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第十九話・リリィディアの霊柩(後編)

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 結局、シトリンとリビアンが宿に帰ってきたのはその日の夜半。しかもマリンは帰ってきていなかったから、クランとしては動きようもなく。
 マリンが遅れて帰宅したのは、翌昼下がりのことであった。
「何度か魔電したんじゃけど?」
 宿にはマリンが女将に伝言してあったし、マリンも個別にリビアンやシトリンとの連絡を試みたのだが繋がらず。クランとして動く以上は密なホウレンソウ(報告・連絡・相談)が不可欠とあって、マリンの機嫌もすこぶる悪い。
「すまぬ、マリンリーダー殿。水没させてしまい、壊れてしまったのだ」
 リビアンがもうしわけなさそうに、起動しなくなった魔電を机上に置く。
「えーっと、ごめんなさい。失くしてしまいました」
 シトリンは、気の毒なくらい落ち込んでうつむいていた。
「……まぁ、ええけ。とりあえず、調査結果の報告して? まずはリビアン」
 ここで叱ったところで、どうにもならない。マリンは諦めたように嘆息すると、話題を変えるべくリビアンに促す。
「あぁ、まずメラクとの国境に面しているクマノの街だが……下水道に魔物が住み着いたとかでな。本来ならドブ掃除なぞFランク級の雑魚しかいないのだが、ハンターギルドではCランク必須になっていた」
「下水道の魔獣でCランク? しかも必須?」
 ハンターギルドの受付嬢を本業とするマリンからすれば、それがどれだけ異常事態かがわかる。程度にもよるが、下水道に住み着く魔獣退治は『初級者用ノービス』として新人に割り振られるのが定番だからだ。
「で、まぁ本来なら高ランクは排除されるのだが私が引き受けることにした」
「ふむ。そこの受付嬢さんも大変じゃね」
 Sランクハンターなんて、そこかしこにいるわけじゃない。それがドブ掃除をやろうというのだから、本来なら丁重にお断りしたいところであろう。
「案の定、出やがったよ。合成獣キメラが」
「ふーん、どういうの?」
「頭部が鶏で、下半身がワームみみずだ」
 リビアンのその発言を受けて、ちょっと想像してみるマリンとシトリン。もわわわわんっと頭に浮かんだそのイメージは、あまりにもアレすぎて。
「そのバケモノについて詳しく……あ、いや言わんでええよ」
「ですね」
 想像するんじゃなかったと後悔するマリンに、シトリンが同意する。
「私も言いたくないよ……それで、どうやら下水道の上流から来てると推測したので、遡ってみたのだ」
「うん」
「どうやら、エーゲ山頂からの湧き水を伝って街へ降りてきたようなのだ」
「山頂……」
 もともと、山脈から降りてきているのではないのかとはマリンの推測だった。そしてそれを裏付けるリビアンの報告。
「そこでとりあえず連絡しようと思ったのだが、なぜか魔電が壊れていてな。仕方ないので、直接報告するために戻ってきた次第」
 再び気まずそうに、リビアンが頭を掻く。
「うん、次の魔電は防水タイプで揃えよう……シトリンのほうは?」
「あ、はい」
 シトリンはまず返事をして、チラとマリンを見やる。
「シトリン?」
「結果から言うと、貧民窟スラムのあるサイジョー地区。地元の人が教えてくれたのは、南から出没しているとの目撃談がありまして」
「南……山側じゃね」
「はい」
 あれを『教えてくれた』と表現していいのかなと、シトリンは一瞬逡巡する。
(ま、いっか)
 そして気を取り直そうとしたものの、すぐにそれは気鬱に変わってしまった。
「目撃証言どおり、登山口近くでバケモノと遭遇しました」
「やっぱり合成獣じゃったん?」
「……」
 思い出したくないそれを思い出して、シトリンの背筋が凍る。だが勇気を出して口を開く。
「いえ、ただのゴキブリでした」
「なんて?」
「ゴキブリです」
 マリンはゴキブリが苦手だ。だが、無条件で逃げだすほどでは……多分ないが、それでも表情は曇る。
「ちなみに体長は私の身長と同じくらいです」
「なんの?」
「ゴキブリの」
 シトリンの唇が震える。そしてマリンも、それを想像しかけて慌てて頭上をパタパタと仰いでそれを消火にかかった。
「突然変異、あるいはゴキブリ型の魔獣だろうか?」
 リビアンは平気なので、普通にあごに手をやって思慮をめぐらせている。だがマリンは戦慄していた……シトリンは、まだすべてを報告していないだろうと思っていたからだ。
「それで、やっつけたん?」
「……すいません、いかなる罰をも受けます」
「いや、謝罪とかええけ。結果だけ教えて?」
「はい……」
 そしてシトリンは涙目ながら、震える手でジェスチャーを交えて昨夜の悪夢のような追いかけっこを説明した。
「それで、もう怖くて怖くて。いろんなものを投げつけながらなんとか逃げおおせたんですが、魔電も投げちゃったみたいなんです」
 財布も投げてしまい、帰りの馬車賃は恐喝で入手ゲットしたのだとは言わないでおいたシトリンである。
「そ、それは難儀だったな」
 いくらゴキブリが平気とはいえ、人間ほどの大きさのそれに二足歩行で追い駆けられるのを想像するとさしものリビアンも青くなる。そしてマリンは、意識だけがはるか上空の星系外にまで飛んでしまっていた。
「マリン殿! マリン殿⁉」
「マリンさん! 戻ってきてくださ~いっ‼」
