3 / 49
3 放課後は図書室に行こう
しおりを挟む
どこかで芝刈りでもしているのか、風は青臭い香りを運んでくる。時刻は、ちょうど正午。真上にある太陽に照らされて、屋上の地面が程よく温まっている。
ハンカチを床に敷き、弁当箱の蓋を開けると、草の香りに食べ物の匂いが混ざる。
色とりどりのおかずは、冷めても美味しいように、シェフが考えて作ってくれるものだ。私は卵焼きを取り、口に運ぶ。ふんわりとした食感と、ほんのり甘い後味。
霞ヶ崎学園の売りのひとつが、学園専属シェフの作る美味しい学食である。出す金額によってはちょっとしたコース料理にもなる学食は、舌の肥えた学生たちにも高評価を得ているという。
だとしても、学食より、こっちの方がずっと美味しいわ。
温かな紅茶のマグボトルを開け、ゆっくりと飲む。食後の温かい飲み物には、満たされた気持ちにさせられる。そうしながら私は、四月の最初に学食で食べた昼食を、苦々しく思い出した。
中等部までは、皆持ち込みの弁当だった。それが高等部に上がると、学食という選択肢が増える。こぞって学食に向かう級友に紛れ、私も昼食をそこで食べてみた。
混雑しているのに、あのとき私の隣には、誰も座らなかった。入学早々、早苗はたくさんの友人に囲まれていたと言うのに。美味しいと評判の学食は、噛んでも何の味もしなかった。
「……ご馳走さまでした」
その点、ここで食べる食事は、人目を気にしなくて済む。
食事を終え、下を眺める。噴水の周りに集う人、中庭で談笑する人。ぼんやり眺めていると、眠気が襲ってくる。
本格的に眠くなる前に、教室に帰った。早苗たちの姿は、まだない。私は席に着き、次の授業の教科書を開く。
定期考査では、学年で上位十名の生徒の名前が貼り出される。中等部の頃から、私はその掲示に、漏れたことはなかった。
成績を保つためには、日々の勉強も、欠かせない。教科書をぱらぱらとめくりながら、前回の内容、次の授業の内容に目を通す。
「千堂くん、今度一緒に勉強しようよ」
「ええ? 早苗に手の内は明かしたくないな」
「いいじゃない、1位にはなれないの、わかってるよ」
静かな教室が、急に騒がしくなる。生徒たちを引き連れて帰ってきた海斗と早苗。今年度に入ってから、順位のツートップを独占するのが、彼らだ。
あの二人は容易には抜かせない。海斗が1位、早苗が2位。入学直後の学力試験、そして先日行われた1回目の定期考査でも、その順位は変わらなかった。
学費を免除される特待生の資格を得ただけある。早苗の学力は、確かなものだ。
「私たちも、参加したいわ」
「いいわよ……ね、千堂くん?」
「ええ……いやあ、教えるなら、僕は早苗で手いっぱいだよ」
やんわりと断られることすら、喜びらしい。頬を染めて手を取り合う女生徒たちに、私は冷ややかな視線を浴びせることしかできなかった。
いけない、見てたらまた怒られちゃう。
海斗の冷たい声を思い出し、窓の外を見る。流れる、白い雲。霞ヶ崎という名だけあって、運動場の遥か向こうに、海が見える。高台から見下ろす海は、それでも、青い。
「抜け駆けするなよ、俺も参加する」
「僕たちの勉強に、ついてこられないだろう、お前じゃ」
「ひどいよ、千堂くん。仲間に入れてあげようよ」
白い鳥が、風を受けて舞っている。大きく円を描くのを、私は眺めていた。
ひどいのは、誰よ。
平静を装ってみたものの、胸がきりきりと痛む。
海斗と出かける時には、いつもどちらかの親が同伴していた。海斗と個人的に会ったことなど、私にはない。
一応、私は海斗の婚約者だったのだ。私に聞こえるところで、仲睦まじい会話をするなんて。あまりにも、心ない仕打ちである。
それとも早苗は、私と海斗の婚約自体を、知らないのだろうか。海斗が婚約のこと自体を隠して、彼女と接している可能性も、なくはない。
頬杖をついて、外を見ながら、止め処ない思考を巡らせていた。空の抜けるような青さは、胸のもやもやを紛らわしてくれる。
