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第二十話・マリンさんなんて、大っ嫌いです!

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 雨が、降っている。
 フェクダ王国の首都・ガンマのクラシックなレンガの家が立ち並ぶ、普段はバラエティに富んだ屋台群が出店しているにぎやかな一角。あいにくと昼過ぎから降り始めた雨で、人影もまばらだ。
 すでに陽は落ちて黄昏時。傘もささずに、びしょ濡れになるのもおかまいなしに一人の猫獣人の少女――シトリンが泣きながら歩いている。
 雨で髪や耳、尻尾などの被毛はペタンと寝てしまっていて。
 雨なのか涙なのか、とめどなく頬を濡らす雫が伝う。強く噛んだ下唇は牙で少し切れてて、滲む血を雨が洗い流す。
 小さな嗚咽を漏らしつつ泣きながら、シトリンが雨の街をあてもなく歩いていた。ふとすれ違う街の人が心配そうに声をかけるが、虚ろな目でとぼとぼと歩くシトリンの耳には届かない。
 やがて雨足が強くなりその雨滴が肌を突き刺すようになると、とうとう通りからは人影が途絶えた。
「マリンさんの……バカ……」


 遡ること今日の朝方、『白兎の黒足袋亭』の開店前。その準備にあけくれるシトリンの前に、パールが一通の封書を差し出した。
「シトリンちゃん、郵便届いてるわよ」
「ありがとうございます、店長」
 それを受け取って開封し、軽く一読してシトリンの顔にハテナマークがいくつも浮かぶ。
「シトリンちゃん?」
「あの、店長……これ」
「ん?」
 シトリンが差し出したのは、役所ギルドから届いた――『納税通知』。
「あれ、シトリンちゃんてば第五等民だよね?」
「ですよ?」
 ここフェクダ王国では、王族の下に伯爵以上の爵位を持つ第一等民。子爵以下の貴族は第二等民で、ファミリーネーム持ちの平民が第三等民だ。
 ちなみにマリンは第三等民である。そしてファミリーネームを持たない平民が第四等民、その下の第五等民とはぶっちゃけ奴隷民のことである。
「第五は納税の義務はないはずなんだけどな?」
 パールも不思議そうに、用紙の表裏を確認して首をかしげる。奴隷民は納税の義務がなく、逆に『ご主人様』に奴隷所持税がかかる。
「シトリンちゃん、奴隷解放してもらったの?」
「マリンさんに絶対そんなことはさせない……じゃなかった、覚えがないですね」
(なに言ってるんだか)
 シトリンのその盲目的な忠誠心に、パールは思わず苦笑いを浮かべた。
「そうね、今日は午前半休をあげるから役所ギルドに行って問い合わせてきなさいな」
「いいんですか?」
「マリンさんがいたら代わりにやってもらうところだけどね、今日はマリンさんハンターギルドのお仕事でしょ」
「はい、内勤の日ですね」
 二人横目で、ハンターギルド三番カウンターで開所前の準備に勤しむマリンをチラ見する。マリンに相談しようにも、忙しそうなので声をかけるのは躊躇してしまう。
 そんなやり取りがあって、シトリンは一人で役所ギルドに出向いた。そしてそこで、驚愕の事実を知らされるのだ。
「え?」
「ですから、シトリン・ルベライト様は第三等民ですね。おっしゃるとおり、確かに元は第五等民ですが、奴隷解放手続きがすでに成されています」
「そんなバカな!」
 シトリンのその剣幕に、思わずたじろいでしまう受付嬢だ。だが冷静さを取り戻すと、
「ご存じなかったんですか? 詳細をお知りになりたい場合、手数料がかかりますが申請書の写しを発行できます」
「お願いします!」
 そして待つことしばし、発行したそれをもらって待合の椅子に座ってシトリンは目を通す。
「こんな前から?」
 もうほぼ一年近く前、マリンと一緒にアルコルへ温泉旅行へ行った時期だ。そして読み進めていくうちに、シトリンの表情がこわばる。
「四〇億リーブラ⁉」
 シトリンは違法奴隷の出身だ。法で認められていない、奴隷ギルドを介さないで奴隷落ちした経緯がある。
 そして地下闘技場で『殺し合い』の違法賭博ショーに出場する選手として荒廃した日々を送っていたのは今から二年ほど前、十二歳のころだ。その日々の中で左目に致命的な傷を負って選手として使い物にならなくなり、表の奴隷市場マーケットに転売されてしまった。
 今シトリンの左目には、片眼鏡モノクルが装着されている。
 もし当時の奴隷商――マリンとその恩讐をともにする仇敵のブラッドストーン・オブシディアンがシトリンにそれを与えていたならば、今もシトリンは違法奴隷のままだっただろう。もしくは『死合い』に敗れてとっくに死んでいたかもしれない。
