海の向こうの永遠の夏

文月みつか

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第2章 永遠の夏

 ▽高速の風になる

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 もう見て見ぬふりをするはやめにしよう。

 彼がそう決心したのは、千夏という少女が高校3年生になった頃のことだった。進路に悩んでいる彼女を見て、自分も成長しなければいけないと思ったらしい。
 そっちはいばらの道だが、彼が望むならば私も応援しよう。

 彼は今生の別れのつもりで、勇気をもって少女に決意を表明した。しかし彼女は彼の想定よりも激しく怒って砂を蹴散らした。死を受け入れようとしている彼に向かって、彼女は何か心残りがあるからずっとここにとどまっていたのではないかと問いかけた。

 心残りならたしかにある。
 彼は夕闇の水平線に流れていく星を見て、どうかあと少しだけこの時間が長く続きますようにと願った。

 それを叶えるのは私にとって難しいことだったが、気持ちは痛いほど伝わった。私は空にいくつもの星を投げ飛ばし、美しい景色を見た少女が少しでも長く見ていたいと思うように努めた。

 すると彼女は、私と彼の思惑を軽く飛び越えて、一緒に青春をしようと言い出し、半ば強引に彼に約束をさせた。
 彼は本当にいいのだろうかとためらいながらも、少女の提案を受け入れることにした。これが最後の思い出になるかもしれないと思うと、時間感覚のずれによるリスクがあるとわかっていても断り切れなかった。

 それから彼は老婦人のところへ行き、ついに紫陽花屋敷の2階の扉を開く覚悟を決めたことを話した。少女のことを託し、結果がどうなったかは天候で合図をして伝える約束をした。老婦人はとても寂しがったがそれは表に出さず、彼の行く末を案じて、応援するわと笑顔で見送った。

 少女がリュックサックにたくさんの青春的なものを詰めこんで再びやってきてから、彼は久しぶりに本当に心から楽しんでいた。私も微力ながら彼らの思い出が最高のものになるようにところどころアシストした。軽い悪ふざけのつもりが少女を必要以上に怯えさせてしまったことが何度かあり、やりすぎだったと反省している。

 翌日紫陽花屋敷へ向かうバスの中で、少女は彼の意思を確認した。彼ははっきり、生きて現実世界に戻りたいと言った。それは私が知るかぎりここへ来て初めてのことだった。彼らの思いをくみ、バスになった私はなるべくゆっくりと走った。つかの間の夏休みだったが、これがどれほど彼に勇気を与えたことか。私は少女に拍手を送りたい。

 少女がしぶしぶ彼の言うことをきいて紫陽花畑に向かったあと、私は暗い気持ちで彼についていった。屋敷の階段を一段上がるごとに苦痛に顔を歪める彼を見て、余計なお世話だとわかっていながらも、そんなに嫌なら無理をしなくていい、今ならまだ引き返せる、と語りかけずにはいられなかった。遠い昔に私が縫い合わせた胸の辺りの傷口が再び開きかけていた。

 そしてついに扉の向こうの失われた記憶と対面したとき、彼の心の内側で嵐が吹き荒れた。堤防が決壊し、ずっと忘れていた心の穴の暗闇が、キャンバスの黒い絵に反応して完全に呼び覚まされた。まずいことに、その反応は強烈で彼にもコントロールできないようだ。今にも膝から崩れてしまいそうな彼を支えてやりたくても、私には見守ることしかできなった。

 若い頃の彼の母親は、異様な黒い靄に怯えていた。彼が必死につむいだ言葉を容赦なく突き放し、自分は何も知らないと泣き叫んだ。

 彼は完全に自分の形を保てなくなり、キャンバスの暗い闇の中へと引きずりこまれていく。

 だめだ、そっちへ行ったら戻れなくなるぞ!! もう少し踏ん張るんだ!!