「教科書の46ページを開きなさい。今日は……」
指示に従い、教科書やノートに、細々とメモを書き加える。私には、海斗や早苗のように、飛び抜けた才能があるわけではない。こうして書いたメモを何度も見返して、記憶に定着させるのだ。
集中していると、授業の時間は、あっという間だ。疲れた、と伸びをする隣の男子を横目に、教材を鞄にしまう。授業は、苦ではない。休み時間より、よほど気が楽だ。
「早苗、今日の予定は?」
「帰るよ」
「それなら、僕と一緒に、生徒会に手伝いに行こう」
「えぇ、今日も? あたしには、生徒会は荷が重いよ」
ここのところ毎日、海斗は早苗を連れて、生徒会に顔を出している。
生徒会本部役員。学園を牛耳る、有力子女の集まりだ。海斗の知り合いが会長をしているので、入学したばかりではあるが、海斗は手伝いに駆り出されている。
私も、誘われたんだけどね。
中等部からの知り合いだったので、声がかかったのを、私は断った。生徒会は忙しいし、私は偉そうに前に立って、あれこれ指示するのは得意ではない。生徒会の権威を笠に着るのも、趣味に合わない。
代わりというわけではないが、海斗が早苗を連れ回しているのを見て、そうなるなら生徒会の手伝いを承諾しておけばよかった……と少し後悔したのは、今更誰にも言えない話だ。
「良いわね、生徒会長とも、お知り合いだなんて」
「私も紹介していただきたいわ」
「お知り合いってほどでもないわよ。人使いが荒いんだから、あの人」
はあ、と溜息をつく早苗。そのあけすけな言い方から、会長とも親密な関係を築いていることが察される。
「仲がよろしいのね~」
「羨ましいわ」
両手を頬に当て、甘やかな息を吐き出す女生徒たち。
「早苗と会長は、仲良くなんてないよ。だろう、早苗」
不服そうな海斗の言葉には、嫉妬の色が明らかににじみ出ている。それを察した女生徒たちは目配せをし、嬉しそうな表情になる。
嫉妬の対象は早苗であり、彼女たちではない。それでも頬を染め、うっとりしている。おめでたい人たち。
私はその集団を置いて、教室を出た。向かう先は、もう決めている。
「あ、連絡しておかないと」
山口には、帰りが遅れる旨を、一報入れておいた。これで心置きなく、読書に専念できる。
図書室のガラス窓の向こうには、相変わらず、人はいなかった。閑古鳥とは、このことである。せっかく、設備が整っているというのに、使われないようでは、宝の持ち腐れだ。
私も、持ち腐れを担っていたひとりだけれど。
何しろ、本なんて、欲しければ買ってもらえる。私の場合は、兄が学園時代に購入した本もたくさんあるので、勉強に必要なものは、大体家にある。それは私だけの話ではなく、この学園に通う子女の多くが似たような環境にある。
中へ入ると、ブラインドの隙間から射す光に、埃が照らされてきらきらしている。悪くない眺めだ。私は、昨日と同じ書架へ、向かおうとした。
「あ、君」
静かな図書室に、抑え目な声が響く。人が少なすぎて、ちょっとした話し声もよく響いてしまうらしい。
「そこの、1年生。昨日の」
私は、辺りをそっと見回し、話しかけられている1年生がどこにいるのか探した。同学年の生徒がいるのならば、少々気まずい。
「君だって」
がしっ。
腕が掴まれ、前に進む私の勢いが削がれる。
「え?」
「あ、ごめん、手荒なことをして。でも君が、全然振り向かないから」
「私を、呼んでいたんですか」
学園内で、先生以外の人に呼ばれるなんて、あまりないことだ。教室ならまだしも、ここは図書室。まさか自分のことだなんて、思いつきもしなかった。
私の腕を掴んでいたのは、昨日会った、あの眼鏡の先輩だ。緑のネクタイが、生真面目にきっちり締められている。
振り向くと、掴まれた手は、すぐに離される。
「図書室の利用は、初めてなんじゃない? いろいろ教えるから、本を読むのは、その後にしたらどうかな」
「構いませんけど……あなたは?」
「俺、図書委員なんだ。利用者に説明するのが仕事だから、一応」