 だが違法奴隷から合法奴隷になるというのは非常に稀レアケースで、犯罪奴隷や借金奴隷と違い奴隷解放の条件が法で定められていなかった。つまり一生奴隷のままだったのだが、マリンが旧知の仲であるクラリス・カリスト皇女にかけあって法改正に尽力した。
 結果として『購入資金の十倍』を奴隷ギルドに納めることによって奴隷解放できることになったのだが、シトリンはマリンが無慈悲なマネーゲームをしかけて四億リーブラで奴隷オークションから落札したのだ。
 ちなみに相場は五十万リーブラである。シトリンを性的搾取しようとする不心得な貴族から守るためだったのだが、それが逆に枷となり奴隷解放に四〇億リーブラが必要となってしまった。
 幸いなことに、高名なSSランクハンターであるマリンにとって一括で払える金額ではあったものの、大金は大金である。
 それ以前に、違法奴隷あがりの猫獣人に四億リーブラというのも破格中の破格ではあるのだが。
「私はもう、マリンさんの奴隷じゃ……ない?」
 書類を持つ両の手が震える。琥珀の瞳から、とめどなく涙があふれ落ちる。
 本来、奴隷ならば解放されるのは喜ぶべき話だろう。だがシトリンは『奴隷として売る』ために産み落とされ、それを当たり前として甘受して生きてきた。
 だけどなによりも、愛するマリンの奴隷であること――これはシトリンにとって、なにものにも代えがたい宝であり矜持でもあったのだ。また奴隷であるということは、法によってマリンに紐づけられてもいるというのもシトリンにとっては逆に喜びであった。
 それらがいま、全否定された心地でシトリンは自分の感情に収拾がつけないでいる。法律上はマリンの養女ではあるのだが、義母と養子という関係はどちらか片方が拒否すれば簡単に離別できる関係だ。
 対してご主人様と奴隷の場合、主人側は安易に奴隷を転売できないことが法で定められている。また奴隷本人が自分自身を解放できる金額を貯めたところで、主人の同意なしに自分自身を奴隷解放できない(奴隷の収入イコールご主人様の収入だからである)。
 そんな『縛り』が逆にシトリンを安心させてもいたのだが、それを失ってしまったシトリンの心境はいかばかりだろうか。それどころか自分を買い取るために四億リーブラという大金を使わせただけででも気鬱なのに、奴隷解放のためにさらに十倍の四〇億リーブラを散財させてしまった。
 もちろんマリンもそれを危惧していたからこそ、シトリンを奴隷解放していたことは内緒にしていたのだけど。
「そんな……うっそだぁ?」
 震えるシトリンの両手から、書類が落ちた。隣に座っていた人が親切に拾い上げてシトリンに手渡そうとするが、泣きながら震えているシトリンは硬直したまま動かない。
「あの、大丈夫ですか?」
 心配そうにシトリンに声をかけるが、シトリンは呆然と立ち尽くしたままで。その人は諦めてシトリンの横に書類を置くと、無言で立ち去っていった。


 パールにもらったのは午前半休だったので、とりあえずシトリンは昼前にハンターギルドに戻ってきた。
 チラと勤務中のマリンを見やると目が合って、マリンが笑顔で小さく手を振る。ちょっと困ったようなひきつった笑みを浮かべ、シトリンは小さくお辞儀を返して。
(本当に、奴隷解放されているんだろうか)
 ふと、願望のこもった期待をしてしまう。身分だけが変わったのであって、奴隷なのは続行中なのじゃないかと。
 午後からはウエイトレス業だ。お昼時ってのもあり、給仕の仕事に忙殺される。
 そしてやがて客(ほとんどがハンターである)が一人立ち二人立ち……『白兎の黒足袋亭』には束の間の安息時間が訪れた。そしてそれは、ハンターギルドのカウンターもそうだ。
「ねぇ、シトリンちゃん」
「店長、なんでしょうか?」
「もう月末だから、マリンさんたちにこれお願い」
 そう言ってパールが、数枚の請求書をシトリンに手渡した。ハンターギルドの受付嬢は忙しい時間をぬってその場で注文し、料金は月末に一括払いをするのだ。
 なお一時、シトリンが勝手にマリンのぶんだけを立て替えていたときもあったのだが、それはマリンに怒られてやめたことがある。
「かしこまりました」
(いまはマリンさんと、話をしたくないな)
 そうは思ってもこれは仕事だ、割り切るしかないとシトリンは腹をくくる。
「マリンさん、今月の請求書です」
 ウエイトレス服のまま、マリンが暇そうにしている三番カウンターへ。
「シトリン、お疲れ様」
 そう言ってマリンが左手を差し出すが、シトリンは微動だにせずマリンを見つめていた。
「シトリン?」
「請求書です」
「うん、ちょうだい?」
「……」
 なかなか請求書を差し出さないシトリンに、マリンが訝しがる。
「請求書、渡してくれって命令してくれませんか?」
 思いつめた表情でシトリンがそう言葉をしぼりだすが、
