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75.可愛い
しおりを挟む(やってしまった……。いや、やってない!!)
目覚めたニコは素早く身なりを整え、髪をぎっちぎちに結い上げた。
就業中、しかも客室で、あんな淫らなことを。
窓に映るニコの顔は、この世の終わりのような色をしていた。
(何もなかった……いや、ありすぎて真っ白……最後の方とか、ほぼ記憶がないし……何で眠ったの、私……)
混乱はさらに続いた。
ヨアンが部屋にいないのだ。
(どこに行きやがった、あの男!!)
床を見ると、巻いていた包帯が落ちている。
(絶対動き回ってる!!)
ニコを翻弄し、好き勝手に動いていたではないか、ということに関しては片隅に追いやり、ヨアンを探しに行こうとドアノブに手をかけ、鍵がかかっていることに気付く。
開錠しようとしたところで鍵が回り、足音を立てずに入って来たのはヨアンだった。
「あれぇ? もう起きれたの?」
ポリポリ頬を掻きながら、間の抜けた声をあげている。
ニコはイライラして、ヨアンの顔をムギギギとつねった。
「痛い痛い痛い」
「こんなの痛くないわよねぇ!? 包帯を取ってフラフラできるぐらいだもんねぇ!?」
「ごめんって、旦那さまの部屋に呼ばれたから行ってきただけだってば」
「えっ」
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。ニコの姿は見せてないから」
ヨアンは無駄にキリッとした顔でとんでもないことを言ってきた。
「何で起こしてくれないの……ってそうじゃない、私の馬鹿、どうしよう。旦那さまに何て言ったらいいかわからない」
「ニコ、落ち着いて」
「落ち着けない、もう無理、私はクビ……昼間から就業中に客室で淫らなことを……私はもう今日から淫乱侍女って呼ばれる」
「二ーコッ!!」
半泣きでヨアンを見ると、両手をギュッと握られた。
「旦那さまにも宣言してきたんだけど、ちゃんと聞いて?」
「なに?」
「僕と、結婚してください!!」
「お断りします」
「えっ、なんで……さっきまであんなに情熱的に僕を好きだって、あんなことまでしたのに」
(あんなこととか言うな!!)
ニコはプルプル震えた。
その震えた姿さえ、ヨアンが可愛いと思っていることなど知らずに。
「ヨアンのことは大好きだけど、結婚はまた別」
「酷い!! 僕のことを弄んだの?」
「人聞きの悪いこと言わないで!! 私は仕事を辞めたくないの!!」
「辞めなくても結婚できるよ。旦那さまに許可もらったもん」
「…………でも、」
許可をもらったなどと言っているが、早々にニコが妊娠してしまえば仕事がままならなくなる。
ニコが思うように動けないとき、万が一マイナが妊娠したら誰が世話をするというのだろうか。
「僕との結婚が嫌なの?」
ニコは眉を下げたままふるふると首を振った。
もし結婚するのであれば、それはヨアンとだろう。
「結婚そのものが不安?」
それには素直に頷いた。
「そっか。マイナさまがこれからってときに、自分が妊娠したら困るから?」
「……何でわかるの?」
「そりゃあ、ニコのことはずっと見てきたしね」
「そう……」
「だからさ、ニコはそういう気持ちをちゃんと、僕に伝えてくれればいいんだよ。そうしたら一緒に考えられるでしょ?」
「でもまたこの間みたいに、マイナさまを一番に考えられない私になったりしないとも限らないし。そんなことになったら、私はマイナさまもヨアンも失ってしまう……」
気持ちを伝えろというヨアンに対し、素直に口を開くと、驚くほど情けない声と台詞が出てきた。
ヨアンの言葉がずっと心に刺さっていたのだとわかる。
「そんな私には興味ないって……言ってたし」
「あの時は確かにキツイこと言ったけど、僕がニコに興味あるのはもうわかってるでしょ? さっきも言ったけど、ニコを振り回しちゃうぐらいなら諦めようと思ってたんだよ。でもお互いに好きだって確認できたんだから、ちゃんと結婚しようよ。そうすれば、僕はもっとニコをフォローできると思うし」
「うん……ヨアンは頼りになるし、頼りにしてる。でも、頭ではわかっていても不安なの」
「うーん。じゃあ、とりあえずお付き合いから初めてみる?」
「お付き合い?」
「そう。休みが一緒のときは町に行ってご飯を食べたり。そういうことから初めてみようよ」
「……それなら」
「いいの?」
頷いたニコをヨアンが抱きしめた。
「就業中です、止めてください」
「えーーーー。お付き合いが成立した記念にちょっとだけ」
「駄目です」
「いいでしょ? ね、ちょっとだけ」
「駄目です、離れないなら付き合いません」
そう言うと、ヨアンは渋々離れてくれた。
ホッと息を吐く。ヨアンに抱きしめられると胸が苦しくてたまらないのだ。
ニコは誤魔化すように顎をあげ、胸をそらせて言った。
「それから、ちゃんと養生しないのであればお付き合いできません」
「……わかった」
ベッドに戻ったヨアンに毛布を掛けて、深呼吸してから廊下に出た。
(これは……カレーの匂い?)
