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第五話・猫耳少女はモノクルの夢を見るか

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「はい?」
 とある日の夕刻――その日は早番だったのでまだ陽の明るいうちに帰宅したマリンに、『折り入って話があります!』と懇願したのは、この家に奴隷として引き取られた猫獣人のシトリン。
 そのシトリンが言うには、
「ご主人様、働きたいです!」
 とのことだったので、マリンは困惑しきりだ。食事当番は交代制とはいえ、掃除洗濯など家のことはシトリンに任せっきりだったから。
「私としては、もう充分に働いてもらっちょると思ってるんじゃけど……」
「それがですね、ご主人様。あの、発言の許可をいただいても?」
「私、どっかの女王様とかじゃないんよ。じゃから何か言いたいことあったら、好きに言って?」
 マリンとしては、あまりご主人様と奴隷という関係をシトリンとは築きたくなかった。だが『マリンて呼んでええよ』と言っても頑なに拒否するし、マリンより先に風呂には入らない、食事に手も付けない有様だ。
(ゆっくり時間をかけて、関係を構築していくしかないんかねぇ?)
 そんなマリンの思惑を知ってか知らずか、シトリンは決意の表情で言葉を紡ぎだす。
「はい、では……私のこの家でのお仕事、もっとあるならもちろんそれがベターなんですけど、現状の掃除洗濯だけでは間が持ちません」
「うん。じゃから、余った時間は好きに使ってええよ」
 奴隷商人の元で不自由すぎる年月を過ごしたのだ、友達を見つけるなり趣味に没頭するなりしてほしいとマリンは思っていたのだけど。
「ですから、その余った時間を好きに……つまり働きたい、働きに出たいということです」
 マリンはさらに困惑したが、シトリンの表情は真剣だ。
「もちろん、この家のお仕事は真面目にやります。一生懸命やります! ですが……」
「困った子じゃねぇ」
 だが、お小遣いを渡しても受け取らないし買い物を頼んで『お釣りはあげるけん』と言っても律儀に返してくる。でももし働きに出れば、シトリンが自分で稼いだお金なんだからそれはシトリンが自由に使っていいわけで。
「うん、それもええかもね。お給料が(シトリンに)入るけんね」
 シトリン、ぱぁっと破顔一笑になり、
「そうなんです! お給料をもらえ(たらご主人様の懐に入り)ますし!」
 完全なる齟齬、行き違いである。
「朝の掃除洗濯とかは午前十時くらいには全部終わるので、その後に働きに出れて……ご主人様が帰る前に食事の支度をしないとなので、その前に帰れるお仕事が希望なんですが」
「うーん、夕食の支度とかは考えんでええよ? シトリンがしたい仕事がその時間に被るなら、シフトの交代は日別じゃなくて朝夕別でも構わんけん」
 それにしても、シトリンはまだ十代前半だ。マリンの心配の種は尽きない。
「シトリンは、どんなお仕事がしたいと思っちょるん?」
「どんな仕事でも一生懸命やります‼」
「うーん、じゃあ質問を変えるね? シトリンには何ができるん? 何が得意なん?」
 その質問を受け、しばし考え込むシトリン。ちょっと遠慮がちに顔を上げ、
「私、頭は悪いので……できれば身体を動かすお仕事がいいかなと」
(となると、ハンターギルドの事務職は向いてな……あ! 肝心なこと忘れちょった)
「ねぇ、シトリンは文字の読み書きはできるん?」
「完全に自信があるわけじゃないですが、少なくとも読めないというのはない……とは思います」
「じゃあ私が何か書くけん、読んでみてくれる?」
 マリンはシトリンの返事を待たず、紙とペンを取りに行くべく席を立つ。突然の抜き打ちテストの流れになり、シトリンはちょっと冷や汗だ。
 ドキドキしながら待っているシトリン、予習とばかりに目に入るありとあらゆる文字を脳内で復唱してみる。ワインのラベル、カレンダーのメモ……そうこうしている内に、マリンが戻ってきた。
「ちょっと待っちょってね」
 スラスラスラと、左手でペンを走らせるマリン。シトリンは緊張の面持ちだ。
「うん、こんなもんかね。シトリン、焦らんでええから読んでみて?」
「あ、ハイ!」
 マリンが差し出す紙をうやうやしく両手で受け取り、固唾を呑んで紙に視線を落とすシトリン。
「……」
「シトリン? 大丈夫? 私の字はクセがあるけん、読みにくい?」
「いえ、そうでは……そうではないんですが、よっ、読めます! 大丈夫です!」
 頬が上気しているシトリン、その頬は林檎のように紅く染まっている。
「でっ、では! 読みます!」
「うん、ゆっくりでええけんね」
「ハ、ハイ!」
 そして意を決したように、シトリンは声に出してその紙に書かれている内容を朗読する。
「『シ、シトリンは可愛い。すごく可愛い。ピョコンと立った猫耳が可愛いし、長くてモフモフの尻尾も可愛い。シトリンという名前を付けたけど、その宝石のシトリンような瞳は……』ってあの、全部読まないといけないですか?」
「そうしてほしいねぇ」
 マリンは特に意地悪をしているつもりはなかった。何か書こうと決めたはいいが何を書いていいかわからなかったので、シトリンに対する感情を書いただけだったのだ。
(新手の拷問かな?)