はにかむと、厚めのレンズの向こうで、切れ長の目がきゅっと細くなる。
「そうでしたか」
「そう。悪いね、しつこく呼び止めて」
「いえ……たしかに私は昨日、利用マナーを破ったようなので」
何しろ昨日の私は床に座り込み、閉館時間は無視するという不良だった。私なりに事情はあったものの、それは図書室の使い方を破っていい理由にはならない。
先輩と共に、カウンターに移動する。腰の高さの、やや低めな台の上に、利用マナーの書かれた紙が置かれている。私はそれに、一通り目を通した。静かに過ごす、飲食禁止、など。よくある決まりが並べられている。
「……理解しましたわ」
「よかった。貸出票は持ってる?」
「いえ……」
図書室に来たのが初めてなら、当然、手続きに必要なものもない。彼は柔和な笑みを浮かべ、手慣れた手つきでカウンターの引き出しを開ける。
「作っておきなよ。減るものでもないし」
「……まあ、そうですね」
親切な図書委員の申し出を、断るべき理由もない。差し出された紙の貸出票に、私は名前を書く。
「小松原、藤乃さん……ね」
私の名字を見ても、先輩は、あまり驚いたそぶりを見せない。その反応に、私は内心、驚いた。
小松原という名前は、学内でもそれなりに知れているという自負がある。小松原家という家系と、昨年度は生徒会長をしていた兄の存在があるからだ。
わざわざそんなことを言う必要もないので、私は、黙って頷いた。
「君にだけ名乗らせるのも悪いね。俺は、松見、慧。よろしく」
「まつみ、けい先輩」
「下の名前でいいよ。苗字で呼ばれるの、あまり慣れてないから」
差し出された手を、私は見下ろす。柔らかそうな手のひらだ。
「あ……握手は、嫌だった? ごめん」
「あ! いえ、わからなかっただけです」
思わず握った手のひらは、見た通り、柔らかかった。海斗の手だって、数えるほどしか握ったことがない。もちろんこれは、ただの握手なんだけど、しっとりした感触に、妙に緊張してしまう。
「よろしくね、藤乃さん」
「こちらこそ……慧、先輩」
海斗以外の男性を、下の名前で呼んだことだって、数えるほどだ。
下の名前で呼ぶと、妙に距離感が縮んだように感じる。戸惑っていたところで、ぱっと手を離されて、やっとひと息つく。
「他にもわからないことがあったら、聞いて」
「……はい」
慧は微笑むと、眼鏡を直して、手元の本に視線を落とす。私は不思議な気持ちで暫くその顔を眺めていたが、すぐに方向を変えた。
ルール違反の生徒を排斥せず、こんな風に丁寧に説明をするとは。やはり図書室は、随分と心の広い場所らしい。そう感心しながら、今度こそ私は、昨日と同じ書架に向かう。
ハンカチを床に敷き、弁当箱の蓋を開けると、草の香りに食べ物の匂いが混ざる。
色とりどりのおかずは、冷めても美味しいように、シェフが考えて作ってくれるものだ。私は卵焼きを取り、口に運ぶ。ふんわりとした食感と、ほんのり甘い後味。
霞ヶ崎学園の売りのひとつが、学園専属シェフの作る美味しい学食である。出す金額によってはちょっとしたコース料理にもなる学食は、舌の肥えた学生たちにも高評価を得ているという。
だとしても、学食より、こっちの方がずっと美味しいわ。
温かな紅茶のマグボトルを開け、ゆっくりと飲む。食後の温かい飲み物には、満たされた気持ちにさせられる。そうしながら私は、四月の最初に学食で食べた昼食を、苦々しく思い出した。
中等部までは、皆持ち込みの弁当だった。それが高等部に上がると、学食という選択肢が増える。こぞって学食に向かう級友に紛れ、私も昼食をそこで食べてみた。
混雑しているのに、あのとき私の隣には、誰も座らなかった。入学早々、早苗はたくさんの友人に囲まれていたと言うのに。美味しいと評判の学食は、噛んでも何の味もしなかった。
「……ご馳走さまでした」
その点、ここで食べる食事は、人目を気にしなくて済む。
