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16.バアルの料理
しおりを挟む耳を澄まさなければわからない微かな音。
気配を消した給仕や侍女や護衛たち。
静寂ともいえる中で、漂うのは柔らかく煮込まれたラム肉の香り。
いつも以上に姿勢を正したマイナは小さく小さく肉を切り分けている。
元から小さかった口はさらに小さくなってしまったかのごとく僅かばかり開いて口に入れる。
三回も咀嚼すれば十分な柔らかな肉を十、二十、三十と咀嚼し、ようやく飲み込んでいた。
美味しいはずのワインは味気なく、退屈な時間が過ぎ去ることばかり願う。
(ぜんっぜん、美味しくない)
驚くほどワインが美味しくない。
バアルの料理は絶品で、目の前に愛しい妻がいるというのに。
ナプキンでそっと口を拭っていると、給仕が皿を下げた。
(あれでは、なかなか食べ終わらないだろうなぁ)
貴族らしい美しい所作で食事をするマイナが心配になってくる。
美味しいと、感じることはできているだろうか?
料理が高級であることや美味しいことなどは当たり前で、王侯貴族はどれだけ美しい所作で食べるかを求められる。
(そういうのが必要なのはわかりきってるんだけどね)
わかってる。
わかってはいる。
でもなぜ今!?
「その顔は何です?」
「顔、ですか?」
「わたくしが来たことが気に入らないのはわかりますが、顔に出すのはマナー違反でしてよ?」
「そこまでわかっていらっしゃるのなら、なぜ? 新婚夫婦の邪魔をするなど無粋では?」
「わたくしはマイナさんを心配して来たのですよ」
「さて、何を心配して来られたのでしょう?」
「あらあなた、ここでそれを聞くの?」
「私は何もやましいことはしておりませんので」
美味しくないワインを口に含んだ。
(せっかくマイナといい雰囲気になりかけてたのに!!)
ようやく、ようやく絶妙なタイミングで『大好き』だと言ったのに。
『愛してる』はまだ早すぎるからちゃんと我慢したというのに!!
それから微妙にレイを意識してくれるようになったのに、母が来ると知ってからマイナはそればかりを気にするようになってしまって……。
母には来るなと手紙を書いたが、その時には領地を出発していた。
腹立たしいことこの上ない。
見よ、この公爵夫人然としたマイナを。
(せっかく、実家みたいにくつろいでくれるようになってきたところだったのに!!)
殺気立つ心を静めるように、美味しくもないワインをごくごく飲んだ。
母に合わせて、今日はフルコースだ。
久しぶりに腕を振るえるバアルは密かに喜んでいたが、それをマイナに悟られまいと懸命に隠していた。
いい男である。
マイナを受け入れ、必死に知らぬ世界の料理を覚えようとしてくれる。
(たまにはバアルの腕を存分に振るえる日を作ったほうがいいな)
マイナが楽しく料理すること、バアルが存分に腕を振るうこと。
バランスが難しいな、とレイは思う。
(母が来て面倒なことばかりだが、そこに気付けたのはよかった)
母は長い食事を終えるとレイを呼び出した。
「新婚だというのに他に女がいるという噂を聞きました」
「ありがちな噂ですね。私はマイナを愛していますし、他に女などいません」
「ただでさえヴィヴィアン殿下からマイナさんを奪ったと言われているというのに、浮気など」
「聞いてますか? 私はマイナ以外の女に興味はないんです。母上もご存知の通り、マイナを口説きたい男は山ほどおりましたから。噂はそういった男たちが流したものでしょう」
「まったく、あなたは顔だけでなく、そんなところまで旦那さまに似てしまって」
「母上の人の話を聞かないところ、よろしくないと思いますよ? あと私と父上は違います。私は母上に似て、一途ですから」
「……何を、言って」
母は急にオロオロし始めた。
一瞬、母の侍女のゾラが生温い顔になったことをレイは見逃さなかった。
大方、父がまた何か怒らせるようなことをしたのだろう。
(若かったころの父上の下半身と私を一緒にされるのは心外だが、父上もそれほど若くないから、母上は勘違いで拗ねているのだろう。侍女の目がそう言っている)
「父上はお元気ですか?」
「もちろんアチラはお元気ですわよ」
顔こそ貴婦人を装っているが、言ってることはだいぶ酷い。
「多分それ、勘違いだと思いますよ?」
「お前に何がわかるというのです」
「わかりますよ。父上は母上にぞっこんですから」
「馬鹿なことを。旦那さまがわたくしに……いえ、今はそんな話をする場面ではありません。わたくしはあなたに女がいないか、確かめるために来たのですわ。大切なマイナさんを傷付けたらただじゃおきませんからね?」
「はいはい。来たからには気が済むまでいてくださって結構ですよ」
* * *
「ごめんね、母上が来てるから寝室を別にするわけにはいかなくて」
寝室が別だと母にバレたら、してもいない浮気を確定されてしまう。
ベッドの上で『正座』をしているマイナを、できるだけ刺激しないように言った。
「だだだだ大丈夫です!!」
「大丈夫じゃなさそう~」
プルプル震えてて、可愛いといえば可愛いけど気の毒だ。
(うーん。いい雰囲気になってきたところだから、同衾なんかしないで敢えてじっくり気持ちを育ててるところだったのになぁ)
それどころではなくなってしまった。
本当にタイミングが悪い。
(母上がいると、趣味の料理も作れないしね)
マイナは厚手のナイトドレスの膝のあたりをギュっと掴んでいた。
何かされるかもと身構えているのだろう。
こんな落ちつかないときに、そんなことするわけないんだけど。
「私はソファーで寝るから、そんなに構えなくても大丈夫だよ?」
「えっ? ソファーで、寝ちゃうんですか?」
(寝ちゃう? ん?)
「……一緒だと嫌かなと思って」
「嫌じゃないです!! ふ、夫婦ですし」
「もちろん私も一緒のほうが嬉しいよ?」
レイの言葉に頷いたマイナの頭を撫でた。
「明日も母上が面倒くさいと思うけど、あんまり緊張せずに過ごして欲しいな。マイナのこと、すごく気に入ってるのは本当だから」
安心させるように言うと、マイナは「大丈夫です!」と元気に返事をしてベッドにもぐりこんだ。
(なるべく距離をとって警戒心を抱かせないようにしつつ、でも伸ばせば手は届く範囲で)
広いベッドの上で、妻との距離に苦心するレイであった。
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