 今度はシトリンのほうが困惑しきりである。何で私、こんなベタ可愛がられしているんだろう? 熱い顔汗が、だらだらと上気した頬を伝う。
 ただ二人とも意識はしていなかったが、マリンの『そうしてほしい』が奴隷に対するご主人様の命令として成立してしまっていて、奴隷環の呪に縛られているシトリンには抗う術がなかった。
「で、では……『その宝石のシトリンのような瞳は、太陽にも勝る天然の宝石だと思う。その小さなお胸も、お風呂で洗ってあげたときに』、ちょっと待ってください!」
「んー、もうええよ。そこまで読めるんなら立派なもんじゃね」
 マリンが意地悪で言わせてる様子もないので、シトリンは反応のしようがない。ただ真っ赤になった顔を隠すように俯いて、
「あ、は、はい」
 と言って両手で紙を返すしかなかった。
「とりあえず明日、ハンターギルドにジョブギルドの分署が設営されるけん一緒に相談に行こ? 構わないかな?」
(私は奴隷なんだから、ちゃんと命令してほしいんだけどな)
 そんなことを思いながらもシトリン、元気に『ハイ、お願いします!』と元気よく返事を返す。
「うちの家事仕事が邪魔して好きな仕事に就けんとかはシトリンがよくても私はイヤじゃけ、そういうのは一切考えんでおってね」
「そっ、」
 シトリンが反論してきそうになるのを、マリンが先んじる。
「これは『命令』じゃね」
「……はい、わかりましたご主人様」
 私に何ができるだろう、どんな仕事があるだろう。シトリンは改めて不安の種が芽吹いてきたが、
(ご主人様にお給料を渡すためだ。このままじゃ、私はただの穀潰しだから)
 そんなことを思いながら。
「ほんじゃ、明日は朝食食べたらすぐに出るけん。掃除とか洗濯は帰ってからね」
「かしこまりました! ……ところで、あのぅ?」
「何かいね?」
 シトリンはマリンに返した紙……テーブルの上に置かれたソレをチラ見して、
「その紙、なんですが」
 何であんな……あんな、恥ずかしいことが書かれているんだろう。ちょっと真意を確かめたくなっただけのシトリンだったけど。
「あぁ、裏をメモか何かに使うん? ええよ、持っていきんさい」
「そうではな……いえ、ありがとうございます!」
(後で全部、読み返してみよう!)
 大事そうに紙を優しく抱きしめているそんなシトリンを見ながら、
(未使用のノートの予備、どこに置いちょったかな?)
 とまぁ、最後までかみ合わない二人であった。


『ガシャーンッ‼』
「アチチチチッ⁉」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいっ!」
 今日も今日とて白兎の黒足袋亭。ドジな猫獣人のウェイトレスが注文の料理を運ぶ途中で、食事中の客の頭上から熱々の料理をぶちまけてしまう。
「シトリンちゃん、ここはいいから何か拭くものと救急箱持ってきてちょうだい!」
「わっ、わかりました店長パールさん!」
 その様子を、併設されたハンターギルドの三番カウンターから溜め息をつきながら見守るのは受付嬢のマリンだ。
「シトリンちゃん、またやってるわね」
 隣の二番カウンターは、先輩受付嬢のモルガナ。
「はい……シトリン、あんなドジッ子でしたっけ?」
「マリンのほうがよく知っているんじゃないの?」
「それはそうなんですが……」
 確かに、家でもちょっとそそっかしいところはあった。だが『新しい職場』である黒足袋亭での、大小問わないならそのミスの数は異常すぎる。
(さすがのパールさんも、シトリンを解雇しちゃうかも……そうなったら、さえんね)
 働きたいとシトリンからお願いされた翌日、その日は予備として用意されていた五番カウンターにジョブギルドから受付嬢が出張してきていたので、シトリンのお仕事について相談することになった。
「マリンさん、お久しぶり!」
「お久しぶりです、クレースさん」
 顔なじみのアイドクレースは、ジョブギルドの受付嬢だ。マリンがまだ新米だったころに色々お世話になったのもあって、ギルド違いとはいえど恩人のように慕っている。
(クレースさんじゃったら、色々と相談もしやすいけん助かったねぇ)
 ハンターギルド受付嬢の特権というか、ギルドの営業が始まって人で混雑するのを忌避すべく、営業時間前に相談に乗ってもらうことになった。
「うーん、猫獣人でまだ成人してなくて……その、奴隷民……なわけでしょう?」
「はい……」
 誰に対しても物腰が柔らかく選民思想もないクレースだが、シトリンについてはちょっと歯切れが悪い。ちょっとショボーンとしているシトリンを気の毒そうに眺めながらも、冷静に魔導機械のデータベースを検索するクレース。
「多くの仕事が奴隷NGとか獣人NG、成人前の子供NGてのばかりでね。シトリンさんには酷な言い方になるけども……」
「ほかならぬクレースさんですから、遠慮なく言ってくれて大丈夫です」
「そう?」
 クレースはシトリンを心配そうにチラ見しつつも、
「シトリンさんだと、数え役満なのよね」
「ホントに遠慮がないですねぇ」
 落ち込んだシトリンの頭をなでなでして慰めつつも、クレースには苦笑いを隠せないマリン。ちゃんとはっきり言ってくれる人なので信頼はしているのだが、シトリンに聞かせるべきじゃなかったなと少し悔やむ。
「マリンと同じくハンター業はダメなの? 猫獣人だから底力は人間以上だと思うのだけど?」
「んー、私が心配なのでそれは無しと考えています」
 もちろんそれもあるが、シトリンが在籍していた奴隷商人が言っていたのは。
『ある試合で再起不能な怪我を負いまして、表のマーケットに流されてきたんですわ』
 シトリンは、違法である戦闘奴隷として働かされていた過去がある。奴隷同士で殺し合いをさせ、その勝敗で賭博が行われるという社会の暗部。
(もう何かと戦ったりとかの仕事は、絶対にさせんけんね)
 シトリンを引き取った初日に、『再起不能な怪我』について訊ねたことがあった。シトリン曰く、これまでに戦っていた相手に何故か全然勝てなくなり、それまでは大本命の勝ち馬扱いだったのが一気に賭客の興味を引かない存在にまで落ちぶれたのだという。
(コユキちゃん、だっけ……)
 その試合でシトリンは、理不尽な奴隷生活の中で得た唯一の宝にして大親友の少女を、自らの手で殺めてしまった。
(多分、精神的なものなんだろうな)
 とはマリンの解釈だったけど。
 言葉は辛辣なクレースだったが、オープン前の忙しい時間帯をシトリンのために粉骨砕身して割いてくれた。とてもありがたかったが……残念なことに、これならというのを数点ピックアップしてもらえたのはいいが先方には理不尽な理由で断られてしまったのだ。
「やっぱり私が奴隷で猫獣人で子供だから……」
 もう気の毒なくらい落ち込んでいたシトリンだったが、たまたまその光景を目撃していたパールが、
「だったらうちで働いてみますか?」
 と声をかけてくれたのは僥倖だった。
 マリンと同じ職場というのも、マリンとシトリン双方にとって好都合だ。特にマリン以上にシトリンが、その好条件に目を輝かせていた。マリン宅では家事全般を請け負っていたし、文字の読み書きにも問題はなさそうだったから、特に心配はしなかったのだけど。
 ふとマリンの視線が、料理がぶちまけられた床の掃除をしているシトリン……の、左目尻横の醜く盛り上がった古傷にいく。コユキちゃんとの死闘でできた傷とか言ってたっけ。
(んー……?)
 何かが頭に浮かびそうだったのだが、
「マリンさん、おはようございます。この依頼票お願いします」
「あ、ヴァータイトさんいらっしゃい。少々お待ちください」
 仕事中なのもあって、一旦そこで思考は中断。シトリンのことが心配ではあったが、いつもの職務に集中し直すことにした。
 ――そしてその日のギルド営業終了後。もうフロアの照明が消されて、閑散とするギルド。従業員用スペースだけが、申し訳程度の灯りに照らされている。
 マリンとシトリンが三番カウンターで向かい合い、シトリンの後ろにはパールが立って見守っていた。
「パールさん、シトリンの粗相の弁償金はいくらほどになりますか?」
 そう言って、財布を取り出すマリンだったが。
「ちょっ、ちょっと待ってくださいご主人様! 私が、私が弁償します‼ あ、でも店長……今はお金がないので給料から差っ引いていただくことは可能ですか⁉」
「いや、弁償とかはいいんですが。シトリンちゃん、今日のようなことが今後も続くようなら、自分でスカウトしておいてなんですけど……酷な判断をくださないといけなくなります」
「はい……」
 本当なら、ここでシトリンのバックアップに回るべきなのだろう。だがパールは『今日のようなこと』とは言ったものの、今日だけではなく連日なのだ。よく我慢してくれているというか、本来ならとっくに解雇されててもおかしくない。
(シトリンを庇うべきなんじゃろうけど、パールさんにこれ以上無理も言えんね)
「どちらが払うかは私とシトリンで話し合うとして、やはり弁償はさせていただけませんか?」
 本心ではあるが、弁償することによってシトリンの延命に繋がればという考えもあった。
「ま、今日明日に判断をくだすというわけじゃないので、それは保留にしておいてください」
 二人を安心させるかのように、パールは笑顔でそう応じた。ぶっちゃけ、パールは一代男爵とはいえ貴族なのだ。と同時にハンターギルドのギルドマスターでもあるから、特にお金には困っていない。
 困っていない以前に、レストラン営業は暇つぶしでやっている道楽でもあったのだ。
「本当にすみません。やっぱり私は役立たずです……」
「シトリン、そんなことはありません」
「そうですよ、シトリンちゃん。あなたも悪気があってやっているわけじゃないですし、お客さんが少ないときはほとんどミスをしないではないですか」
(……あれ? そう言えば確かに、ほうじゃねぇ)
 マリンの中で、先ほど中断した思考の火種が再び燻り始める。
 と、そのときだった。シトリンの左側の床を、小さな黒い虫……ゴッキーがカサカサカサっと横切った。SSランクハンターのマリン、Sランクハンターのパールは本能的にそれを目で追ってしまうのだが……。
(シトリン、気づいちょらんみたいね?)
 そう、シトリンだけ無反応だったのだ。だが左の猫耳がピクピク動いたから、その歩く『音』は感知したようだけども。
(もしかして……⁉)
 マリンは、今日のみならずこれまでのシトリンの粗相のいくつかを思い出してみる。確かシトリンは……。
「シトリン? お客さんにぶつかったり、客が出しっぱなしにした椅子に引っかかったりしてるときなんじゃけど」
「すいません、すいません、すいません‼」
 ガタッと勢い込んで立ち上がり、マリンに深く頭を下げて謝罪するシトリンを手で制する。そして、パールが無理やり座らせてくれた。
「そうじゃなくてね。よーく思い出してほしいんよ」
「何をでしょうか?」
「マリンさん?」
 マリンはシトリンの左眼を指差して。
「もしかして、それ全部『左側』じゃなかった?」


「はい、これは?」
 黒足袋亭のあるフロア部分に再度照明を入れて、円卓に向かい合うマリンとシトリン。マリンの横では、パールが立って見守っている。
 シトリンは右手で右を隠した状態で、マリンの左手を凝視。マリンは左手で人差し指と親指を曲げて、ちょうど指の隙間を潰したOKサインを形作って見せた。。
「三本、です」
 シトリンは左目で、対角線上にあるマリンの左手を見ていることになる。
「見えてますね?」
 パールは、マリンがシトリンの左眼の視力を疑ったのだと思っていたのだが、シトリンが難なく当ててみせたのでちょっと腑に落ちない表情だ。対してマリンは、予想どおりといった表情なのも気になっていて。
「ほうなんじゃけどね……じゃなかった。そうなんですが、もし私の予想どおりなら……」
「別に私に対して、敬語じゃなくてもいいですよ?」
 思わず訛りが出てしまったマリンに、パールは苦笑いだ。そうはいきませんよとでも言いたげにマリンは無言で笑って応じ、次に今度は『右手で』親指を畳んだだけの四本指を立ててみせる。
「シトリン、これは何本?」
「えっ……と、んーっ⁉」
「え、シトリンちゃん?」
 これまでスラスラと当てていたシトリンが、マリンが左手から右手に変更しただけで急にしどろもどろになったのだ。パールは不思議で仕方がなかった。
「三……いや、二本でしょうか?」
 その後も数回、マリンは右手でのテストを繰り返す。シトリンの左眼の正面に、マリンの右手があるにも関わらず、シトリンは今度はミスを繰り返した。
「やっぱそういうことなんじゃね」
「マリンさん? シトリンちゃんはいったい……」
「あの、ご主人様?」
 マリンは立ち上がってパールに向かい合い、
「シトリンの左眼は内側は視えているから、左右で違う視力差というのもあるんでしょうが……そうですね、左眼の視野角が外側だけ極端に狭いというか見え難いんだと思います」
「そ、そんな……」
 パールは青ざめる。従業員がそういう障害を抱えているのにも関わらず、それに気づかないどころか、先ほどは解雇まで匂わせてしまった。自分は、なんという酷いことをシトリンに言ってしまったのだろうか。
 兎獣人デミ・ラビットのパールは、普段は片方の兎耳だけが折れていてもう片方はピョンコ立ちしているのだが、よほど気落ちしているのか今は両方ともシナッと倒れている有様である。
「シトリンちゃん、マリンさんごめんなさい! 本来なら私がすぐに気づくべきでした‼」
 そう言って深々と頭を下げるパールと、
「パールさんすいません! 雇っていただく前にこちらが把握すべきだったんですが、本当に申し訳ありませんでした‼」
 とマリンも深々と頭を下げた……タイミングが同時だったため、両者のおでこが火花でも飛び散りそうなくらい激しく衝突。お互いにヘッドバッドをかました形になってしまう。
「あぅっ!」
っ……」
 ともにSSランクハンターとSランクハンターだ。もし間に人でもいたら、ただでは済まない重症を負っただろう。
「だだっ、大丈夫ですか⁉」
 思わず頭を押さえてしゃがみ込む二人に、シトリンが心配そうに駆け寄る。
「パ、パールさん重ね重ね……」
「う、あぅ……ハイ」
「あのっ、氷水とタオル持ってきます!」
 そう言って、慌てて厨房に向かうシトリン。先ほどのマリンとのテストで自らの左眼の欠陥が明らかになったのもあって、眼球の動きだけに頼らず首を動かして確認しつつヒョイヒョイと軽快に駆けていく。
 それを見送りながら、パールは嘆息だ。そして再びマリンに向き直り、
「意識して動けば、ちゃんとシトリンちゃんも働けるのに私ときたら……本当にマリンさん、申し訳ありませんでした」
「いえですから、それはこちらが把握しておくべきことだったんです。いわばパールさんを騙したも同然なんです」
「いやいやそんなことは!」
「いえいえそうですって!」
 まるで喫茶店のレジでお互いが奢ると言ってきかないおばちゃんみたいなやり取りをしていたら、シトリンが洗面器を片手に戻ってきた。そしてタオルを二本、手早く冷水に浸けて絞ると、マリンとパールに手渡す。
「ありがとう、シトリン」
「ありがとうね、シトリンちゃん。そしてごめんなさい……」
「謝らないといけないのはこっちのほうなんです! 店長、本当に申し訳ありませんでした‼ そしてご主人様も……あれ?」
 さっきまでそこにいたはずのマリンが、姿を消している。
