日ほど経った頃だった。張りがある奥野の声は、大きな声でなくても事務所内によく響いた。花耶が声をした方に視線を向けると、奥野の席の前に木戸が立っていて、何かを弁解しているように見えた。奥野は手にした資料を見ながら木戸にあれこれ質問しているが、答えが返ってくるごとに眉間のシワが深くなっていった。

 木戸は営業三課の営業の一人だ。大卒で入社した木戸は高卒の花耶とは同期になるが、木戸は配属先が支社だったため面識はなかった。木戸は奥野の支社時代に一緒に仕事をしてその仕事ぶりに感銘を受けたらしく、奥野が本社に戻った後、異動願を出して営業三課にやってきた。奥野を尊敬し過ぎて、髪型まで一緒にしているとも言われている。顔立ちも悪くなく明朗快活で、支社から本社に異動した事からも、社内では有望株と目されていた。
 ただし花耶にとっては、篠田と共に何かと花耶を下に見る言動があるため、あまりいい印象を持っていなかった。奥野などの上司や先輩がいる場では問題ないが、後輩などに対しての態度は決していいとは言い難い。裏表があるが巧妙に隠す狡さも見えるため、花耶は要注意人物とみていた。

 事務所内にいる者の殆どが、知らぬ顔をしながらも奥野と木戸の会話を気にしていた。何かトラブルが起きていれば影響を受ける場合もあるからだ。花耶は営業三課の業務には直接関わっていないし、木戸はプロジェクトのメンバーでもないため、気にはしながらも自分に直接関係ないと思っていた。
 
「木戸の補佐は…篠田か?」
「は、はい、そうです」
「この資料を作ったのは?」
「篠田、さんです」
「そうか」

 木戸の答えに奥野はしばらく考え込んでいたが、直ぐに篠田と三課の係長で木戸の実質的な上司の岡部、営業事務のベテランの堀江を呼ぶと、ちょっといいかと言って会議室に向かった。後に残された者たちは何があったのかと話していたが、現時点では詳しい事はわからなかったため、暫くするとそれぞれの業務に戻っていった。



 この一件は自分には関係ないと思っていた花耶だったが、翌朝、それはひっくり返された。

「三原さん、今日から私の代わりに奥野さんの補佐に入って」

 出勤するや否や、三課の営業事務の長山にそう声をかけられて花耶は面食らった。冗談なのかと思い長山の顔を見返すと、今日はその引継ぎをするからと言われて、冗談ではない事は理解した。

「ええっ?」
「どうして三原さんが?」
「経理の三原さんじゃ無理ですよ!」

 花耶が冗談ではないと悟ったのと同じタイミングで、周りにいた篠田と営業事務の土井、プロジェクトのメンバーとして参加している総務の藤岡の三人が抗議の声を上げた。
 土井は三課の営業事務で、篠田の一年後輩にあたる。篠田とは仲が良く、何かにつけて一緒に行動していて、彼女同様に合コンや婚活パーティーに勤しんでいると聞く。総務の藤岡は土井の同期で仲が良く、メンバーに選ばれてからは篠田と土井の三人で行動していた。
 三人に共通しているのは、腰かけ社員である事と、花耶の事を下に見ている点だった。彼女たちから見た自分は負け組らしく、プロジェクトのメンバーに花耶が選ばれた事も何かの間違いではないかと本人の前で言い放ったくらいだ。
 そんな彼女たちは、花耶が社内でも人気の奥野の補佐に選ばれたなど、あり得ない事に見えたのだろう。篠田などは自分が原因だと言う事も忘れて長山に詰め寄っている。強心臓だな、と花耶はどうでもいい事ではあったが感心してしまった。珍しくあの三人とは、なぜ自分が?と言う点では認識が一致している。どうせならこの三人の誰かと代われないだろうかと花耶は思った。

「三人の言う通りです。私では無理です。どなたか他の方でお願いします」

 ここで黙って決められても明るい未来はない。そう感じた花耶も、長山に辞退したい旨を告げた。やりたくない意思を示せば、状況がましになるかもしれない、という打算もあった。ここは普通は喜ぶところなのだろうが、花耶としては全く嬉しくなかった。あの威圧感を側で感じながら働くなどあり得ない。確実に胃に穴が開くだろう。

「課長が決めたのよ?文句があるなら課長に言ってきて」

 辞退したいと願っていた花耶だったが、長山の一言でその願いは呆気なく消えた。さすがに奥野が決めた事に異議を言うだけの勇気はなかったらしく、三人はそれ以上は何も言えなくなって引き下がった。花耶もあの課長に物言う勇気はなかったが。
 三人はその後もぶつぶつと文句を言い、花耶を睨み付けてきた。どうせならそのエネルギーをまま課長にぶつけて交代までもっていってくれたらよかったのに…と思う。花耶は自分ではどうしようもない事で、余計な嫉妬を買う羽目になった事を悟った。