「うん? 請求書ちょうだい?」
 マリンはその真意がわからなくて戸惑うばかりだ。本当なら、マリンはここで気づくべきだった。
「えっと? 命令じゃけ、請求書を渡して?」
「イヤです」
「へ?」
 命令してくれと頼まれて、命令したら断られてしまう。マリンにはさっぱりわけがわからない。
「……冗談です」
 諦めたように、それでも泣きそうになるのを我慢しながらシトリンが請求書を差し出した。
「ヘンなシトリンじゃねぇ?」
 請求書を受け取りながら、マリンは苦笑いを浮かべるのだけど。
「じゃあ、失礼します」
「うん」
 シトリンは早口でそう言うと、忙しく踵を返す。これ以上マリンの前に立っていると、泣いてしまいそうだったから。
 そして首の奴隷環に手を当てて、とうとう涙がこぼれ落ちた。
(奴隷環の呪が、発動しなかった……)
 シトリンが装着している奴隷環は、ご主人様の命令に背けない呪法がこめられている。普通に命令されると、絶対服従の契約のもとに勝手に身体が動く。
 ただし、事前にどんな命令がくだるかを察していて『拒否しよう』と決めていた場合――そう思考することは可能なのだが、その場合は筆舌に尽くしがたい激痛と不快感が全身を襲う。
 さきほど、マリンはシトリンに『請求書を渡せ』と命令してシトリンはそれに抗った。だがその奴隷環は、その呪ペナルティを発動することはなかった。
 これが意味するのは、シトリンがすでにマリンの奴隷ではないということ。わかっていたつもりだけど、わかりたくなかった現実。
 いまシトリンの首に装着されているのは、絶対服従の契約を解呪された用済みの『奴隷環だった物』。シトリンの怪力ならば鍵を使わずとも、力をこめれば簡単に破壊できる張りぼてでしかなかったのだ。
「店長、渡してきました」
「ご苦労様。いまは客足も途絶えてるから、少し休んでいいわよ。なにか作ろうか?」
「いえ、今日は外でいただきます」
 一応レストランなので、時間があるときは従業員が客席で食べてもよいことになっている。だがここには売ってない料理もあるし、弁当を持参している場合もあるので必ずしもここで食べなければいけないわけではなかった。
(今日はお弁当なのかな?)
 パールはそれだけを思って、特に気にはしなかった。自分もまた、外で昼食をとることがあったからだ。
「今日は余り物でいっか」
 そう独り言ちながら、パールは名もなきまかない料理を自分用に調理する。なにげにフライパンから顔を上げたとき、シトリンが走って外に飛び出していくのが見えた。
「食い逃げでも追いかけてったのかな?」
 冗談でそんなことを思いながら身を乗り出してギルドの玄関を確認するが、すでにシトリンの姿はなく。遠目に三番カウンターから不思議そうにそれを見送っていたであろうマリンと目があい、
(シトリンちゃん、どうしたんですか?)
(わからないです)
 念話テレパシーでもなんでもないが、目配せアイコンタクトでそんなやり取りをかわす。このときにシトリンの様子がおかしいことになぜ気づけなかったのだと、マリンはあとで死ぬほど悔やむことになるのだ。
 ――そしてその日、シトリンはハンターギルドにも自宅にも帰らなかったのである。
「シトリーンッ‼」
 すでに時刻は日付もかわって夜半すぎ雨の中、傘をさしてマリンがシトリンを探しに出ていた。片手には、シトリン用の傘を持って。
 宵の口に、
「シトリンちゃんがあれから戻ってこないんです」
「え……どこに行ったんですか?」
 ハンターギルドの閉店作業にとりかかった宵の口、パールからそう伝えられてマリンは狼狽えた。もちろん、真面目なシトリンのことだからサボったりしないことはわかっている。
「シトリンちゃん……なんか火急の用事っぽかったですけど、誰かに伝言残してないですか?」
「こっちには立ち寄ってないですね」
 チラと窓の外を見るマリンの視界に、どしゃ振りの雨景が映る。
(シトリン、傘持ってなかったけど大丈夫じゃろうか)
 取り急ぎ、後片付けもそぞろにハンターギルドの制服のままマリンは二本の傘を持って飛び出した。念のためといったん自宅に帰ったが、シトリンが帰ってきた様子は皆無だ。
 そしてシトリンの名前を呼びながら探すこと、それは夜すがら続いた。
(シトリン、なにかあったん⁉)
 何名か、シトリンの目撃談を拾うことができた。そのいずれもが、
『シトリンが泣いていた』
 という情報でマリンは気が気じゃなかった。そして東の空がじんわりと明るくなり始めた朝ぼらけ、マリンはいったん自宅に踵を返す。
「シトリン、帰っちょるじゃろうか?」
 それならそれで構わない、なにか理由があるなら親身になって聴こう。だが自宅にもいなかったら?
(頼むけん、おって!)