「マリンさん?」
 パールが、目ざとく三番カウンターに戻っているマリンを見つけるものの、こちらも意図がわからず反応に惑う。
 左手では、シトリンから受け取った冷やしタオルで額を押さえたまま……マリンは引き出しを開けて、小さな箱を持って再び戻ってきた。
「まず、コレを試してみてくれる?」
 そう言ってマリンは、小箱の……ではなく、自らの厚いビン底眼鏡を外してシトリンに渡す。妖艶で美麗なマリンの素顔が、少し薄暗い照明と窓から差し込む月明かりを反射して、その美人っぷりを際立たす。
「あ、はっ、はい‼(ご主人様の眼鏡だぁ……)」
 なんだか嬉しそうに受け取るシトリン、それをハメてはみるものの。
「右目を隠してくれる? うん、じゃあいくね? これ何本?」
 と右手中指と薬指親指を折り、キツネサインをシトリンに見せた。
「二本です」
「合ってますね」
 パールが少し嬉しそうに応じるものの、今度は逆にマリンがちょっとうかない顔だ。
「じゃあ次は左目を隠して。これ、何本?」
 ゴクリ、とシトリンが生唾を呑む音が聴こえた。
「すいません、ご主人様……指どころか、ご主人様の顔もよくわからない状態です……」
「やっぱり、そうよね」
「マリンさん、どういうことです?」
 マリンはそれに答えず、シトリンの顔から眼鏡を外すとパールに手渡した。
「着けろ、てことでしょうか?」
 マリンが無言で頷く。意味がわからないまま、マリンの眼鏡を着用したパールだったが……。
「この眼鏡、度が凄いですね……健康な視力だと、ほとんど何も視えないといいますか。失礼な言い方でごめんなさい、マリンさん」
「いえ、お気になさらず」
 パールから眼鏡を受け取り再度着用し直すマリン、
「右眼は眼鏡が必要ないですから、やっぱコレかなと思うんです」
 そう言って、先ほど三番カウンターから持ってきた小箱をテーブルの上に置く。
「昔は私もシトリンと同じで、右の視力は良かったんですよ」
 小箱を開くマリン、その中に入っていたのは……レンズが一枚だけの、半分しかない眼鏡。ただマリンの眼鏡と違って、薄くてクリアなレンズだ。
「あぁ、片眼鏡モノクルですね! 確かに若いころのマリンさんが着けてたのを覚えています‼」
「まだ二十一歳ですけどね?」
 マリンは苦笑いだ。十六歳でハンターギルドの受付嬢になり、その職務中に両目を負傷したことがあった。もちろん、マリンのその『職務』とは『倒さずにレポートだけまとめて帰る』というヒャッハーのアレである。
 手加減しなくていい、ぶっ殺していいという条件ならばマリンには難なく対処できる魔獣だったのだが、『倒しちゃダメ』『深手を負わせてもダメ』という制約があったため、当時は『手加減が下手』というのもあり不覚を取ったのだった。
「当時、最初は左眼だけの後遺症だと思ってたんですが。その後に、右も追随して悪くなっていったんですね。なので私がモノクルをしていた時期って半年もなかったんですが、捨てずに持っておいてよかったです」
 そう言ってマリンは、モノクルをシトリンに差し出す。眼窩にはめこむタイプで、金色の長いチェーンが付いている。マリンはそのチェーンを、モノクル落下防止のためにピアスに繋げていた。
 シトリンはピアス穴がないので、チェーンは外してポケットにしまう。
「じゃあもう一度テストをするね?」
「ふぁっ、ふぁいっ‼」
 マリンから手渡されたモノクルを、まるで賞状でももらうかのように両手でうやうやしく受け取るシトリン。
「何ね、それは」
 そのポーズが可笑しくて、思わず吹き出すマリン。そして幾度かのテストを終えて、
「これなら、日常生活に何の支障もないようです。もちろん、お仕事のほうも」
 そう言ってマリンは、ちょっと懇願するような視線をパールに向ける。
「そうみたいですね。私も肩の荷が降りた心地です。……ふふ、そんな心配そうな顔をしないでくださいよ、マリンさん。シトリンちゃんは明日から、もう立派な当店の戦力です‼」
 二人とも、気が緩んだのか会心の微笑みだ。
「あ、シトリン。それあげるけん、大事に使ってね?」
「えっ、あ、あげっ⁉ あのっ? 私、奴隷……」
 シトリンのその狼狽の声は、聴こえないフリをするマリンであった。


「ンフフフッフ、フフーフ、フフフフン♪」
「シトリンちゃん、上機嫌ね」
 パールは、思わず苦笑いだ。
 『白兎の黒足袋亭』の開店準備、掃き掃除・拭き掃除を鼻歌混じりにやっているシトリン。まるでスキップでも始めそうな勢いである。
「だってだってー、だってだってなんですよ?」
「何言ってるか、わからないです!」
 いや、パールにもわかってはいる。シトリンの左眼に装着されているモノクルが、今のシトリンをやばい女の子にしちゃってるってことを。
(左の外側が見えにくいてのは今まで意識してなかったみたいだから、シトリンちゃんが嬉しいのは……そういうことなんでしょうね)
 シトリンがマリンからもらった、かつてマリンが身に着けていたモノクル。いや、シトリンとしては『お借りした』つもりだった。いずれお給料が出たら自分のお金で新しいのを買って、これはご主人様にお返しするつもりでいたけれど。
(返さないとダメかなぁ?)
