海の向こうの永遠の夏

文月みつか

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第2章 永遠の夏

 ▽思い出を封じる

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 そしてとうとう事件は起きた。

 これまで彼が世界を閉じるときは、公園のベンチや紫陽花屋敷の前など、彼が意図した場所に現れるのが通常だった。しかし今回はあろうことか、突然陸から離れた海中に飲みこまれるようにして現れ、息もできずにじたばたともがいていた。私は慌てて海に飛びこみ、潮の流れをつくって彼を救おうとしたが、その間に彼は意識を失ってしまった。早く岸に運んでやらなければ!

『早く……手……つかんで……』

 必死に波を立てていると、水中にもかかわらず、何か人の声のようなものが聞こえた。彼がしゃべっているのかと思ったが、身体はぐったりと流れに身をまかせたままだ。それきり声は聞こえず、私は疑問に思いながらも彼を救い出すことに専念した。
 ようやく彼を浜に押し上げたところで、一体何があったのか知ろうと、彼の記憶を覗き見た。

 なんてことだ……彼は必死に守ってきたものに裏切られてしまったらしい。
 私は怒りを覚えた。彼をこんなふうに傷つけるなど、信じ難い蛮行だ。
 
 彼の命の灯はとても小さくなっていた。
 私は彼の心に耳をすませる。

 あの人との思い出をなかったことにしたい。このまま生きていくのは辛い。

 ……そうか。それが君の願いなら、叶えよう。

 私は彼の胸部にメスを入れ、一つ一つ彼の母親との思い出を抜き取っていった。まるで外科医のように、慎重に淡々と作業をこなした。ちょっとでもほころびが出て、傷が痛まないように。

 気の遠くなるほどの時間と気力を費やし、私は彼の母親に関する記憶をすっかり取り除くことに成功した。しかし完全に消し去ることは不可能なようで、取り出した記憶はしぼみかけの風船のようにそこら中に浮遊していた。私は仕方なくそれらをかき集め、紫陽花屋敷の2階に収容しておくことにした。あそこは何か物思いするときに彼が時々使っていた場所だ。変な気を起こさないように、ついでにふさいでしまえばいい。

 屋敷の2階に大量の記憶を持ち込んだ私は、それらが勝手に部屋の外に漏れだすことのないよう、絵の形に具現化しておくことにした。
 数多ある記憶を物質化して固定するのは、骨の折れる作業だった。部屋の壁一面に、彼の思い出を次々に磔にしていく。押し入れの中で閉じこもっていた記憶も。仲良くご飯を食べていた記憶も。痛かった、幸せだった、耐え忍んだ記憶も。公園で会った男がよこした、母親の若いころの写真も……まったく、面倒なことをしてくれたものだ。あの男と会わなければ、彼がこれほどつらい思いをすることもなかっただろうに。
 最後に、この世界の始まりとも言える、彼の心に空いた暗い穴の記憶をキャンバスへと流しこんだ。この作業は少しつらかった。私と彼が初めて会ったのは、この暗闇の中だったからだ。しかしこれも彼のためだ。私だけが心にとめておけばいい……

 感傷に浸っていると、ありえないことが起きた。
 すぐそばに人の気配がする。

「……えっ、何これ? どういうこと?」

 まさかと思って見ると、若いころの彼の母親が部屋の中に立っていて、きょろきょろと辺りを見回していた。
 私はとんでもない失態をおかしたらしい。
 彼は時々、この部屋で物思いをすることがあった。その際、若いころの母親の写真を眺めていることもあったような……次々と作業をこなすうち、あろうことか本物の写真を具現化してしまったようだ。
 なんてことだ。少女を再現しようとしたときは何度やってもうまくいかなかったのに、ここに来てとんでもないものを生み出してしまった。

「変なの。さっきまでセージもいたのに……セージ!! どこ!?」

 反省している場合ではなかった。彼女は部屋を出ようと扉に向かっていた。
 私は急いでドアを閉め、厳重に鍵をかけた。彼女はドアをたたいて叫んでいた。すぐに窓のほうも閉め切った。
 私は自分の愚かさを呪った。彼女が何かしでかさないよう見張っていたかったが、残してきた彼のことも心配だ。一度ここを離れるとしよう。

 海岸へ戻ると、彼は意識を取り戻していた。私はほっとして彼のそばで渦を巻く。
 あたりはすっかり暗くなり、彼の濡れた体は寒さに震えていた。
 私は焚き火に姿を変え、彼を見守ることにした。
 体を乾かしながら、彼の中では様々な疑念と感情が浮き沈みを繰り返していた。

「……千夏、どうしてるかな」

 彼がぼそりとつぶやく。

 こんな時こそ呼び出せばいいじゃないか。

 私の思いが伝わったかどうか定かではないが、それに応えるように寝間着姿の少女が出現した。無意識に彼が呼び寄せたようだ。
 夢を見ていたと少女は言った。溺れている誰かの手をつかんだのだと。
 そうか、海中で聞こえた声はこの少女のものだったか。どうやったかわからないが、ここへ来たことがある彼女は深いところでこの世界とつながっているのかもしれない。
 それから少女は煌々と燃え盛る私に向かって祈りを捧げた。溺れていたあの子が助かりますように、と。

 あの子は今、君の目の前にいるぞ。

 私は愉快な気分になり、焚き火の周りを飛んだり跳ねたりしている少女を祝福するつもりで花火をプレゼントした。歓喜した少女により色とりどりの花火が咲き乱れ、浜辺はかつてないほどの賑わいとなった。彼も生きる気力を取り戻したようだ。私は少女の無邪気な明るさに感謝した。


 それからは、彼は一度も現実世界に戻ることなく、この閉じられた世界で過ごした。戻ろうとしたこともあったが、なぜかうまくいかないようだった。

 何か重大なことを忘れているという感覚がありながらも、少しずつ傷をいやし立ち直っていった。紫陽花屋敷の2階に何かが隠されていることには早々に気がついたようだが、確かめに行こうとするといつも足がすくんでしまい、立ち入るまでには至らなかった。

 私が生み出してしまった例の写真の産物は、戻し方がわからないままで閉じこめておくしかなかった。もしも彼が自分の意思で扉を開くと決意したとき、対面することになるのは避けられない。そのときは私も責任を持って成り行きを見届けよう。

 もうひとつ彼に謝らなければならないことがある。公園で会った男にもらった海の写真を私のつくった海とつなげた結果、この世界の季節は写真を撮ったときの季節で固定化されてしまったらしい。チョウ氏の紫陽花畑とつなげた時とは違って空間ごと埋めこんだため、写真から受ける影響が大きくなってしまったようだ。つなげたはいいが切り離す方法がわからず、彼の世界はリアルな海と引き換えにずっと夏のままになってしまった。

 私が手を加えた結果歪んでしまったこの世界で、季節は移ろうことを許されず、その間に月日はあっという間に流れていった。
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