2 / 8
五年前の春、銀座の夜。
しおりを挟む
綾音がラウンジ「Aube」に入店してから、まだ半年ほどの頃だった。大学卒業後、いくつかの接客業を経て、Aubeにたどり着いたのは偶然ではなく、紹介と面接の積み重ねの結果だった。どこか気品のある声、穏やかな物腰、それでいて芯のある言葉選びが、ママやオーナーの目に留まり、彼女は早々に“指名の取れる人材”として育てられた。
江口悠真と初めて会ったのは、そんなある金曜の夜だった。彼は取引先との会食帰りに、部下と二人で来店した。端整な顔立ちと落ち着いた所作。だが、何より綾音の印象に残ったのは、彼の“人の話を聞く姿勢”だった。
「はじめまして、江口と申します」 「綾音です。今日はどんな一日でした?」 「正直に言えば……疲れました。でも、あなたの声で少し楽になった気がします」
その言葉は社交辞令ではなく、体温を伴っていた。彼の目は、冗談を言うでもなく、酔って崩れるでもなく、まっすぐに綾音を見ていた。以後、彼は月に一度、時には週に一度のペースで来店するようになった。
話題は多岐にわたった。経済の話、古い映画、哲学書の引用から、好きな花まで。江口は軽薄な口説き文句ひとつ吐かない代わりに、毎回、小さな手紙や本を一冊ずつ持ってきた。
「前に話してた本、これ。二人の関係を描くのに似てると思って」 「“関係”って、私たちの?」 「まだ名付けられないけれど、何かが始まっている気がして」
綾音も次第に、彼にだけは素の言葉を見せるようになっていった。職場では見せられない弱音、心配、恋愛観。そしてある夜、ぽつりと彼女は呟いた。
「……私、触れられるの、怖いときがあるの」
そのときの江口の沈黙と、わずかに首を縦に振るしぐさ。それが綾音の胸に残った。
以後、彼は一度たりとも、彼女に物理的に触れることはなかった。
それでも足繁く通う彼に綾音は、仕事ではない何かを感じた。だが、言葉にはしなかった。距離を崩すのは、自分がルールを崩すこと。そう思っていた。
──だが、その“ルール”すら、いつしか彼との関係においては、不要なものになっていった。
彼女が唯一、心から信じられる客。それが江口悠真だった。
そして、その関係性の延長に──“あの封筒”はあった。
内容証明という“形式”に託した江口の申し出は、ただの恋の延長ではなく、あの沈黙の返答の続きだった。
──彼女の“触れられる”という境界線を、どうすれば大切にできるか。
彼は答えを五年かけて探していたのかもしれない。
-郵便の届く少し前に話を戻す-
弁護士・榊原律子は、東京・丸の内にある中規模の法律事務所に籍を置く実力派だった。企業法務を中心に、コンプライアンス、個人の権利保護にも強い姿勢を見せる彼女は、ここ数年、“恋愛契約”や“意思確認文書”という新たな分野の案件を扱い始めていた。
江口悠真が最初に榊原を訪ねたのは、2か月前のことだった。
「弁護士としてお伺いしますが……これは、いわゆる“恋愛の申し出”ですか?」
榊原は、彼が提示した一枚のメモを読みながらそう尋ねた。
「そうです。ただし、“恋”というより、“尊重”を証明したいんです」
その言葉に、榊原の眉がわずかに動いた。
「恋愛関係における文書化は、極めてデリケートです。特に身体的接触を含む合意には、細心の注意が必要です。相手を傷つけない意図と、あなたの誠意をどう可視化するか……そこが肝になります」
江口は深く頷き、バッグから一冊のノートを取り出した。それは、綾音との関係にまつわる日付入りの記録ノートだった。会話、彼女が好んだ花、避ける話題、過去のトラウマへの配慮──それらが丁寧に綴られていた。
「彼女に触れたことは一度もありません。だからこそ、触れたいと思った今、許可なく進めるわけにはいかない。彼女の“選べる自由”を、先に渡したいんです」
榊原はその記録をめくりながら、深くため息をついた。
「……これは法的文書以前に、“人としての倫理”ですね。わかりました。文面案を複数作りましょう。ただし、相手が不快と感じた時点で、すべてを取り下げる用意が必要です」
「当然です。その場合でも、僕の尊重の意思は変わりません」
その後、二人は複数回の打ち合わせを重ねた。
文言の表現──「希望」「提案」「同意」などの語彙の使い分け。 形式──弁護士名義による送付、返信不要の配慮。 添付資料──当日の健康診断、記録端末の準備。 同席者の設定──綾音の家族が望めば、立ち会いが可能な構造。
榊原は、可能な限り“押しつけ”のニュアンスを排除した。
「この書面には、“誘導”の要素が一文字でも入ってはならない。必要なのは、“選択の余地”を明記することです」
数十通の草案がやり取りされ、送付直前には、法的観点だけでなく、感情の可視化という新領域に踏み込む文案が完成した。
そして、最後の打ち合わせで榊原はこう言った。
「あなたのような依頼人は初めてです。もしこれがうまくいったら──この文書自体が“信頼の証拠”になるかもしれません」
江口は笑みを浮かべ、立ち上がった。
「それでも構いません。証拠になってくれるなら……彼女の心を、守る壁にもなる」
封筒に手紙を入れたとき、江口の手はかすかに震えていた。それは“好き”の証明以上に、“選ばせる勇気”の証だった。
そうして届いた内容証明郵便は、江口の精一杯の誠意だった。
江口悠真と初めて会ったのは、そんなある金曜の夜だった。彼は取引先との会食帰りに、部下と二人で来店した。端整な顔立ちと落ち着いた所作。だが、何より綾音の印象に残ったのは、彼の“人の話を聞く姿勢”だった。
「はじめまして、江口と申します」 「綾音です。今日はどんな一日でした?」 「正直に言えば……疲れました。でも、あなたの声で少し楽になった気がします」
その言葉は社交辞令ではなく、体温を伴っていた。彼の目は、冗談を言うでもなく、酔って崩れるでもなく、まっすぐに綾音を見ていた。以後、彼は月に一度、時には週に一度のペースで来店するようになった。
話題は多岐にわたった。経済の話、古い映画、哲学書の引用から、好きな花まで。江口は軽薄な口説き文句ひとつ吐かない代わりに、毎回、小さな手紙や本を一冊ずつ持ってきた。
「前に話してた本、これ。二人の関係を描くのに似てると思って」 「“関係”って、私たちの?」 「まだ名付けられないけれど、何かが始まっている気がして」
綾音も次第に、彼にだけは素の言葉を見せるようになっていった。職場では見せられない弱音、心配、恋愛観。そしてある夜、ぽつりと彼女は呟いた。
「……私、触れられるの、怖いときがあるの」
そのときの江口の沈黙と、わずかに首を縦に振るしぐさ。それが綾音の胸に残った。
以後、彼は一度たりとも、彼女に物理的に触れることはなかった。
それでも足繁く通う彼に綾音は、仕事ではない何かを感じた。だが、言葉にはしなかった。距離を崩すのは、自分がルールを崩すこと。そう思っていた。
──だが、その“ルール”すら、いつしか彼との関係においては、不要なものになっていった。
彼女が唯一、心から信じられる客。それが江口悠真だった。
そして、その関係性の延長に──“あの封筒”はあった。
内容証明という“形式”に託した江口の申し出は、ただの恋の延長ではなく、あの沈黙の返答の続きだった。
──彼女の“触れられる”という境界線を、どうすれば大切にできるか。
彼は答えを五年かけて探していたのかもしれない。
-郵便の届く少し前に話を戻す-
弁護士・榊原律子は、東京・丸の内にある中規模の法律事務所に籍を置く実力派だった。企業法務を中心に、コンプライアンス、個人の権利保護にも強い姿勢を見せる彼女は、ここ数年、“恋愛契約”や“意思確認文書”という新たな分野の案件を扱い始めていた。
江口悠真が最初に榊原を訪ねたのは、2か月前のことだった。
「弁護士としてお伺いしますが……これは、いわゆる“恋愛の申し出”ですか?」
榊原は、彼が提示した一枚のメモを読みながらそう尋ねた。
「そうです。ただし、“恋”というより、“尊重”を証明したいんです」
その言葉に、榊原の眉がわずかに動いた。
「恋愛関係における文書化は、極めてデリケートです。特に身体的接触を含む合意には、細心の注意が必要です。相手を傷つけない意図と、あなたの誠意をどう可視化するか……そこが肝になります」
江口は深く頷き、バッグから一冊のノートを取り出した。それは、綾音との関係にまつわる日付入りの記録ノートだった。会話、彼女が好んだ花、避ける話題、過去のトラウマへの配慮──それらが丁寧に綴られていた。
「彼女に触れたことは一度もありません。だからこそ、触れたいと思った今、許可なく進めるわけにはいかない。彼女の“選べる自由”を、先に渡したいんです」
榊原はその記録をめくりながら、深くため息をついた。
「……これは法的文書以前に、“人としての倫理”ですね。わかりました。文面案を複数作りましょう。ただし、相手が不快と感じた時点で、すべてを取り下げる用意が必要です」
「当然です。その場合でも、僕の尊重の意思は変わりません」
その後、二人は複数回の打ち合わせを重ねた。
文言の表現──「希望」「提案」「同意」などの語彙の使い分け。 形式──弁護士名義による送付、返信不要の配慮。 添付資料──当日の健康診断、記録端末の準備。 同席者の設定──綾音の家族が望めば、立ち会いが可能な構造。
榊原は、可能な限り“押しつけ”のニュアンスを排除した。
「この書面には、“誘導”の要素が一文字でも入ってはならない。必要なのは、“選択の余地”を明記することです」
数十通の草案がやり取りされ、送付直前には、法的観点だけでなく、感情の可視化という新領域に踏み込む文案が完成した。
そして、最後の打ち合わせで榊原はこう言った。
「あなたのような依頼人は初めてです。もしこれがうまくいったら──この文書自体が“信頼の証拠”になるかもしれません」
江口は笑みを浮かべ、立ち上がった。
「それでも構いません。証拠になってくれるなら……彼女の心を、守る壁にもなる」
封筒に手紙を入れたとき、江口の手はかすかに震えていた。それは“好き”の証明以上に、“選ばせる勇気”の証だった。
そうして届いた内容証明郵便は、江口の精一杯の誠意だった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました
cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。
そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。
双子の妹、澪に縁談を押し付ける。
両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。
「はじめまして」
そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。
なんてカッコイイ人なの……。
戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。
「澪、キミを探していたんだ」
「キミ以外はいらない」
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる