遺願

波と海を見たな

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唾の行方 了

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 ここに一人で来るようになってから気付いたのだが、屋上の扉の影に小さな足踏み台が置かれていて、それを使えば力のない女の私でも柵を乗り越えることができた。白いどこにでも売っているようなその台は、天子が使ったに違いない。
 もしここから飛び降りようと考えると、その視線の先には必ず校舎裏がある。だとすれば私たちの出会いは必然で、穿った見方をすれば、1人静かに死にたかった天子は毎日校舎裏でイジメられていた私が邪魔になって、退かす為に私を懐柔してイジメを止めたと考えることもできるかもしれない。
 結果的に彼女は自殺した。
 私はその答えを永遠に聞くことができない。
 それでも、天子は笑っていた。青空を背に、美しく旅立っていった。あの笑顔の向けられた先が
彼女自身でなくて私であって欲しい。私たちの出会いは良縁だったと思いたい。そう心の底から願っている。

 血と体液を浴びただけで怪我のなかった麗愛だが、噂ではあの日のトラウマから空を見上げることができなくなったらしい。外出もままならなくなってそのまま休学し、いつの間にか転校していった。
 麗愛がいなくなってからは校舎裏を使うものもいなくなった。クラスにも束の間の平穏が訪れたと思う。 
 相変わらず私は一人だけど、少なくともイジメられることは無くなった。

 私は足踏み台の上から柵に体重をかけると、力一杯よじ登って一気に乗り越える。
 柵から屋上の縁までは人ひとり分の隙間しかなくて、恐怖で自然と体が硬くなった。それなのに、こうして柵を掴みながら空を見上げていると、そのまま手を離して落ちて行きたい誘惑にかられてしまうから不思議だ。
 天子がいなくなって私は空っぽになってしまった。いや、元々満たされてなんていなかったんだけど。それでも私のコップにだって少しくらい水は入っていたはずだ。今の私は毎日底が抜けたまま学校に行き、休日はこうしてひとり乾いた心で屋上から空を眺める日々を過ごしている。
 天子を追うのは簡単だ。私も同じように一歩踏み出せばいいだけ。今ここで目を瞑って足を出せば、その瞬間はすぐにでも訪れるのだから。
 私は試しにそっと柵から手を離してみる。好奇心の木が風にそよいで私をあちら側へと手招いていた。下から噴き上げてくる風は、私が本当に飛べるんじゃないかと錯覚させてくる。
「やっぱり、まだ行けないな」
 私は再び柵を乗り越えて屋上まで戻った。
 怖気ついた訳じゃない。
 ただ天子が最後に笑った意味を知りたいだけだ。
あの時確かに私を呼ぶ声を聞いたけれど、その笑顔が私に向けられたものだったのかは今もわからないでいる。
 天子は堕ちることできっと縛られているものから自由になったけど、私は違う。ただ後を追うだけじゃ今までと変わらないし、それは環境から目を背けて思考停止で逃げているだけだ。
 私を導いてくれた天子はもういない。今度こそ私は私の意思で未来を選ばないといけない。

 いつの間にかあの日のように遠くの空が赤らんで、辺りが血で染まっていく。部員の掛け声も騒がしい音色も止んでいて、蝉の声だけが虚しく空に吸い込まれていった。
 見下ろす校舎裏はより一層影を濃くし、犠牲になる生徒を手招いている。
 もし。
 もしあそこで誰かがイジメられるその時は。
 私もここから唾を垂らそう。
 イジメた奴の顔にべっとりついた唾を指差して、ここから派手に笑い飛ばしてやるんだ。
 はっきり言って地味で卑怯な私は天使には程遠いけれど、それでも行動することに意味がある。
 きっと上手くいくはずだ。
 イジメられていた子と一緒に屋上で空を眺めて、お互いのことをたくさん話すんだ。その子と私が道を誤ってしまわないように。
 それはきっと素敵な出会いになる。
 それこそが私の選んだ唯一の生きる道なのだ。
 
 蝉の声を聞くと今も鮮明に思い出す。
 天使との邂逅と解放の笑顔を。
 今日も私は屋上で1人その時を待っている。
 明日も明後日もその先も私はずっと待っている。
 誰も来ないならその時は…。
 風もないのにプラタナスの木が揺れて、湿った土の上にはらりと落ち葉が重なった。
 青々と育った私の好奇心を抑え込む様に、私は校舎裏に向かって唾を垂らした。
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