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一章

伝わらない想い

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 花耶が言葉を発する度に表情を固めていく奥野は、今度こそ完全に固まってしまったように見えた。そんなに変な事を言っただろうかと不安になってくる。だが、奥野はこれまで花耶の気持ちを聞いてくれたことはなかったし、拒否を許すような雰囲気でもなかった。全力で口説くと言われたが、そこには花耶の気持ちは入っていないと花耶はずっと感じていた。

「じゃあ…花耶は…俺の事は…」

 暫くは瞬きすらも忘れてしまったかのように目を見開いて花耶を見つめていた奥野だったが、暫くの沈黙の末、振り絞るように呟いた。

「その…仕事の面では、尊敬、していますけど…」
「…」
「好きとか、そういうのは……」
「…」
「すみません。よくわからないんです、好きって感情、が…友達に聞いた話と、私が課長に感じているのは、何だか違うような気がするし…」
「…」

 満春達の話を思い出しながら、花耶は奥野の様子を伺うように言葉を選びながらそう告げた。その言葉を受けた奥野は、信じられないものを見るように花耶を見つめていた。そんな様子に花耶は、何か言ってはいけない事を言っただろうかと不安がこみ上げてきた。胃のあたりが冷えてくるのを感じながら、おずおずと奥野を見上げた。
 
 重苦しい空気の中、どれくらいそうしていたのかわからなかったが、奥野は額に手を当てるとローテーブルの方に向きを変え、今度こそ本格的に頭を抱えてしまった。ゴン、と小さく音がしたので、もしかしたらローテーブルにどこかをぶつけてしまったのかもしれないが、奥野はそれを気にする風もなかった。そんな…いや…しかし…と聞き取れないほどの小さな声で何かを呟いていた。

 そんな奥野を、花耶は何とも言い難い気持ちで眺めていた。もしかすると奥野は、相思相愛だと思っていたのだろうか…花耶は全くそんな風には感じていなかったが、確かに奥野をはっきり拒んだ事はなかったし、いつも言われた事に従っていた。だとすると、奥野が勘違いをした原因は自分にもあるのかもしれない。実際、一緒にいても心地よいと感じる時はあったから、何となくそのまま流されていた部分はあった。もしそれが奥野の勘違いの原因になっていたのであれば、奥野だけが悪い訳ではない。

「あ、あの…すみません…」

 自分の狡さも問題だったのだと、花耶は罪悪感に負けて謝罪した。ずっと自分は被害者だと思っていたが、確かに花耶の態度は奥野に勘違いをさせてしまうものがあった。相手を思いやるなら、はっきりと断るべきだったのだ。奥野にしてみれば、酷い裏切りだっただろうか…自分の弱さや狡さを自覚してしまった花耶は、奥野の顔を見るのが怖くなり唇を噛んで俯いた。

「…何に対して謝ってるんだ?」
「え…」

 しばらく無言だった奥野に急に問われて、花耶は戸惑いながらも奥野の方に視線を向けた。奥野は静かに花耶の方を見ていたが、その表情からは感情は読み取れなかった。その静かさがかえって怖く感じられて、咄嗟には言葉が出なかった。そんな花耶に奥野は、何でも話して欲しいともう一度告げたが、その声は先ほどよりも少しだけ柔らかく聞こえた。

「その…はっきり、言わなかった事を…」
「どうして…言わなかった?」

 そう聞き返されて、花耶の方がビクッと震えた。声のトーンが下がったように感じた花耶は、視線をさ迷わせると行き場を失って俯いた。どうしよう…本当に怒らせてしまっただろうか…気が付けば室内着のワンピースのスカートをぎゅっと両手で握っていた。

「それは…その…仕、事が…やりにくく、なると…」
「…」

 他の理由も言った方がいいと思ったが、心臓がバクバクと音をたて出し喉が引きつったようになり、それ以上言葉を発せられなかった。十も数える間が空いてしまうと、今度は何かを言うのがかえって気まずく感じてしまい、益々言葉が出てこない。こんな言い方じゃ、まるで奥野だけが悪いと言っているようなものだが、実際はそうじゃない。そう言いたいのにどういっていいのか、どう説明したらいいのかが思い浮かばず、時間だけが過ぎていった。



「そうか…分かった…」

 どれくらい時間が経っただろう。一分かもしれないし、十分だったかもしれない。重苦しい空気の中では時間が酷く遅く感じるから、もっと短かったのかもしれないが、奥野は絞り出すようにそう告げると、立ち上がってリビングから出て行ってしまった。
 一人残された花耶は何かをいう事も、後を追う事も出来ず、ただ目を瞠って奥野が消えていったドアを見つけるしか出来なかった。暫くすると着替えた奥野が出てきて、少し出てくるとだけ告げると、花耶が言葉を発する間も与えずに出て行ってしまった。
 一人残された花耶は、暫くその場から動く事が出来なかった。




 それからお昼が過ぎ、夕方になっても奥野は戻ってこなかった。暫くしてから一度、心配しなくていい、今日はゆっくり休むように、決して家から出ないようにとだけメッセージが来た。花耶は言えなかった言葉を何とか伝えようとメッセージを書いたが、想いを伝える文面が上手く出来なかった。何度書き直しても、何かが足りない気がするし、そもそもメッセージで済ませる事ではない気がした。上手く伝えられるかわからないが、ちゃんと話がしたかった。散々悩んだ結果、話がしたい旨を添えて分かりましたと返信したが、その後返事はなかった。



 一人残された花耶は不安と焦りから寝る事も出来ず、ソファに座り込んで奥野が返ってくるのを待っていた。既に時計は午後十時を過ぎたが、奥野からの連絡はない。花耶は何をする気にもなれず、また家主の奥野の気分を害したのに勝手に何かを食べる事にも気が引けてしまい、何も食べずにいた。もっとも、食欲も全く湧かなかったのだが。静まり返った部屋は、微かな電子音と時折車が通る音だけが響いていた。

 酷い事をした…

 花耶はソファの上で膝を抱えながら、出ていく直前の奥野の表情を思い出していた。怖くて俯いていたが、リビングを出る直前の一瞬だけ目にした彼は表情を消していて、その内面はうかがい知れなかった。
 とは言っても、花耶が奥野の表情から気持ちを察するのは容易い事ではなかった。会社ではあまり表情を変えない奥野だが、プライベートではそうでない事をこの数か月の間に花耶は知った。でも、自分よりも年上のせいか、生来のものなのか、表情を消された時にその心の中に何があるのかを察する事は花耶にはまだ出来なかった。今朝だって奥野が何を考えていたのか、どこへ行ったのか、花耶にはわからなかった。

 ただ、酷く傷つけたのだという事は分かった。分かったと言うよりもそれは、確信に近かったかもしれない。何も言わずに出て行ったのは、花耶を傷つけないためなのだと思う。奥野が外見に反してとても優しいという事も、この頃の花耶には分かっていた。

 花耶はずっと奥野の気持ちに思いを馳せた事はなかった。自分を好きに扱っているのだから、それで満足しているのだろうと思っていたし、聞かなかったのだから自分の気持ちも必要じゃないのだと思っていた。それなのに自分が気にするなんて、酷く惨めじゃないかとすら思っていた。だから奥野を好きだと感じた事もなかったし、一時的なものだとずっと思っていた。惨めになりたくないから、自分が粗末に扱われる事を直視したくなかったのだ。

 だが実際はどうだろう。奥野はきっと傷ついたのだろう。それは花耶が奥野を信じなかったからだ。花耶は奥野が本気だという事をずっと否定していたが、もし本気だったらどうだったのだろう…と、この時初めて真面目に考える気になった。
 奥野は本気だったとすると、どうして最初は無理やり事に及んだのか…普通に好きだと言ってくれたら、花耶だって信じられたのではないか。もう少しゆっくり順番に、例えば満春のように少しずつ距離を縮めていけたら、こんな風にこじれなかったのではないだろうか。
 だって、奥野と過ごす時間は決して嫌ではなかったのだ。凄く大切に扱ってくれたし、甘やかしてくれた。夜だって最初の頃に比べたら…嫌じゃなくなっていたのだ。嫌なのは心が伴わない事だった。ちゃんと言ってくれたら、花耶の気持ちが追い付くまで待ってくれていたら、多分拒まなかったのに…

 そこまで考えて花耶は、自分がまた奥野を責めるような考えに走っている事に気が付いた。その考えを振り切るように花耶は、慌てて頭を強く振った。こんな風に相手が悪いと考えてしまう自分にも一因があったのだ。花耶がきちんと奥野に向き合っていたら、そのうち飽きるからそれまで待てばいいと逃げなかったら、少なくとも奥野を傷つける事はなかった。麻友だってちゃんと話をするようにと最初から言っていたではないか…

 はぁ…とため息をつくと、誰もいない部屋ではひときわ大きく響いた。七月の梅雨明け後の部屋は、夜にも関わらず蒸し暑いのに、空気のせいか寒々しくすら感じた。

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