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二章

的外れな非難と反撃

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「あの子に騙されてるのよ!」

 奥野の妹が当てにならないと悟ったらしい久美は、今度は矛先を花耶に向けてきた。急に指をさされて糾弾された花耶は、あまりの言い草に驚きを通り越して呆気に取られてしまった。騙しているのはそっちの方ではないだろうか…とんだ言いがかりだった。

「ど、どうせ胸でも見せつけて迫ったんでしょ?汚らわしい!胸しか取り柄のない女の常とう手段じゃない!この売女が!」
「……え?」

 人間、想定外な事が起きると理解が及ばなくなって、言葉の意味すらも頭に入ってこなくなるらしい…花耶は言われた言葉の意味を理解するのに時間を要してしまった。それでも…

「…胸では…課長は落とせないと思いますよ?」

 矢面に立たされた花耶はさすがに何か言わないといけないかと思い、咄嗟に思いついた事を口にした。

「な、何を…!」

 一方の久美は、反論されるとは思わなかったのか、花耶の予想に反して戸惑いを露にした。

「…会社には私よりも胸が大きくてきれいな女性、何人もいますから…」
「じ、じゃ、酒に酔わせて…」
「それも無理かと…課長は強いので、酔わせる前にこっちが倒れます」
「それなら…若さを売りにしたんでしょ!」
「若さ、ですか…でも私より若くてかわいい子も会社にたくさんいますし…」

 二人の会話を回りは静かに見守っていた。普段ならこういう場面では花耶は怖気づいて何も言えなくなるのだが、理解出来ない状況に現実味が欠けたらしく、不思議と恐怖や戸惑いが感じられなかった。そのせいか、あり得ないほど滑らかに言葉が出てきた。

「じ、じゃあ何だって言うのよ?」

 動揺した久美は、花耶の指摘に反論の余地を見つける事が出来なかったらしい。逆に何だと聞き返されたが、それこそ花耶がずっと疑問に思っていた事だった。

「さぁ…」
「さぁ…って、あんた、私を馬鹿にしているの?!」
「そんなつもりはないんですけど…私もわからないんです」
「は?」
「何で好かれているのか、私もわからないんです。ですから、その…そこは本人に直接聞いて頂ければと…」

 これは紛れもない花耶の本音だった。会社でも何であの子が…と言われてきたが、花耶もわからないのだから聞かれても答えようがなかった。久美は花耶の返事に大きく目を見開くばかりで、言葉が出てこないようだった。

「そうだな。そういう事なら、俺から花耶が好きなところを上げてみようか?」

 暫く二人のやり取りを静観していた奥野が、ここぞとばかりに出てきた。その表情は先ほどとは一転して非常に楽し気で、笑みには何か黒いものも交じっているような気がした。この笑顔はマズイと花耶は感じたが、奥野は周りを気にする事なく花耶の腰に手を回すと、蠱惑的な笑顔を浮かべて花耶の額に唇を落としてきた。咄嗟の事で避ける事が出来なかった花耶は、恥ずかしさから顔どころか耳まで赤くなったようにを感じた。

「まずは…こんな風に初心で直ぐに赤くなるところだな。男に免疫がない純なところも可愛くて仕方ない。仕事も早くて正確だし、料理上手で節約家で堅実で、妻にするには最高だ。腕の中にすっぽり収まるし、抱き心地もちょうどい…グッ…」
「や、やめて下さい!」

 周りが奥野の暴走に呆気に取られている中、制止の声を上げたのは花耶だった。放っておくととんでもない事まで言い出しそうな気がして、花耶は奥野の口に手を当ててブロックした。すっかり忘れていたが、奥野の中には照れや恥じらいと言う言葉はないのだ…

「な、なんだ花耶?久美が知りたいって言うから説明しているだけだろう?花耶も俺に聞けと言ったじゃないか…」

 自身の口を塞いだ花耶の手を取った奥野は不満そうにそう返した。

「だ、だからって、へ、変な事まで言わないでください!」
「変な事?変な事なんて言ってないだろう?」
「う…」

 思い返せば確かに、まだ花耶が思う変な事までは言っていなかったかもしれない。だが、抱き心地云々からは雲行きが怪しくなっていたように思う…放っておけばどこまで暴走するかわからないのが奥野の怖いところなのだ。だが、それを人前で言えるほどの太い神経を花耶は持ち合わせていなかった。

「…っ…!ふ、ふざけないでよ!何なのよ、さっきから人を馬鹿にして!」

 奥野と花耶とやり取りを見ていた久美が、急に怒りをぶつけてきて花耶は驚いた。その存在を忘れていたわけではなかったが、奥野のいう事に気を取られ過ぎていたのは否めなかった。

「別にふざけてなどいないが?」

 花耶の手をとったままの奥野は、反対の手を花耶の腰に回すと、花耶を庇うようにして久美に向き合った。その表情は先ほどの楽し気なものから一転して冷え冷えとしていて、その場の空気の熱まで奪ったように感じられた。