 そして自宅前まできてまだうす暗い中、照明が消えているにも関わらずマリンはシトリンの気配を宅内から敏感に感じ取った
 鍵をあけるのももどかしく、ついつい施錠されたドアノブを怪力でねじ切ってマリンが家の中へ飛び込む。
 マリン宅はアルコル諸島の風習を真似て、玄関先で靴を脱ぐ方式スタイルだ。かろうじて靴は脱いだが、ポイポイ!と乱雑にあと足で蹴り捨てるようにしてマリンはリビングへ急ぐ。
「シトリン‼」
 ソファーで、シトリンがうなだれて座っていた。びしょ濡れの中を帰ってきたばかりなのだろう、ソファーまでの道すじに水滴がにじんでいる。
 まだ帰ってきたばかりなのか、うつむいたシトリンの被毛はどこも濡れていて、ポタリポタリと雨滴がたれていた。
「シトリン! どしたん、大丈……」
 そう言いながら差し出すマリンの手を、シトリンが乱暴に取り払う。
「シトリン?」
「……」
 シトリンは必死で泣くのをこらえているつもりだったが、噛みしめた唇は揺れ涙がポロポロとこぼれ落ちては頬をつたう。怒りをにじませた表情で、うつむいたまま顔を上げてくれなかった。
 マリンは困ったように立ち尽くすしかできなかったが、それでも気を取り直して。
「シトリン、なにかあったん? とりあえず話を聞くけ、身体拭かんと……」
 そう言ってマリンは踵を返し、脱衣所にあるチェストから両手いっぱいのバスタオルを抱えてリビングに急ぎ戻ってきた。だがすでに、リビングにはシトリンの姿はなく。
 開け放たれた玄関まで、さきほどはなかった新たな水滴が続いていた。


「そう……じゃあもうしわけないけどリビアン、しばらくシトリンを泊めてあげてくれる?」
『私は構わないが、なんかあったのか? いや、あったんだろうが』
 この日マリンは出勤日だが、朝一で欠勤の連絡をして再びシトリンを探しに出た。
 ハンターギルドの始業時間寸前の欠勤連絡に、たまたま魔電に出た先輩モルガナは不機嫌さを隠そうとしない。シフトが決まっているのだから、いきなり穴を開けられるとシフトの組み換えに多大な労力が必要になるからだ。
『え、シトリンちゃんが⁉』
「はい、これから探しに出たいので……いくらでもお叱りは受けますので、どうか!」
 だが理由が理由だけに、モルガナもそれを強要できない。
『そういうことならしかたないわね、いいわ。こっちでもシトリンちゃんが顔を出したら連絡する』
「ありがとうございます!」
 そんなやり取りがあって雨上がりの街中を日もすがら、マリンはひたすらシトリンを探しに走った。だがその行方は、杳として知れず。
(いったい、なにが⁉)
 シトリンに害する者がいるなら、ぶっとばす。シトリンに降りかかる艱難辛苦は、必ず破壊する――そんな思いで、マリンが走る。
 そしていつしか時刻は正午を回り、さすがのマリンにも疲れが見え始めたときに魔電が鳴った。リビアンからだ。
 リビアンいわく、明け方をすぎてすぐにシトリンがリビアン宅にやってきたとのこと。泣きはらした目は真っ赤で、雨でびしょ濡れだったから家に入れて手厚く迎え入れた。
「マリンさんには……私がここにいること、言わないでください」
「え、なんで。喧嘩でもしたのか?」
「……そんなとこです」
 そう言って、困ったように笑うシトリンは涙目だったという。どうにもほっておけないで、その後すぐにシトリンを探しにきたマリンに――。
「いや、うちには来てないな?」
 そう言うリビアンのこめかみに、冷や汗が流れる。玄関先での会話だったが、廊下先の曲がり角で息をひそめてシトリンが隠れていた。
 その表情は、少し怒りを滲ませている。ギュッと唇を噛みしめて、必死に涙が落ちないようにしているようにも見えた。
 普段のマリンならばシトリンの気配など簡単に察するし、リビアンの嘘も見抜いただろう。だがマリンもシトリンがいなくなった狼狽のあまり、冷静さを欠いていた。
 だがいつまでもマリンに隠しとおせるものでもないし、シトリンだって黒足袋亭を欠勤し続けるわけにもいかない。
「それが私にもわからんのじゃけど……多分、私が悪いんじゃと思う」
 そう言われたわけじゃないが、直感でそう思った。だから今、シトリンが泣いているのは自分のせいだ。
『うーん、いまシトリン殿はお風呂に入っているんだが……訊いてみようか?』
「うん、お願い……」
 音声通信を切り、とりあえず一息ついて。たまたまそこに公衆ベンチがあったので、疲れ切ったように腰を下ろした。
 海の見える街道沿いの小径。目の前に広がる水平線がマリンの心を癒し、シンナー臭が鼻腔を突き抜ける。
 足元に落ちていた『ペンキ塗りたて』の張り紙が、微風を受けて揺れる。ふとなにげに両の手のひらを見ると、どぎつい緑色に染まっていた。
「……さえんね」
 踏んだり蹴ったりである。まだ確認していないが、背中もスカートも髪もペンキがベッタリなんだろう。
 本来ならばここで慌てて立つところだが、マリンは立ち上がる気力もない。
(シトリン……本当ほんまにどしたんじゃろ)
 必死で記憶を探るが、とんと心当たりがない。自分がなにをしてもシトリンは怒らないので、実はなにかやらかしてるんじゃないかとは邪推もするのだけど。
 そのとき、マリンのポーチにしまわれている魔電が鳴った。慌てて取り出そうとして、ペンキで緑色に染まった自分の手のひらに気づく。
 だが迷ったのは一瞬だけで、すぐに魔電を取り出して興奮のあまり無意識に立ち上がった。
「もしもし⁉」
『あ、マリン殿。シトリン殿のことなのだが』
「なんかわかったん⁉」
『えっと、非常に言いにくいのだが……シトリン殿から伝言があって』
「な、なんて?」
