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16 水族館「デート」
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がたん、ごとん。
電車の揺れは大きく、規則正しい。窓から見える景色には、どんどん緑が増えていく。時折電車が止まり、まばらに人が乗り降りし、また滑り出す。
外を眺めたり、慧や兄、山口と時折言葉を交わしたり。そんな風に過ごしていると、時間はどんどん過ぎ、目的地に近づいていく。
「僕の友達、知ってる? 僕の代の、特待生の、さ」
「存じてます。良い方ですよね。俺も入学当初、お世話になりました」
「そうそう。僕も何かと、相談に乗ってもらったんだ。1番の友人かもしれない」
兄と慧は、共通の知人の話題で盛り上がっていた。
兄が高等部の頃から仲良くしている、特待生の友人。その人が、慧とも親しくしていたらしい。ふたりの間に漂っていた、ぴりっとした雰囲気はいつしか消え、笑いながら話す慧の頬には、丸いえくぼが浮かんでいる。
「あれ、藤乃さん、眠いの?」
ふたりの会話を聞いていると、頭がぐらぐらしてくる。私を見て、慧が声をかけてきた。
「うん……どうしてかしら……」
「電車の規則正しい揺れが、眠気を誘うのかな」
一定のリズムで、揺れる座席。そんなことを言われると、ますます、眠くなってくる。
「着いたら起こすよ」
「ん? 藤乃、眠いの? いいよ、はしゃいでたら疲れるから、寝たら?」
口々に促され、私はもう、眠るしかなくなる。
目を閉じると、電車の走行音も、兄と慧の会話も、膜の向こうから聞こえてくるような、ぼんやりとしたものに変わった。
「藤乃、次だよ」
「ん……」
肩を軽く揺り動かされ、目が覚めた。甘やかな気分で、私は目蓋を上げる。なんだか、すごく良い夢を見ていた気がする。
頭を動かすと、顔から、軽いものがはらりと落ちる。香る、柑橘の匂い。見れば、顔にかぶせられた薄手のハンカチが、膝に落ちていた。
兄のハンカチである。
「かけてくれてたの? ありがとう」
「ん? 藤乃が、あんまり無防備に寝ていたからね」
「目の毒だったよ」
私はハンカチを手にとり、兄に返す。
目の毒だなんて。よほど、ひどい顔を晒していたのだろう。
恥ずかしくなって、一気に、眠気がさめる。
「……ごめんなさい」
耳が熱くなるのを感じた。
くす、と笑う声がして見ると、慧がおかしそうに口元を歪めている。兄もだ。
こうして見ると、兄と慧は、どこか似ている。清潔感のある服装の印象も似ているし、表情の作り方も。
「そういう意味じゃないんだけどね」
「可愛い寝顔だったよ、藤乃さん」
「ええ……」
寝顔を可愛いなんて、言われても。
慧ににこやかに言われ、顔に、余計に熱が集まる。
「慧くん」
「ああ、申し訳ないです」
咎める声色の兄の顔は、あの仮面のような笑顔ではなく、自然な笑みだ。謝る慧の口調も、どこか軽い。
寝ていたのでわからないが、どうやらふたりは、打ち解けることができたようだ。
私は、安堵に胸を撫で下ろす。
「何の話をしていたの?」
気になって聞くと、おかしそうな顔のまま、ふたりは視線を交わす。
「まあ、いろいろとね」
「藤乃さんは、いいよ、気にしなくて」
いったいどうしたら、この短時間で、こんなに距離が縮まるんだろう。
