57 / 63
16-1.前世
しおりを挟むネリーは目の前の書類をじっと見つめ、そうしてから小さく息を吐く。ぐっと瞼に力を入れて目を瞑り、そうしてからまた開いて文字を眺めるが、書いてある文言は変わりがない。
「ネリー。どうしたの。難しい顔」
「お母さん……」
朝の支度をしていた母親が、ネリーの目の前にお皿を置く。木製のそれには、ネリーの好きなパンが一つ、それと野菜やフルーツが彩るように置かれている。昨日、書類が届いてからずっと難しい顔をしているネリーを見て、恐らくネリーの好きなものを用意してくれたのだろう。母親の優しさと寛大さがじん、と心に滲むような気がする。
ネリーは小さく瞬いた後、もう一度書類へ目を通した。記載されているのは、何度見ても変わらない、『魔法薬の流通数についてのお願い』だ。
ネリーはつい数ヶ月前、セレストのために色々な商人との伝手を得た。その際、ネリーが作成する魔法薬を優先的に卸すという契約を交わしたのだが、どうやらネリーが作る魔法薬はまあまあの人気を誇っているらしく、需要に供給が追いついていない状況らしい。
それもあって、更に数を多く卸して欲しい――という書類が、頼った商人数人から届いており、ネリーは頭を悩ませているのである。
「魔法薬の卸す数をもう少し多くして欲しいって連絡が来ていて」
「凄いじゃない。ネリーの魔法薬は他にはないものだもの。皆欲しがるわ!」
母親は嬉しそうに言葉を続ける。ネリーも、一人くらいに卸す量を頼まれたら、もちろん頷いていただろう。だが、そうではないのだ。作る量が多くなれば、その分作業の量も多くなる。納品日のことを考えると、今日から夜通し作り続けなければ、恐らく間に合わない。
ただ、――流石に、色々と世話になった人々である。出来ない、やらない、と返信することは簡単だが、そうすると今後の関係性にヒビが生じてくるだろう。今回は出来る限り作って送り、それと一緒に今度からはもう少し納品に余裕を持たせて欲しい、とお願いをすることにしよう――と考えながら、ネリーは頷く。
沢山お金を稼ぐことは悪いことではない。ネリーはずっと、魔法薬士の母親を頼って生きてきたのだから、ネリーが稼げば、多少なり母親の仕事も楽になるはずだ。といっても、母親は今のところ何も受け取ってくれないので、何かしら贈り物を考える必要があるのかもしれないが。
ぼんやりと考えつつ、ネリーは目の前のパンに手を伸ばす。柔らかなそれを千切って口に含むと、焼きたてのパンの匂いが、ふんわりと口の中に広がった。
魔法薬を午前中にできるだけ作り、その足で救民院に向かう。いつもより少し遅めについてしまった。慌てて扉を開くと、室内に居た人物が、すぐにネリーのことを見る。そうして、ほっとしたような顔を浮かべた。
「ロゼ様。良かった。今日はお会い出来ないのかと思いました」
甘い声で言葉を囁いて、セレストはネリーの元に走り寄ってくる。そうして尻尾をはたはたと振りながら、ネリーの体を抱き上げるようにして持ち上げた。顔が近づいてきて、すり、と頬ずりをされる。嬉しそうにロゼ様、ロゼ様、と静かに言葉を続けた後、セレストはすん、と鼻を鳴らした。そうして「魔法薬を作られていたのですか?」と首を傾げる。
「うん。そうだよ。よく分かったね」
「匂いがしました。ロゼ様の体から、薬草の匂いが……」
流石、獣人と言うべきなのだろう。ネリーの行動が全て詳らかにされてしまう気すらする。ネリーは少しばかり苦笑を零しながら「そう、魔法薬を作ってきたの」と続ける。
「今日はこの後も頑張って作るつもり」
「……大丈夫なのですか? その、……大変なのでは」
「うん、本当に大変で。疲れちゃった。だからね、――セレスト、お願いがあるの」
「俺で良ければ。なんでもおっしゃってください」
甘やかすような声に、ネリーは小さく頷く。セレストは前世から、ロゼに甘かった。生まれ変わっても尚、ネリーのお願いにはやはり甘いらしい。変わらない様子に少しだけ笑いながら、ネリーはそっとセレストの頭を撫でた。そのまま、やわやわと耳に触れる。薄い皮膚は、柔らかな銀の毛並みに覆われていて、人の耳とは触った感じが全く違う。もふふわのそこに触れた後、ネリーは頬を緩ませた。
「耳と尻尾を触らせて欲しいの」
「――それは、もちろん、俺で良ければ」
言いながら、セレストはふわ、と尻尾をネリーの方に向けてくる。柔らかなそのもふもふを指先で堪能すると、疲れという疲れがじんわりと抜け出ていくような気がした。
