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第三章
網の跡
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浜で網を繕っていると、指先に硬い感触が触れた。
縄のほつれを直そうと力を込めた瞬間、掌の古い傷がきしむ。嵐の日に擦れた跡だ。かさぶたは落ちているが、薄く赤い線がまだ残っている。
唯一は無意識に、その傷を親指でなぞった。湖山山島の朝は、もっと騒がしかった。
父の怒鳴り声が飛び、体躯のいい兄がまるで子供かのようにバタバタと網を抱えて浜を走る。
舟底を叩く音、櫂が水を切る音、魚が跳ねる水しぶき。すべてが混ざり合い、海へ出る前から息が上がっていた。
「唯一、遅れますよ」
兄の声が、波音の奥から蘇る。兄はいつも冷静だった。口調は丁寧でも、網を握る手は誰よりも強い。
嵐の前触れを察しながらも、最後まで舟を離さない人だった。父は振り返らない。だが背中で語る男だった。
唯一は、あの背中を追い越すつもりで海へ出ていた。
浜を渡る風が、思考を現実へ引き戻す。
ななく島の海は、今日も穏やかだ。だがその静けさが、胸の奥にひっかかる。
「いたむかね」
いつの間にか隣へしゃがみ込んでいたゆねが、傷の残る掌を見つめる。
「たいしたことねえ」
噓のつもりはない。そう答えながらも、縄を握る力がわずかに緩む。
「むりせんでいい」
ゆねは網を受け取り、指先を滑らせるように結び直していく。その動きは無駄がなく、結び目はきれいに揃っていた。
唯一はその手元を見つめる。自分の結びとは少し違う。
湖山山島の結びは固く、荒波でも解けないよう締め上げる。ここでは、ほどけてもすぐ結び直せる柔らかい結び方をしている。
「違うな」
「ちがうね」
ゆねは顔を上げ、目だけで笑う。
「でも、どっちもつかえるよ」
その言葉は軽いが、否定の色はない。否定どころかどちらもいいと肯定している。そういった機微が、少しずつわかるようになってきていた。
唯一は網を受け取り、結び目を指で確かめる。固さは足りない気もするが、島の舟には合っているのかもしれない。
浜に置かれていた小舟が、波に揺れて木を軋ませた。
ふいに唯一は立ち上がり、舟へ歩み寄る。舟底を返し、溜まった砂を払う。指先に木のささくれが触れ、ざらりとした感触が残る。
湖山山島の舟よりも軽く、板も薄い。嵐に耐える舟ではない。
ななく島では嵐の日に、わざわざこれで出ることはないのだろう。
「のるかね」
いたずらめいた声音で、でも真剣な眼差しで。ゆねが櫂を手にして言う。
沖へ出るわけではない。浜沿いを少しだけ漕ぐ。それだけのつもりだと、視線が伝えている。
唯一は大きくうなずき、迷わず乗り込んだ。舟は小さく揺れ、足裏に木の感触が返る。
櫂が水を切る音が、静かな浜に響く。水の重さが腕に伝わる。
嵐の日の冷たさとは違う。だが、同じ海だ。
「こわいかね」
ゆねの声が、波に紛れる。
「……ああ」
嘘はつかなかった。舟はゆっくりと進み、やがて浜へ戻る。ゆねは黙ったまま波に揺れる舟の上で星を見上げていた。
浅瀬に足をつけたとき、砂の沈む感触がはっきりと伝わった。
怖さは消えない。だが自分の足で立てる。それならやるべきことがあるのではないか。
舟を引き上げながら、唯一はもう一度掌の傷を握り込む。
あの綱を、もう一度握るために。
縄のほつれを直そうと力を込めた瞬間、掌の古い傷がきしむ。嵐の日に擦れた跡だ。かさぶたは落ちているが、薄く赤い線がまだ残っている。
唯一は無意識に、その傷を親指でなぞった。湖山山島の朝は、もっと騒がしかった。
父の怒鳴り声が飛び、体躯のいい兄がまるで子供かのようにバタバタと網を抱えて浜を走る。
舟底を叩く音、櫂が水を切る音、魚が跳ねる水しぶき。すべてが混ざり合い、海へ出る前から息が上がっていた。
「唯一、遅れますよ」
兄の声が、波音の奥から蘇る。兄はいつも冷静だった。口調は丁寧でも、網を握る手は誰よりも強い。
嵐の前触れを察しながらも、最後まで舟を離さない人だった。父は振り返らない。だが背中で語る男だった。
唯一は、あの背中を追い越すつもりで海へ出ていた。
浜を渡る風が、思考を現実へ引き戻す。
ななく島の海は、今日も穏やかだ。だがその静けさが、胸の奥にひっかかる。
「いたむかね」
いつの間にか隣へしゃがみ込んでいたゆねが、傷の残る掌を見つめる。
「たいしたことねえ」
噓のつもりはない。そう答えながらも、縄を握る力がわずかに緩む。
「むりせんでいい」
ゆねは網を受け取り、指先を滑らせるように結び直していく。その動きは無駄がなく、結び目はきれいに揃っていた。
唯一はその手元を見つめる。自分の結びとは少し違う。
湖山山島の結びは固く、荒波でも解けないよう締め上げる。ここでは、ほどけてもすぐ結び直せる柔らかい結び方をしている。
「違うな」
「ちがうね」
ゆねは顔を上げ、目だけで笑う。
「でも、どっちもつかえるよ」
その言葉は軽いが、否定の色はない。否定どころかどちらもいいと肯定している。そういった機微が、少しずつわかるようになってきていた。
唯一は網を受け取り、結び目を指で確かめる。固さは足りない気もするが、島の舟には合っているのかもしれない。
浜に置かれていた小舟が、波に揺れて木を軋ませた。
ふいに唯一は立ち上がり、舟へ歩み寄る。舟底を返し、溜まった砂を払う。指先に木のささくれが触れ、ざらりとした感触が残る。
湖山山島の舟よりも軽く、板も薄い。嵐に耐える舟ではない。
ななく島では嵐の日に、わざわざこれで出ることはないのだろう。
「のるかね」
いたずらめいた声音で、でも真剣な眼差しで。ゆねが櫂を手にして言う。
沖へ出るわけではない。浜沿いを少しだけ漕ぐ。それだけのつもりだと、視線が伝えている。
唯一は大きくうなずき、迷わず乗り込んだ。舟は小さく揺れ、足裏に木の感触が返る。
櫂が水を切る音が、静かな浜に響く。水の重さが腕に伝わる。
嵐の日の冷たさとは違う。だが、同じ海だ。
「こわいかね」
ゆねの声が、波に紛れる。
「……ああ」
嘘はつかなかった。舟はゆっくりと進み、やがて浜へ戻る。ゆねは黙ったまま波に揺れる舟の上で星を見上げていた。
浅瀬に足をつけたとき、砂の沈む感触がはっきりと伝わった。
怖さは消えない。だが自分の足で立てる。それならやるべきことがあるのではないか。
舟を引き上げながら、唯一はもう一度掌の傷を握り込む。
あの綱を、もう一度握るために。
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