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二章
父親の静かな断罪
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熱のない静かな声の主は、奥野の父親だった。初めて見た時から生気に富んだ奥野とは違い、無気力で覇気に欠けた印象だったが、今もその目には熱が感じられなかった。
「あ、あなた…」
夫が制止した事に、母親は明らかに意外そうな表情を見せた。夫婦でありながら互いにかける声は温かみに欠け、余所余所しくすら感じられた。
「透夜はこのお嬢さんと結婚すると言っているんだ。諦めなさい。子供の人生まで縛るんじゃない」
父親の言葉に、その場にいた者は意外だと言いたげな表情を浮かべ、それは奥野も例外ではなかった。それを意味するものが何なのか分からないまま、花耶は目の前の会話をただ見ているしかなかった。
「あ…あなたは黙ってて頂戴!私は母親として…」
「母親として?息子の想いを無視して自分の都合を押し付けるのが母親の役目だと?一度失敗しているのに、また繰り返すのか?」
「何を…!」
「無理に結婚したところで、透夜が久美を愛する事はないと言っているんだ。私が君に愛情を感じられないようにな」
「そんな…」
「最初に言ったはずだ。君に愛情を感じる事は一生ないだろうと。それでも君は親戚や同僚まで巻き込んで結婚を強行した。その結果が今の生活だ。相手の意思を無視したところで誰も幸せにならないと、何故気が付かない?」
父親の言葉に、花耶は驚きを隠せずにいた。その内容もさることながら、あまりにも淡々とし過ぎていてまるで他人事のようですらあったからだ。言っている事が本当ならば、父親は望まずして母親と結婚したという事になるのだが、そこに感情がすっぽりと抜けているのは異質に思えた。そんな経緯があれば何らかの感情があるのではないだろうか…
「子供達には子供達の人生がある。子供には自分の好きに生きる権利があるんだ。未成年ならまだしも、この子たちはもう大人だ。君に口出しする権利はもうない」
「な、なによ!子供は子供だわ!私はこの子たちが幸せになるために…」
「幸せ?本人が望みもしない、むしろ嫌がっている結婚を押し付ける事が?透夜はもういい大人だし、家を出てから十年、一人でやってきたんだ。今更君の手は必要ない」
父親の言葉は、残酷なほどに的を得ている上、容赦がなかった。そこには愛情や労わりが欠片も感じられず、花耶は以前奥野から聞いた両親の関係が、花耶の想像以上に冷えたものだったのだと知った。その理由は、さっき父親が言った内容にあるのだろう。そして今、母親は実の息子すらも夫と同じ道を歩ませようとしていたのだ。
「君が言っているのは透夜のためじゃない、自分のためだ。透夜を手元に置いて自分に縛り付けるため。実家が苦しいから、久美と結婚させて一家そろって養わせるつもりだろう?」
「なっ!」
先ほど叔母が話していた事と同じ事が父親の口からも出てきて、母親の実家が想像通り困窮している事が伺えた。母親はその事まで言及されるとは思っていなかったのだろう。何も言い返せないらしく、手を握りしめて唇を震わせていた。
「やっぱり…想像した通りだったな」
二人の会話から、奥野も花耶も同じ事を感じたのだろう、ため息と共にそう呟いた。
「母さんと叔母さんは昔から、将来は俺に面倒をみさせればいいとずっと言っていたもんな…」
奥野はもう、呆れや憤りすらも通り越してしまったのだろう、その声には憐憫の度合いが強く感じられた。実の母親にそんな思いを向けなければいけなくなった事で奥野がどれほど悲しんだか、この人はわからないのだろうか…花耶は奥野が抱えていたものに思いを巡らせて胸が痛くなった。
「だ、だって、仕方ないじゃない!あなたは私には無関心で、何一つ手伝ってくれなかったんだから!だからこれからは…」
「…しなくていいと言ったのは、君だろう?」
「え?」
父親の非協力ぶりを晒して自分を正当化しようとしたらしい母親の声は、静かな父親の声に遮られた。言われた事の意味が理解できなかったのか、呆けた様に父親を見つめた。