やはりセレストの毛並みは最高だ。なんだか前に触ったときよりも指通りが良いように感じられるのは、多分気のせいではないだろう。
「癒やされる……」
「……ロゼ様は俺の尻尾や耳に触れるのが、本当にお好きですね」
「大好きよ。大好き!」
頷いて返すと、セレストは少しばかり困ったような表情を浮かべた。頬を赤くして、それから嬉しそうに笑う。ロゼがよく知る、少しだけ気の抜けるような、そんな柔らかい笑い方だ。
ネリーがロゼである、ということをセレストが知ってから、少しずつ、セレストは柔らかい笑い方をするようになった。ネリーにだけ見せるそれは、まるで恋人にでも向けるような、気の置けない笑い方だ。
それを見ると、ネリーは少しだけ、ロゼであることがバレて良かった、と思う。ネリーと過ごす時間が、少しでもセレストの気持ちを楽にしているなら、これ以上に嬉しいことはない。
ふ、と息を零すように笑って、ネリーはセレストの首元に手を伸ばす。優しく抱きしめると、少しだけ早い鼓動の音が響いてくる。
その音が心地良くて、ネリーはそっと目を細める。お互いの心音を聞くような、そんな静かな時間をおいてから、セレストが「そういえば」と言葉を続けた。
「ロゼ様は、そろそろ……十六、になられるんですよね」
「そうね」
頷いて、そう言えば少し前に、ルセットが十六になると獣人は番が分かるようになる、と言っていた。あれは相手の年齢を指すのか、それとも獣人の年齢を指すのか、いまいち少し分かりづらい説明だった。だが、思うに、あれは相手の年齢を指すものなのだろう。
つまり、ネリーが十六になれば、セレストはネリーが『運命の番』かどうかを、理解出来るようになる、ということである。
「その日も、俺に、会いに来てくださいますか?」
「もちろん。ただ、その、……私が、セレストの運命の番じゃない可能性もあるんじゃ……」
「いいえ。――いいえ。俺の運命の番は、ロゼ様です」
セレストは首を振る。そうしてから、そっとネリーの肩口に額を押し当てた。僅かな間を置いて、「ロゼ様は、俺の運命の番、でした」と言葉を続けた。
――前世のことを言っているのだろう。セレストは言葉をふるいにかけて選び取るように、静かに続ける。
「ロゼ様が、十六になられた日に、俺はロゼ様が自分の運命の番だと、わかりました」
「……」
ネリーは小さく息を詰める。セレストが静かに言葉を続けた。
「……ロゼ様を連れて、逃げ出せたら良かったのに、と、今でも思います。ロゼ様が――あの王太子に、手ひどく……されて、次の日熱を出したり、苦しんでいる所を見る度に、どうしようもない殺意が、俺の中でずっと燻っていました」
「セレスト」
「俺なら。俺なら、こんな風に手ひどく触れたりはしない。ロゼ様を苦しめたりはしないのに、と、ずっと、……ずっと」
ぎゅう、と抱きしめる手に力がこもる。事実、ネリーは王太子との閨で、手ひどい扱いを受けることがあった。あまり思い出したくない記憶だ。ひどく抱かれた後に熱を出した時、セレストが懸命にロゼの介護をしながら、涙を零していたのを覚えている。
ロゼ様。ロゼ様。縋るような声で名前を呼ばれた。だから、大丈夫だ、と返すようにセレストの頭を撫でた。セレストは涙で目を潤ませながら、ロゼの手をぎゅうっと握り絞めて、ロゼの熱が戻るまで、ずっと傍に居てくれた。
セレストの運命の番が、ロゼだったなんて、知るよしもなかった。ネリーは優しい手つきで、セレストの頭を撫でる。そうしていると、セレストが静かに喉を鳴らして笑った。額を肩口にくっつけていたのを離して、そうしてからゆっくりとネリーと視線を合わせる。
今にも愛を告白しそうな、いや、――もう、むしろ、視線だけで、愛していることを示すような。そんな視線だ。少しだけ気恥ずかしいが、ここで逸らすことも出来ず、肩をすぼませるようにしてネリーは笑う。
「俺の運命の人。ロゼ様。俺はずっと、貴方のことだけを考えて、生きてきました。そして、これから先も、貴方のことだけを考えて、生きていきます」
「……もう。恥ずかしいよ、セレスト」
69
あなたにおすすめの小説
結婚して5年、冷たい夫に離縁を申し立てたらみんなに止められています。
真田どんぐり
恋愛
ー5年前、ストレイ伯爵家の美しい令嬢、アルヴィラ・ストレイはアレンベル侯爵家の侯爵、ダリウス・アレンベルと結婚してアルヴィラ・アレンベルへとなった。
親同士に決められた政略結婚だったが、アルヴィラは旦那様とちゃんと愛し合ってやっていこうと決意していたのに……。
そんな決意を打ち砕くかのように旦那様の態度はずっと冷たかった。
(しかも私にだけ!!)