食事を終え、下を眺める。噴水の周りに集う人、中庭で談笑する人。ぼんやり眺めていると、眠気が襲ってくる。
本格的に眠くなる前に、教室に帰った。早苗たちの姿は、まだない。私は席に着き、次の授業の教科書を開く。
定期考査では、学年で上位十名の生徒の名前が貼り出される。中等部の頃から、私はその掲示に、漏れたことはなかった。
成績を保つためには、日々の勉強も、欠かせない。教科書をぱらぱらとめくりながら、前回の内容、次の授業の内容に目を通す。
「千堂くん、今度一緒に勉強しようよ」
「ええ? 早苗に手の内は明かしたくないな」
「いいじゃない、1位にはなれないの、わかってるよ」
静かな教室が、急に騒がしくなる。生徒たちを引き連れて帰ってきた海斗と早苗。今年度に入ってから、順位のツートップを独占するのが、彼らだ。
あの二人は容易には抜かせない。海斗が1位、早苗が2位。入学直後の学力試験、そして先日行われた1回目の定期考査でも、その順位は変わらなかった。
学費を免除される特待生の資格を得ただけある。早苗の学力は、確かなものだ。
「私たちも、参加したいわ」
「いいわよ……ね、千堂くん?」
「ええ……いやあ、教えるなら、僕は早苗で手いっぱいだよ」
やんわりと断られることすら、喜びらしい。頬を染めて手を取り合う女生徒たちに、私は冷ややかな視線を浴びせることしかできなかった。
いけない、見てたらまた怒られちゃう。
海斗の冷たい声を思い出し、窓の外を見る。流れる、白い雲。霞ヶ崎という名だけあって、運動場の遥か向こうに、海が見える。高台から見下ろす海は、それでも、青い。
「抜け駆けするなよ、俺も参加する」
「僕たちの勉強に、ついてこられないだろう、お前じゃ」
「ひどいよ、千堂くん。仲間に入れてあげようよ」
白い鳥が、風を受けて舞っている。大きく円を描くのを、私は眺めていた。
ひどいのは、誰よ。
平静を装ってみたものの、胸がきりきりと痛む。
海斗と出かける時には、いつもどちらかの親が同伴していた。海斗と個人的に会ったことなど、私にはない。
一応、私は海斗の婚約者だったのだ。私に聞こえるところで、仲睦まじい会話をするなんて。あまりにも、心ない仕打ちである。
それとも早苗は、私と海斗の婚約自体を、知らないのだろうか。海斗が婚約のこと自体を隠して、彼女と接している可能性も、なくはない。
頬杖をついて、外を見ながら、止め処ない思考を巡らせていた。空の抜けるような青さは、胸のもやもやを紛らわしてくれる。
「教科書の46ページを開きなさい。今日は……」
指示に従い、教科書やノートに、細々とメモを書き加える。私には、海斗や早苗のように、飛び抜けた才能があるわけではない。こうして書いたメモを何度も見返して、記憶に定着させるのだ。
集中していると、授業の時間は、あっという間だ。疲れた、と伸びをする隣の男子を横目に、教材を鞄にしまう。授業は、苦ではない。休み時間より、よほど気が楽だ。
「早苗、今日の予定は?」
「帰るよ」
「それなら、僕と一緒に、生徒会に手伝いに行こう」
「えぇ、今日も? あたしには、生徒会は荷が重いよ」
ここのところ毎日、海斗は早苗を連れて、生徒会に顔を出している。
生徒会本部役員。学園を牛耳る、有力子女の集まりだ。海斗の知り合いが会長をしているので、入学したばかりではあるが、海斗は手伝いに駆り出されている。
私も、誘われたんだけどね。
中等部からの知り合いだったので、声がかかったのを、私は断った。生徒会は忙しいし、私は偉そうに前に立って、あれこれ指示するのは得意ではない。生徒会の権威を笠に着るのも、趣味に合わない。
代わりというわけではないが、海斗が早苗を連れ回しているのを見て、そうなるなら生徒会の手伝いを承諾しておけばよかった……と少し後悔したのは、今更誰にも言えない話だ。
「良いわね、生徒会長とも、お知り合いだなんて」
「私も紹介していただきたいわ」
「お知り合いってほどでもないわよ。人使いが荒いんだから、あの人」
