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第二章
火の匂い
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「……いきとるかね?」
低く落ち着いた声が、波音の向こうから届いた。唯一は瞬きをする。逆光の中で揺れていた影が、ゆっくりと形を持つ。
黒髪の青年だった。日に焼けた肌に、細められた瞳。その目は警戒でも同情でもなく、ただ静かにこちらを見ている。
唯一は声を出そうとするが、喉がひりつくだけで言葉にならない。
青年はしばらく様子を見つめてから、ゆっくりと膝をついた。
「いきはあるね」
独り言のように呟き、濡れた髪を軽く払う。
助けると宣言するわけでもなく、問い詰めるわけでもない。ただ事実を確かめるように、自然な動きで腕を差し出す。
「たてるかね」
唯一はわずかに首を振ろうとするが、極度の疲労で身体が言うことをきかない。腕に力が入らず、砂の上で震える。
青年は無理に引き起こさず、体重を支えるように肩を差し出した。
「ゆっくりでいいよ」
唯一はその肩に腕を回す。思っていたよりも細いが、芯のある身体だった。
浜を歩くあいだ、青年は嵐のことを尋ねなかった。どこから流れてきたのかも、船はどうなったのかも聞かない。
唯一を引きずるようにして、ただ同じ歩幅で砂を踏み、一定の速さで進んでいく。
「……父と、兄は」
聞いていいことなのか、聞きたいことなのか、自問自答しながら唯一がかすれた声で問う。
すると青年はゆっくりとした動作で一度だけ海を振り返る。
「さあね」
淡い返事だった。
「うみはかえすときもあるし、かえさんときもある」
それだけ言って、また前を向く。
状況が分からないわけでもあるまいに、慰めるでもなく、突き放すでもない。その調子が、唯一には少しだけ掴めなかった。
やがて小高い場所に、小さな小屋が見えてきた。木と草で組まれた質素な建物から、細い煙が立ちのぼっている。
「ここじゃ」
中へ通されると、干した草の匂いと、薪の香りが混ざった温かい空気が広がっていた。
さっそく寝台に座らされ、水の入った器を差し出される。
「ゆっくりのめ、はらがおどろくじゃろ」
唯一は両手で器を包み込み、慎重に口をつける。冷たい水が喉を通り、胸の奥へ落ちていく。ようやく、身体が自分のものに戻っていく感覚があった。
「……助かった」
礼を言うと、青年は少し首を傾ける。
「はまのものをひろっただけじゃね」
不思議そうな、本気でそう思っている顔だった。
人を助けたという誇りも、特別なことをしたという様子もない。ただ、そこにあったものを拾っただけ、という態度だ。
恐らくもの扱いとも異なるのだろう。それはとても不思議な感覚だったが、悪い気はしなかった。
「なまえは?」
「……鼓原唯一」
「つづみはらゆいち…ながいなまえじゃね」
「いや、名前は唯一だ」
青年は薪を整えながら、訂正された言葉に首を傾げて続ける。
「うん。わしはゆねじゃ」
小さな音で火がぱちりと弾ける。ゆねは炎を見つめたまま、ぽつりと言った。
「おおきなあらしじゃったね。ほしがみえんかった」
嵐という言葉に唯一はぴくりと眉を跳ねさせ、うつむきがちだった顔を上げる。
「……星?」
「うん。みえんと、つまらんじゃろ」
嵐の規模でも、流れ着いた自分でもなく、星のことを先に言う。その焦点の置きどころが、唯一には少し不思議だった。
だが、やはり不思議と嫌ではない。
火の匂いと、一定の波音に包まれているうちに、胸の奥の震えが静かにほどけていく。
嵐のあとに残ったのは、小屋と火の熱と、ゆねという青年だった。
この出会いが何を変えるのか、唯一はまだ知らない。
ただ、星の話をするその声が、なぜか耳に残っていた。
低く落ち着いた声が、波音の向こうから届いた。唯一は瞬きをする。逆光の中で揺れていた影が、ゆっくりと形を持つ。
黒髪の青年だった。日に焼けた肌に、細められた瞳。その目は警戒でも同情でもなく、ただ静かにこちらを見ている。
唯一は声を出そうとするが、喉がひりつくだけで言葉にならない。
青年はしばらく様子を見つめてから、ゆっくりと膝をついた。
「いきはあるね」
独り言のように呟き、濡れた髪を軽く払う。
助けると宣言するわけでもなく、問い詰めるわけでもない。ただ事実を確かめるように、自然な動きで腕を差し出す。
「たてるかね」
唯一はわずかに首を振ろうとするが、極度の疲労で身体が言うことをきかない。腕に力が入らず、砂の上で震える。
青年は無理に引き起こさず、体重を支えるように肩を差し出した。
「ゆっくりでいいよ」
唯一はその肩に腕を回す。思っていたよりも細いが、芯のある身体だった。
浜を歩くあいだ、青年は嵐のことを尋ねなかった。どこから流れてきたのかも、船はどうなったのかも聞かない。
唯一を引きずるようにして、ただ同じ歩幅で砂を踏み、一定の速さで進んでいく。
「……父と、兄は」
聞いていいことなのか、聞きたいことなのか、自問自答しながら唯一がかすれた声で問う。
すると青年はゆっくりとした動作で一度だけ海を振り返る。
「さあね」
淡い返事だった。
「うみはかえすときもあるし、かえさんときもある」
それだけ言って、また前を向く。
状況が分からないわけでもあるまいに、慰めるでもなく、突き放すでもない。その調子が、唯一には少しだけ掴めなかった。
やがて小高い場所に、小さな小屋が見えてきた。木と草で組まれた質素な建物から、細い煙が立ちのぼっている。
「ここじゃ」
中へ通されると、干した草の匂いと、薪の香りが混ざった温かい空気が広がっていた。
さっそく寝台に座らされ、水の入った器を差し出される。
「ゆっくりのめ、はらがおどろくじゃろ」
唯一は両手で器を包み込み、慎重に口をつける。冷たい水が喉を通り、胸の奥へ落ちていく。ようやく、身体が自分のものに戻っていく感覚があった。
「……助かった」
礼を言うと、青年は少し首を傾ける。
「はまのものをひろっただけじゃね」
不思議そうな、本気でそう思っている顔だった。
人を助けたという誇りも、特別なことをしたという様子もない。ただ、そこにあったものを拾っただけ、という態度だ。
恐らくもの扱いとも異なるのだろう。それはとても不思議な感覚だったが、悪い気はしなかった。
「なまえは?」
「……鼓原唯一」
「つづみはらゆいち…ながいなまえじゃね」
「いや、名前は唯一だ」
青年は薪を整えながら、訂正された言葉に首を傾げて続ける。
「うん。わしはゆねじゃ」
小さな音で火がぱちりと弾ける。ゆねは炎を見つめたまま、ぽつりと言った。
「おおきなあらしじゃったね。ほしがみえんかった」
嵐という言葉に唯一はぴくりと眉を跳ねさせ、うつむきがちだった顔を上げる。
「……星?」
「うん。みえんと、つまらんじゃろ」
嵐の規模でも、流れ着いた自分でもなく、星のことを先に言う。その焦点の置きどころが、唯一には少し不思議だった。
だが、やはり不思議と嫌ではない。
火の匂いと、一定の波音に包まれているうちに、胸の奥の震えが静かにほどけていく。
嵐のあとに残ったのは、小屋と火の熱と、ゆねという青年だった。
この出会いが何を変えるのか、唯一はまだ知らない。
ただ、星の話をするその声が、なぜか耳に残っていた。
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