 心臓が、早鐘を打ち鳴らすかのように騒ぐ。そしてやはり原因は自分にあったのかと、手のひらがじっとりと汗で濡れて生乾きのペンキを溶かす。
『「マリンさんなんて大っ嫌い‼」 ……以上だ』
「……」
 あくまで心象的表現だが、そのシトリンからの伝言を聞いてマリンの頭髪が一瞬にして真っ白に染まってしまった。
 背面をベッタリと緑色のペンキで染めたマリンが呆然と立ち尽くしているものだから、すれ違う人がギョッとしながら二度見三度見しては立ち去っていく。
「いいい、い、いま……なんて」
『いやだから、マリン殿のことをシト』
 そこまでリビアンが言って、いきなり通信が切れた。はっきり聞こえたわけじゃないが、リビアンじゃない声で――。
『もう切って!』
 そう聴こえた気がした。間違いなく、シトリンの声で。
「シトリン……」
 絶望の表情で、立ち尽くすしかできないマリン。とりあえずなんでシトリンが怒っているのか、せめてそれだけは知りたい。
 だが、いまリビアンに魔電をかけたところで? リビアン宅に行くのはもっと悪手だ。
「はは、ベットベト……」
 ペンキに濡れた手でポーチを探り魔電を取り出したものだから、全身が緑色のまだら模様だ。服はもう捨てるしかないが、髪がやばい。
 しかたないので、いったん自宅に帰り脱衣所で服を脱ぐ。ペンキは内部まで染みて、マリンの背肌はうっすらと緑色がにじんでいた。
 それを鏡で確認してはため息をつき、脱いだ服を魔導洗濯機に放り込もうとしたのをすんでのところでやめ、ゴミ箱に入れてはため息をつく。
 鏡で後頭部を確認するが、毛先にペンキが絡まってカチカチに乾いていた。
「切るか」
 ハサミを左手で握り、慎重に切り落としていく。数十本単位で髪がペンキで固まっている状態なので、およそ髪らしくない音を立ててそれらが床に散らばっていった。
 そして軽くシャワーを済ませて浴室を出たところで、脱衣所に置いてあった魔電が鳴った。ペンキで手の指のあとが残っていたが、構わずにそれを手に取る。
「もしもし⁉」
『あ、マリンさん。パールです』
「えーっと、ギルマス? なんでしょうか」
『あ、いやパールとしての連絡です。シトリンちゃん、あれからどうなりましたか? 見つかりましたか?』
 パール視点では、シトリンが勤務中にいきなり外に走り出していってそれきりだ。
「あ!」
 すっかり忘れていた。今日シトリンは、黒足袋亭での勤務だったのだ。
 まぁ欠勤連絡となると本来はシトリン本人がすべきところだが、さすがにそれを責める気にもなれない。
「すいません‼ 今日は、緊急のお休みをいただくってことで」
 マリンは平身低頭である。全裸のまま、魔電を持ってペコペコと頭を下げる。
『シトリンちゃん、風邪でもひきました? 昨日から様子がおかしかったですけど』
 そういえばとマリンは思い当たる。なんか元気がなかったような、そんな気がして。
「えっと、いまシトリンはうちにいなくて。いえ、どこにいるかはわかるんですけど、どうも私……嫌われたというか怒らせちゃったみたいなんです」
『シトリンちゃんがマリンさんを⁉』
 パールはびっくり仰天である。それもそのはず、シトリンはマリンには心の底から心酔していて、自身の感情をマリンにぶつけるのを見たことがないからだ。
『「みたい」てことは理由はわからないんです?』
「はい……」
『うーん?』
 パールは、必死で昨日の記憶をたぐりよせる。そして一つだけ、心当たりがあって。
『昨日ね、シトリンちゃんに納税通知書が来てたんです』
「納税通知書、ですか?」
『そう。あれって第四等民までが義務だから、第五のシトリンちゃんに来るのはおかしいよねって話してて』
「……」
 さすがにそこまで聞いて、マリンはすべてを理解した。
『で、役所ギルドに行って聞いてみるってことになったのね』
「……了解です、ありがとうございますパールさん」
 そして二言三言かわし、魔電を切る。
「はあああぁ~っ……」
 魔電を握りしめたまま、大きなため息を吐きながらマリンは頭を抱えてしゃがみこんだ。
(なんてこった……こんなアプローチでばれちゃうとは)
 マリンにとっては青天の霹靂で、それはもちろんシトリンにとってもそうだろうと思いこめかみがズキズキ痛む。とりあえず服を着て、脱衣所を出る。
「どないしよう……」
 一人ティーカップを片手に、リビングのソファで佇む。いつもならシトリンと一緒に他愛もない話に花を咲かせ、おいしいお茶を嗜むこの場で――シトリンだけが、いない。
(迎えに行くべきか……いや、さらに拗れる気がするけ)
 かと言って、なにもしなければなにも進展しない。まずはシトリンが怒っている理由を確認……するまでもないのだが、それでも。
「よし、行こう!」
 意を決して、マリンは立ち上がった。


「シトリン?」
 マリンの家から、少し離れた……といってもマリン宅の周囲に家はなく、一番の近所がこのリビアン宅だ。植樹に遮られて、お互いの家屋を視認できない距離ではあるけれど。
 そのリビアン宅に訪問して、シトリンに貸しているという客間の扉外。マリンがノックをするも返事はない。
「シトリン、おるんじゃろ?」
『いません!』
 中から、シトリンの怒気を含んだ返事が返ってきた。いるじゃんとは思いつつも、マリンはそれ以上はなにも言えないでいる。
 とりあえずその場はリビアンに諭されたのもあり諦め、リビアン宅をあとにして。そして翌日――。
(あ、シトリン……)
 三番カウンターの上で始業準備中、シトリンがリビアン宅から通勤してきた。今日はレストラン業務の日だ。
 ふと目があって、
(ふんっ!)