「僕が手伝おうとする度に、私の居場所を奪わないでと言って断ったのは君だ。だから手を出さなかった。本当は…料理も掃除も自分でしたかったよ…総菜ばかりの食事も、自分が買った家が汚れていくのも、我慢できなかった…だから…家に帰るのも苦痛だった…」
「そ、そんな…」
ここにきてようやく、花耶は僅かだが父親の言葉に感情が加わったのを感じた。彼はずっと意に染まぬ結婚を強いられ、それに耐えてきたのだ。母親の暴走は父親が無関心なせいだと奥野は言っていたが、そもそもの始まりから父親は母親に感心がないどころかマイナスで、それを悪化させたのは母親だった。
「もういいだろう。これ以上はここで話す必要はない。お前たち以外は、誰も透夜と久美の結婚を望んではいないんだ。諦めさない」
さすがに父親もこれ以上は…と思ったのだろう。更なる醜態をさらす前にと母親を宥め、諦めるように告げた。
「今日はもうお暇しよう。篤志や文香はどうする?」
父親は母親から視線を外して娘と息子に問いかけた。
「あ~私は残るわ。家に帰っても暇だし」
「俺も…」
「そうか、じゃお前たちだけでも残って楽しんでくるといい。母さん、二人をお願いします」
「それは構わないけど…」
「この二人がいてはせっかくのお祝い気分も台無しだ。今日は連れて帰る」
「そう…わかったわ。気を付けてね」
「ああ。それじゃ」
そう言うと父親は、母親と久美を促して部屋を出て行った。母親はまだ何か言いたそうにしていたが、さすがに親戚の姿を視界に入れると口を噤んだ。久美は奥野から厳しい事を言われたショックからまだ立ち直れないのか、黙ってそれに従っていた。花耶は何とも言いようのない苦い気分でその姿を見送ったが、母親と久美が諦めた事にホッとする気持ちの方が大きかった。さすがにあそこまで言われてしまえば、これ以上は何も言ってこないだろう。
「さ。少し遅くなったけど、お腹も空いたし食事にしましょう」
奥野の両親と久美が去った後、祖母の一言で一同は会食の運びとなった。まだ後味の悪い空気は残っていたが、元々母親にいい感情を持っていなかったのだろう、親戚たちはホッとした表情を浮かべていて、むしろ厄介者がいなくなって清々したようにも見えた。父親が言った事が本当ならば、二人の結婚自体、奥野家の側からすると不本意だったのだろう。父親がはっきりと母親に物言いをした事で、多少の溜飲は下がったのかもしれない。
「花耶、すまなかったな。うちの事情のせいで嫌な思いをさせて」
「い、いえ…大丈夫です…でも…」
奥野は三人の姿が消えるとすぐに花耶を労わってくれたが、花耶は去っていった三人、特に父親の事が気がかりだった。あの二人は戦意喪失したように見えたが、気を取り直した二人に八つ当たりされないかと心配になったのだ。もっともそれをいう資格は自分にはないと思って口には出さなかったが…
また、せっかくの新年のおめでたい席を、自分が来たせいで騒がせてしまった事も申し訳なかった。急に押しかけた上に騒動の元になったのだ、他のやりようもあっただろうにと思うとやり切れなかった。
「本当に、せっかく来てくださったのに変な事に巻き込んでごめんなさいね」
「いえ…」
祖母に謝られて花耶はかえって申し訳ない気持ちになってしまった。こんな形で家庭内のもめ事を表立たせたかったわけではない、久美のと結婚さえ諦めてくれればよかったのだ。思った以上の騒ぎになってしまい、花耶の気持ちは晴れなかった。
「花耶が気に病む必要なんかない。連絡もなしに勝手に押しかけてきたのは向こうだ。しかもまだじいちゃんの喪中なのに、新年の集まりに出てくる事自体が非常識なんだ」
「そうそう、でも透夜ちゃんがズバッと言ってくれたからすっきりしたわ。これでもう諦めたでしょ」
奥野や叔母にバッサリ言い切られてしまい、花耶はそれ以上の事は何も言えなかった。何よりもあの二人が奥野を諦めた事への安堵の方が大きくて、今はそれ以外の事は気にならなかった。勿論、今後も母親が賛成する事はないだろうし、顔を合わせるたびに気まずいと思うが、奥野にこれ以上結婚を無理強いしなければそれで十分だった。父方の親戚は賛成しているし、父親も弟妹も積極的ではないにしても反対ではないと言う。最初から全員に賛成して貰えるとは思っていなかったから、今はそれだけでも十分だった。