 私はどうにかして彼を引きとめようとしたが、こんな声援は何の役にも立たなかった。どうすることもできないまま、彼は闇に飲みこまれていく。ならば私もあとを追おうと思ったが、彼を飲みこんだキャンバスはもう満腹だといわんばかりに私をはじき返した。

 あとには、縮こまって震えている彼の母親だけが残った。

 くそっ、こんな絵に彼の希望を奪われるとは。私のせいだ……どうして彼の根源的な深い闇の部分を部屋の真ん中に、それもでかでかとしたキャンバスにして置いてしまったんだ。どうすれば彼を取り戻すことができる?……

 ……そうだ、忘れていた。紫陽花畑にいる老婦人と少女に、このことを伝えなければ。彼女なら、彼を助け出せるかもしれない!

 私は高速の風になり、屋敷から紫陽花畑へすっ飛んでいった。

 おーい!! 彼が大変なことになった!! 早く来てくれ!!

 急いでいたあまりいろいろなものを吹き飛ばしながら、私は彼女たちのもとへ駆けこんだ。二人ともびっくりしていたが、私の意図は伝わったようだ。

『ちょっと落ち着きなさい』

 暴れ馬のように渦巻く私を見かねて、チョウ氏が大声で呼びかけた。

『落ち着いてなどいられない!! 彼の一大事なんだ!!』
『気持ちはわかりますが、そんなに強く風を起こされても私や紫陽花の花びらが吹き飛ばされるだけです。私の管理下でそのような暴挙は許しませんよ』
『ああ、そうだ、ここはチョウ氏の絵の中だ……申し訳ない』

 そよ風モードに切り替え、私はチョウ氏に謝罪した。

『よろしい。あの少年に何かあったのですね?』
『私にもよくわからないのだが、黒い絵の中に彼が吸いこまれてしまったのだ』
『ほう、絵の中に……』 

 チョウ氏は数秒間パタパタと思案するようにホバリングした。

『それは、彼にとってはこちらの紫陽花畑に来ることと似たようなものではありませんか?』
『……言われてみれば、たしかに』

 あまりに気が動転していたため気がつかなかった。

『そうでしょう。彼の意思ではなかったという点は気になりますが、以前は写真であれ絵であれ、意のままに出入りしていた彼のことです。もしかすると、そのうちひょっこりと帰ってくるかもしれませんよ』
『おお……十分にありそうな気がしてきたぞ』

 彼はそんなにやわなやつじゃない。きっと自分でもどうにか対処しようとするはずだ。

『落ち着いてきたようですね』
『おかげ様で。しかし、ただ手をこまねいているわけにもいかない。彼のために、私は私のできることをしたいんだ』
『わかりました。私もできることは協力しましょう』
『ありがとう。私はとりあえず、紫陽花屋敷へ戻る。うっかりしていたのだが、彼の母親を放置してきてしまった。勝手に出歩いたら何をしでかすかわからない』
『母親ですか』

 チョウ氏は私の思考を読み取った。

『なるほど、少々厄介なことになっているようですね。でもあまり乱暴に扱ってはいけませんよ。その方もまた、あの少年にとっては大切な人なのでしょう?』
『困ったことに、そうなんだ。まったく、人間というのは複雑すぎる』
『私は常々思っていましたが、あなたももとは人間なのでは?』
『どうだろうな。いまだに何も思い出せないんだ……』

 千夏という少女がもしも彼の世界に戻ることに決めたらその時は頼むとチョウ氏に伝えて、私は紫陽花畑を後にした。彼女ならきっとすぐに戻ると言い張るだろう。

 冷静さを取り戻しつつも急いで紫陽花屋敷に戻ると、彼の母親はまだ2階の奥の部屋にいた。膝をついて胸に手を当て、過呼吸ぎみになっていた息を整えるのにずいぶん時間がかかっていた。呼吸が落ち着くと、床に落ちた黒いキャンバスをにらみつけ、恐る恐る指でつついた。私は固唾をのんで観察していたが、特に何も起きなかった。
 彼女はキャンバスを裏返して部屋の隅っこに立てかけた。もう二度と見たくないというように。
 そして「最悪」とつぶやいた。それには私も同感だ。
 彼の所在がわからなくなってしまった以上、彼女が彼に危害を加えることはないだろうが、私はこのまま彼女の監視を続けるとしよう。

 どうか無事でいてくれ。
 私は切に祈った。
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