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一章

消えたデータ

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 麻友に奥野との事を打ち明けた事で、花耶は気分的にかなり楽に感じられるようになっていた。心配かけたくないと胸一つに収めていたが、それは思った以上に負担になっていたらしい。心配してくれる存在がいると言うだけでこんなにも心強いのだな、と花耶は麻友の存在をより一層大切に感じていた。
 奥野とは、表立って変化があるようには見られなかった。奥野は会社では相変わらず上司としての態度に徹していたし、花耶からは必要以上に近づくようなこともしなかった。基本的に奥野は席を外している事も多いのもあり、表面上は何事もなく過ごしていた。



「三原、データまだ出来てないのかよ!」

 麻友に告白した翌週、昼休みを終えて事務所に戻ってきたところに、突然怒りを含んだ大きな声が投げかけられて花耶は身を固くした。声の主は営業三課の菅谷で、プロジェクトのメンバーの一人だった。菅谷は営業職で、奥野の一年後輩にあたる。菅谷は林の班に属し班の中では仕事が出来る方だが、言動がストレートすぎてキツイため、花耶は苦手意識を持っていた。元々頭に血が上りやすいタイプでもある。苛々をぶつけられて直ぐに声が出せずにいると、菅谷が更に苛ついたように怒気を強めた。

「課長が午前中お前に依頼したデータ、まだ出来ないのかって聞いてんの。お昼までにって言われていただろうが。あれがないせいで伊東の仕事進まねぇんだよ!」

 苛立ちを隠さない菅谷の横には、菅谷の怒気に晒された伊東が不安げに立っていた。どうやらあのデータを伊東が印刷するなりして取引先に持っていくのだろう。
 菅谷の指すデータは、今朝、花耶が奥野から頼まれたものだった。プロジェクトに関するもので、午後三時から取引先を訪問する際に使うので、午前中にと言われていたものだ。
 だが、それなら既に作り終え、奥野からも了承の意が伝えられていた。データ自体も指示された場所に保存してある。花耶は与えられた仕事の報告を常に奥野にメールで送るようにしていて、既に奥野からは了解と共に次の仕事の指示がメールで届いていたから、花耶の中ではすでに終わっている話だった。
 花耶は、そのデータは奥野に既に渡している事、奥野からも内容については了承を貰っている事を伝えたが、菅谷はデータがない、嘘をついているのではないかとの一点張りだった。実際伊東もデータを見ていないと言う。
訝しく思いながらも花耶が履歴からファイルを開こうとすると、データが存在しませんと出て、今度は花耶が困惑した。直接共有フォルダを見に行くと、先ほど確かに保存した場所にデータがなかった。

「え?三原さん、仕事忘れてたの?」
「うそ、やっぱり高卒じゃね…」
「しかもやってないのにやったって言ってるんだって…」
「ええ~」

 焦る花耶の耳にも、篠田達の会話が聞こえてきた。またか…と花耶は心の中でため息をついた。彼女たちは花耶が仕事の事で誰かに指摘されていると、わざと聞こえる様に揶揄って来るのだ。
そうしている間も菅谷は早くしろと急かすので、花耶は奥野に送ったメールからデータを保存し直そうとした。ただし、奥野がデータを直した可能性もあるので、その旨を菅谷に伝えるも、作っていないのに適当な事を言うなと言われてしまった。どうやら余計に怒らせてしまったらしい。
課内にいる者が花耶と菅谷のやり取りに注目していたが、誰も頭に血が上っている菅谷を止める者はいなかった。いつものパソコンが急に使い辛くなったと感じた花耶は、自分の指が微かに震えているのを感じた。男性が苦手な上、大きな声に慣れていないのだ。

花耶がメールソフトから奥野に送ったメールを探していると、昼食に出ていた奥野が林と共に戻ってきた。奥野は事務所内の雰囲気がいつもと違う事を敏感に察すると、直ぐそばにいた篠田達に尋ねた。

「えっと…その、三原さんがデータを作り忘れてたらしくて…」
「データ?」
「は、はい。何でも菅谷さんが取引先に持って行くものらしくて」
「そうなんです、奥野さん。三原の奴、まだデータ作ってないんですよ。三時までには先方に行かなきゃいけないのに」
 
 篠田と土井が、しおらしさを装って花耶の失態を奥野に告げ、菅谷もそれに同調した。花耶からすれば既に奥野に了承を得ている話で、花耶の手から離れている仕事でこんな風に言われる筋合いはないのだが…

「奥野さん、三原に関しては、仕事が遅いと評判悪いんですよ。今だって反省する様子もないですし。やっぱり経理に奥野さんの補佐は無理なんじゃないですか。これからもっと忙しくなるのにこれじゃ、先が思いやられますよ」

 菅谷までがそんな風に言い出したことに花耶は驚いた。これまで殆ど接点がなかったら、仕事ぶりを評価される機会もなかったし、そもそも仕事が遅いと指摘された事などなかったからだ。篠田達の嫌がらせはいつもの事だが、他の営業からもそのように言われていたのかと初めて知った花耶は、やはりプロジェクトのメンバーに選ばれたのは間違いだったのかと気分が沈むのを感じた。好きで来たわけではなかったが、精いっぱいやってきた自負はあっただけに、能力不足と言われると恥ずかしくも情けなくもあった。

「どういう事だ?」

 篠田や菅谷の主張に、怪訝な顔をしたのは奥野だった。威圧感のある表情が、眉間のシワを深めた事でより一層増した気がする。

「いえ、ですから三原さんが…」
「奥野さん、三時には先方に行かなければいけないので、早くしないと…」

 奥野の問いかけに反応したのは篠田と菅谷だったが、更に何かを言おうとした二人を奥野は手で制した。

「菅谷が言ってるデータなら、午前中のうちに三原から受け取っているが?」
「え?」
「…うそ…」
「完了の旨を報告するメールも届いている。確か十時半過ぎには受け取っていたぞ」
「え?十時半って…奥野さん、いくら何でもそれは早すぎるでしょう?あのデータ量ですよ?」
「別に三原の能力なら問題ないだろう?俺もファイルの中身は確認したし、思ったよりも早かったから、書き足してからフォルダに保存しておいたんだが?」

 奥野にそう言われて、言い募っていた面々はそれぞれに驚きの表情を露にしていた。

「大体、三原は松永さんが直々に育てた奴だぞ?仕事が遅いって、誰がそんな事言ったんだ?」
「え…?」

 周りにいた人間が一斉に花耶に視線を向けたので、花耶は居心地の悪さに居たたまれなくなった。別に大層な事ではないのだけれど…と思う。確かに最初の頃は厳しく教えられたが、経理課の中では誰もがやっている業務の範囲内だ。

「で、菅谷。三原が遅いってのはどこを見てだ?」
「え?えっと…」
「少なくとも事務処理なら、お前の倍は早いぞ」
「…いえ、俺はそう聞いていただけなので…」
「ほぉ…誰がそんな事を言っていたんだ?」
「え?あ、あの…篠田や土井ら、です…」

さすがに奥野の圧に耐え切れなかったのか、菅谷が情報の出所をあっさりと白状した。名前を出された篠田達は予想外の展開に顔を青ざめさせている。

「なるほど…篠田と土井は三原よりも早いんだな。じゃ、三原に頼もうと思っていたデータ処理、今日中に出来るな」
「え…」
「で、でも、プロジェクトの仕事は…私たちは…」
「心配するな。これは三課の仕事だ。中々やっている時間がなくて放っておいたんだが、急に明日必要になってな。三原は関係ないんだが時間がなくて無理を押して頼んだんだが…三原より仕事が早いなら余裕で出来るだろう」

 そう言って奥野は、口の端を微かに上げると、二人はそんな奥野に見とれながらも、でも、あの…と繰り返した。心配ない、二人でやれば余裕だ、とまで言われてしまうとそれ以上は何も言えず、はい…と力なく返事をして席に戻った。そんな二人を見送った奥野は、今度は菅谷に向き直った。

「データなら今、書き足して渡す。それでいいか?」
「え?あ、は、はい」
「あと、データが消えたのも調べておかんとな。こっちはシステム課に依頼するか」

 奥野が独り言のように呟くと、え?と慌てる声が上がった。さっき堀江に仕事を振られた二人で、怯える様に奥野を見ている様子から、この件に絡んでいる事が明白だった。


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