 引継ぎするわよ、と朝礼の後に声をかけられた花耶は、長山の席の横で引継ぎの説明を受けた。
 長山は課内で一番営業の在籍が長い堀江に次ぐ二番手で、二児の母親でもあるせいか短時間で効率的に仕事をこなす達人でもある。引継ぎをしながら、長山はこうなった理由を教えてくれた。
 
 先日、奥野がとある取引先の専務と会食を共にした際、先方から、最近書類のミスが増えたけど忙しいのか?羨ましいねぇと言われたらしい。先方はそれほど深刻には捉えておらず、酒に酔っていた上、揶揄うくらいのノリだった。
 だが、それを見逃す奥野ではなかった。謝罪しながら詳しく話を聞き出したところ、最近は五回に一回は書類に何らかの間違いがあり、その度に確認の問い合わせをしていると言う。さすがにそれは見過ごせないという事になり、直ぐにその取引先の担当である木戸に話を聞いたところ、事実である事が判明した。それが昨日だった。

 原因となった篠田は入社四年目だが、仕事の評価はあまりよくなかった。さすがにこのままではまずいという話になり、一時的に木戸の担当を外し、暫くは課内で一番のベテランの堀江が篠田を直接指導することになった。木戸の補佐は篠田の代わりに長山がすることになったが、これまで篠田が作っていた書類に不備がないか、再点検を兼ねての事だと言う。長山が選ばれたのは几帳面な性格からで、これは同じベテランでも大雑把な堀江では難しいと周りの認識が一致したからだった。

 長山はこれまで奥野の補佐をしていたが、その代わりについて堀江と長山と奥野で話し合った結果、花耶になったらしい。花耶はこれまで、プロジェクトに関する資料作りをメインにこなしていたが、誰かの補佐につくという経験はなく、何をすればいいのか見当もつかなかった。しかも相手は奥野で、仕事には厳しい人物だ。先の事を想像し、珍しく表情に不安や拒絶を浮かべた花耶に、長山は三原さんなら大丈夫よ、と太鼓判を押してくれたが、それで心が晴れる筈もなかった。

 一日で引継ぎをするようにと言われたため、その日の午前中、花耶は長山が行っていた業務内容の説明を受けていた。仕事の殆どは資料作成で、幸いにも取引先との直接のやり取りはないと言う。それはプロジェクトのサブリーダーの林係長や長谷が行うと聞き、花耶はそこだけでも安堵した。急に取引先との折衝をしろと言われるのではないかと内心ドキドキしていたのだ。プロジェクト外の補佐もあるらしいが、それは言われたとおりにやれば大丈夫だからと言われた。
 奥野の補佐になった事に伴い、花耶の席も長山が使っていた奥野の隣の席に移動になった。これまで部屋の端の方にいたのに、思いっきり目立つ場所に移動させられた花耶は、それだけでも気が重くなった。先ほどの篠田達の態度からも、この先面倒な事が増えるのは簡単に想像できた。


 その日のランチで、花耶は社内で一番仲がいい経理課の高坂麻友に、午前中に起きた事を報告していた。
 麻友は大卒なので社歴は花耶の方が長いが、同じ課で年も同じな上、入社時に花耶が何度か麻友を助けた事があったため、二人は自然と打ち解けた。麻友はふんわりとした茶色の髪とくりっとした目が可愛らしく、髪を染めず常にひっつめにし、眼鏡をかけている花耶とは正反対の雰囲気だった。だが、麻友は複雑な家庭環境なところが花耶と通じ合ったため、今では姉妹のように仲が良かった。

「へぇ、あの奥野さんの補佐ねぇ…花耶にとっては…災難だね…」

 基本的に無表情の花耶だが、今の花耶は珍しくもうんざりした表情を隠しもせずに自らが作ったお弁当を食べていた。午前中の引継ぎでやるべき業務の内容は思ったほど難易度が高くないとは感じたが、あの奥野と仕事で頻繁にやり取りをしなければいけない方が問題だった。長山は大丈夫と言っていたが、それはベテランで奥野よりも社歴が長い長山だから言えることだと思う。

「も~今すぐ経理課に帰りたい。経理で数字に囲まれていたい…」
「あらら、結構重症ね。でも、奥野さんでしょ?イケメンだし仕事は出来るし、補佐したい人は社内にたくさんいるんだから役得じゃない」
「嫌だ。あの人の下で働くとか、胃に穴が開く未来しか見えない…」
「胃に穴って…」
「だってあの威圧感だよ?背も高くて目つきも悪いし、それだけでも怖いのに、仕事も厳しいなんて信じられない。なんであの人が人気あるのか全く理解できない」
「花耶、それ、奥野さん狙ってる人に聞かれたらマズイって」
「別にいいよ。本心から一ミリもやりたいなんて思っていないから」

 テーブルに突っ伏した花耶に、ほら、これあげるから元気出して!と言って麻友が出してきたのは、花耶が好きなケーキ屋の焼き菓子だった。麻友の心遣いに、え!うそ、凄く嬉しい!と麻友の好意に笑顔をみせたものの、花耶の気は晴れなかった。

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