文明を知った少年は、持ち帰らない

座逃無-ざとうなし-

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第三章

手伝うということ

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 翌朝、潮の匂いで目が覚めた。
 小屋の外では、すでに人の気配が動いている。波音に混じって、網が擦れる音や低い掛け声が聞こえた。
 嵐の記憶が胸の奥に残っているのに、島の朝は何事もなかったかのように始まっている。

 唯一は身体を起こす。腕の奥に鈍い重さがあるが、昨日ほどではない。立てる。歩ける。そう確かめるように小屋を出た。
 浜では、男たちが簡素な網を広げていた。舟は小さく、湖山山島で使っていたものよりもずっと軽い。ゆねもその中にいる。

「もううごいていいのかね」
「平気だ」

 唯一は答え、近くの網を掴んだ。縄は細く、目は粗い。これで魚が逃げないのかと一瞬思うが、何も言わない。

「そのままひっぱるよ」

 ゆねの声に合わせ、男たちが網を引く。唯一も力を込めるが、見た目以上に軽い。
 湖山山島の網とは比べものにならないほど軽い。
 浜に上がったのは、大小の魚が十数匹だけだった。男のひとりが満足げに笑う。

「こんだけあればじゅうぶんじゃ」

 こんな網が他にもあるのだろう、そう思っていた唯一は思わず聞き返す。

「これだけで?」
「きょうたべるぶんじゃ」

 ゆねと同じだ。それ以上はいらない、それが当たり前という顔だった。ゆねは網から小さな魚を外し、海へ戻す。

「ちいさいのは、かえすよ」

 魚は一瞬きらめき、波に溶けた。
 唯一はその光を目で追う。湖山山島では、獲れるだけ獲る。嵐が来れば何日も出られない。蓄えは多いほど安心だ。
 だがここでは違う。必要な分だけを獲り、あとは海へ返す。
 その日のあいだ、唯一は薪を割り、水を運び、小屋の継ぎ目を直すのを手伝った。ゆねの家族はそれぞれ役割があって忙しい。
 偶然とはいえ、男手が増えたのは良いことだろう。身体はまだ重いが、動いているほうが落ち着く。

「きょうはよくはたらくね」

 ゆねが言う。

「じっとしてるのは苦手だからな」

 本調子ではないが、不思議と口角が上がる。食い気味に答えると、ゆねは小さく笑った。

「わしも」

 だが働き方は違う。ゆねは急がない。焦らない。必要な分だけ手を動かす。
 唯一はつい力を込めすぎ、早く終わらせようとしてしまう。

 

 夕方、浜はゆっくりと橙色に染まった。
 引いた潮の匂いが風に混じり、湿った砂にまだ日中の熱が残っている。
 唯一は腰を下ろし、両手を後ろについた。腕の奥に残る疲れは重いが、この疲労感は嫌ではない。
 少し離れたところで子どもたちが走り回り、干し台のそばでは女たちが魚を並べながら笑い声を交わしている。

 この島の人たちは急ぐ気配がない。誰も何かに追われていない。
 湖山山島では、海は常に相手だった。荒れる前に獲り、荒れたあとは備える。父も兄も、次を考え続けていた。
 ここでは、海はただそこにある。
 ゆねが隣に腰を下ろす。砂がわずかに崩れ、肩が触れそうな距離に落ち着く。

「からだ、だいじょうぶかね」
「問題ねえ」

 本当は腕がわずかに震えている。それでも言葉にするほどではない。
 波は一定の間隔で砂を撫で、また静かに引いていく。

「きょうのさかな、すくなかったね」
「腹、減らねえのか」
「へるよ」

 ゆねは砂をつまみ、指の間から落とす。

「でも、へったらまたとればいい」

 言葉は軽いが、迷いはない。足りなくなる前に備える。それが当たり前だった唯一には、その考えはまだ馴染まない。
 だが空には、最初の星が浮かび始めていた。ひとつ、またひとつと光が増え、海面に映った星が波で揺れる。

「きれいじゃね」

 ゆねの声は、昼よりも柔らかい。つられて唯一も空を見上げる。
 胸の奥にあった硬さが、わずかに緩む。焦らなくても、生きている場所があるのだと、身体のほうが先に理解し始める。
 遠くで子どもの笑い声が上がり、焚き火が小さく弾けた。
 夜は急がない。海は穏やかに呼吸している。
 ゆねが何も言わず砂へ寝転び、腕を枕に星を見上げる。

 唯一も視線を空へ戻す。

 同じ星を、父も兄も見ているのだろうか。
 その問いは胸の奥に沈み、答えを急がなかった。

 夜の冷たい空気が、嵐で熱を帯びていた身体をゆっくりと冷ましていく。
 その静けさの中で、唯一は初めて、自分が生き延びたことを確かめるように呼吸を整えていた。
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