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一章

選ばれた理由

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 麻友に焼き菓子を貰って気を取り直した花耶だったが、その日からストレスフルな生活を送る羽目になった。
 奥野の補佐に関しては噂通り厳しかったが、納期と指示がはっきりしておるため、その点はやりやすかった。わからない点も聞けばすぐに明確な答えが返ってくるので、曖昧な事を言われるよりもずっとやりやすい。
 
 ただ、周りの、特に女子社員の視線がきつくなったな、と肌に感じるようになった。ちょっとした事でも、篠田をはじめ他の独身女性からの言葉に棘を感じるようになった。これまではそういう事がなかった人の態度も変わったので、多分奥野が絡んでいるのだろうと思う。面倒くさい、仕事だし、花耶の方でも奥野に興味はないのに…と思うのだが、そんな意思表示をするわけにもいかなかった。それはそれで、別の意味で反感を買う可能性があるからだ。
 目立って何かをされたわけではないが、これまでの目立たない静かな生活は完全に失われていた。

 幸いだったのは、奥野との関係は予想していたほど悪くないところだった。最初は他の営業のようにダメ出しの連発を食らうかと思ったが、今のところ注意は受けても叱咤された事はない。指示された事と納期を守れば何も言われないし、多忙で席を空ける事も多い奥野には何かあったらメールでと言われていて、直接話をしなくて済むもの有難かった。
 また、奥野は甘いものが苦手らしく、取引先で貰ったお菓子を頻繁にくれたのも花耶のささくれた気持ちを癒してくれた。自分では買わないちょっといい値段のお茶菓子が多く、花耶にとってはささやかな楽しみになっていた。



 花耶が奥野の補佐になってから二度目の金曜日の夜、花耶は会社近くのイタリアンの店に麻友と共に来ていた。今は職場が違う上、花耶が奥野の補佐についたことで昼休みの時間も合わない日もあり、ゆっくり話をする事が出来なかったからだ。
 店はカジュアルイタリアンと言う感じで、席と席がパーテーションや観葉植物で仕切られていて、お互いの席が見えない様になっていた。少し暗めの照明も落ち着く感じで、価格も良心的だ。家が会社を挟んで正反対の花耶と麻友はよくこの店を利用していた。ピザやパスタ、サラダを注文し、麻友はカシスソーダを、花耶はリンゴのサワーを頼んだ。

「お疲れだったね。どう?奥野さんの補佐は」
「今すぐ辞めたい。代わって欲しい。無理」

 そういうと花耶は一気にサワーを飲んだ。奥野の補佐になってからはストレスフルの毎日で、やさぐれる花耶を見かねた麻友が今日飲みに行こうと誘ったのだ。

「何?そんなに奥野さんって厳しいの?」
「いや、課長はそんな事ないんだけど…」
「けど?」
「周りが…」

 花耶が死んだような目でそう言う意味を、麻友は敏感に察した。奥野さんもてるからねぇ…と言う麻友に対し、仕事なんだから勘弁して欲しい…と花耶はこぼした。
 奥野の補佐になってから、花耶は相当なストレスを抱える羽目になった。花耶に降りかかっている災難は、奥野の補佐についた花耶への嫉妬だった。
 奥野は怖いと言われるが、顔立ちは整っているし、背も高く何かスポーツをやっているのか体つきもがっしりしていて逞しい部類に入る。見た目だけでも十分もてるが、それにプラスαで仕事も出来て社内や取引先での評判も文句なしとなれば、もてない方がおかしい。社内には奥野を狙っている女性は多く、マドンナ的存在で社内一の美人の倉橋も奥野を狙っているとの噂もある。奥野にスキがないため誰も落とせていないが、飲み会では肉食女子達に虎視眈々と狙われているのだ。

 そんな奥野の補佐に、ベテランの長山が付いたことに関しては誰も文句は言わなかった。長山は奥野が入社する前から営業事務をしているし、しかも子供もいる既婚者だから、ライバルにはなりえない。

 しかし、花耶は地味で目立たないとはいえ、独身で若い。花耶にその気が皆無であっても、周りはそんな事は意に介さないため、あらぬ嫉妬を受ける羽目になったのだ。事務所に人がいないときや、トイレに行った時などに、チクチクと遠回しに嫌味とも受け取れるような事を言われたりして、それが花耶の神経をすり減らしていた。
 元々花耶は人見知りする上、他人への不信感が強いために人との付き合いを避けている節がある。実際には結構気が強くて毒舌なのだが、本性を知らない周りは花耶を大人しいと誤解していて、ターゲットにされやすいのだ。しかも社内では唯一の高卒という事もあり、下に見る者も多かった。麻友などから言わせると、高卒でも入社できたのはそれだけ能力があるからだと思うのだが、周りはそんな風には受け取らないのだ。

「特に篠田さんと木戸さんがねぇ…」
「あ~あの二人ね」

 麻友は名前が挙がった二人の顔を思い浮かべた。直接面識はないが、色々な噂は聞いていた。篠田は経理課の橋本と仲が良く、その橋本も花耶を下に見ていたから、同類か…と納得だった。

「木戸さんは、プロジェクトに応募していたからねぇ」
「え?そうなの?」
「あれ?知らなかった?」
「え~だって、興味なかったし」
「はっきり言い切るね…」
「営業なんて、一番避けたい部署だし。押し強い人ばかりで疲れるじゃない…」
「まぁ、気持ちはわかるけどね。木戸さんとか特にその傾向強いし」
「あの人かぁ…奥野さん大好きの人でしょ。どうせなら代わって欲しいくらいだよ」
「え、それは無理だよ。だってあの人、最終選考で落とされたって話だし」
「ええ?そうなの?」

 選考で落ちたと聞いて驚いたが、それ以上にあの木戸が奥野のプロジェクトに希望しないわけがなかったな、と花耶は今更ながらに気が付いた。裏では奥野信者と呼ばれている木戸の事だ、真っ先に手を挙げたのは想像に難くない。だが落とされたとは意外だった。それなりに能力があると思っていたからだ。

「木戸さん、やる気はあったんだろうけどね。でも、自分本位なところがあるから、チーム組んでやるプロジェクトは不向きだって判断されたらしいよ」
「そうなんだ」
「ついでに橋本さんもね」
「ええ?橋本さんって、経理の橋本さん?」

 花耶は意外な人物の名前を聞いて驚いた。橋本は花耶と同じ経理課だが、はっきり言って仕事が出来なかった。未だに新人がやる仕事をやっているし、あとから入社した麻友の方がよっぽど仕事が出来ていた。多分経理課では一番出来る業務数が少ないのではないだろうか。本人は日商簿記の二級を持っているのを自慢しているが、経理課では殆どの者が持っている上、花耶と最年長の岸川は一級を持っていた。それなのに、どういう訳か花耶を仕事が出来ないと見ている、不思議な人物でもあった。

「橋本さんの狙いは奥野さんでしょ。まぁ、それがダメでも営業の誰か…って感じかな。営業の男性とお近づきになれるだから、彼女にとっては天国だよね。あの仕事の出来でよく応募しようって気になったな、とは思うけどね」
「確かに…しかもあの奥野さん狙いなんて…凄い心臓持ってるんだね」

 日々威圧感に晒されている花耶は、純粋に感心してしまった。第一、仕事が出来なければあの奥野と親しくなるのは無理なのではないかと感じるが。だが、その前向きさは大したものだな、と思う。

「まぁ、立候補枠なら誰でも応募できたからね。立候補するだけでも会社としてはやる気があるって判断するから、上に行きたい人はとりあえず出しておけって感じ?まぁ、実際はそんな簡単には選ばれないんだけど」
「そうだったんだ…」
「花耶、興味なさすぎ…」
「目立つなんて御免だよ。応募した人、尊敬する…」

 そう言いながら花耶は、目の前のピザを一切れ手にした。この店はバジルソースが絶品で、二人のお気に入りの一つだった。独特の風味が口に広がって、それだけでもここに来た甲斐があったな、と思う。

「はぁ、でも、何で私が選ばれてるのかなぁ…」
「そりゃあ、課長が推薦したからでしょ」
「は?え、何それ?」
「何それって…立候補していないんなら、上司が推薦したからに決まってるじゃん。松永さん、花耶の事気に入ってるし」
「はぁ?」
「って、気付いてなかったの?みんな知ってる事だけど」

 どうして自分が…とは思っていたが、選考基準も何も知らなかった花耶は、まさか勝手に推薦されていたとは想像もしていなかった。いや、自分が何もしていなのだから、誰かが何かしたからこうなったんだろうけど…

 松永は経理課の課長で、花耶の本来の直属の上司に当たる。五十代半ばののんびりした雰囲気の人で、温厚なおじさんと言う表現がぴったりの人だ。課のお父さん的な存在で、課の女子社員を娘のように大事に思っている。
 しかし、あの課長なら納得だな、と花耶は思った。これまでも人生何事も経験だからと言って、無茶ぶりされた事があったからだ。のんびりした雰囲気と穏やかな口調ではあるが、笑顔で無理難題を課す名人だという事を、花耶はこの五年の間に思い知らされていた。
 
 しかし、こうなってくると、木戸や橋本に目の敵にされている理由が腑に落ちた。二人とも八つ当たりしているのだとなると、奥野の補佐に着いたこと以前の問題だったのだ。だが、理由がはっきりしたとしても喜べる話ではなかった。補佐になった事で、より一層反感を買ったという事になる。何て面倒くさい事を…と花耶は松永に恨み節の一つもぶつけたくなった。
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