はあ、と溜息をつく早苗。そのあけすけな言い方から、会長とも親密な関係を築いていることが察される。
「仲がよろしいのね~」
「羨ましいわ」
両手を頬に当て、甘やかな息を吐き出す女生徒たち。
「早苗と会長は、仲良くなんてないよ。だろう、早苗」
不服そうな海斗の言葉には、嫉妬の色が明らかににじみ出ている。それを察した女生徒たちは目配せをし、嬉しそうな表情になる。
嫉妬の対象は早苗であり、彼女たちではない。それでも頬を染め、うっとりしている。おめでたい人たち。
私はその集団を置いて、教室を出た。向かう先は、もう決めている。
「あ、連絡しておかないと」
山口には、帰りが遅れる旨を、一報入れておいた。これで心置きなく、読書に専念できる。
図書室のガラス窓の向こうには、相変わらず、人はいなかった。閑古鳥とは、このことである。せっかく、設備が整っているというのに、使われないようでは、宝の持ち腐れだ。
私も、持ち腐れを担っていたひとりだけれど。
何しろ、本なんて、欲しければ買ってもらえる。私の場合は、兄が学園時代に購入した本もたくさんあるので、勉強に必要なものは、大体家にある。それは私だけの話ではなく、この学園に通う子女の多くが似たような環境にある。
中へ入ると、ブラインドの隙間から射す光に、埃が照らされてきらきらしている。悪くない眺めだ。私は、昨日と同じ書架へ、向かおうとした。
「あ、君」
静かな図書室に、抑え目な声が響く。人が少なすぎて、ちょっとした話し声もよく響いてしまうらしい。
「そこの、1年生。昨日の」
私は、辺りをそっと見回し、話しかけられている1年生がどこにいるのか探した。同学年の生徒がいるのならば、少々気まずい。
「君だって」
がしっ。
腕が掴まれ、前に進む私の勢いが削がれる。
「え?」
「あ、ごめん、手荒なことをして。でも君が、全然振り向かないから」
「私を、呼んでいたんですか」
学園内で、先生以外の人に呼ばれるなんて、あまりないことだ。教室ならまだしも、ここは図書室。まさか自分のことだなんて、思いつきもしなかった。
私の腕を掴んでいたのは、昨日会った、あの眼鏡の先輩だ。緑のネクタイが、生真面目にきっちり締められている。
振り向くと、掴まれた手は、すぐに離される。
「図書室の利用は、初めてなんじゃない? いろいろ教えるから、本を読むのは、その後にしたらどうかな」
「構いませんけど……あなたは?」
「俺、図書委員なんだ。利用者に説明するのが仕事だから、一応」
はにかむと、厚めのレンズの向こうで、切れ長の目がきゅっと細くなる。
「そうでしたか」
「そう。悪いね、しつこく呼び止めて」
「いえ……たしかに私は昨日、利用マナーを破ったようなので」
何しろ昨日の私は床に座り込み、閉館時間は無視するという不良だった。私なりに事情はあったものの、それは図書室の使い方を破っていい理由にはならない。
先輩と共に、カウンターに移動する。腰の高さの、やや低めな台の上に、利用マナーの書かれた紙が置かれている。私はそれに、一通り目を通した。静かに過ごす、飲食禁止、など。よくある決まりが並べられている。
「……理解しましたわ」
「よかった。貸出票は持ってる?」
「いえ……」
図書室に来たのが初めてなら、当然、手続きに必要なものもない。彼は柔和な笑みを浮かべ、手慣れた手つきでカウンターの引き出しを開ける。
「作っておきなよ。減るものでもないし」
「……まあ、そうですね」
親切な図書委員の申し出を、断るべき理由もない。差し出された紙の貸出票に、私は名前を書く。
「小松原、藤乃さん……ね」
私の名字を見ても、先輩は、あまり驚いたそぶりを見せない。その反応に、私は内心、驚いた。
小松原という名前は、学内でもそれなりに知れているという自負がある。小松原家という家系と、昨年度は生徒会長をしていた兄の存在があるからだ。
わざわざそんなことを言う必要もないので、私は、黙って頷いた。
「君にだけ名乗らせるのも悪いね。俺は、松見、慧。よろしく」