なんだか仲間外れにされてしまったようで、わずかな疎外感を覚える。
まあ仕方ないか、と私は思った。どうなることかと思ったが、兄と慧が意気投合したのなら、それはそれで構わない。
電車は、水族館の名前を冠した駅に停まる。
私たちと一緒に、幾組かの家族も降りる。水族館に来たのだろう。両親に手を繋がれた小さな男の子のリュックには、イルカのキーホルダーが揺れていた。
「僕たちも、行こうか」
私の両脇に、兄と慧が並ぶ。
背の高いふたりに挟まれて、ひとりだけ背の低い私はまるで、あの子供のようだ。
「藤乃さん」
階段に差し掛かると、慧に手を差し出される。その手の意味がわからなくて、私は慧の柔らかそうな手のひらを見つめた。
「階段を上がるとき、手を貸そうかって、意味だよ」
「ええ、ありがと……」
「藤乃、転びそうなら、僕が手を引くよ」
慧の手を取ろうと差し出した手を、兄がさっと掴む。
よくわからないまま、私は兄と手を繋ぎ、階段を上ることになった。これでは本当に、小さな子供だ。
「慧くん、調子に乗らないことだよ」
「桂一先輩こそ、過保護が過ぎると、嫌われますよ」
慧と兄の目が合い、その視線の真ん中で、見えない火花が散った。
打ち解けた、というか……ライバル関係と表現した方が、ふさわしいかもしれない。慧が、なぜか挑戦的な笑みを浮かべている。
いったいどんな会話を交わしたら、こうなるのだろう。
「なんだか、話がわからないわ」
「藤乃は、寝てたからね。気にしないことだよ」
階段を上りきると、離れた兄の温かな手が、なだめるように、私の頭に乗る。
「……気にしないわ」
どことなくもやもやした気持ちを抱えつつ、改札を出て、駅舎を出る。
駅前は、すぐに水族館だ。大きな看板の両脇に、イルカとアザラシの模型が置かれている。愛嬌のある笑顔を浮かべた、可愛い模型。
「記念写真を撮らなくっちゃ」
「証拠を残さないと、いけないんでしたね」
慧の呟きに、私は応える。
これはあくまでも、学外活動。慧が後日、実際に水族館を訪れて活動したことを証明するため、写真を撮らなければならないのだった。
「誰かに頼もうか」
「俺、頼んで来ますね」
慧が小走りで、近くのカップルに声をかける。
快く引き受けてくれた女性が構えるカメラの前に、私と慧、兄の三人が立つ。
背景には、水族館の字の入った看板。
「撮りますよ」
合図とともに、カシャ、と小さく機械音がした。女性がカメラの画面を確認し、慧に返す。
「ありがとうございます」
チケット売り場でチケットを買い、水族館に入る。
館内は広く、お客さんが多い割には、圧迫感を感じなかった。
「わあ……!」
広がる青い空間に、思わず、声が出た。
水槽に、たくさんの魚が泳いでいる。ガラスの向こうには、なんとも涼しそうに、ヒレを靡かせて色とりどりの魚が通り過ぎてゆく。
「写真で見るのとは、全然違うわ」
水族館の写真は、事前に確認していた。それでも実際に見ると、素直に、感動する。
ふわふわゆらゆらと揺れる、くらげの水槽。銀色の鱗を光らせた小魚が群泳する、見応えのある水槽。時には海亀が、時にはペンギンが。
「水族館なんて、久しぶりに来たなあ」
見学して回っているとき、兄がぽつりと呟いた。
「案外、楽しいんだね」
本当だ。
興味半分で慧の学外活動についてきたわけだが、水族館というものは、存外面白いものだった。