 二人にゆさゆさと揺さぶられ、意識が戻ってきたマリン。強引に話題を変えようと、自身の報告に入る。
「私が調査に出向いたんは、エーゲ山麓のヤキャーマの町じゃったんじゃけど」
 最初からエーゲ山に目星をつけていたのもあって、マリンは迷いなくそう動いた。
 そして町長代理を務めるダークエルフのジルコンと出会ったこと、そのジルコンが慈しんでいた奴隷の鼠獣人のアイオライト少年との哀しい末期を包み隠さず説明する。
「獣人との合成獣だと⁉」
 憤懣やるかたないとばかり、ガタッと立ち上がる狼獣人のリビアン。
「ひどい……ひどすぎる‼」
 その凄惨な話に、青ざめて両手で口を覆う猫獣人のシトリン。種族が違うとはいえ同じ獣人同士、それは決して許されざる蛮行だった。
「その後、山頂上空からマンティスの群れが来襲してきたんじゃけど……いずれも半人間デミやったよ。多分じゃけど、村人たちの成れの果てなんじゃろうね」
 すでにそれは、人間としての人格を失っていた。たとえそうじゃなくても、マリンは容赦なくそれを滅しただろう。
 だがそのマンティスどもを屠っているマリンの心中は、いかばかりだったか。それを思うと、リビアンとシトリンの表情も晴れない。
 ついついマリンの表情をうかがってしまうが、淡々と語るマリンからはその悲痛のほどを計り知ることができなかった。
「とりあえず、私が一人で行くのもなんじゃけ取り急ぎ戻ってきたんよ」
「もちろんだ、マリン殿。行くときは三人一緒だ」
「そうです、マリンさん!」
 そして三人は、マリンが広げた山脈を中心とした地図を覗き込む。
「ここ、知り合いがおるけちょっと訪ねてみようと思うんよ」
 そう言ってマリンが指さしたのは、地図上の山頂。
「山頂? 山頂に知り合い、というか山頂は人が住めるのか?」
 リビアンがそう言って訝しがるのも無理はなかった。山頂は常に万年雪が冠せられ、真夏でも気温は氷点下マイナス五十度の世界だ。
「あー、人じゃないです……でも大丈夫ですよ」
 そのマリンの知り合いに心当たりがあるシトリン、やや苦笑いで相槌ちフォローを入れる。
(ここって、アストライオスさんのねぐらのあたり……)
 マリンが知り合いと呼ぶ、古代竜・アストライオスエンシェント・ドラゴン。以前にシトリンはマリンと一緒にアストライオスを訪ね、その背中に乗って温泉旅行に行ったことを思い出していた。
「さて、そうと決まれば善は急げってね。準備はええ?」
「合点だ」
「はい!」
 かくして三人、立ち上がって机上でグータッチを交わす。
(この合成獣は、人によって造られちょるけ)
 マリンの表情はこわばる。そしてそれをやりそうな、やれることのできる人間は人の心を失った怨敵の錬金術師アルケミスト・モリオンの可能性が高い。
「もしモリオンじゃったら、ちょっと考えがあるんよ」
 そう言ってマリンは口元に手をやって、内緒話のジェスチャーをしながら机上に前のめる。リビアンとシトリンがそれぞれ頭頂部にある自分の片耳に手を当てながら、それにならった。


『悪いが、この先は通すわけにはいかん……と言いたいところだが』
「ところじゃけど?」
 いま三人は、山頂から少し外れた古代竜のねぐらにいる。そしてそこの主であるアストライオスと対峙していた。
『かの者が眠る霊廟を荒らす不届き者……わしが寝ている間に、いつの間にか住みつきよった』
「あぁ、確か古代の女神様が眠るという廃城跡じゃっけ……リリィディアの霊柩じゃったか?」
『うむ。わしがここをすみかとするは、その御霊みたまを慰めんがため……』
「でもそこに行くには、ここを通らないといけんじゃろ? アストライオスはなにしとったん?」
『耳が痛いな……わしだって、寝るときは寝るし、飯を探しにでかけるときは留守にするわい』
「ザルな監視じゃねぇ」
『ほっとけ!』
 その見上げても上が見えないほどの巨躯を誇る古代竜と、人間(?)の女性であるマリンが対等に会話をかわしている。はたから見れば、とんでもない光景だ。
 だがシトリンは、マリンがアストライオスを飛竜便タクシー代わりに使ったのを知っているし、実際自分もお世話になった。だからそれほど違和感は感じていなかったのだが……。
「シトリン殿……いま私の目の前にいるのは?」
「あぁ、古代竜のアストライオスさんです」
「古代竜……いや、そんなの神話の中の話じゃないのか?」
 真っ青な顔で震えながらもなんとか二本の足で立っているのは、もちろんリビアン。獰猛な狼獣人でありながら、その本能が背筋を凍らせる。
「マリンさんのお友達なんですよ」
 天然な台詞をあっけらかんと話す猫獣人のシトリンと、ブルブル震えている狼獣人のリビアンとの対比コントラスト。だが彼女リビアンの名誉のために言うなれば、その反応のほうが普通である。
「なんでも昔、マリンさんを倒したことがあるそうです。アストライオスさんて凄いですよね」
「待て。いろいろ待て!」
 ツッコミどころが多くて、リビアンは頭を抱えた。
『そこな猫娘……あれは引き分けであったのだ』
「あれは私の負けじゃったって言うとるじゃろ!」
 シトリンとリビアンがマリンの背後にて小声でかわす会話に、アストライオスとマリンが割って入る。
 そして、ますますわけがわからなくなったリビアンだ。
『まぁそれは置いとくとして。よかろう、通るがいい……そしてかの御霊の眠りを妨げんとする者どもを駆逐してほしいのじゃ』
「者? 人間なん?」
