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97.餡子
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フィルは厨房を覗き込み、溜息を吐いた。
いつになったらしおらしくなるのか。
つい最近、フィルの部屋で溜息を吐いていたマイナはどこへ行った?
静かになったかと思えばもうこれだ。
「また実家なんか来て、何を騒いでいる? レイは知ってるんだろうな?」
「もちろんですわ。何を寝ぼけたことを」
「今日は何用だ?」
「餡子です」
「餡子か」
「ドルーからイーロに伝授してもらうんです」
「へー」
厨房内では、体の大きな男が体を丸めて我が家のシェフ、ドルーの手元を食い入るように見つめている。
(あれがイーロか)
「タルコット公爵家でも、どら焼き人気が凄まじくて。なので、我が家でも作れるようにと思い、イーロを連れて来たのですわ。作れるようになっても、餡子を領地に運ぶのは無理なんですが……」
「あぁ、そういや昔、時間が経った餡子を食べた皿洗いが腹を下して大変だったなぁ」
「そうなんです。あれを見てしまうと怖くて、お土産として持たせるのは無理ですね。この世界、保存料とかないから」
「ホゾンリョウねぇ」
前世の言葉が出てくるのはいつものことだが、マイナは口調が少し変わった。
何かあったらしいが、父は詳しく教えてはくれなかった。
けれども、以前のような、どことなく違う世界を見つめているような表情がなくなったような気がする。
(レイともうまいくいってるみたいだし、よかったな)
「それはそうとお兄さま、ご結婚が内定したそうですね。おめでとうございます」
「それを先に言おうな?」
「そうですね。失礼いたしました。ヘンリエッタさまがお義姉さまになるだなんて……素敵」
「素敵? そうだろう。そうだろう。存分に敬え」
「ええ、お義姉さまを敬いますわ!!」
「素直か! そこはお兄さまも、と言っておくべきだぞ」
「ええ、まあ、一応お兄さまも」
「一応かよ」
雑な会話を続けながらも、頭の中は菫色の髪の美しいヘンリエッタでいっぱいだった。
(マノロ殿下に酷い仕打ちを受けたと聞いていたから、どう接していこうか悩んでいたけれど……何もなくて本当によかった)
昨日は、一年間は子をもうけるつもりがないというヘンリエッタの言葉に動揺して醜態をさらしてしまったが、その後、息を吹きかえしたフィルはすぐに同意した。
子どもの未来がかかっているからだ。
少しの不安も残したくない。
ヘンリエッタが今までどれほど心を殺して生きてきたか。
彼女にはまず、休息が必要だ。
(温かい食事をとって、我が家に馴染んでくれたら)
「お兄さま」
「ん?」
「ヘンリエッタさまのこと、ずっとお好きだったのですよね?」
「あぁ」
「……それは……とても素敵ですね」
「そうか?」
なんだそのキラキラした顔は。
「お兄さまにもそんな一面があったのかと思うと感慨深いです」
「そこはかとなく失礼だな?」
「あの、わたくし今度お店を出しますでしょう?」
「聞いてるか?」
「そこで赤ちゃんの服なども取り扱う予定ですの。お兄さまからのご注文、お待ちしておりますわ」
「話を聞かない上に、ちゃっかりしてる!!」
マイナはマイナだった。
そのほうが安心するけれど。
「わたくし、ちょっと思うのですれど」
「うん?」
「しばらくは、お兄さまが口にしたものを、そのまま小鳥さんみたいに、お口に持っていって差し上げたらどうかと」
「人が咀嚼したものなんて嫌じゃないか?」
素直にそう呟くと、マイナは馬鹿にした顔をしてフィルを罵った。
「もちろん、新しく掬って、ヘンリエッタさまのお口にアーンですわ!!」
「それって同じスプーンで?」
「当たり前です!!」
「そういうの、女性には嫌がられないか?」
マイナは「ハーーー」という大げさな溜息を吐いてフィルを睨んだ。
後ろに立っていたニコがフィルを見て噴き出す。
失礼だな、と思っていたら、さらに後ろにいたヨアンまで笑いを堪えているではないか。ちょっと馬鹿にした顔をして。なんなんだこいつらは。
「わかりませんか? 愛情表現ですわ。ごく自然に、この食べ物は安全ですよと示せますでしょう? こちらに来てまで毒見役を置くつもりですか? あの美しいヘンリエッタさまに、ぐちゃぐちゃの冷めたお料理を食べさせるつもりですの!?」
「普通にひと口食べてあげて、そのあとは好きに食べてもらったほうがよくないか?」
「政略結婚ならそれでいいですわ。でも、お互いお好きだったのでしょう!?」
(なんだ、レイに全部聞いたのか)
ヘンリエッタと手紙をやり取りしている間に、相思相愛だったことがわかった。
ヘンリエッタとは幼い頃から会うことが多く、私たちは初めから気が合った。
厳格な家で育ったヘンリエッタと、緩い家で育ったフィル。
お互いの話す会話の内容が刺激的だった。
フィルが少々いい加減だったのもよかったらしい。
そのうち本の趣味が合うことがわかり、度々王宮の図書館で待ち合わせをして、お互いに本を勧めるなどの交流を深めた。
幼ないながらも、デートのようなものだったと思う。
ヘンリエッタがマノロ殿下の婚約者に決定するまで、それは続いた。
大人になってもそのことが、お互いにとても大切な思い出となっていた。
「会えない期間が長く、ようやく結ばれるというのに、遠慮なんて要らないんですわ」
マイナは手を握り締めて力説している。
真っ赤になっているから、自分でも言ってて恥ずかしいのだろう。
「わかったわかった。そんな真っ赤になって言うほど、お前が幸せなんだなってことはわかった」
「そうじゃない!!」
「いや、普通に恥ずかしいだろ?」
「愛はねっちょり囁くくせに!!」
「ねっちょりって、レイはどこまでお前に話したんだよ!?」
「昨日のことなら全部聞きましたわ!!」
「なんだと!?」
「お兄さまの意気地なし!! 愛は囁いても、お口にアーンすらできないなんて!!」
「おまっ」
「お父さまやお母さまが見ていようとも、口づけやアーンを堂々とするぐらいの気概をもって欲しいですわ!!」
とうとうマイナの顔は茹でタコになった。
そんなマイナをニコやヨアンだけではなく、少し離れた場所にいたイーロまで微笑ましいという顔をして見ていた。
「なるほどなるほど。レイとはそうやってイチャイチャしてるんだな? よかったな?」
喚くマイナの頭を撫でながら、ちゃっかり仕返しをするフィルであった。
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