「まつみ、けい先輩」
「下の名前でいいよ。苗字で呼ばれるの、あまり慣れてないから」
差し出された手を、私は見下ろす。柔らかそうな手のひらだ。
「あ……握手は、嫌だった? ごめん」
「あ! いえ、わからなかっただけです」
思わず握った手のひらは、見た通り、柔らかかった。海斗の手だって、数えるほどしか握ったことがない。もちろんこれは、ただの握手なんだけど、しっとりした感触に、妙に緊張してしまう。
「よろしくね、藤乃さん」
「こちらこそ……慧、先輩」
海斗以外の男性を、下の名前で呼んだことだって、数えるほどだ。
下の名前で呼ぶと、妙に距離感が縮んだように感じる。戸惑っていたところで、ぱっと手を離されて、やっとひと息つく。
「他にもわからないことがあったら、聞いて」
「……はい」
慧は微笑むと、眼鏡を直して、手元の本に視線を落とす。私は不思議な気持ちで暫くその顔を眺めていたが、すぐに方向を変えた。
ルール違反の生徒を排斥せず、こんな風に丁寧に説明をするとは。やはり図書室は、随分と心の広い場所らしい。そう感心しながら、今度こそ私は、昨日と同じ書架に向かう。
11
あなたにおすすめの小説
毒を盛られて生死を彷徨い前世の記憶を取り戻しました。小説の悪役令嬢などやってられません。
克全
ファンタジー
公爵令嬢エマは、アバコーン王国の王太子チャーリーの婚約者だった。だがステュワート教団の孤児院で性技を仕込まれたイザベラに籠絡されていた。王太子達に無実の罪をなすりつけられエマは、修道院に送られた。王太子達は執拗で、本来なら侯爵一族とは認められない妾腹の叔父を操り、父親と母嫌を殺させ公爵家を乗っ取ってしまった。母の父親であるブラウン侯爵が最後まで護ろうとしてくれるも、王国とステュワート教団が協力し、イザベラが直接新種の空気感染する毒薬まで使った事で、毒殺されそうになった。だがこれをきっかけに、異世界で暴漢に腹を刺された女性、美咲の魂が憑依同居する事になった。その女性の話しでは、自分の住んでいる世界の話が、異世界では小説になって多くの人が知っているという。エマと美咲は協力して王国と教団に復讐する事にした。
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
死にたがりの黒豹王子は、婚約破棄されて捨てられた令嬢を妻にしたい 【ネコ科王子の手なずけ方】
鷹凪きら
恋愛
婚約破棄されてやっと自由になれたのに、今度は王子の婚約者!?
幼馴染の侯爵から地味で華がない顔だと罵られ、伯爵令嬢スーリアは捨てられる。
彼女にとって、それは好機だった。
「お父さま、お母さま、わたし庭師になります!」
幼いころからの夢を叶え、理想の職場で、理想のスローライフを送り始めたスーリアだったが、ひとりの騎士の青年と知り合う。
身分を隠し平民として働くスーリアのもとに、彼はなぜか頻繁に会いにやってきた。
いつの間にか抱いていた恋心に翻弄されるなか、参加した夜会で出くわしてしまう。
この国の第二王子としてその場にいた、騎士の青年と――
※シリーズものですが、主人公が変わっているので単体で読めます。
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
『婚約破棄された瞬間、前世の記憶が戻ってここが「推し」のいる世界だと気づきました。恋愛はもう結構ですので、推しに全力で貢ぎます。
放浪人
恋愛
「エリザベート、貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーで突きつけられた婚約破棄。その瞬間、公爵令嬢エリザベートは前世の記憶を取り戻した。 ここは前世で廃課金するほど愛したソシャゲの世界。 そして、会場の隅で誰にも相手にされず佇む第三王子レオンハルトは、不遇な設定のせいで装備が買えず、序盤で死亡確定の「最愛の推し」だった!?