「あ、あなた…」
夫が制止した事に、母親は明らかに意外そうな表情を見せた。夫婦でありながら互いにかける声は温かみに欠け、余所余所しくすら感じられた。
「透夜はこのお嬢さんと結婚すると言っているんだ。諦めなさい。子供の人生まで縛るんじゃない」
父親の言葉に、その場にいた者は意外だと言いたげな表情を浮かべ、それは奥野も例外ではなかった。それを意味するものが何なのか分からないまま、花耶は目の前の会話をただ見ているしかなかった。
「あ…あなたは黙ってて頂戴!私は母親として…」
「母親として?息子の想いを無視して自分の都合を押し付けるのが母親の役目だと?一度失敗しているのに、また繰り返すのか?」
「何を…!」
「無理に結婚したところで、透夜が久美を愛する事はないと言っているんだ。私が君に愛情を感じられないようにな」
「そんな…」
「最初に言ったはずだ。君に愛情を感じる事は一生ないだろうと。それでも君は親戚や同僚まで巻き込んで結婚を強行した。その結果が今の生活だ。相手の意思を無視したところで誰も幸せにならないと、何故気が付かない?」
父親の言葉に、花耶は驚きを隠せずにいた。その内容もさることながら、あまりにも淡々とし過ぎていてまるで他人事のようですらあったからだ。言っている事が本当ならば、父親は望まずして母親と結婚したという事になるのだが、そこに感情がすっぽりと抜けているのは異質に思えた。そんな経緯があれば何らかの感情があるのではないだろうか…
「子供達には子供達の人生がある。子供には自分の好きに生きる権利があるんだ。未成年ならまだしも、この子たちはもう大人だ。君に口出しする権利はもうない」
「な、なによ!子供は子供だわ!私はこの子たちが幸せになるために…」
「幸せ?本人が望みもしない、むしろ嫌がっている結婚を押し付ける事が?透夜はもういい大人だし、家を出てから十年、一人でやってきたんだ。今更君の手は必要ない」
父親の言葉は、残酷なほどに的を得ている上、容赦がなかった。そこには愛情や労わりが欠片も感じられず、花耶は以前奥野から聞いた両親の関係が、花耶の想像以上に冷えたものだったのだと知った。その理由は、さっき父親が言った内容にあるのだろう。そして今、母親は実の息子すらも夫と同じ道を歩ませようとしていたのだ。
「君が言っているのは透夜のためじゃない、自分のためだ。透夜を手元に置いて自分に縛り付けるため。実家が苦しいから、久美と結婚させて一家そろって養わせるつもりだろう?」
「なっ!」
先ほど叔母が話していた事と同じ事が父親の口からも出てきて、母親の実家が想像通り困窮している事が伺えた。母親はその事まで言及されるとは思っていなかったのだろう。何も言い返せないらしく、手を握りしめて唇を震わせていた。
「やっぱり…想像した通りだったな」
二人の会話から、奥野も花耶も同じ事を感じたのだろう、ため息と共にそう呟いた。
「母さんと叔母さんは昔から、将来は俺に面倒をみさせればいいとずっと言っていたもんな…」
奥野はもう、呆れや憤りすらも通り越してしまったのだろう、その声には憐憫の度合いが強く感じられた。実の母親にそんな思いを向けなければいけなくなった事で奥野がどれほど悲しんだか、この人はわからないのだろうか…花耶は奥野が抱えていたものに思いを巡らせて胸が痛くなった。
「だ、だって、仕方ないじゃない!あなたは私には無関心で、何一つ手伝ってくれなかったんだから!だからこれからは…」
「…しなくていいと言ったのは、君だろう?」
「え?」
父親の非協力ぶりを晒して自分を正当化しようとしたらしい母親の声は、静かな父親の声に遮られた。言われた事の意味が理解できなかったのか、呆けた様に父親を見つめた。
「僕が手伝おうとする度に、私の居場所を奪わないでと言って断ったのは君だ。だから手を出さなかった。本当は…料理も掃除も自分でしたかったよ…総菜ばかりの食事も、自分が買った家が汚れていくのも、我慢できなかった…だから…家に帰るのも苦痛だった…」
