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しおりを挟むミルクティーを淹れて、と言うと、裕也は笑顔を残してキッチンへ行った。ソファに浅く座って寝転がるように背もたれに体を預け、天井を見上げながら聞き耳をたてる。
櫂の一番大切な人も僕にしていてくれるならね、と裕也は言った。そうすれば、我侭を聞いてくれると。櫂の一番大切な人なんてとっくに裕也でしかないのに。
裕也が櫂の一番大切な人になりたがっている。それはつまり、裕也も櫂と同じように、櫂なしには生きていけないと思ってくれているということだろうか。櫂は我侭を言うばかりで、裕也になにかしてあげているとは思えないのに。
「……直接話したいことがあるって言ってたけど」
部屋に戻ってきた裕也からマグカップを受け取る。マグカップの中は、白と茶の中間の、独特な色合いで満たされている。
「うん。……昨日のね、ことなんだけど」
自分もソファに座り、裕也はマグカップを口に運んだ。喉が乾いていたのか、そうしないと話し始められない、とでもいうみたいに。
「昨日のこと……」
昨日のこと。
昨日、新海がこの部屋に泊まっていったということ。
何か櫂を咎める言葉の一つくらい言ってくるかと思っていた新海はあんなにあっさりと帰って行った。それが、新海がどれだけ裕也のことを好きかということを物語っているような気もする。櫂のように我侭を押し付けるのとは違う、大人の女性。
櫂は、裕也の一番大切な人にして欲しいと言った。それは一番でさえあればごく近い二番がいてもいいという意味じゃない。
自分ひとりでなければ嫌だ。心が狭いと言われてもいい。いつか誰かに追い抜かされるんじゃないかと怯えながら裕也の隣にいるなんてとても耐えられない。
「裕也」
どうにかして自分だけが特別になりたい、と思うと居ても立ってもいられなかった。一口も飲まれないままコーヒーテーブルに置かれたマグカップが、やけに大きな音をたてる。
「……ちょ、ちょっと、櫂、零れるからっ」
「ねえ」
櫂が膝の上に乗るようにして抱きつくと、裕也は持っていたミルクティーをあやうく零しそうになった。それでも、今はそんなことには構っていられない。
いっそ裕也が自分の身体に溺れてしまえばいいのに。自分以外の誰かなんて視界にも入らなくなってしまうくらいに。
「我侭、聞いてくれるんでしょ?」
「そのつもりだけど……」
「だったら抱いてよ。セックスして。今すぐに」
裕也が喉を鳴らすようにして唾液を飲み込んだ。欲情している、んだろうか。それならそのまま自分を抱いてしまえばいいのに。
「……まったく」
大きなため息を一つついて、裕也は左手を櫂の背中に回してきた。抱き締める、というよりは、櫂が後ろに倒れてしまわないよう支えるといった感じだった。
「櫂。僕がね、一体どれだけ頑張って、今まで我慢してきたと思ってるの」
「我慢なんてしなくていい」
「そんなこと言わないの。一度始めちゃったら途中で止めたりできないんだから」
櫂を抱きかかえるように身体を乗り出して、裕也もマグカップをテーブルに置いた。
「その前にね、僕の話を聞いて」
「昨日新海先輩と寝たって話なら聞かない」
「……まあ、あの状況じゃあ、普通はそう思うよね」
「それ以外にどう思うの」
「先輩とは何もないよ」
まっすぐ、裕也は櫂の目を見てきた。
嘘をつくとき、人は相手の目を見られなくなる。見ようとしても、変に目が泳いでしまったりする。それが解っているから、櫂は普段から相手の目をまっすぐには見ないようにしていた。目を見られないというのが単なるクセであって、嘘をついているせいではないと思わせるために。
裕也は、嘘をつくときどうするんだろう?