 とばかりにシトリンにそっぽを向かれてしまう。
「もう仲直りできんのじゃろうか……」
 マリンが半泣きでうつむいていたら、大きな影が目前の机上を陰らせた。
「?」
 なんだろうと顔をあげたマリンの目前には、キッと目じりをあげて唇をキュッと結んだシトリンが仁王立ちしている。
「あ、シト」
 マリンのその言葉が言い終わらないうちに、シトリンは小さな箱をマリンの前に少し乱暴に置いた。箱は綺麗な包装紙に包まれており、リボンがかけられていて。
「???」
「受け取ってください、マリンさん」
「え?」
 さっぱりわけがわからないといったマリンだが、おそるおそるそれを手に取る。
「あの、これは?」
「……」
 シトリンはなにか言いたげで、それでも口は開いてくれなくて。
「開けても?」
「どうぞ」
 ぶっきらぼうにシトリンが応じる。マリンはわけわからないまま、包みを丁寧に開く。
「あ、眼鏡ケース……じゃけど⁉」
 箱の中にあったのは、新品の眼鏡ケース。マリンの瞳の色と同じ、アイスブルーのおしゃれなデザインだ。
「プレゼントです」
「え?」
「誕・生・日! プレゼントです‼ 今日はマリンさんの誕生日でしょう⁉」
「あ……」
 シトリンの迫力に圧倒されて、マリンは二の句が告げないでいた。そしてシトリンを怒らせたドタバタで、自分の誕生日を忘れていたのだ。
「二十三歳、おめでとうございます」
「あ、ありがと……う?」
 だがシトリンはさっきから不機嫌丸出しなので、マリンも反応に困る。
「いくら喧嘩中でも、誕生日ですから」
「あ、はい」
「私、マリンさんのこと嫌いですから!」
「……」
 マリンの返事を待たず、シトリンは踵を返していった。
「律儀ね」
 その様子を見て、モルガナは苦笑いを隠せないでいる。マリンは未だ、目前の出来事に対して意識が追い付いていなかった。
「ど、どういうことなんでしょうか⁉」
「わからない? マリン」
 シトリンは怒っている、嫌いとも言われたしそれは続行中なんだろう。でも誕生日プレゼントをくれるのはどうして?
 さっきからマリンの頭の中は、ハテナマークでいっぱいだ。
「さっきシトリンちゃんが言ったじゃない? 『いくら喧嘩中でも、誕生日ですから』って」
「言いましたね?」
「もし逆だったら?」
「逆?」
 立場のことだろうかとマリンは逡巡する。まぁ自分でも、誕生日プレゼントは喧嘩中でも用意しただろうけども。
「だからね、『いくら誕生日でも、喧嘩中ですから』だったらどう? プレゼントは多分もらえないよね」
「ですね?」
 まだマリンにはピンと来てないみたいで、さすがにモルガナもイラ立ってきた。
「いつかは終わる、仲直りする喧嘩だってことじゃない? 少なくとも、シトリンちゃんの中ではさ」
「シトリン……」
 マリンの眼鏡の下から、大量の涙粒があふれだす。眼鏡を外して、涙を拭う。
「それにしてもマリン。シトリンちゃんと喧嘩してるのはわかったけど、原因はなんなの? マリンが下手に出てるところからして、あなたに非があるのよね?」
「えっと……実は」
「うん」
 モルガナが優しく諭すものだから、マリンも絆されて重い口を開けた。
「シトリンに内緒で、ですね」
「なに?」
「奴隷解放……したんです」
「なるほど、それならシトリンちゃんも怒って当……え?」
 話の流れ的にマリンが悪いと思ってたから、マリンのその発言の真意がモルガナには瞬時に理解できなかった。
「えっと? マリンがシトリンちゃんを、シトリンちゃんに無断で奴隷解放した……であってる?」
「ですよ」
「……シトリンちゃんは、もう奴隷じゃなくなったのよね」
「はい」
 チラとモルガナはレストラン開業準備中のシトリンを見やるが、その首には奴隷環が装着されたままだ。
「それって、シトリンちゃんにとっては喜ぶべきことじゃないの?」
「まぁそうなんですけどね……シトリンは事情があって、奴隷解放の手段を持てなかったんです。だけど法改正でそれが可能になったんですが」
「うん」
「購入資金の十倍を奴隷ギルドに納めることで、解放が叶うんです」
「あぁ、確かニュースで見たわね……」
 顎に手をやってモルガナは考え込むが、マリンのその発言と今の状況とのつながりがよくわからない。だけど不意に思い立ち、サーッと血の気が引いてしまった。
「待って待って! 確かシトリンちゃんて、四億リーブラで……」
「はい。だから四十億リーブラを奴隷ギルドに納めました」
 びっくりしすぎて、モルガナは思考が停止してしまった。シトリンを競り落とした四億という数字でさえ一生働いても手に届かない金額だというのに、その十倍の四十億なんてそこらへんの大富豪ですら持っているかどうかの大金だ。
(なるほど、そういうことね)
 少し離れた場所にある、レストランの厨房内。調理の下ごしらえをしながら、おたま片手にパールが聞き耳を立てていた。
 兎獣人の長い片耳の先端が、ピコピコ揺れる(もう片方は常に折れて垂れているのだ)。
 その超越した聴力ですべてを理解したパールは、テーブルを拭いているシトリンに目をやった。シトリンと目が合うも、シトリンから気まずそうに視線を逸らされる。
「なるほどねぇ……シトリンちゃんも拳を振り上げた手前、許すタイミングを見失ってる感じかな」
 とはいえ、自分もかつてはご主人様を慕う元奴隷だった。シトリンの気持ちは、痛いほどよくわかる。
「なるようにしかならないのかしら?」
 でもずっとこのままというわけにはいかないだろう、シトリンもマリンも……考え込むパールの眉間に、自然とシワが寄る。
(うーん?)