「恋愛? 復縁? そんなものはどうでもいいですわ。私がしたいのは、推しの生存ルートを確保するための『推し活(物理)』だけ!」
エリザベートは元婚約者から慰謝料を容赦なく毟り取り、現代知識でコスメ事業を立ち上げ、莫大な富を築く。 全ては、薄幸の推しに国宝級の最強装備を貢ぐため!
「殿下、新しい聖剣です。使い捨ててください」 「待て、これは国家予算レベルだぞ!?」
自称・ATMの悪役令嬢×不遇の隠れ最強王子。 圧倒的な「財力」と「愛」で死亡フラグをねじ伏せ、無能な元婚約者たちをざまぁしながら国を救う、爽快異世界マネー・ラブファンタジー!
「貴方の命も人生も、私が全て買い取らせていただきます!」
辺境の侯爵令嬢、婚約破棄された夜に最強薬師スキルでざまぁします。
コテット
恋愛
侯爵令嬢リーナは、王子からの婚約破棄と義妹の策略により、社交界での地位も誇りも奪われた。
だが、彼女には誰も知らない“前世の記憶”がある。現代薬剤師として培った知識と、辺境で拾った“魔草”の力。
それらを駆使して、貴族社会の裏を暴き、裏切った者たちに“真実の薬”を処方する。
ざまぁの宴の先に待つのは、異国の王子との出会い、平穏な薬草庵の日々、そして新たな愛。
これは、捨てられた令嬢が世界を変える、痛快で甘くてスカッとする逆転恋愛譚。
【完結】モブの王太子殿下に愛されてる転生悪役令嬢は、国外追放される運命のはずでした
Rohdea
恋愛
公爵令嬢であるスフィアは、8歳の時に王子兄弟と会った事で前世を思い出した。
同時に、今、生きているこの世界は前世で読んだ小説の世界なのだと気付く。
さらに自分はヒーロー(第二王子)とヒロインが結ばれる為に、
婚約破棄されて国外追放となる運命の悪役令嬢だった……
とりあえず、王家と距離を置きヒーロー(第二王子)との婚約から逃げる事にしたスフィア。
それから数年後、そろそろ逃げるのに限界を迎えつつあったスフィアの前に現れたのは、
婚約者となるはずのヒーロー(第二王子)ではなく……
※ 『記憶喪失になってから、あなたの本当の気持ちを知りました』
に出てくる主人公の友人の話です。
そちらを読んでいなくても問題ありません。
転生しましたが悪役令嬢な気がするんですけど⁉︎
水月華
恋愛
ヘンリエッタ・スタンホープは8歳の時に前世の記憶を思い出す。最初は混乱したが、じきに貴族生活に順応し始める。・・・が、ある時気づく。
もしかして‘’私‘’って悪役令嬢ポジションでは?整った容姿。申し分ない身分。・・・だけなら疑わなかったが、ある時ふと言われたのである。「昔のヘンリエッタは我儘だったのにこんなに立派になって」と。
振り返れば記憶が戻る前は嫌いな食べ物が出ると癇癪を起こし、着たいドレスがないと癇癪を起こし…。私めっちゃ性格悪かった!!
え?記憶戻らなかったらそのままだった=悪役令嬢!?いやいや確かに前世では転生して悪役令嬢とか流行ってたけどまさか自分が!?
でもヘンリエッタ・スタンホープなんて知らないし、私どうすればいいのー!?
と、とにかく攻略対象者候補たちには必要以上に近づかない様にしよう!
前世の記憶のせいで恋愛なんて面倒くさいし、政略結婚じゃないなら出来れば避けたい!
だからこっちに熱い眼差しを送らないで!
答えられないんです!
これは悪役令嬢(?)の侯爵令嬢があるかもしれない破滅フラグを手探りで回避しようとするお話。
または前世の記憶から臆病になっている彼女が再び大切な人を見つけるお話。
小説家になろうでも投稿してます。
こちらは全話投稿してますので、先を読みたいと思ってくださればそちらからもよろしくお願いします。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる