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七章、勇者の呪いと熱砂の誓い

142、もう、返事をしないよ/起きて

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 声が聞こえる。
 気配がわかる。感じ取れる。 
 あどけなく、それでいて長い年月を生きている超常の存在なのだと感じさせる、そんな気配だ。

 ――魔法のランプだ。ランプの精だ。


「はっ……はぁ、……はぁっ……」

 ――僕は、耳がいいんだ。
 
 僕はそちらに手を伸ばした。
 硬質で無機質な黄金の輝きを魅せる、魔法のランプに。
 
 
【ドゥバイド たのしかった?】

【ドゥバイド たのしい?】

【ドゥバイド まんぞく?】
 
 
「……っ」
 無垢な声がぽつりと小さく呟くのが聞こえて、僕は胸が締め付けられる思いで声をかけた。

「ドゥバイド様は……っ、もう、返事をしないよ……」

 今までは、二人で会話をしていたのだろうか。
 ドゥバイドはきっと優しく魔法のランプを撫でたのだろう。
 あの淋しい目で、美しい黄金を愛でたのだろう。
 あの低く甘やかに絶望を望む声で、ランプの精に何を話してきたのだろう。

 『ランプちゃん』
 ああ、親し気にそう呼んでいた。
 そんな気がする。

 ――きっと、僕が情を覚えてしまったように。ランプとも。
 
 指先がランプに触れると、ひんやりとした冷たさが悲しくて心地よかった。
 
 全身が溶けてしまいそうなほど、感覚が暴れ狂っている。
 僕は冷たさを掻き抱くように小さなランプを抱きしめて、泣いた。

「っ……う、ひっ、く、……っ」

 気付けば、鼓膜がおかしくなりそうなほど羽音があたりに満ちている。
 たくさん、小さな生き物が群れている。
 怖い。

 ロザニイルの悲鳴が聞こえる。
 助けなきゃ。でも、もう体が自由にならない。動ける気がしない。
 今、周囲がどうなっているのかも、わからない。めちゃくちゃだ。もう、めちゃくちゃだ。


【めずらしいものをもっている……聖杯。聖杯だ】 

 
 ランプの精は、僕の腕の中で囁いた。
 絶望の暗闇に一筋の光が差し込むように、美しく清らかに囁いた。
 

をちょうだい。そうすれば、願いをかなえてあげる】
 

 ――対価だ。対価を求められている。差し出せば、願いをかなえると言われている。

 それ。それって、なんだ……、聖杯だ。
 聖杯がほしい?
 聖杯をあげたら、助けてもらえる?
 
 僕は困惑と苦しみの中で一瞬迷った。

 こんなの、いらない。
 嫌じゃないか。だって、僕は男だもの。
 
 当たり前だろう?
 
 こんな、王族の魔力供給装置みたいな体。
 男を欲しがって惹き付けて、男に抱いてもらって悦んで、子供を宿したいと思ってしまうような気持ちの悪い体、ずっとずっと、僕は嫌だったんじゃないのか。
 僕は過去の人生で、ロザニイルみたいになりたくなかっただろう?
 聖杯にされたロザニイルを可哀想にと思いながら、聖杯に選ばれたのが僕じゃなくてよかったって思ってたのだろう?
 

 ――本当に?

 本当に、そうだった?

 ……僕、ロザニイルが羨ましかっただろう? 嫉妬しただろう?
 
 自分が聖杯だったら、ノウファムに抱いてもらえると思っただろう……?
 今回の人生で聖杯となって、僕は嬉しかったのではないか? 愛される資格がある自分が、嬉しいのだろう……?

「この、羽虫ども! やめろ、いてぇ、噛むな! ……そっちはだめだ!」
 逡巡する耳にロザニイルの悲鳴が届いて、僕の心が大きく揺れた。
「くそっ……エーテルには触らせねえぞ、……狂妖精どもが……!」
  
 痛そうな声だ。苦しそうな声だ。
 僕は足を引っ張っている。
 守られるだけになっている。
 だめだ。
 そんなの、だめだ。
 
「……あげる。僕の、聖杯」
 
 僕がせいいっぱいの大声で意思表明した瞬間、光が弾けた。

【願いをどうぞ。かなえましょう】

 優しい声が腕の中できらきらと希望を輝かせた。
 それはあたたかくて、美しくて、悲しくて、寂しかった。
 僕は必死にその声にすがった。
 
 たすけて。

 たすけて。ちがう、たすける。

「この混乱を落ち着かせて――僕の大切なひとを、みんなを助けて。僕にみんなを、助けさせて」
 
 そうだ、僕は望んでいたんだ。
 助けられる自分じゃない。
 守られる自分じゃない。
 大切なみんなを助けて、守って、幸せにしてあげたかったんだ。
 ……そんな自分になりたかったんだ。ずっと、ずっと。

「ロザニイルも、ノウファムも……僕は、大切なひとを守るんだ」

「……僕が守るんだ!」

 ふわふわ、ぴかぴか。
 綺麗に鮮やかに光が咲いて、弾けて、周囲を眩く呑み込んでいく。
 
 腕の中から生まれた光が、ひとつ。
 ――ランプの精の奇跡の光だ。

 自分の周囲に、もうひとつ。これは――、

「ふ、あ……っ」

 全身の熱が引いていく。体の中にあった不自然な器官が消えていく。
 消える一瞬、懐かしい匂いがふわっと僕の鼻腔を甘くくすぐって嬉しい気持ちにさせた。

 ――あ。
 ……この匂い。ノウファム様の。

 愛しいそれに気付いた瞬間に、特別な匂いはふっと掻き消えた。

 匂いが消えたわけじゃない。

 ……僕の身体が変わって、感じることができなくなったのだ。


 近くに転がっていた杖を握って振れば、過去の人生で僕が得意げに振る舞っていたころのように、魔力が自在に操れた。

 風を誘い、妖精を落とし、大地に縛って、浄化する。
 妖精の数は多いが、だからなんだというのだろう。
 ただの羽虫と変わらない。

 僕は高揚の中でそう思って、口の端をもちあげた。

 ロザニイルが何か言っている。
 以前の僕がそうであったように、僕は自信に溢れた笑顔で杖を振った。
「ロザニイル。向こうだ」
 特別な彼のいる方向を杖先で示して、僕は地を蹴った。
「……向こうにノウファムがいるよ」

 とん、と軽くジャンプするように地を蹴った全身が風を巻いて浮かび上がる。
 箒なんて、いらないじゃないか。

「えっ? エーテル!?」
「ついてきて、ロザニイル。ついてきて。杖があるから、できるだろう」

 ――君は天才なのだろう? なら、僕についてこれないわけがないじゃないか。
 
 僕が笑うと、背後にやけになったような気配がついてくる。ちらりと視れば、ロザニイルは杖を箒の代わりにして跨って飛んでいた。ちょっと不格好だけど、面白い。僕は頷いて速度を上げた。
 疾風になったように傲慢に天を翔けて、僕は小妖精の発生源に飛び込んだ。

「……ノウファム。何をやってるんです……」
 
 膨大な魔力が渦巻いている。
 そこから無限に湧き続けるような狂える小妖精たちに杖を振って小妖精たちを払いながら中心に近づいていけば、魂の抜けた人形みたいに佇む彼がいた。

「へ、い、か……――僕の王様。起きて。起きなさい……」
 
 ふわりと飛翔して、上から顔を近づけてキスを落とせば、甘やかな幸せが胸に湧く。

「貴方って、いつも。……世話が焼けるんですから」
 ――お世話をしたかったんだ。いつも。いつも。

 最初の世界で出会った弟思いで純朴な青年のノウファムを、支えたいと思ったのだ。
 二回目の世界で、僕の思い通りにならない彼を支配して思い通りにして、勝たせたいと思ったのだ。
 僕の王様なんだ。僕が世話をするんだ。僕が守って、僕が支えて、勝たせるのだ。

「……、エー、テル……?」 
 ――震える睫毛の下から愛しい瞳が覗くと、僕のこころが歓喜に震えた。快感でいっぱいになった。
 同時に、僕のこころにはどうしようもない喪失感が訪れていた。


 ――僕は、聖杯器官を失ったのだ。
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