「そ、そんな…」
ここにきてようやく、花耶は僅かだが父親の言葉に感情が加わったのを感じた。彼はずっと意に染まぬ結婚を強いられ、それに耐えてきたのだ。母親の暴走は父親が無関心なせいだと奥野は言っていたが、そもそもの始まりから父親は母親に感心がないどころかマイナスで、それを悪化させたのは母親だった。
「もういいだろう。これ以上はここで話す必要はない。お前たち以外は、誰も透夜と久美の結婚を望んではいないんだ。諦めさない」
さすがに父親もこれ以上は…と思ったのだろう。更なる醜態をさらす前にと母親を宥め、諦めるように告げた。
「今日はもうお暇しよう。篤志や文香はどうする?」
父親は母親から視線を外して娘と息子に問いかけた。
「あ~私は残るわ。家に帰っても暇だし」
「俺も…」
「そうか、じゃお前たちだけでも残って楽しんでくるといい。母さん、二人をお願いします」
「それは構わないけど…」
「この二人がいてはせっかくのお祝い気分も台無しだ。今日は連れて帰る」
「そう…わかったわ。気を付けてね」
「ああ。それじゃ」
そう言うと父親は、母親と久美を促して部屋を出て行った。母親はまだ何か言いたそうにしていたが、さすがに親戚の姿を視界に入れると口を噤んだ。久美は奥野から厳しい事を言われたショックからまだ立ち直れないのか、黙ってそれに従っていた。花耶は何とも言いようのない苦い気分でその姿を見送ったが、母親と久美が諦めた事にホッとする気持ちの方が大きかった。さすがにあそこまで言われてしまえば、これ以上は何も言ってこないだろう。
「さ。少し遅くなったけど、お腹も空いたし食事にしましょう」
奥野の両親と久美が去った後、祖母の一言で一同は会食の運びとなった。まだ後味の悪い空気は残っていたが、元々母親にいい感情を持っていなかったのだろう、親戚たちはホッとした表情を浮かべていて、むしろ厄介者がいなくなって清々したようにも見えた。父親が言った事が本当ならば、二人の結婚自体、奥野家の側からすると不本意だったのだろう。父親がはっきりと母親に物言いをした事で、多少の溜飲は下がったのかもしれない。
「花耶、すまなかったな。うちの事情のせいで嫌な思いをさせて」
「い、いえ…大丈夫です…でも…」
奥野は三人の姿が消えるとすぐに花耶を労わってくれたが、花耶は去っていった三人、特に父親の事が気がかりだった。あの二人は戦意喪失したように見えたが、気を取り直した二人に八つ当たりされないかと心配になったのだ。もっともそれをいう資格は自分にはないと思って口には出さなかったが…
また、せっかくの新年のおめでたい席を、自分が来たせいで騒がせてしまった事も申し訳なかった。急に押しかけた上に騒動の元になったのだ、他のやりようもあっただろうにと思うとやり切れなかった。
「本当に、せっかく来てくださったのに変な事に巻き込んでごめんなさいね」
「いえ…」
祖母に謝られて花耶はかえって申し訳ない気持ちになってしまった。こんな形で家庭内のもめ事を表立たせたかったわけではない、久美のと結婚さえ諦めてくれればよかったのだ。思った以上の騒ぎになってしまい、花耶の気持ちは晴れなかった。
「花耶が気に病む必要なんかない。連絡もなしに勝手に押しかけてきたのは向こうだ。しかもまだじいちゃんの喪中なのに、新年の集まりに出てくる事自体が非常識なんだ」
「そうそう、でも透夜ちゃんがズバッと言ってくれたからすっきりしたわ。これでもう諦めたでしょ」
奥野や叔母にバッサリ言い切られてしまい、花耶はそれ以上の事は何も言えなかった。何よりもあの二人が奥野を諦めた事への安堵の方が大きくて、今はそれ以外の事は気にならなかった。勿論、今後も母親が賛成する事はないだろうし、顔を合わせるたびに気まずいと思うが、奥野にこれ以上結婚を無理強いしなければそれで十分だった。父方の親戚は賛成しているし、父親も弟妹も積極的ではないにしても反対ではないと言う。最初から全員に賛成して貰えるとは思っていなかったから、今はそれだけでも十分だった。
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