『うむ。夜な夜な、見たこともない珍妙な魔獣がそこから山を下りてゆく……あれは恐らく、人為的に作られた哀しい魂よ』
「合成獣か……」
 だが、ここで一つの疑問がマリンの中で沸き起こる。その廃城跡で合成獣が錬成されているとして、山から降りるルートはこのねぐらを避けているだろう。
 いくら偽りの魂であるとて、この古代竜が発する苛烈な妖気は本能で忌避するはず。だが依り代となる人間は、どうやってそこまで運び込んでいるのか。
『ふ……わからんか?』
「どういうことなん?」
『生きた人間ならば、ここを通るしか道はない。じゃがわしとて、死肉を腹に納めた小動物・・・なぞいちいち狩りぬわ』
「なるほどね……」
 つまり町で殺して食ったあとに、主に鳥獣型の合成獣を利用して持ち帰っている。そしてその腹から死肉を取り出して――。
「悍ましい話じゃね」
 自然とマリンの表情も歪む。アイオライト少年も、そうしてここに運び込まれたのかと思うと。
「念のために訊くけど、その人間の姿は見たん?」
『遠目でな。わしが自ら出向いていきたいところじゃが、わしの巨躯では中に入ることは叶わなんだ……ただでさえ老朽化しておるから、この羽が起こす風でも崩壊しかねん』
「難儀じゃねぇ。で、その人間の容姿風体はどんなん?」
 アストライオスが断片的に漏らすそれを、マリンは脳内で組み立てる。どのような服か、性別は年齢は。
 そしてマリンの中で、ほぼ確信にも近い自信が組みあがった。
「やっぱモリオン……っ‼」
 そしてそれを聞いて、シトリンも殺気立つ。マリンの白くて綺麗なおっぱいを汚した、憎むべき仇敵の名前を耳にして。
「じゃあシトリン、リビアン。行こうか」
 かろうじて平静を保ち、マリンが先導する。アストライオスの横を通るときにペコリと頭を下げてお礼をするシトリンと、シトリンの片腕を両手で掴んでアストライオスの顔色をうかがいながらこわごわと足を運ぶリビアン。
 しばらく歩くと、やがて黒い霧のようなモヤが立ち込める。
「そういやマリンさん、『リリィディアの霊柩』てなんです?」
 そっちも知ってるかとばかりにシトリンはリビアンの顔もうかがうが、リビアンは自分も知らないとばかりに無言で手を振って否定した。
「私もアストライオスから口伝されただけで、詳しくは知らんのんよ」
 そしてそのまま口をつぐみ、無言でさらに歩くことしばし――鬱蒼と茂る木々の間に、その禍々しい朽ちた廃城は姿を見せる。
「とりあえずここで様子を見るけん」
「わかった」
「かしこまりました」
 マリンは小型の望遠鏡で先をうかがい、リビアンは目をつぶり耳に手を当てて、ありとあらゆる『声』を余すことなく傍受キャッチする。木の上ではシトリンが、その嗅覚で風を嗅ぎわける。
「太古の昔にリリィディアっていうね、女神様がおったらしいんよ」
 不意に口を開いたマリンに、リビアンとシトリンが探査の手を休めて振り向いた。
「聞いたことないな。ロード様とは違うのか?」
 ロードとは、この大陸でもっとも普及している宗教『シマノゥ教』の経典に書かれている創造の女神の名前である。
「ロード様より格が上ではあるらしいんじゃけど」
「創造の女神様の⁉」
 それが事実ならば、経典が根本からひっくり返る意味を持つ。シトリンは驚きを隠せないでマリンに確認を求めた。
「アストライオスに言わせると、そういうことになるんよね。でも哀しみの沼に沈み、魔皇として覚醒して世界を滅ぼしかけたとか。でも勇者に封印されて、悠久の昔からずっと眠りについたままじゃって」
「壮大な話だな……」
 リビアンもまた、感嘆の溜め息を漏らす。
「そしてその廃城跡を、モリオンとやらが合成獣を生み出す隠れ家として使っているわけか」
「そうなるんよね。罰当たりな話じゃけ」
 モリオンにはほっといても天罰は下るだろうし、城から離れればアストライオスが黙っていないだろう。だがそれを待っている時間の猶予はないのだ。
「見たところ、確かにあの廃城……リリィディアの霊柩は『生きている』みたい」
 かの廃城に生活感を感じたマリンである。
「あぁ、なんともいえぬ生活音が聴こえた」
「ですね。鮮度高めの生臭い臭いがします」
 そしてそれは、リビアンの聴覚とシトリンの嗅覚からも裏付けられる。
「じゃあ私が宿で渡した『アレ』じゃけど……装着してもらえる?」
 そう言いながらマリンは、自らもポーチから指輪を出して右手中指にはめた。なんの石も飾りもない、白金プラチナの地味なリングである。
「心得た」
「はい!」
 そしてリビアンとシトリンもそれに倣う。
「念押しじゃけど、それが使える時間は装着し続けた時間分じゃけ。もし敵の目の前で外したら『そう』なるから、ばれんようにね!」
 二人が、無言でうなずく。
「じゃ、行くけん」
 そしてマリンを先導にして、リビアンとシトリンが続く。最古いにしえの女神が眠る、リリィディアの霊柩へ……人の尊厳と命を弄ぶ、人の心を失した大罪人に正義を鉄槌をくだすべく――。


 それは、唐突に始まった。三人が廃城の門をくぐった瞬間から、有形無形のありとあらゆる見たこともない合成獣が襲いかかる。
 たちまちのうちに三人は分断されてしまい、めいめいが単独ソロでの戦いを強いられてしまった。マリンは高所を舞う猛禽や昆虫を、シトリンは蜘蛛や蠍のような甲殻類を、リビアンは獅子や狼のような猛獣を。
「ヒャッハーッ!」
 マリンがこれを口にするのはいつ以来だろうか。その眼は爛々と輝き、両手に持った禍々しい青紫色の二本の太い鞭が、マリンに近づこうとした猛禽たちを無慈悲に蹂躙していく。
「うふふふふふっ‼」
 手足を除く自分の体躯部分よりも大きな、猫の肉球を模したハンマーを振り回すシトリンは、トランス状態にあった。
 自身の振り下ろすそれが、縦横無尽に地を這う合成獣たちを破砕していく。潰れた魔獣たちから飛び散る体液が、シトリンの体躯をさまざまな色に染めていった。
「ガルルルルッ……」
 右手にナギナタを持っていながら、リビアンはそれをほとんど使わない。せいぜいがとこ足止めぐらいで、とどめは自らも野獣のように首すじに噛みついては力づくで首をへし折る。
 すでにこと切れた猛獣をくわえたまま仁王立ちで次の獲物を物色するその姿は、百獣の王すら凌駕する殺気を醸し出す。
 だがそれらは鳥ではなく、蜘蛛ではなく、獅子ではなく。いずれもどこかが『そうじゃない』部位を持っている。そしてもちろん、人間との合成獣も。
(気分悪いけ……)
 それらを狩るときだけは、マリンたちの表情も曇る。すでに自我を失った人間の成れの果てとはいえ、滅することでしか助けられない板挟みジレンマ精神メンタルを腐食していく。
 次々と無尽に沸いてでるそれに三人は戦闘狂これでもかとばかりに応戦するが、自身の戦闘能力レベルは大幅にそれらを上回るものの――。
「くっ、キリがないですね‼」
 いくら怪力とはいえど、とてつもない重量の槌を振り回すシトリンにさすがに疲れが見えてくる。自身の本能に任せて応戦していたリビアンがやがて、
「このままじゃ、あごがもたんな」
 そう言って嘆息し、ナギナタ主体での戦闘に切り替えた。
「フヒャヒャヒャヒャッ‼ ヒャッハー!」
 マリン一人だけ元気で、まるで弾丸のように発せられる地上からの鞭先が空飛ぶそれらを解体していく。
(すごいなぁ……)
 横目でそれを見ながらシトリンが感心すれば、
(敵に回しちゃダメだな、あの人は)
 リビアンがくわばらくわばらとばかりに、苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
 まず最初に、リビアンの周囲が開ける。合成された猛獣たちは、その本能でリビアンを恐れて及び腰になっているのだ。中には、逃げ出した個体もいるぐらいで。
「待てっ‼」
 思わず追いかけるべく駆けだそうとするリビアンに、
「リビアンッ、逃げるやつはほっちょいてええけ! 一人だけでも先に進んじょって‼」
「‼ 承知した!」
 逃げた個体を追い駆けるのを中断し、リビアンが踵を返す。
「マリン殿、シトリン殿、待ってる!」
「うんっ!」
「はい‼」
 そしてリビアンが一人、中へ駆け抜けていった。一方でシトリンの相手は甲虫がメインだ、本能で恐れるということをしない。
「しかたないな」
 そうつぶやくと、槌をコンテナーバッグにしまう。そして両手の爪をジャキーンと突出させると、口元からもその牙をむき出しにする。
「シャーッ‼」
 猫獣人とはいうが、あくまで『猫科』の獣人の総称だ。可愛い見た目ながら、シトリンの血統はレオパードに近しい。
 走る速度だけなら、マリンとほぼ同格である……というかマリンはバケモノなので除外するならば、狼獣人のリビアンにも勝るのだ。
 対して甲虫たちは地中に潜る、地中から出てくるといったゲリラ戦でシトリンに挑む。だがシトリンの反射神経に対応できる合成獣は一匹もおらず、その鋭利な爪で手足を首を落とされて絶命していく。
 やがてシトリンの前にも、道が開けた。チラとマリンを確認するが、恍惚な表情を浮かべて鳥退治の真っ最中だ。
(先に行くべきかな?)
 一瞬だけ躊躇したが、
「お先に失礼します!」
 そう叫ぶやいなや、リビアンの後を追った。マリンはそれを横目で確かめると、
「二人ともおらんようになったけ、ちょうどええね」
 そう言って、鞭を地上に落とす。錬金術で錬成した鞭なので、それらはキラキラと輝く光の粒となって霧散していった。
 そして、おもむろに眼鏡を外して――。
「『妖鬼滅視眼オーガ・トレメンドゥム』‼」
 その禍々しい藍色の切れ長の瞳から、マリンの祖父である『究極妖鬼アルティメット・オウガ』の超常能力である『殺気』が中空に向かって放たれていく。
 生けとし生ける者のすべてを絶望の淵に追いやるその殺気で、空飛ぶ合成獣たちが次々とショック死を起こしてバタバタと落下していった。
 以前この技を試したときは距離があったにも関わらず、かのリビアンですら失禁してしまったことがあった。
「二人がおるときは試せんけんね」
 さすがに、味方を失禁させるわけにはいかない。リビアンだってシトリンだって女の子なのだ、だからマリンは一人になるときを待った。
「さて、私も続くけ」
 そしてマリンも、二人を追って中へ駆けて行く。ところが走れども走れども、まったく合成獣に出くわさない。
 それどころか、リビアンやシトリンの気配も感じ取れなかった。
(どうなっちょるん?)
 といって、そこは大きな廃城だ。地上地下にも縦横無尽に通路は伸びているし、部屋なんて数えきれないほどある。
「上か下か……」
 走り続けていても詮無いことなので、マリンはいったん立ち止まった。そして静かに耳をすませてみる。
(上じゃね)
 わずかな地響きをマリンは感知した。そしてそれは、上のほうから聴こえてくるのだ。
「二人とも、いま行くけん!」
 そして再び駆け出すマリン、やがて上階へ続く階段を発見して一気に駆けあがる。
(この音、なんじゃろ?)