屋敷中に独特のスパイシーな香りが漂っている。
カレーはマイナがベイエレン公爵家で作っていた料理で、マイナはスパイスを集めるのが大変だと言っていた。
ニコは急いでヨアンの昼食をもらいに厨房へ足を運んだ。
「あぁ、ニコ。ちょうどよかった。ヨアンの昼食できてるよ」
バアルがカレーを持たせてくれた。
トレーに乗った二人分のカレーを見て目を瞬く。
「二人で食べなさい。昨日から大変だったね。お疲れさま」
皺のたくさん入った目を細めてバアルが労ってくれた。
部屋で就業中によからぬことをしていましたなんて言えない。
絶対に言えない。
後ろめたい気持ちを抱えたまま廊下を歩いていると、今度はメイド長のアンに会った。
「あら、ニコ。帰ってきたときよりは顔色がよくなったわね。お疲れさま。ヨアンの看病をしていると聞きました。昨日から働き詰めで大変ね。手伝えることがあったら言ってね」
「ありがとうございます」
またしても身の縮む思いがする。
アンの一つの乱れもないお仕着せをみると、ニコの心が悲鳴を上げた。
(よからぬこと……よからぬことを……ごめんなさい、もう二度としません)
そんなニコの気持ちを知ってか知らずか、アンは諭すように口をひらいた。
「今は周りに誰もいないから、独り言を言うけど聞き流してね。もっと早く結婚してたら子どもを産めたのにって、いつも思うの。若い子にはそんな思いをして欲しくないのよ。だからタイミングは逃さないようにね……あぁ、歳をとるとお節介になっちゃって嫌ね」
「いいえ……ありがとうございます」
やっぱり皆、わかっているのだ。
屋敷に到着したニコが泣きそうだったことも、何も手につかないぐらいヨアンの怪我を心配していたことも。
(きっと、私がヨアンを大好きだってことも知られている)
そして歓迎されているのだろう。
トレーを持つ手に力がこもる。
寝ているヨアンに、やっぱり結婚しようと言ったらどんな顔をするだろう。
(私が結婚して子どもを先に産んだら、マイナさまが身籠ったとき、経験上のお手伝いがたくさんできるかも? それに、私が子どもに気を取られて、何か間違えそうになっても、ヨアンならちゃんと叱ってくれるだろうし……)
「あぁ、ニコ。お疲れさま」
今度はシモンに会った。
どことなくホッとしたような顔をしている。
「顔色がよくなったね」
夫婦で同じことを言うのだな、とニコは感心してしまった。
ヨアンとも二人のようになれるだろうか?
「すみません、ご心配をおかけしました」
「大変だったね。色々あったというのに立派でしたよ。今日はヨアンとゆっくり過ごしていいと旦那さまも仰ってたから、気にせずにのんびりしなさい」
「ありがとうございます」
シモンに深々と頭を下げて、ニコは再び歩き出した。
アンのお陰で後ろめたさを感じずに素直にシモンの言葉を受け入れることができた。
胸にあたたかいものがこみ上げ、胸がいっぱいになる。
この気持ちを、ヨアンに伝えたい――
部屋に戻り、ヨアンと一緒にカレーを食べた。
マイナが大好きなカレーだ。
「ねぇ、ヨアン」
「なぁに?」
カレーでベッドが汚れるといけないので、二人でソファーで並んで食べた。
「私がいつからヨアンのことが好きだったか知ってる?」
「うーん……昨日?」
「ふざけてるの?」
「じゃあ、この屋敷に来てから!」
「……私が十歳のときよ」
ヨアンの口からお米がポロリと落ちた。
それを見たニコは落ちた米をすぐさま拾う。絨毯にカレーの色がついてしまったら、綺麗にするのが大変だ。
「それって出会ってから、割とすぐじゃないの?」
「そうよ。私が他の使用人の子どもに、名前をからかわれてたときよ」
「……男の名前だ、へーんなの! だっけ?」
「そう。他国では珍しくないけど、ベツォ国では一応男性名だから」
「可愛いのにねぇ?」
「……あのときも、ニコって可愛い名前だねって言ってくれた」
「そんなことぐらいで好きになっちゃうの? ニコって騙されやすいの!?」
「あのころは純粋だったの!!」
「今だって純粋だよー。僕がさっき色々したら真っ赤だったし」
「さっきのことは言わないで!!」
「もうー。わがままー」
「ちゃんと話を聞いてくれたら結婚してもいいかなって、言おうと思ってたのに!! もう知らない」
「えっ!? 何!? 何で?? 何でそうなったの?? ねえ、何で!?」
「言わない!! もう絶対言わない!!」
(マイナさまもそろそろカレーを召し上がったかしら? それとも、まだお部屋で旦那さまとゆっくりなさっている? そういえば、旦那さまは随分お帰りが早かったのね?)
隣で喚くヨアンを無視して、マイナのことを考えながらカレーを頬張るニコであった。
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