 そしてその日の宵の口、ハンターギルドと黒足袋亭の終業時刻。すでに入り口は閉ざされ、施設内は後片付けでせわしくなる。
(二人とも今日一日、ぜんぜん口を利かなかったなぁ)
 マリンのほうは話しかけたい素振りを見せていたが、シトリンが頑固なまでにスルーしていたのだ。パールとしては、なんとかしてやりたいところで。
「モルガナさん、ちょっといい?」
 ハンターギルド側で一息つきそうなのを見計らい、パールがモルガナを呼ぶ。そしてなにごとかを耳打ちして。
「わかりました。私のほう、マリンは大丈夫だと思いますがシトリンちゃんは……」
「無理にでも連れてきますから」
「かしこまりました」
 そしてパールにいやいや引きずられるようにして、もう無人となったフロアの中央付近にあるテーブルに連れてこられるシトリン。すでにモルガナに促され、マリンは着席したままそれを複雑そうな表情で見守っていた。
「私! マリンさんと話すことなんてありませんから!」
 血気に逸った勢いで、シトリンがマリンが口を開くより先んじてまくしたてた。それを耳にして、マリンは再び失意のズンドコ……もといどん底に沈む。
「まぁまぁそう言わず、座って座って。ね?」
 パールに半強制的に、マリンの正面に座らされるシトリン。決して目は合わすもんかと、腕組みをしたままそっぽを向いて必死の抵抗だ。
「とりあえず、シトリンちゃんの意思を確認しないで秘密裏に奴隷解放しちゃったマリン。言うことあるでしょう?」
 ここは年長のパールが仕切るようだ。兎獣人のパール、その齢は今年で百三十歳を数える。
「シトリン、本当にごめん! 言ったら怒られると思って言えんかったんよ」
「つまり、怒られると知ってて最初からそうしたんですよね⁉」
「……うん。じゃけど!」
「私のほうからは、話すことはなにもないです」
 そう言ってシトリンが席を立とうとするのを、パールが両手でガシッとシトリンの肩に手をやって無理に座らせる。
「店長!」
「シトリンちゃん、いいから座りなさい」
 さすがに、パールの表情も険しくなる。その雰囲気に押されたわけじゃないが、渋々とばかりにシトリンは抵抗を諦めた。
「シトリンちゃんとしては、どうしてもマリンさんを許せない?」
「はい」
 シトリンは即答である。ズズーンとマリンの表情が青ざめていく。
「うーん……整理するけど、シトリンちゃんはマリンさんの奴隷をやめたくなくて怒っているのよね?」
「えっと…ですね?」
 マリンが内緒でそうしたことに怒っているのか、自分のために四十億リーブラも散財していたことに怒っているのかよくわからなくなっていたシトリンだ。顎に手をやってしばし逡巡して、
「まぁ総括するとそこに行き当たりますね」
「だったら話は早いわ」
 パーッと明るい表情で手を打ちながら、パールがなにごとかを思いついたようだ。
「え?」
「え?」
 期せずして、マリンとシトリンの声がハモる。
「あ、なるほど?」
 そしてそれまで黙っていたモルガナが、なにかに気づいたようだ。
「もしかしてパール姉さん……」
「えぇ、それしかなくない?」
「いやでもそれだと、今度はマリンが怒るというか拒否するのでは?」
 パールとモルガナのその会話を聴いて、マリンにはピンとくるものがあった。
「シトリンをまた奴隷にするということですか⁉ それはダメです‼」
 バンと強くテーブルを叩きながら、マリンがこわばった顔で立ち上がった。
「えっ、ダメなんですか⁉」
 それまで怒った表情を崩さなかったシトリンが、それを受けて困惑する。
「ダメに決まっとるじゃろ、シトリン! それはダメ、絶対にダメ。ダメったらダメ‼」
「じゃあ喧嘩は続行ですね」
 すっかり冷静さを失った体のマリンに対し、シトリンはスンッと我に返って冷たく言い放った。
「シトリン~……」
 その頑固なまでの強気な姿勢に、マリンも途端にトーンダウンしてしまう。
 と、そのときだった。パール、マリン、シトリンが『なにか』の気配を感じて殺気立つ。
「え? え?」
 三人のその様子に、一人わけがわからずモルガナは取り乱すばかりだ。
「――どなたですか?」
 すっかり日も暮れて照明も落ちて暗い玄関口に、人影が揺れた。パールは警戒を解かずに、その人影に言葉を投げかける。