 全然ダメではない。むしろマリンはプレゼントしたつもりだったので、シトリンが勝手に身悶えてるだけなのだ。
「いや、お給料でこれを買い取りって手もありますよね‼」
「何の話⁉」
 まぁ昨日までのドジはもう踏みそうもないし、今やシトリンはドジこそすれ、それすらも愛しいなんて言ってくれるような固定客もついている。
(看板娘さん、頼みますよ?)
 出入口を解錠に行くシトリンの背中を見送りながら、パールは苦笑いで厨房に下がった。
 シトリンが働きにきてくれてからというもの、自分の作業も少しは楽になったのを感じている。まぁ昨日まではシトリンの粗相の後片付けなどの作業も付随してきたが、それも今日からは激減しそうだ。
 ハンターギルド三番カウンターで机上の整理をしていたマリンもまた、遠目にシトリンを見守りながら自然と頬がほころぶ。
「あんなに喜んでくれるとは思いませんでした」
「まぁマリンからなら、シトリンちゃんは飴玉一個でも喜ぶと思うけどね?」
 隣の二番カウンターの先輩モルガナは、シトリンがどれだけマリンを慕っているかをこの後輩は気づいていないんだろうなと、少しやきもきする。
(ウエイトレスの仕事が手すきのとき、シトリンちゃんはずっとマリンを見ているんだけどねぇ)
 それは、奴隷がご主人様に向けるにはあまりにも似つかわしくない情感の。
「おはようございます、マリンさん」
「あら、ヴァ―タイトさん。おはようございます、今日も朝一ですね!」
「えぇ、まぁ……」
「?」
 今日もまた、ヴァータイト少年が三番カウンターに並ぶ。身長はわずか一七〇センチに満たない小柄ではあるが、十六歳にして立派なBランクハンターの剣士だ。
(そういえばヴァータイトさんて、いつもこの三番に並ぶねぇ。何でじゃろ?)
 ヴァータイトの淡い初恋は、まだ始まったばかりだった。
 ただマリンが自分よりも背が高い、というのは憧れ半分コンプレックス半分。年上なのも気にならない(いやむしろこそがいい)とさえ思ってはいるのだが、それよりもマリンが伝説のSSランクハンターなのがネックだった。
(どこまで頑張ったら、マリンさんにふさわしい男になれるんだろう?)
 その気の遠くなりそうな道程を思い、思わず嘆息する。
「ヴァータイトさん?」
「あ、今日はコレをお願いします」
 そう言ってヴァータイトが差し出した依頼票は――。

『ポラリス山脈東側登山口より七合目の洞窟内(フェクダ王国領)
 種族・キングトロール(一匹)
  総合Bランク『攻撃力A・体力B・気力C・敏捷性C・知力-・魔力-』
  戦闘スタイル こん棒を振り回してくるだけのワンパターンな攻撃です。
         受け止めるのではなく、躱してからのカウンター攻撃が吉。
 固有名称・キントロ親父 ※第一話参照
 他出現魔獣情報・吸血蝙蝠(Eクラス相当)
 報奨金・三十万
 ※洞窟内地図は別封します。
 ※誤ってメグレズ王国側の国境を越えないようご注意ください』

「今日も、お一人で臨まれるんですか?」
 ヴァータイトはどこのクランにも属しておらず、基本的にソロ活動をしている。ヴァータイトに限らず、ここのハンターギルドはやけにソロのハンターが多いのをマリンは危惧していた。
「こんな攻略本カンニングみたいな依頼票があれば、自ずと仕事の成功率ってのも逆算できますから。どうしても無理な仕事は引き受けないですし、必要なら臨時で誰かと組むようにしますので大丈夫です」
 クランを組めば、どうしても報奨金をメンバーの数で割ることになる。だが自分一人で仕事を完遂できる見込みがあれば、わざわざ雁首揃えて臨むまでもないのだ。報奨金も、一人じめできる。
 マリンが魔獣と対峙して持って帰るレポートがもたらす、その弊害ともいえよう。
「ところでマリンさん、この『キントロ親父』って凄い名前ですよね。命名した人、どんなセンスしてんだろ?」
 そう言って、カラカラと笑う。ヴァータイトとしては、ただただ少しでもマリンと話す時間が増えればなぁと画策していただけで、特にそのセンスについてはどうでもよかった。
 だが彼が踏み抜いたのは、間違いなく地雷だったわけで――その会話が聴こえていた周囲の空気が、人たちが途端に凍りつく。
「その、ごめんなさい……」
 そしてマリンが、恥ずかしさで顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
(あーあ、あいつ死んだわ)
 そんな憐憫の視線が、ヴァータイトの背中に突き刺さる。
「え、何がで……あ⁉」
 ここにきてヴァータイトは自分の『やらかし』にやっと気づいたのだけど、時すでにお寿司……もとい遅しだ。
「いや、ちがっ‼ 違くて、そうじゃなくてですね⁉」
「あ、いえ。私にそういうセンスがないのは存じているので……ただ魔獣にその場で認識させるために、即断で命名しなくちゃいけないんです。なので私だって、もっと考える時間があれば……」
 そう言うマリンの語尾がだんだんとかき消すように小さくなるのを聴きながら、ヴァータイトの身体も小さく縮こまっていく。
「いや、そのぉー……そう、ナイス! ナイスネーミングだと思ってたんです‼」
 マリン、とたんにスンッと真顔に戻る。
「いや、それはちょっと無理があります」
「……はい、すいません」
 そして肩を落として討伐に向かうヴァータイト。その後ろ姿をマリンは複雑な表情で見送る。
(やっぱ命名センスおかしいんじゃねぇ。何で誰も言ってくれんかったんじゃろ?)
 ヴァータイトは、ここフェクダ王国の首都・ガンマの街には引っ越してきたばかりだったのもあって、『闇より昏き深海の藍ディープ・ブルー』時代のマリンを知らない。くわえて個人的に恋慕してるのもあって気楽に言ってしまったのだが。
(マリンにあんなこと言うなんて、遺書が何枚有っても足りないわよ少年?)
 隣で苦笑いのモルガナだ。
 このハンターギルドのマリンがもたらす特殊性を知っているメンツからすれば、その命名はマリンが請け負っていることを知っている。そしてハンター現役時代のマリンブルーが悪鬼羅刹の修羅の如くであったのもあり、後が恐ろしくてツッコめなかったという背景があった。
「お昼休みになったら、赤ちゃんの命名の本でも買ってきます」
「あ、うん(何故赤ちゃんの……⁉)」
 まぁ確かに、魔獣の命名の本なんてものはないだろうけど。
「いいんじゃない?」
 どこかというか完全にズレているマリンだが、モルガナは面白そうだからほっとくことにした。
(マリンの次回の『情報収集』の仕事以降は、『笑ってはいけないギルド』になるのかな? ハンターさんたちには地獄なんじゃないかしら?)
 だがモルガナは気づいていなかった。ギルド受付嬢の自分もまた、その笑ってはいけない対象になるのだということを……。
 マリンもシトリンもそれぞれがそれぞれの仕事をこなし、やがて時刻はお昼のランチタイム。
「ほうじゃ、命名の本を買うんじゃった」
 ハンターギルドのカウンター業は、正午から十三時までは休業となる。マリンは財布を持って席を立ち、出入り口に足早に向かう。
 入れ替わりに忙しくなるのがギルド併設のレストラン『白兎の黒足袋亭』だ。カウンターが一時休止しているのも手伝い、ランチ目当てのハンターでほぼすべての席が埋まる。
 シトリンは、マリンがハンターギルドを出ていくのを給仕の仕事をこなしつつ遠目に確認していた。
「ご主人様、今日はここで食べていかないのかな?」
 このとき、マリンはハンターギルドを留守にしたことを一生後悔することになる。
 もしマリンがいたら、シトリンの身に起こるあの不幸は……それでも防げなかったかもしれないけれど。それでも、マリンがいたら全然違った結果になったのは確かだったからだ。


 いくらマリンからもらったモノクルがあるとは云えど、視力は矯正できても左眼の視野狭窄まで完全にフォローができているわけじゃない。そこは首を動かすことによって周囲を把握するに努めることで、シトリンは補っていた。
 ただ、視力そのものにしてもマリンとシトリンとでは微妙に違っている。なのでシトリンの初めての給料が出たら、改めてシトリン専用のモノクルを買いに行こうと二人で話し合って決めていた。
 当初、シトリンは給料の全額をマリンに渡すつもりだった。もちろんマリンは固く固辞する予定で、それでもシトリンの気が楽になるならばと、生活費として一部は預かろうかなとも思っていて。
 そこへもってきて、今回のシトリンのウィークポイントの露見である。
 マリンはすぐにでも『買ってあげたかった』が、自分の金で払うとシトリンが言って聞かず。なのでこれ幸いと、初めての自分のお給料で自分のものを買わせるという目論見もあった。
(最初は、全額渡すって言ってきちょったからね)
 本屋で目当ての本を探しながら、そのときのことを思い出してマリンは苦笑いを浮かべる。自分の初めての給料は何に使ったか、それはもう思い出せない。
「魔獣の命名に、なかなかいい本がないねぇ」
 あるわけがない。それでもヴァータイト少年に『命名した人、どんなセンスしてんだろ?』なんて言われては、早急になんとかする必要を感じていた。おそらくだが、そう思っているのは彼だけじゃあるまい、と。
 とりあえず良さそうな(とマリンが一方的に思い込んでいる)赤ちゃんの命名本を手に取ってレジに向かう途中、とあることを思い出した。
(ほうじゃ、今日は『アレ』の発売日じゃったね! 忘れるところじゃった)
 そう言ってマリンは、左右をキョロキョロと見まわす。その挙動はあまりにも不審すぎて、万引きを実行しようとする五秒前のような有様であった。
「あったあった!」
 ここのところ忙しくて予約するのをすっかり忘れていたから、たまたま発売日に本屋に来れたのはマリンにとって僥倖ラッキーだった。ただこの本、堂々とレジに持っていくにはあまりにもリスクが高く……。
(上に、この命名本を重ねればなんとか……)
 エロ本を買う中学生みたいな浅ましい思考で、マリンはとっさの機転を働かせる。『下手の考え休むに似たり』という言葉があるが、まさに今のマリンがそうであった。
 だがマリンには、三つの誤算があった。一つ目は……。
「あ、マリンさん!」
「え、ゼオライト君⁉」
 ゼオライトは、ここの本屋の主人・ハウライト爺さんの孫息子だ。
 マリンが『このジャンル』の本を買うのは、店番がハウライト爺さんだったから。年配の男性だからよく知らないだろうという失礼な決め付けもあり、恥ずかしさも薄れる……そんな目論見で、この本屋をいつも利用している経緯がある。
 そのせいか足しげく通ってるうちに、たまに店番をしているゼオライトとも仲良くなったのだが……今日は赤ちゃんの命名本を買うのが目的だったので、レジに立っているのがどちらかを確認しなかったのはマリンの最大の誤算であった。
「きょっ、今日はゼオライト君がみっ、店番なん?」
 声が思わず裏返ってしまうマリン、ここは引くべきかどうかの岐路に立たされる。
「? そうです。爺ちゃん、ぎっくり腰になっちゃいまして」
「そっ、そう。おっ、お大事に……」
「マリンさん?」
 弱った。ゼオライト少年にとっては、マリンは憧れのハンターだ。そのマリンが、よりにもよって『このジャンル』の本の愛読者だと知れたら⁉
 そしてマリンの二つ目の誤算。
「会計しますねー」
 思わず呆然としてしまったマリン、不覚にもカウンターに本を置いたままだった。
「あれ? マリンさん⁉ おめでたですか‼」
 赤ちゃんの命名の本を見て、驚いて素っ頓狂な声をあげるゼオライト少年。その声に導かれるように、周囲の視線が次々とこちらを向く。
 マリンはこの街のみならず、国レベルでの有名人なのもあって周囲の興味もマリンのお腹に向いてしまう。休業中とは云えど、諸外国にも名の知られたSSランクハンターなのだ。
「ちっ、ちがっ⁉ これは魔物の命名に使うために参考にしようと思っちょって‼」
 こんな言い訳で誰が納得、いや理解できるというのか。事前に釘を刺さなかったモルガナの罪は、決して軽くはないだろう。
 そしてマリンの三つ目の誤算。というか悲劇、いやむしろ死因。
「あ、違うんですか。すいません、早合点して」
 そしてゼオライト少年の視線は、赤ちゃん命名の本の下に重ねてあった一冊の本に……向くのだが、ゼオライト少年とてこの本屋を手伝って長い。色々な客がいて、色々な本を買っていく。それは当たり前のことだ。
 だから正直内心、大きく動揺はしたものの表情を一切変えず、粛々と会計作業を進めようとしたのだけど。
「あれ、これ値段表示どこだろ?」
 この世界、すべての本に値段が表示されているわけではない。作家から本を直接買い上げて、買い取り金額は交渉次第なんていうのも珍しくはなかった。いくらで売るかは、本屋がそれぞれ決定するのだ。
 ここの本屋は自宅と併設されていて、扉一枚向こうが自宅となっている。ゼオライト少年はその本を持ってレジ裏の扉まで歩み去っていった。
「あっ、ちょっ⁉」
 これから起こる惨劇に、マリンの顔から血の気が引く。そして奥から響いてくる、ゼオライト少年の絶叫。
「なぁ、爺ちゃん。値段のわからない本があるんだ」
「あーん、どれだ? わしゃぎっくり腰なんだ、持ってこい!」
「お客さんを待たすわけにはいかないだろ‼ そっちに買い取り帳簿あるか?」
 マリンの顔から、冷や汗が止まらない。インナーもまた、汗でぐっちょりと濡れてきた。
 何が、何がこれから起こるのか。マリンは心の底から戦慄した。
「おう、あるともさ。こっちで調べてやる。ゼオ、何て言うタイトルの本だぁ?」
 もし普段の冷静なマリンだったら、ここでゼオライトを失神させるなどして降りかかる災いを回避できただろう(冷静な一般客がやることじゃないが)。だが動揺マックスのマリン、ただただ震えて待つしかできなかった。
「爺ちゃん、言うよ? 『吾輩はホモである ~腐女子が異世界でイケメン男子に転生したので、自慢のマグナムで無双します~』って本なんだ。わかるか?」
 マリンの周囲に、絶対零度のブリザードが吹き荒れる。マリンの後ろに並んでいる客たちを含め、周囲の客の表情が一瞬にして凍り付いた。だが災厄は、情け容赦なくさらなる地獄の渦を呼び起こす。
「なんだってー? それ本のタイトルか? 中を読んでんじゃねぇ、タイトルを言え‼」
「タイトルだってば! もう一回言うぞ?」
 ここへきて自身を固めていた凍気をなんとかしたマリン、
「ちょっ、ゼオ君! やっ、やめ……それもう買わな……ゆっ、許し……」
 だがその小さな蚊の鳴くような声は、再度叫んだゼオライト少年の声にかき消されてしまう。
「だーかーらー‼ 『吾輩はホモである ~腐女子が異世界でイケメン男子に転生したので、自慢のマグナムで無双します~』だってば!」
 しばしの静寂のあと、ハウライトが金額を告げる声。ほどなくして、ゼオライト少年がレジに戻ってきた。
「お待たせしました、マリンさん!」
 マリンの目はまっすぐとゼオライトを見つめている……のだけど、どこか様子が変だ。
「あの? どうかなされまし……」
 そこまで言いかけて、ゼオライト少年は気づく。
「立ったまま気絶してる⁉」
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