「信じない」
「信じて。メールで、泊まりに来るのが女の人だって意図的に言わなかったのは謝るから。櫂は飲み会に行くって言ってたし、まさかあの日部屋に来るとは思ってなかったんだ。女の人だって言うと櫂のことだから変に心配するかと思ったんだけど、ちゃんと言っておいたほうが良かったね。でも、本当に、先輩とは何もしてないよ」
「部屋に二人きりだったのに?」
「櫂が来たあとに先輩には帰ってもらったよ。……って言っても、だから何もないって意味じゃないけど。言ったでしょ、僕は男しか恋愛対象にならないって。だから女の人と部屋で二人きりになっても、そういうことはしないよ。できないとまでは言い切らないけど、無理してまでしてもいいことがない」
そう言って、一瞬、裕也はどこか遠くを見るような目をした。
「女の人だってことは言わなかったけど、それ以外のことは本当。先輩が結婚間近で同棲してるってことも、その同棲相手と喧嘩して家出したってことも、他に行くあてがなかったから泊めてあげたってことも」
「嘘だ。結婚間近の女の人がどうして裕也のところに泊まりに来るの。そういう場合なら女友達のところに行くのが普通だよ」
「普通はね。でも先輩、バイだから」
「バイ……?」
「バイセクシュアル。女の人も恋愛対象になるんだよ。で、それをその同棲相手も知ってる。だから、下手な女友達のところに行ったら疑われて、喧嘩がさらにややこしいことになるわけ」
「…………」
にわかには信じられない。話ができ過ぎているような気がする。やっぱり裕也は嘘をついているんじゃないだろうか。
「バイってことは、男の人も恋愛対象になるんでしょ? だったら、裕也のところに泊まったってややこしくなるんじゃないの?」
「それは、その同棲相手が僕のことよく知ってるから。僕の兄さんだからね」
「……兄さん?」
そういえば、裕也の家族構成のことなんて今まで聞いたこともなかった。裕也にしか関心がなくて、家族のことを気にしたことも今までに一度もない。
「新海先輩の同棲相手は僕の兄さんなんだよ。二人は僕経由で知り合ったんだ。で、兄さんは僕が男しか恋愛対象にできないって知ってから何とかしてそれを直そうとしてきた人だから、僕がどうしても男しかだめだってことは身をもって知ってる。だから、先輩が僕のところに泊まっても、そういう疑いはかからない」
「でも、裕也がそうでも、新海先輩、裕也のこと好きみたいだったし……!」
「……好き? 先輩が、僕を?」
不意をつかれて戸惑っているといった様子の裕也に、櫂は今日ここに来るきっかけになった出来事を早口になりながら説明する。
「今日、急に先輩に部室に呼び出されたんだよ。面識もないのに手嶋先輩通して部室に呼び出して、俺が裕也のこと本気で好きなようには見えないって言ってきて」
「……先輩、そんなことしたの?」
本当に知らなかったんだろう、裕也は驚いたような顔をして、じゃあ指輪を忘れてったのはやっぱりわざとなのかな、と独り言みたいにして呟いた。
「裕也が先輩のことどう思ってるのかは知らないけど、やっぱり先輩は裕也のこと好きだと思うよ」
こんなことは考えたくもないけれど、新海は結構本気なんじゃないかと櫂は思う。裕也の兄と結婚することにしたのも、女性を好きになれない裕也を諦めきれなかったからなんて可能性はないだろうか。
涙腺がおかしくなってしまったのか、また泣きそうになりながら裕也をじっと見ていると、ふいに、ひどく嬉しそうな笑顔を裕也が作った。耐え切れないとでも言いたげに。
「……笑うところ?」
「ごめん、ごめんね。笑うところじゃないって解ってるんだけど、あんまり櫂が可愛いから、つい」
「可愛いって、俺は真剣に言ってるのに!」
「だから、ごめんね。……好きか嫌いかで言ったら先輩は僕のこと好きでいてくれてるんだと思うけど。でも先輩は僕のこと弟みたいだとしか思ってないよ。もうすぐ実際にそうなるしね」
「どうしてそう言い切れるの」
「だって、僕が同性愛者だってことをなんとかして直そうとしてた兄さんを、僕の個性を認めてあげてって説得してくれたのは先輩だから。そんなこと言わなければ解らないのに、自分がバイだってことを兄さんにカミングアウトして、ね。……だから、先輩が困ってるときに僕が協力できることがあれば協力しようと思ったんだけど。でも逆に助けてもらったみたい、だね」
それはつまり、新海が櫂を呼び出したのは、櫂と裕也の仲を取り持つための演技だったということだろうか。
全て新海の思い通りに進んだのだとすれば空恐ろしいものがある。自分のせいで裕也が誤解されたことを申し訳なく思ってのこと、だと解釈していいんだろうか。
「……ほんとう、に?」
「本当。先輩はそういう人だよ。なんだったら電話して聞いてみる? 僕の兄さんに聞いてもいいし」
櫂には姉がいないから解らないけれど、実際に姉がいたらあんな感じなんだろうか。
ふと、チャイを淹れてくれたときに裕也が言っていたことを思い出した。
別に他人と同じでないことを気にする必要はない。突き詰めれば、どうせ人それぞれ自分に合ったものなんて違うんだから。
もしかして。ミルクティーの淹れ方を裕也に教えたというサークルの先輩と、チャイの淹れ方を裕也に教えた人は同一人物なんじゃないだろうか。
「それに、もし仮に先輩が僕のこと好きだとしても、僕が好きなのは櫂だけだよ。最初から」
「最初、から?」
「一目惚れだって言ったよね」
それは覚えている。一目惚れ。可愛くて、放っておけなかった、なんて。
「きっかけは可愛いなって思ったことなんだけど。こんなこと言うのもどうかと思うけど、好みなんだ、櫂の顔。気まぐれな猫みたいな。それで無意識のうちに観察してたら、にこにこ笑ってるそれが本当の櫂じゃないみたいな気がしてきて。何が隠されてるんだろうって気になりだしたら、声をかけずにはいられなくなった」
「……だって実際に、あんなのは本当の俺じゃないし」
「でもあの飲み会のときだけじゃ解らなかったから、慌てて連絡先聞いて。それでメールしてるうちに違うことまで見えてきた。ああこの人寂しいんだなって。本当の自分のことを誰も見てくれないから。本当は、極度の甘えたがりなのに。どうして誰も甘やかしてあげないんだろうって思った」
「どうしてって、俺は度が過ぎるんだよ。それは自分でも解ってる」
「そんなことないよ。僕は甘えられるの好きだよ。甘えられると、自分が存在していいんだなって思えて、安心する。僕はそうやって他人を通してしか自分を正当化できないから」
どういう顔をしたらいいのか解らなくなって、櫂は裕也の肩に押し付けて顔を隠した。
「……でもね、櫂とメールしてて解ったことが他にもあったんだ。当たり前といえば当たり前だけど、櫂がやっぱりストレートだったってこと。僕は基本的にストレートには手を出さないんだ。だって、女の人を好きになれるのに、わざわざ男と付き合うことないじゃないか」
「そんなの……っ」
話が良くない方向に向かっている気がして、櫂は慌てて抗議する。
「確かに今までに男の人と付き合ったことはないけど、今までの彼女とは上手くいかなかった。たぶん、俺も男しか駄目なんだよ」
「違うよ。それは性別じゃなくて、相手の問題。櫂は自分をそのまま受け入れてくれる人が必要だったのに、今までにそういう女の人に会えなかっただけ」
きっぱりと言い切って、しばらく裕也は黙ってしまった。なんとなく裕也が傷ついた顔をしているような気がして、櫂は顔を上げられなくなった。
「それなら、俺と付き合うって言ったのは」
「うん。ストレートに手を出しちゃだめだって思ったんだけど、あんまり櫂が辛そうだったから。だったら、櫂が理想の女の人に会うまでのつなぎならいいかなって。そんなのを言訳にして、自分に甘いと思うんだけど」
「……それが嘘じゃないなら、本当に甘いね」
「うん。ごめんね」
謝らなくていいのに、と思った。
甘くてよかったから。
甘くないミルクティーだったら櫂の好みじゃなかった。
「もしかして、裕也が俺のこと抱かなかったのは、そのせい?」
「だって。僕はそういう意味で櫂のこと好きだったから。そこまでしたら、もうどうにもならないくらい櫂に溺れるのが目に見えてた。櫂に好きな女の人ができたら、僕のことはなかったことにしていいよ、って笑顔で言うって決めてたのに」
「……裕也」
どうしてこの人は、自分のことをそんなに好きになってくれたんだろう。
「やっぱり」
「やっぱり?」
「抱いてよ、裕也」
欲しい。裕也が。一つになって、混ざり合ってしまいたい。そうして溺れさせてしまいたい。自分も溺れてしまうから。
実際は、もうとっくに溺れてしまっているのだけれど。
「そうだね」
顔を上げると、裕也は苦笑していた。
「どうせ、もうそんなことを我慢したところで、離してなんかあげられないんだ」
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