 まるで崖から大きな岩が落ちてくだけるような音が、今度は『下から』聴こえてきた。だがいまマリンが目指す上階からも、シトリンかリビアンのどちらかが交戦中らしき気配がする。
「二手にわかれたん?」
 なぜそうなったのかはわからないが、とりあえずマリンは上階へ行くという選択肢を選ぶ。そしてしばらく薄暗い廊下を走り続けていると、向こうからなにかが駆けてくる音とともにシルエットが見えた。
(シトリン?)
 ケモ耳らしきものがあるシルエットが、急いでこっちに向かってくるのを視認する。槌らしきものを持っているので、マリンはシトリンだと判断した。
(なにかに追い駆けられちょる?)
 やがて遠目にもシトリンとわかる距離まで、二人の間は狭まって。
「いやあああああああっ‼」
「シトリン⁉」
 なんとシトリンが、号泣しながらこっちへ全速力で走ってくるのだ。その表情は恐怖に歪み、鼻からは鼻水がたれている。
「シトリン、いったいどうし……っ⁉」
 マリンは思わず足が止まった。シトリンを追い駆けているのは、無数の黒い『楕円形』だ。手足らしきものがあるのだが、それはどう見ても――。
「シッ、シトリン‼ こっち来んといて!」
「そっ、そんなぁ⁉」
 マリンも泣きべそをかきそうな表情になり、瞬時に踵を返す。
 自分を助けにきてくれたと思い安堵したシトリンだったが、いきなり自分を置いて先に逃げ出したマリンに絶望というか失望というか、とにかくそんな表情を向けつつも逃げる足を緩めることはない。
 先に逃げ出したマリンを追い駆ける形でシトリンが続き、シトリンの背後からカサカサと追いかけているのは……体長が約一五〇センチ前後の、立ち上がって二足歩行で走るゴキなんとかの大群であった。


 二足歩行で走る、体長一五〇センチほどのゴキさんの大群が走り抜けていく。そしてその死角となる柱の角――マリンが地面にお尻をつけて座り込んでおり、両手で口を押えて青い顔で震えていた。
 傍らには両ひざをついたシトリンがマリンの腕に抱きつき、すっかり糸目になった瞳孔に涙を浮かべてしっぽを逆立てている。
 逃げる途中で眼鏡を落としてしまったマリン、髪も瞳も顔色も真っ青で。
「い、行った?」
「は、はひ……」
 二人でチラとゴ……が走り抜けて行った方向を見やると、ようやく二人はヨロヨロと立ち上がることができた。
「うぅ……死んだかと思ったけん」
「マリンさん、私置いて逃げた!」
 まだグロッギー気味のマリンに、シトリンが抗議の視線を送る。
「シトリンでも先に逃げたと思うんじゃけど」
「そ……」
 そんなことないと言おうとして、やっぱそうなのかなとシトリンも揺らぐ。
「とりあえず、リビアンは地下行ったみたいじゃけ。追うよ!」
「はい!」
 だがどこにゴキさんがいるのかわからないので、二人とも足取りは不審者そのものである。キョロキョロと周囲を見渡しながら、慎重に階段を下りていく。
「どう、わかる?」
「はい、交戦中のようです!」
 耳をに手を当てて、わずかな振動をシトリンが察知する。マリンは二本の鞭を取り出すと、
「じゃあシトリン、案内して」
「かしこまりました!」
 ようやくエンジンがかかった二人、シトリンを先頭に階段を駆け下りる。そしてマリンにもようやく聴覚できる位置にまでたどりついた。
「あっちです!」
了解りょ!」
 シトリンが猫球槌をコンテナーバッグから取り出し、二人で奥のほうにある扉が開け放たれた部屋へ急ぐ。
「リビアンッ!」
「リビアンさんっ!」
 同時にそう叫びながら部屋に闖入した二人の前に、信じられない光景が広がっていた。身長三メートルほどはある数十体の砂人形ゴーレムが広がって立ちはだかり、その奥――。
「よーうこそ、我が研究所ラボへ!」
 そして最奥、玉座の椅子に腰かけている痩せ型の大男がニヒルな笑顔を浮かべてそう言い放った。
「モリオンッ! やはり貴様か‼」
「おや、ばれてましたか。ふふ……」
 血走った目でにらみつけるマリンだが、その横でシトリンの視線は違う方向を向いている。
「マ、マリンさん! あ、あれ‼」
 シトリンが指さすほうへマリンが目を向けると、そこには血まみれで倒れている狼獣人の女性……リビアンがいた。よく見るとようやくリビアンとわかるぐらいズタボロにされていて、手足はありえない方向に折れ曲がっている。
 内臓がかなり損傷しているようで、血の泡がとめどなく口からあふれていた。
「リ……⁉」
「そこの犬コロ君はよく頑張ってくれましたよ。アクアマリン、君はどれだけ頑張れるかな?」
「貴様ぁっ‼」
 思わず駆け出そうとするシトリンの手首を、反射的にマリンがつかむ。
「マリンさん⁉」
「リビアンは、もうもたんけ……今は、冷静になりんさい」
「もたないって……もたないって⁉」
 マリンは殺気ばしった表情ながらも、冷静にリビアンの身体を観察して。そんなマリンに、シトリンは戸惑いを隠せないでいた。
 だがマリンはシトリンに無表情で一瞥をくれると、無言で自分の指輪に唇をあてる。この廃城に入る前に、三人でそれぞれ装着したお揃いの白金プラチナリングだ。
 マリンのその仕草で、シトリンがハッとして倒れたリビアンの身体を振り返る。そしてその指先に注視すると、
(指輪がない……)
 その意味を、シトリンはよくわかっていた。だからこそマリンも、今こうして比較的冷静でいられるのだろうと合点がいく。
「とりあえず、この砂人形をなんとかせんといけんね」
「ですね!」
 マリンとシトリン、それぞれが得物を構える。マリンは二本の鞭を、シトリンは槌を。
「ふふ、今すぐあなたたちも冥府へ送ってやろう!」
 モリオンがそう叫び、指をパッチンと鳴らす。それを合図に、砂人形たちが一斉に二人に襲いかかってきた。
「ヒャッハーッ‼」
「うふふふふふふっ‼」
 二人ともそれぞれ己が心悸テンションを高めるべくめいめいの言葉を叫びながらマリンが左に、シトリンが右に散る。そしてマリンの双鞭が砂人形たちを無慈悲に蹂躙していき、シトリンの槌が砂人形たちを無遠慮に破砕していくのだけど。
「ふはははは、いやいや絶好調ですねぇ?」
 モリオンは少しの動揺も見せずに、むしろ楽しそうに高笑いを浮かべていた。
 順調に砂人形たちは減っていくのだが、その後方でモリオンが行動不能になった砂人形の数だけ新たに『再錬成』していく。
「キリがないけ……っ」
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
 砂人形たちには痛覚がない。だから完全に動けなくなるまで、まるで死霊ゾンビのように立ち上がってくる。
 強さ弱さでいうならばマリンとシトリンの二人、砂人形たちにはるかに勝る。だが魂を持たない不死の人形アンデッドが相手なのだ、いたずらに時が過ぎ、体力だけが削られていった。
(これ以上の数は増やせんみたいじゃね)
 戦いながら、冷静にそれを分析するマリン。確かにモリオンは、現在いる数以上の砂人形を増やせないでいる。
「だけど屠るさきから次々と復活させてます!」
「ん!」
 戦いの最中、マリンは倒れているリビアンの近くにきていた。息を整えながらそれをチラと見やって、もう一度リビアンの手に指がないことを確認する。
(リビアンも善戦したと思うんじゃけど、やっぱ人海戦術の前に力尽きたんじゃね)
 そしてリビアンの指輪が消えていることの意味、それをマリンは理解している。
「まずはモリオンによる再錬成をやめさせんと……」
 そう思ったときだった。
「きゃあああっ‼」
 思わずフラついたシトリンを、砂人形の一体が後方から羽交い絞めフルネルソンで捕らえた。そして、
「よし、こっちに連れてこい!」
 そう命じるモリオンの声に従い、砂人形がシトリンを捕らえたままモリオンの傍らに移動していく。
「シトリン⁉」
 一瞬あせったマリンだが、シトリンの手にも指がないことに気づいた。
(指輪が……)
 チラと自分の手を見やるが、そこには指輪がある。いつもしているお気に入りのアクアマリンのピンキーリングと、三人でおそろいで拵えた白金のリングが。
「よーし、砂人形ども。止まれ」
 モリオンのその命令で、砂人形たちがピタリと止まった。シトリンを捕縛ロックしている砂人妙もだが、両腕をガッチリと極められているのでシトリンは逃げることも叶わない。
「さすがじゃね、モリオン。人間の声に従う砂人形を造れるんじゃね」
「余裕だな、アクアマリン? さて、こちらには人質がいるわけだが」
 そう言ってモリオンは、両腕を動かぬ砂人形に背後からロックされているシトリンの前に立つと――。
「むぐっ……うぐっ⁉」
 なんと、抵抗できないシトリンの唇に自らの唇を重ねてみせる。不意打ちとはいえど、マリン以外に唇を許してしまったシトリンは顔を真っ赤にして沸騰寸前だ。
「いぎっ‼」
 思わずモリオンがシトリンを突き飛ばしながら離れた。その唇からは、鮮血が垂れ落ちる。
「このクソ猫がっ‼」
 そしてシトリンの唇もまた血で汚れていたが、それは己の血ではなくモリオンの血だ。モリオンの唇を噛み切ったのだった。
 怒り心頭のモリオン、自らの持つ錬金用の杖を手に取ると。
「死ねっ! 死ねっ! 死ねえぇ‼」
 血相を変えて、動けぬシトリンの身体に無数の打撃をくわえていく。
「あっ……あぁっ! アッー‼」
 シトリンが、苦悶の表情を浮かべて身悶える。杖の先端の装飾部分がシトリンの肌を切り裂き、鮮血が舞う。
「モリオン、やめんさいっ‼」
 マリンが思わず飛び出しそうになったところを、急ぎ我に返ったモリオンが杖の先をシトリンの喉元にあてて。
「動くなっ! 動くとこのネコの命はないぞ‼」
「クッ……」
「そうだな、まずは武器を捨てろ。いや、お前『も』錬金術師だったな、それじゃ意味がないか」
 この大陸では、マリンが一番の錬金術師だ。そしていつも二番手に甘んじていたのもあって、モリオンはマリンに劣等感を抱いている。
「そうだな、ほかにも武器を隠し持ってるかもなぁ? よし、服を全部脱げ」「は?」
「聴こえなかったか?」
 モリオンが、下衆びた笑みを浮かべて勝ち誇ったように嗤ってみせた。
「どうした、早くしないか。それとも、このネコの命より自分の矜持が大事か?」
「……」
 悔しさに歯噛みをしながらも、マリンは一枚一枚自分の身に着けているものを脱いでいく。
「ダッ、ダメです! マリンさん、私のことは……」
 シトリンが涙をポロポロこぼしながらそう訴えるのだけど、マリンは優しく笑みをたたえてみせるだけだ。そしてマリンが一糸まとわぬ裸になる。
「で、次は? なにすればええん?」
 もう半ギレどころか全ギレながら、両手で胸と股間を隠しながらマリンがモリオンをにらみつけた。
「ふふ、いい子だ。そうだな? おい、そこの砂人形! アクアマリンを捕縛しろ!」
 そう言いながらモリオンが杖の先をシトリンの喉元から外し、停止している一体の砂人形に杖先を向けた瞬間――。
「へっ、捕まえたぜ!」
「なっ‼ お前は⁉」
 モリオンの杖先をガシッと片手でつかんだのは――リビアンだった。狼狽のあまり、モリオンの動きが止まる。
 そしてそのモリオンの腹に、
「ばーか!」
 そう言って笑いながら腹パンチをめり込ませたのは、なんとシトリンである。しゃがみこんだ姿勢でモリオンの死角から、渾身の突き上げアッパーカットをくらわせたのだ。
「うげっ……‼」
 口から吐しゃ物を垂れ流しながら、モリオンが腹を押えて両ひざをつく。
「な、なんで……」
 シトリンは砂人形が捕縛していたはずである。どうやって抜け出たのかとモリオンが思わず振り返ると、そこには『砂人形を羽交い絞めにしている砂人形』がいた。
「なっ⁉」
 そして倒れていたはずのリビアンの方向に目をやると、さきほどまでリビアンだったそれが砂人形に変わっていく。モリオンは信じられないものを見たといった風で、二の句が告げられないでいた。
「私にだってね、錬金術で砂人形ぐらいは作れるんよ」
「な、じゃあまさかお前らは最初から⁉」
「いや、途中からだけどな」
 狼狽するモリオンに、リビアンが冷たい視線で見下ろす。
「私も捕まる寸前に入れ替わったんですよ」
 シトリンがドヤ顔で、両手をパンパンとはたきながら立ち上がった。
「モリオン? お前の作った不細工な砂人形と違い、私の砂人形たちは美人ぺっぴんさんやったじゃろ?」
 マリンが得意げに、服を着ながら言い放つ。
「お前も錬金術師なんじゃけ、『砂人形の指輪ゴーレムリング』ぐらいは知っちょるじゃろ?」
「砂人形の指輪⁉ 装着時間分だけ動作する、自らの分身となる砂人形を造りだすことが……いや待て、あれは古代に滅んだ『失われた錬金術ロスト・アルキミア』のはずだ!」
「おあいにく様じゃね、その古代から生きてる人にツテがあるんよ。借りた古書を読み解くのは、なかなか難儀じゃったけどね?」
 そう、ここフェクダ王国は天璣の党に住まう魔女・ソラ。マリンを妹のようにかわいがってくれる彼女は、実に五千歳を超える。
「お前の負けだ、モリオン」
 そう言ってリビアンが、モリオンの杖をその怪力でへし折った。そしてそれを無造作にポイと投げ捨てる。
「そっ……クッ‼」
「あっ‼」
 シトリンの本気パンチを食らい、モリオンの内臓はズタズタのはずだ。だがそれでも死力を尽くして立ち上がると、懐に手を入れて短刀ナイフを取り出してマリンに向かって駆け寄っていく。
「もはやこれまで! お前も道連れだ‼」
 まさかモリオンがここまで体力を残している、いや出せるとは思わなかったリビアンとシトリンが置いて行かれた形となってしまった。
「マリン殿!」
「マリンさん⁉」
 だが、たかだか短刀を持っただけの中年親父などもはやマリンの敵ではない。そしてマリンも、モリオンを自らの手で成敗したいところではあったが。
 モリオンが突き出すナイフを持った右手の手首を、マリンが片手でガシッとつかむ。そして――。
『ボキボキボキッ‼』
 骨が砕ける音がして、モリオンの手首があらぬ方向へ折れ曲がった。マリンの妖鬼である祖父譲りの怪力が、モリオンの手首を砕き折ったのだ。
「ぎゃああああっ‼」
 その痛みに、モリオンが断末魔の呻きをあげて両ひざからくずれ落ちていく。だがマリンはモリオンの手首を握ったまま離さず、その耳元でこう囁いた。
「私の手で屠りたいところなんじゃけどね? 私のおっぱいにあんなことされたけん、私よりも怒っちょる人がおるんよ」
「ふぇ?」
 もう涙目で、すっかり戦意を喪失したモリオンが情けない声で応じる。そのモリオンを無理やり立たせると、その下唇をマリンの左手がガシッとつかんだ。
 そしておもむろに――力まかせに、思いっきり引き下げる。
「アベガーッ⁉」
 マリンの怪力で、モリオンの下唇はまるでバナナの皮のように衣服と皮膚を引き裂きながら下腹部あたりまでペロンとめくれてしまった。
 その風体たるや、もはや地獄絵図である。ペロンとめくれた下唇はまるで蛇の皮のように垂れ下がり、へそ下あたりまでめくれているのだから。
「シトリンっ‼」
「はいっ!」
 そしてモリオンの手首をつかんで、一本背負いの形でそのまま怪力にまかせてシトリンとリビアンのいる方向にモリオンの身体をぶん投げた。リビアンが気を利かせて、シトリンから少し離れる。
 それを確認したシトリンは、おもむろにコンテナーバッグから槌を取り出す――。
「モリオン、名もなき技で砕け散れ‼」
 そう叫びながら、槌を大きく振りかぶる。
「ひぃぃっ! や、やめやめ、やめてーっ‼」
 マリンにまるでボールのようにぶん投げられて、空中で態勢を整えることもできないモリオン。情けなくも涙と鼻水を垂れ流しながら、必死の命乞いをしてみせるのだけど。
「マリンさんのおっぱいの仇‼」
(なんじゃそりゃ)
 シトリンの決め台詞に、リビアンは思わず苦笑いである。
 そして『飛んできたモリオン』に、シトリンが思いっきり槌をフルスイング。その極大の衝撃が、モリオンの身体を無数の肉片に変えた。
 それは即死であっただろう、モリオンは往生際の叫び声をあげることすら許されなかった。
 憐れモリオン、そこには先ほどまでいた男の姿はどこにもなく――その肉片からは、性別どころか『元・人間』かどうかすら推察するほども困難なほどに、モリオンの身体はあとかたもなく爆散四散してしまったのである。


「これか?」
「じゃね」
 玉座の後ろ、モリオンが書いた錬金術用の魔法陣……それを指さしてリビアンが確認をとる。そしてマリンが頷いてみせた。
「シトリン、お願い」
「はいっ」
 マリンがそう言って、魔法陣から離れる。そしてリビアンもそれに続き、入れ替わるようにシトリンが槌を振り上げながら魔法陣の前に仁王立ちした。
「いきます!」
 そう言うやいなや思いっきり槌を魔法陣に叩きつけると、まるで隕石の直撃をくらったかのような大きくえぐれた陥没痕クレーターが代わりに姿を顕した。
「終わった、のか……?」
「た、多分?」
 自信なさそうにそんな会話を交わすリビアンとシトリンをしり目に、マリンは玉座の右奥に『なにかの気配』を感じて凝視していた。
(眼鏡がないけん、見えんね)
 なんとか目をこらしてみるものの、ぼんやりとしかわからない。だがそれは人の気配とも違う、不気味な人ならざる者の気配――。
(なんじゃろ?)
 無意識に、マリンの足がその方向へ向かう。シトリンとリビアンは、マリンのその行動に背を向けているので気づかないでいる。
 しばらく小走りに進むと、マリンはやがて開けた場所に出た。まるで教会のような場所で、地下であるにもかかわらず高所にある色硝子ステンドグラスからは色とりどりの光が差し込んでいる。
「ここは?」
 キョロキョロとあたりを見回すと、最奥の祭壇らしき場所の前で……一人の少女が背を向けて立っていた。
 黒くて長く伸びた髪は烏の濡れ羽色とでもいうのだろうか、窓からの光に反射して白い艶がかって見える。
 露出の多いトップスとミニスカート。どちらも漆黒の色合いで、もしカラスが人の姿を纏ったらこうなるんじゃないかという出で立ちだ。
(人としての気配が感じられんのじゃけど……)
 太もも半ばまでの黒いストッキングと黒いミニスカートの間からチラ見える白い肌が、黒衣装との対比コントラストで眩しく光る。片手に持つ魔法杖も黒で――。
 確かにその少女はマリンの目の前にいるのに、靴も含め全身に黒を身に纏うその少女からは『生気』を感じ取ることができなかった。
「葬式帰りの痴女かな?」
 マリンが思わずそうつぶやいた瞬間に、
「誰が葬式帰りの痴女よ‼」
 そう叫びながら、少女が振り返った。髪色と同じく、黒曜石を思わせる黒い瞳。
(ソラ姉と同じ瞳の色じゃね)
 呑気にそんな感想を抱いていたら、その少女が口を開いた。
「それはそうと、ありがとう。私からは、あの『虫』に干渉することができなかったの」
「どういたしまして? って虫って……」
「さっき猫獣人の子がやっつけてくれた虫ですよ」
「あぁ……」
 そう言ってニッコリと笑う少女に、マリンは戸惑いを隠せないでいる。なんの目的があってこの少女はここにいて、そして自分にお礼を言うのだろうかと。
「ねぇ、あなたの名前を教えてくれますか?」
「マリン……アクアマリン・ルベライトです。あなたは?」
 不意に名前を訊かれて、マリンは思わず答えてしまった。だが自分もまた訊き返した次の瞬間、マリンの背筋がこれまでに経験したことのない恐怖を感じて凍り付く。
(この子、強いっ……)
 思わず一歩あとずさる。マリンの本能が、胸の中で大きく警鐘を鳴らす。
(私じゃ絶対に勝てん相手じゃ……シトリンとリビアンとの三人がかりでも無理じゃろ)
 冷や汗が、こめかみを伝う。呑んだ生唾の音が、ゴクリと喉を鳴らした。
「……あなたは、勇者?」
 だが警戒心を最大マックスにしたマリンに、その少女はさほどの心の揺れも見せずそう言い放った。
「アクアマリンさんは、勇者なの?」
「え?」
 その少女の言葉の真意がわからず、マリンは惑うばかりだ。
「えっと、勇者……ではないですね。ただの錬金術師アルケミストです」
 かろうじて、マリンはそう応じる。だがそのマリンの言葉に少女は安心したような表情を浮かべ、頬に笑みをたたえてみせた。
「そっか、よかった。恩人さんと対峙したくはないものね?」
「え? それはどういう……」
 マリンのその疑問に、少女は応えてはくれない。だがクルッと踵を返して祭壇に向き合い、マリンに背を向けると。
「私はリリィ、リリィディア。このお城を掃除してくれてありがとう」
 そのときだった。いなくなったマリンを探して、背後からリビアンとシトリンが駆け寄ってくる。
「マリン殿、そこにいたのか!」
「マリンさん‼」
「あ、シトリン……リビアンも」
 思わずマリンは二人の方向を振り返って、安心させるように微笑みを見せる。だが再びマリンが祭壇に向き直ったとき、その少女の姿はすでにどこにもなく。
「リリィディアの霊柩……まさか?」
 史上最古の女神が眠っているとされる、古代竜が守るこの廃城――。
(あの少女が……)
 呆然と佇むマリンの目の前には朽ちた祭壇がなにごともなかったかのように、窓からの光を浴びて静かに鎮座していた。
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