「私です」
「あ!」
 マリンが、素っ頓狂な声をあげた。
 Sランクハンターであるパール、実質Sランクハンターで今はAランクハンターのシトリンと、SSランクハンターのマリンと歴戦の三人が瞬時に感じ取った膨大な人外の魔力――。
「ソラ姉!」
 ここフェクダ王国は天璣の塔に住まう魔女、ソラその人であった。
「こんばんわ!」
「あ、ソラさんお久しぶりです」
 パールが、頭をペコッと下げる。シトリンとモルガナは、無言でそれに続いて。
「なんかねー、呼ばれた気がして」
 そう言いながら、ソラが歩み寄ってきた。
「と言いますと?」
 怪訝そうに確認するパールだったが、ソラの後ろにもう一つの人影があることに気づく。
「こんばんわ!」
 ソラの後方にいたのはメイド服を着た、見た目は二足歩行の猫……その首には、赤胴色の奴隷環が装着されていた。
「あ、リトルスノウちゃん。お久しぶり!」
「コユキ……?」
 マリンとシトリンが、それぞれの反応を見せる。
「話は聴かせてもらったわ。なかなか気づいてくれないから、『気配遮断』の呪をちょっとだけ解いたけど」
 そう、ソラは大陸随一の魔女にして呪術師でもあるのだ。
「マリンとシトリンちゃんが仲直りするの、お手伝いできないかなーって思ってね」
「私は、マリンさんを許すつもりはないです……」
 なおも抵抗を試みるシトリンだったが、先ほどの怒気はどこへやら。すっかりトーンダウンして、気まずそうにそうつぶやくと顔を逸らした。
「んー、だからね? リトルスノウ」
「はい」
 ソラのその発言を受け、リトルスノウが自分で奴隷環のロックを解除して外す。するとそこには、おかっぱ頭の黒髪で黒い瞳の……人間の少女の姿。
 かつてはシトリンと同じく違法戦闘奴隷として、地下闘技場で殺伐とした毎日を送っていたコユキが真の姿を顕した。シトリンの、唯一無二の親友だ。
 コユキはかつて違法奴隷として使いつぶされて一度は死んだものの、死後時間が経っていなかったのが幸いしてソラの呪術によって蘇生した。違法である奴隷戦士同士の殺し合いで失った両脚も、ソラが作ってくれた義足でなに不自由なく暮らせるようになった過去を持つ。
 ソラに引き取られ保護されたコユキは、天璣の塔でメイドとして働き始めたのだが……。
『みんなと一緒じゃないとイヤです!』
 と泣いて駄々をこねた。
 すでに塔では十人ほどの猫獣人の奴隷が、ソラの保護のもとに手厚くメイドとして働いていた。しばらくはコユキも見習いとしてその手伝いをしていた、とある日のことである。
 心優しい先輩メイドたちのように、自分も大恩あるソラをご主人として奴隷として仕えたい。そして願わくば、自分も猫獣人だったら良かったのにと泣いてソラたちを困らせたことがあったのだ。
 その解決策として、コユキを『志願奴隷』として奴隷ギルドに登録。そしてソラ作の奴隷環を装着すると、認識阻害の呪が作用して猫獣人に見えるようにしたのだった。
「私は結果的に、奴隷だったのが死んで……ご主人様に新しい命をいただきました。平民としての身分を手に入れたのですが、わがままを言って奴隷にしてもらったんです」
 コユキはそう言ってニコッと笑うと、シトリンを見やって。
「だからシトリンもどうかな? ってマリン様次第だけど」
「それに『志願奴隷』なら、私も呪術師だからうちでも手続きできるの。もちろん、いつでも外せる奴隷環は作ってあげるわ」
 名案とばかりに、ソラもコユキに追ってかぶせた。
 チラとコユキがマリンを見やり、ソラ、パール、シトリン、モルガナも続く。全員の視線が、マリンに降り注ぐ。
「いや、じゃからシトリンを奴隷民に再び落とすわけには……」
 シトリンを奴隷から解放したくてしたのに、当の本人が奴隷に戻りたがっているからマリンも困惑しきりだ。
「もし再びマリンさんの奴隷に落としていただけるならば、仲直りします!」
 シトリンが、目をキラキラさせて立ち上がりながら進言する。
「ダメに決まっとるじゃろ……」
 だが承諾しないと、シトリンは仲直りしてくれないという。マリンは、進退窮まってしまった。
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