社交界に行っても、使用人の前でもどんな時でも冷たい態度を取られた私は周りの噂の恰好の的。
最初こそ我慢していたが、ある日、偶然旦那様とその幼馴染の不倫疑惑を耳にする。
(((こんな仕打ち、あんまりよーー!!)))
旦那様の態度にとうとう耐えられなくなった私は、ついに離縁を決意したーーーー。
家出を決行した結果
棗
恋愛
フィービーの婚約者ミゲルには大切な幼馴染がいる。病弱な幼馴染をいつも優先するミゲルや母が亡くなって以降溝が出来てしまった父と兄との関係にフィービーは疲れていた。
デートの約束をしてもいつも直前になって幼馴染を理由にキャンセルされ、幼馴染にしか感情を見せないミゲルを、フィービーを見ようとしない父や兄を捨てる決心をしたフィービーは侍女や執事の手を借りて家出を決行した。
自分を誰も知らない遠い場所へ行ったフィービーは、新しい人生の幕開けに期待に胸を躍らせた。
※なろうさんにも公開しています。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中
侯爵夫人のハズですが、完全に無視されています
猫枕
恋愛
伯爵令嬢のシンディーは学園を卒業と同時にキャッシュ侯爵家に嫁がされた。
しかし婚姻から4年、旦那様に会ったのは一度きり、大きなお屋敷の端っこにある離れに住むように言われ、勝手な外出も禁じられている。
本宅にはシンディーの偽物が奥様と呼ばれて暮らしているらしい。
盛大な結婚式が行われたというがシンディーは出席していないし、今年3才になる息子がいるというが、もちろん産んだ覚えもない。
【完結】引きこもりが異世界でお飾りの妻になったら「愛する事はない」と言った夫が溺愛してきて鬱陶しい。
千紫万紅
恋愛
男爵令嬢アイリスは15歳の若さで冷徹公爵と噂される男のお飾りの妻になり公爵家の領地に軟禁同然の生活を強いられる事になった。
だがその3年後、冷徹公爵ラファエルに突然王都に呼び出されたアイリスは「女性として愛するつもりは無いと」言っていた冷徹公爵に、「君とはこれから愛し合う夫婦になりたいと」宣言されて。
いやでも、貴方……美人な平民の恋人いませんでしたっけ……?
と、お飾りの妻生活を謳歌していた 引きこもり はとても嫌そうな顔をした。
1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。
尾道小町
恋愛
登場人物紹介
ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢
17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。
ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。
シェーン・ロングベルク公爵 25歳
結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。
ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳
優秀でシェーンに、こき使われている。
コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳
ヴィヴィアンの幼馴染み。
アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳
シェーンの元婚約者。
ルーク・ダルシュール侯爵25歳
嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。
ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。
ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。
この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。
ジュリエット・スチール公爵令嬢18歳
ロミオ王太子殿下の婚約者。
ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳
私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。
一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。
正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?
[完]本好き元地味令嬢〜婚約破棄に浮かれていたら王太子妃になりました〜
桐生桜月姫
恋愛
シャーロット侯爵令嬢は地味で大人しいが、勉強・魔法がパーフェクトでいつも1番、それが婚約破棄されるまでの彼女の周りからの評価だった。
だが、婚約破棄されて現れた本来の彼女は輝かんばかりの銀髪にアメジストの瞳を持つ超絶美人な行動過激派だった⁉︎
本が大好きな彼女は婚約破棄後に国立図書館の司書になるがそこで待っていたのは幼馴染である王太子からの溺愛⁉︎
〜これはシャーロットの婚約破棄から始まる波瀾万丈の人生を綴った物語である〜
夕方6時に毎日予約更新です。
1話あたり超短いです。
毎日ちょこちょこ読みたい人向けです。
初夜に大暴言を吐かれた伯爵夫人は、微笑みと共に我が道を行く ―旦那様、今更擦り寄られても困ります―
望月 或
恋愛
「お前の噂を聞いたぞ。毎夜町に出て男を求め、毎回違う男と朝までふしだらな行為に明け暮れているそうだな? その上糸目を付けず服や装飾品を買い漁り、多大な借金を背負っているとか……。そんな醜悪な女が俺の妻だとは非常に不愉快極まりない! 今後俺に話し掛けるな! 俺に一切関与するな! 同じ空気を吸ってるだけでとんでもなく不快だ……!!」
【王命】で決められた婚姻をし、ハイド・ランジニカ伯爵とオリービア・フレイグラント子爵令嬢の初夜は、彼のその暴言で始まった。
そして、それに返したオリービアの一言は、
「あらあら、まぁ」
の六文字だった。
屋敷に住まわせている、ハイドの愛人と噂されるユーカリや、その取巻きの使用人達の嫌がらせも何のその、オリービアは微笑みを絶やさず自分の道を突き進んでいく。
ユーカリだけを信じ心酔していたハイドだったが、オリービアが屋敷に来てから徐々に変化が表れ始めて……
※作者独自の世界観満載です。違和感を感じたら、「あぁ、こういう世界なんだな」と思って頂けたら有難いです……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる