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一章

予想外の提案

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 その次の週の金曜日の夜、花耶は乗り換えする駅の改札で途方に暮れていた。
 その日花耶は、高校の時の友人二人と久しぶりに会っていた。三人とも就職組で、二~三か月に一度くらいのペースで近況報告を兼ねた食事会をするくらいには親しく、花耶にとっては数少ない友人と呼べる二人だった。この日は花耶が乗り換えをする駅の近くの和風居酒屋で集まり、久しぶりに親交を深めた。花耶にとっては麻友以外では気心の知れたメンバーで、付き合いの長さもあって気楽で楽しい一時を過ごした。のんびりと食事や会話を楽しみ、互いの愚痴や他の同級生の近況などの情報交換をするのは、付き合いの範囲の狭い花耶の数少ない楽しみの一つだった。

 楽しい時間を過ごした花耶は、路線が違う二人と別れて上機嫌で駅に向かったが、その手前にあるスーパーの前で足を止めた。スマホの時刻は午後九時を少し過ぎた頃を差していた。明日仕事の子がいたため思ったよりも早くお開きになったし、次の電車までは少し時間もある。
 どうしようかと少し迷ったが、花耶はスーパーに寄る事にした。お弁当のおかずや常備菜の作り置きが減っていて、この週末は特に用事もなかったので、それらを作ろうと思っていたからだ。一人暮らしの花耶にとっては、お弁当のおかずや常備菜作りは節約と健康のために大切なものだった。
 スーパーは期待以上の収穫で、花耶はホクホク顔で店を後にした。時間帯が遅かったのもあってか値引きの品が多かった。予定以上に買いこんで荷物は重くなったが、これで当面は困らない。節約を重んじる花耶にとっては満足な買い物になり、仕事の疲れも吹き飛ぶ心地だった。

 しかし、そんな花耶の晴れやかな気分は、駅に戻るまでだった。休み前でいつもより人出が多い感じはしていたが、駅は人が多いと言うよりもごった返している。そして花耶は直ぐに電車が運休しているのを知る事になった。線路のすぐそばでボヤがあり、設備に被害が出ていると言う。悪い事は重なるもので、復旧の予定は未定との事だった。目の前が暗くなる気がしたのは、きっと電車のせいだけじゃないな、と花耶は運休を知らせる電光掲示板をただただ眺めていた。

「三原?」

 改札口の人の流れを眺めていた花耶を呼ぶ声がして、花耶はその声の方に視線を向けた。そこにいたのは奥野だった。

「課長…」

 最近一緒に仕事をするようになった上司が、スーツの上着とカバンを手に近づいてきた。相変わらず周りの人よりも背が高く人目を惹くイケメンっぷりに、やはり存在感が半端ないな、と花耶は思った。

「…もしかして、またか?」

 花耶が改札に佇む様を視界に入れた奥野は状況を察したようだった。多分、電車の中でアナウンスを聞きただろうし、花耶がここにいる事で確証に至っただろう。

「あー、はい。また、みたいですね…」

 この状況で顔見知りに声をかけられた事に、花耶は微かな安堵を感じた。何でも一人で解決するのが花耶の性分だが、このような想定外の時にはやはり心細く思うのだ。

「ああ、電車の中でも言ってたしな。三原、よく当たるなぁ…」

 しみじみと言われてしまった花耶は返事のしようもなく、困った様に眉をハの字にして苦く笑った。時折運休する事はあるが、こうも頻繁にやられると運行会社の体制を問いただしてやりたくなる。
 とはいえ、今は嘆いていても仕方がない。まだ夏ほど暑くはないが、買い込んだ食材が痛む前に帰りたかった。電車が止まった以上、出来る事は二つしかない。歩いて帰るか、タクシーを利用するか、だ。残念ながらバスは直通で通っておらず、最初から選択肢にはなかった。

「で、大荷物持ってどうするんだ」

 単刀直入に聞かれて返答に困る。実際出来る事は二つしかないのだが、出来ればどちらも避けたい解決法だった。どうするのかと問われたが、どうしたらいいのかこちらが聞きたいくらいだ。

「タクシー無理そうなので…歩いて帰ります」
「はぁ?歩いて?お前さん、ここからだとあの駅まででも一時間以上かかるぞ」
「それはそうなんですけど…タクシーも何時間待つか分かりませんし」

 そう言って駅のタクシー乗り場に視線を向けると、そこには最後尾がわからないほどの列が続いていた。奥野もそれを見て、タクシー待ちの時間が一時間では足りないだろうことを理解したらしい。暫く花耶の姿を視界に入れたまま考え込んでいてしまい、花耶は居心地の悪さを感じた。

 暫く考え込んでいたようだが、ようやく「で、その荷物は?」と聞かれたので花耶は先ほどスーパーで買った食材だと答えた。あごに手を当てて、なるほど…と呟いた奥野は、花耶の想像を超える発言で花耶を驚かせた。

「じゃ、うちに泊めてやるから、何か作ってくれないか」
「…はぁ?」

 どういう思考回路を経由したらそう言う発言につながるんだろう…花耶は奥野をまじまじと見ながらそう思うしかなかった。

「…泊めてやる?」
「ああ」
「…あの…どこに?」
「俺んち」
「お、俺んちって…課長のお宅ですか?」
「他人の家に泊らせてどうする」
「そりゃあそうですが…でも、ご家族とか…」
「気楽な一人暮らしだ、心配するな」
「ええ?いや、その…そっちの方が別の意味で問題では…」
「問題?帰宅難民化した部下を保護しただけだ。泥酔した奴保護するのと大して変わらんだろう。問題ない」
「…」

 問題ないと言い切られてしまったが、とてもそうは思えなかった。いくら帰宅難民になったとはいえ、待てばタクシーもあるし歩いて帰る事も出来る。スマホを使えば自力でホテルもネットカフェも探せるだろう。

「ちょうど腹減ってたし、材料持ってるならちょうどいい。何か作ってくれ」
「え…は?いえ、人様にお出しできるようなレベルじゃ…」
「簡単なもので構わん。この前の店の味はどうだった?」
「この前とは…連れて行って頂いた小料理屋さんですか」
「そうだ」
「とても、美味しかったです」
「だったら味覚はまともだ、問題ない」

 何とも平然と、再び問題ないと言い切られてしまい、花耶はこめかみを押さえたい衝動にかられた。両手がふさがっていたので、さすがに出来なかったが。
 つまりこの上司は家に泊めてやるかわりに、花耶の持つ食材で何か作れと言っているのだ。言いたい事は理解したが、だからと言って簡単に応じられる話でもなかった。どう断ろうかと考えている花耶に、奥野はさらに続けた。

「この前の礼がしたいって言ってたんだ、いい機会だろう。このままじゃその食材も傷むし、うちの冷蔵庫は空だ。明日は何なら車で家まで送ってやる」
「でも…」
「ん?何だ?彼氏でもいるのか」
「いえ、いませんけど…」
「じゃあ問題ないだろう。心配なら松永さんにでも一言言っておくか?」

 直属の上司の名前を出されて花耶は驚いた。松永は経理課の課長で花耶の直属の上司に当たる。何かと目をかけてもらってはいるが、こんな事で煩わせるのもどうかと思った。既に十時を過ぎているし、こんな時間に連絡するのは失礼な気もする。
 そこまで言われてしまうと、部下の保護が目的で特に問題はないような気がしてきた。奥野ほど仕事が出来て出世街道まっしぐらの身なら、部下に手を出すなんてスキャンダルな事はしないだろう。しかも相手は地味で平凡な自分だ。奥野の様なイケメンなら相手など選び放題だから、わざわざ自分の様な部下に手を出す必要もなさそうだった。
そんな風に色んな事をぐるぐる考えていると、奥野が駅の方に視線を送ってから花耶に向き直った。

「ほら、復旧は明日の始発以降だと。行くぞ」

 そう言って花耶が手にしていた食材を入れたエコバックを手に取ると、さっさと歩き始めてしまった。急な事で駅の方を確認しようとした花耶だったが、奥野は置いていくぞ、と言ってさっさと行ってしまう。花耶は慌ててその背中を追いかけた。
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