「と、透夜さん!そんな子より私の方があなたに相応しいわ!」
「そ、そうよ、透夜!久美ちゃんの方が子供の頃からよく知っているし、貴方にはピッタリよ」
「誰が相応しいかは俺が決める事だ」
「いいえ!貴方はその子に同情しているだけなのよ!」
「同情?」
「そうよ!親兄弟もいない孤児だから、同情を愛情だと思い込んでるのよ。でも、そんなのはまやかしよ。貴方にもその子にもよくないわ!」

 母親の鋭い言葉が、容赦なく全身に突き刺さるのを花耶は感じ、花耶は心臓に痛みが走ったような気がした。その指摘は今回の訪問で一番恐れていた事でもあり、結婚するとなった場合、周りから反対される一番の枷になると思っていた事でもあった。まさかこんなに大勢の前で突きつけられるなんて…花耶は足元が揺れている様な錯覚に陥った。

「だから?それがどうした?」

 しばしの沈黙の後、奥野は淡々とした声色でそう返し、その言葉と共に奥野は花耶を抱きしめる力をわずかに強めた。それは花耶に、心配はいらないと言っているように感じられて、揺らいでいたものがすうっと凪いでいくのを感じた。静かでいっそ怒りなど感じていないかのような態度に見えるが、花耶は奥野がいつにも増して怒りを募らせているのを感じた。

「いつまでも親や夫に寄生して自立できない奴よりずっと好ましいだろう。俺が大学で馬鹿やっている頃、花耶は既に自立して働いていた。そんな花耶を俺は尊敬するよ。それに親の離婚や死別は花耶の責任じゃない。本人に責任のない事で見下すなど、人としてどうなんだ?」
「な…」

 奥野の言葉に花耶は、身体にじんわりと血が通い出して心まで温まっていくような感覚を覚えた。心ない言葉になど傷つくものかとずっと痛みを無視してきた花耶だったが、さすがに母親の言葉は無視出来なかったのだ。だが、奥野はそれを包み込むように癒してくれた気がした。

「それに…久美と結婚してどんなメリットがあるんだ?」

 奥野は母親に冷め切った視線を一瞬だけ投げかけると、今度は久美に向き合った。久美は急に自分にお鉢が回って来た事に狼狽え、先ほどの勢いは失われていた。

「メリットって…」
「メリットがなきゃ、お前と結婚する意味がないだろう?」
「な…じゃ、そ、その子にはあるって言うの?」
「ああ、ある」

 奥野は短くはっきりとそう言い切った。その声の強さに花耶の方が驚いたくらいだ。花耶にしてみれば自分が奥野に出来る事などたかが知れていると思っていたからだ。

「花耶が俺にくれる最大のメリットは、花耶の存在そのものだ。花耶がいてくれればそれだけで癒される。俺が花耶に惚れているんだから当然だよな。それ以外だと、まずは料理だろう。花耶の料理は美味いから、それだけでも十分すぎるほどだ。しかも節約家で家事も要領よくやってくれる。仕事も出来て社長ら上層部からの評価も高いし、資格をたくさん持っているから再就職は俺よりも容易いだろう。多分、俺が働けなくなっても花耶なら養ってくれるだろうな」

 ツラツラと淀みなく出てくる奥野の言うメリットに花耶は驚きを隠せなかったが、最後の部分には、あなたほどに稼ぐことは無理です…と心の中で突っ込んだ。正直、それは買い被り過ぎだろうと思う。しかも親戚の前でそんな事を言うのは恥ずかしいから勘弁して欲しかった。

「で?久美はどうなんだ?料理は?それ以外の家事は?最低でも俺よりは出来ないと話にならんぞ。それに専業主婦の選択肢は花耶にはないからお前も共働きが当然だし、仕事も花耶くらいには出来て上司の受けもいいんだよな?俺はお前に惚れていないから、お前で癒される事はないし、お前がいるからと言ってそれで幸せを感じる事もない。むしろお前を見るたびにストレスを感じるだろうから、花耶を失った埋め合わせ分も必要だな。俺と結婚したいって言うからには、納得できるだけのものを示してくれ」

 そう言って奥野は口の端にだけ笑みを浮かべた。奥野の言葉は淡々としていて、まるでプレゼンの様に酷く事務的だったが、それは逆に寒々しさを増していた。

「な、納得って…」

 具体的な例を挙げられて、久美は何も言い返せなかった。こう言われてしまえば、癒しだ何だと言ったところでそれは奥野には意味がないことは明白だった。しかも最初から愛さないと宣言されているも同然だ。その上で花耶を失うマイナス分も補うものを示せと言うのだから、どれほどの物を示せばいいのかなど見当もつかないだろう。

「と、透夜…そんな酷い事言わないで…」
「酷い?どこが?俺から死ぬまで共にと思うほど惚れた女を奪うのは酷くないとでも?」
「わ、私はあなたのために…」

 実の親に対するとは思えないほどの冷え切った態度の奥野に、母親は尚も言い募ろうとしたが、奥野の射るような視線にそれ以上言葉を続けることはできなかった。

「もう…いい加減にしなさい」

 断罪とも言える場面に滑り込んできたのは、淡々とした温度を感じさせない声だった。
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