次々と現れる青い水槽の中で、いろいろな色の、さまざまな形の、それぞれの由来を持つ魚が見られる。
「これ、本当に海藻みたいですね。私、好きかも」
小さな水槽の中で、タツノオトシゴの一種だという、海藻のような魚が泳いでいる。目を凝らさないと見えない薄くて小さなヒレを必死に動かし、ふわーっと上がったり、下がったりしている。水槽を覗き込む私の横に、慧が顔を寄せる。
「藤乃さん、この魚が好きなの?」
「はい。なんかこの必死さが、可愛くって」
「へえ、いいね……あっ」
コツン、と軽い音がする。慧が眼鏡を押さえて、はにかんだ。水槽との目測を誤って、ぶつかってしまったらしい。
「大丈夫ですか?」
「うん? 平気」
「僕にも見せてよ」
私と慧の間に、兄が入ってきて、水槽を見る。
「ほら見て、お兄様、このヒレ」
「確かに、可愛いね」
「よくこれで泳げますね」
3人で話しながら見ていると、ただ水槽を見ているだけなのに、ずいぶん楽しい。
「次は何かしら」
イルカのショーもあり、アシカのショーもあり。スケジュールを確認しながら見て回っていると、時間は飛ぶように過ぎていく。
「あ、ここが水中トンネルね」
歩いていると、館内が薄暗い辺りに差し掛かる。
照明は暗く、その分、水が青く光ったように見える。そしてその中で、魚の影が揺れる。
「幻想的な光景だわ」
青い水のトンネル。これが、雑誌でも大きく取り上げられていた、この水族館の見所のひとつだ。
中央に進むにつれ、上も下も、右も左も青に。
「あれ? お兄様は?」
夢中で歩いていると、気づいたら、兄の姿が見えなくなっていた。辺りは混んでいて、どこにいるのか、見つけられない。
ずっと一緒に回っていたはずなのに。
「いなくなったの?」
「ええ……どこに行ったかしら」
「まあ、出口の辺りで合流できるでしょう」
気にしないそぶりで、慧はまた、頭上に目を向ける。
銀色の魚の群れが、さっと横切っていく。
「……気疲れしたなあ」
慧の呟き。
「気疲れ……そうですよね、すみません」
普通に話していたように見えたけれど、やっぱり兄と話して、慧が緊張しないわけがないのだ。
謝ると、慧は「気にしないで」と笑った。
「ちょっとね。……あ、すごいよ。ほら、口が大きい」
慧が、水槽の向こうを指す。
目の前を横切った魚は、口を大きく開けていた。彼らの胴体の幅よりも大きい口だ。
あんぐりと口を開けると、この魚は、口を閉じているときとは全く違う、間抜けな顔になる。
「藤乃さん、桂一先輩に、例の話をしたんだね」
「例の……?」
「ほら、俺と出会うきっかけになった、例の、さ」
慧と出会うきっかけになった出来事。それは、婚約破棄の件のことだ。
「兄とその話をしたんですか?」
「別に、俺から何かを伝えてはいないよ。藤乃さんから話すべきだと思ったからね。ただ、桂一先輩から、そのことを聞かれたから」
私が眠っているときに、そんな話をしたんだろうか。
「家族に相談できて、良かったよね。俺には何もしてあげられないけど、家族ならいろいろできるだろうから……ほら、藤乃さん。あれがマンタだ」
ゆらり。
大きな影が、頭上で揺れた。見ると、大きく左右にヒレを広げたマンタが、ゆったりと羽ばたいている。すう、と、滑るように、トンネルの周りを移動して行った。
「お腹の側は、笑っているみたいに見えますね」
白い腹側には、顔みたいに、口などが配置されていた。まるで、笑っているみたいに、口の部分が曲線を描いている。
「怖くはない?」
「怖くは……ないです。そういえば」
マンタは苦手なはずだったのだけれど。
慧といると、恐怖心は、どこかに隠れてしまったようだった。
「写真を撮ろうか」
慧がカメラを取り出し、自分の手でこちらにレンズを向ける。証拠写真だ。私は、慧に近づく。
「もう少し寄らないと、入らないかも」
慧は私の肩に軽く触れ、引き寄せる。彼の短い毛先が、私の頬をくすぐった。甘く、爽やかな香り。どき、とせまくなる胸。
機械音がして、水色を背景にした私と慧の笑顔が、記録される。
「さあ、出よう。桂一先輩と、合流しないと」
「いるかしら」
「出口の辺りで、待っているんじゃないかな」
歩き始め、青のトンネルを通り抜ける。
出口に行くと、慧の言う通り、兄が立っていた。片足に体重をかけ、ポケットに片手を突っ込んだアンニュイな姿勢で。
通り過ぎる女性たちが、控えめに、熱い視線を投げかけている。
「藤乃さんって、桂一先輩に似てるよね」
「そうですか?」
「そうだよ。顔の雰囲気もそうだし、持っている輝きというか、そういうのも似ている」
そんなこと、初めて言われた。
兄はこちらに気づき、ポケットから出した手を軽く挙げる。
「遅いよ」
「すみません」
待たせてしまって、申し訳ない。謝る慧に合わせて、私も軽く、頭を下げる。
「帰ろうか」
水族館を出ると、夕陽はだいぶ沈み、頭上の空はもう紺色になっていた。
「結局、最後まで楽しんじゃった」
「予定より、遅くなってしまいましたね」
慧が作った計画表と比べると、だいぶ遅れている。
「まあ、こういうのは、計画通りにはいかないものだから。いいんだ、これで」
たくさん歩いて、疲れてしまった。
水族館から帰る人の波は、駅舎まで続いている。
「楽しかったね」
「ああ」
電車を待つ、人の列。
隣に並ぶカップルの睦まじげな会話が、耳に入ってくる。
「また来たいな」
「早苗が来たいなら、いつでも」
……うん?
声のした方に、目を向ける。
私の動きで気づいたのか、向こうも、こちらに目を向ける。
「あっ」
間の抜けた声が、重なった。
「海斗さん」
「小松原さん……に、桂一先輩」
海斗の顔は、いつになく引きつっている。
「海斗じゃないか。奇遇だね、こんなところで」
対する兄は、妙に爽やかな笑顔だ。
「あら、藤乃さん……に、桂一先輩?」
海斗の脇から、早苗が顔を出す。その耳には、キラキラ輝く、イルカのピアスが揺れている。
海斗に買ってもらったのだろうか。
「桂一先輩のこと、知ってるの、早苗?」
「あ、いや……どこかで、お見かけしたことがある気がして」
「え? 僕は君のこと、知らないけど。どこで見たの?」
「どこだったかなぁ~……、文化祭?」
馴れ馴れしい口調の早苗は、わざとらしく視線を逸らす。
「文化祭? いつの話なのかな」
文化祭は、秋に行われる。家族以外の部外者は、立ち入り禁止だ。早苗が文化祭で、兄に会ったはずがない。
「えっと……」
早苗は愛想笑いを浮かべ、頬を軽く掻いて、誤魔化している。
可愛らしい服を着た彼女は、まさしく「ヒロイン」というべき、守ってあげたくなる雰囲気だ。
寄り添う海斗と並べば、絵になるふたり。
彼女がヒロインで、海斗が攻略対象。納得の組み合わせである。
文化祭で兄に会うというのも、彼女がヒロインで、しかもゲームのことを知っているから?
早苗の様子を見ていても、その答えはわからない。
しかし、今までのことを繋ぎ合わせると、その嘘みたいな話は、どんどん現実味を帯びてくる。
「では、僕たちは……」
「……さよなら、2人とも」
兄の前から逃げるように、海斗は早苗の手を引き、私たちの前から姿を消す。その背中は、不思議なほど小さく見えた。
「……あれは」
「ごめんね、慧くん。なんだか、我が家のごたごたを見せてしまったみたいで」
「いえ……俺も会ってみたいと思ってはいたので、お気になさらず」
兄と慧の会話を聴きながら、私はざわつく心を、そっとなだめる。
教室で早苗と海斗が「水族館に行く」という話をしていたのは、聞こえた気がする。泉も、そんなことを言っていたような。
だとしても、まさかこんなところで、鉢合わせてしまうとは思わなかった。
教室でも散々見せつけられてはいるものの、ああして、ふたりが親しくなっているのを見ると……どうしたらいいのかわからない、複雑な気持ちになる。
「先に聞いておいて良かったよ。何も知らずにあんな風に鉢合わせたら、僕、どう対応していいかわからなかったからね」
確かに。
海斗が婚約破棄を言い出したことを知らずに、早苗とデートしているのを見たら、兄は困惑しただろう。激怒したかもしれない。
先に話しておいて良かった。
兄の言葉にそれを気付かされ、私は小さく息を吐く。
「とりあえず、帰ろう」
「そうですね」
帰りの電車でも眠気に駆られ、起こされたときには、もう駅に着いていた。
「藤乃は、ひとりでは電車に乗らない方がいいね。寝ちゃうから」
「そうね。なんだかあの揺れ、だめみたい。眠くなっちゃう」
顔に載せられていたハンカチを、また兄に返しながら、私は頷いた。
もう、すっかり夜だ。
「今日はありがとうございました、桂一先輩」
「こちらこそ。突然お邪魔して、悪かったね」
「いえ……また明日、藤乃さん」
「はい。慧先輩、また明日」
特別な1日も、終わりはいつもの挨拶。
慧の背中を見送り、私と兄は、迎えに来た車に乗り込んだ。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、山口」
車は、電車のように揺れないから、眠くはならない。
流れる車窓を見ながら、私は今日1日を反芻していた。
楽しかった。
久しぶりの水族館は、子供の頃とはまた違う楽しみがあった。
慧との会話も……慧には気を遣わせてしまったが、兄と慧が徐々に打ち解けていくのを見るのも、楽しかった。
「藤乃の言う通り、いい人だったね、慧くんは」
「そうでしょ。お兄様が心配するようなことでは、なかったのよ」
この1日を通して、私が慧に信頼を寄せる理由を、兄にもわかってもらえたらしい。
それは、何よりだ。
肩や首を軽く回すと、疲れた頭もほどけていく。
「それは何とも言えないけど……」
兄は脚をゆるりと組み、リラックスした様子だ。その手には、山口が用意してくれた熱いコーヒー。
車内に、コーヒーの香ばしい香りが広がる。
兄はコーヒーもよく似合う。
「彼の話をする前に、藤乃とは、まずしなくちゃいけない話があるからね」
「え?」
兄の表情が、妙な笑顔になる。
ああ、これは、仮面のほうだ。
「藤乃からは、何も聞いてないから。帰ったら聞かせてよ、海斗とのことを」
「そうね。……相談に乗ってくれると、嬉しい」
今までずっと、慧以外の人には、内緒にしていたこと。
漸く、兄に相談する機会を得られたらしい。
それにしても、どう説明したらいいんだろう。
私は、駅で出会った早苗と海斗のことを思い出し、途端に、胸が重くなった。
電車の揺れは大きく、規則正しい。窓から見える景色には、どんどん緑が増えていく。時折電車が止まり、まばらに人が乗り降りし、また滑り出す。
外を眺めたり、慧や兄、山口と時折言葉を交わしたり。そんな風に過ごしていると、時間はどんどん過ぎ、目的地に近づいていく。
「僕の友達、知ってる? 僕の代の、特待生の、さ」
「存じてます。良い方ですよね。俺も入学当初、お世話になりました」
「そうそう。僕も何かと、相談に乗ってもらったんだ。1番の友人かもしれない」
兄と慧は、共通の知人の話題で盛り上がっていた。
兄が高等部の頃から仲良くしている、特待生の友人。その人が、慧とも親しくしていたらしい。ふたりの間に漂っていた、ぴりっとした雰囲気はいつしか消え、笑いながら話す慧の頬には、丸いえくぼが浮かんでいる。
「あれ、藤乃さん、眠いの?」
ふたりの会話を聞いていると、頭がぐらぐらしてくる。私を見て、慧が声をかけてきた。
「うん……どうしてかしら……」
「電車の規則正しい揺れが、眠気を誘うのかな」
一定のリズムで、揺れる座席。そんなことを言われると、ますます、眠くなってくる。
「着いたら起こすよ」
「ん? 藤乃、眠いの? いいよ、はしゃいでたら疲れるから、寝たら?」
口々に促され、私はもう、眠るしかなくなる。
目を閉じると、電車の走行音も、兄と慧の会話も、膜の向こうから聞こえてくるような、ぼんやりとしたものに変わった。
「藤乃、次だよ」
「ん……」
肩を軽く揺り動かされ、目が覚めた。甘やかな気分で、私は目蓋を上げる。なんだか、すごく良い夢を見ていた気がする。
頭を動かすと、顔から、軽いものがはらりと落ちる。香る、柑橘の匂い。見れば、顔にかぶせられた薄手のハンカチが、膝に落ちていた。
兄のハンカチである。
「かけてくれてたの? ありがとう」
「ん? 藤乃が、あんまり無防備に寝ていたからね」
「目の毒だったよ」
私はハンカチを手にとり、兄に返す。
目の毒だなんて。よほど、ひどい顔を晒していたのだろう。
恥ずかしくなって、一気に、眠気がさめる。
「……ごめんなさい」
耳が熱くなるのを感じた。
くす、と笑う声がして見ると、慧がおかしそうに口元を歪めている。兄もだ。
こうして見ると、兄と慧は、どこか似ている。清潔感のある服装の印象も似ているし、表情の作り方も。
「そういう意味じゃないんだけどね」
「可愛い寝顔だったよ、藤乃さん」
「ええ……」
寝顔を可愛いなんて、言われても。
慧ににこやかに言われ、顔に、余計に熱が集まる。
「慧くん」
「ああ、申し訳ないです」
咎める声色の兄の顔は、あの仮面のような笑顔ではなく、自然な笑みだ。謝る慧の口調も、どこか軽い。
寝ていたのでわからないが、どうやらふたりは、打ち解けることができたようだ。
私は、安堵に胸を撫で下ろす。
「何の話をしていたの?」
気になって聞くと、おかしそうな顔のまま、ふたりは視線を交わす。
「まあ、いろいろとね」
「藤乃さんは、いいよ、気にしなくて」
いったいどうしたら、この短時間で、こんなに距離が縮まるんだろう。
なんだか仲間外れにされてしまったようで、わずかな疎外感を覚える。
まあ仕方ないか、と私は思った。どうなることかと思ったが、兄と慧が意気投合したのなら、それはそれで構わない。
電車は、水族館の名前を冠した駅に停まる。
私たちと一緒に、幾組かの家族も降りる。水族館に来たのだろう。両親に手を繋がれた小さな男の子のリュックには、イルカのキーホルダーが揺れていた。
「僕たちも、行こうか」
私の両脇に、兄と慧が並ぶ。
背の高いふたりに挟まれて、ひとりだけ背の低い私はまるで、あの子供のようだ。
「藤乃さん」
階段に差し掛かると、慧に手を差し出される。その手の意味がわからなくて、私は慧の柔らかそうな手のひらを見つめた。
「階段を上がるとき、手を貸そうかって、意味だよ」
「ええ、ありがと……」
「藤乃、転びそうなら、僕が手を引くよ」
慧の手を取ろうと差し出した手を、兄がさっと掴む。
よくわからないまま、私は兄と手を繋ぎ、階段を上ることになった。これでは本当に、小さな子供だ。
「慧くん、調子に乗らないことだよ」
「桂一先輩こそ、過保護が過ぎると、嫌われますよ」
慧と兄の目が合い、その視線の真ん中で、見えない火花が散った。
打ち解けた、というか……ライバル関係と表現した方が、ふさわしいかもしれない。慧が、なぜか挑戦的な笑みを浮かべている。
いったいどんな会話を交わしたら、こうなるのだろう。
「なんだか、話がわからないわ」
「藤乃は、寝てたからね。気にしないことだよ」
階段を上りきると、離れた兄の温かな手が、なだめるように、私の頭に乗る。
「……気にしないわ」
どことなくもやもやした気持ちを抱えつつ、改札を出て、駅舎を出る。
駅前は、すぐに水族館だ。大きな看板の両脇に、イルカとアザラシの模型が置かれている。愛嬌のある笑顔を浮かべた、可愛い模型。
「記念写真を撮らなくっちゃ」
「証拠を残さないと、いけないんでしたね」
慧の呟きに、私は応える。
これはあくまでも、学外活動。慧が後日、実際に水族館を訪れて活動したことを証明するため、写真を撮らなければならないのだった。
「誰かに頼もうか」
「俺、頼んで来ますね」
慧が小走りで、近くのカップルに声をかける。
快く引き受けてくれた女性が構えるカメラの前に、私と慧、兄の三人が立つ。
背景には、水族館の字の入った看板。
「撮りますよ」
合図とともに、カシャ、と小さく機械音がした。女性がカメラの画面を確認し、慧に返す。
「ありがとうございます」
チケット売り場でチケットを買い、水族館に入る。
館内は広く、お客さんが多い割には、圧迫感を感じなかった。
「わあ……!」
広がる青い空間に、思わず、声が出た。
水槽に、たくさんの魚が泳いでいる。ガラスの向こうには、なんとも涼しそうに、ヒレを靡かせて色とりどりの魚が通り過ぎてゆく。
「写真で見るのとは、全然違うわ」
水族館の写真は、事前に確認していた。それでも実際に見ると、素直に、感動する。
ふわふわゆらゆらと揺れる、くらげの水槽。銀色の鱗を光らせた小魚が群泳する、見応えのある水槽。時には海亀が、時にはペンギンが。
「水族館なんて、久しぶりに来たなあ」
見学して回っているとき、兄がぽつりと呟いた。
「案外、楽しいんだね」
本当だ。
興味半分で慧の学外活動についてきたわけだが、水族館というものは、存外面白いものだった。
次々と現れる青い水槽の中で、いろいろな色の、さまざまな形の、それぞれの由来を持つ魚が見られる。
「これ、本当に海藻みたいですね。私、好きかも」
小さな水槽の中で、タツノオトシゴの一種だという、海藻のような魚が泳いでいる。目を凝らさないと見えない薄くて小さなヒレを必死に動かし、ふわーっと上がったり、下がったりしている。水槽を覗き込む私の横に、慧が顔を寄せる。
「藤乃さん、この魚が好きなの?」
「はい。なんかこの必死さが、可愛くって」
「へえ、いいね……あっ」
コツン、と軽い音がする。慧が眼鏡を押さえて、はにかんだ。水槽との目測を誤って、ぶつかってしまったらしい。
「大丈夫ですか?」
「うん? 平気」
「僕にも見せてよ」
私と慧の間に、兄が入ってきて、水槽を見る。
「ほら見て、お兄様、このヒレ」
「確かに、可愛いね」
「よくこれで泳げますね」
3人で話しながら見ていると、ただ水槽を見ているだけなのに、ずいぶん楽しい。
「次は何かしら」
イルカのショーもあり、アシカのショーもあり。スケジュールを確認しながら見て回っていると、時間は飛ぶように過ぎていく。
「あ、ここが水中トンネルね」
歩いていると、館内が薄暗い辺りに差し掛かる。
照明は暗く、その分、水が青く光ったように見える。そしてその中で、魚の影が揺れる。
「幻想的な光景だわ」
青い水のトンネル。これが、雑誌でも大きく取り上げられていた、この水族館の見所のひとつだ。
中央に進むにつれ、上も下も、右も左も青に。
「あれ? お兄様は?」
夢中で歩いていると、気づいたら、兄の姿が見えなくなっていた。辺りは混んでいて、どこにいるのか、見つけられない。
ずっと一緒に回っていたはずなのに。
「いなくなったの?」
「ええ……どこに行ったかしら」
「まあ、出口の辺りで合流できるでしょう」
気にしないそぶりで、慧はまた、頭上に目を向ける。
銀色の魚の群れが、さっと横切っていく。
「……気疲れしたなあ」
慧の呟き。
「気疲れ……そうですよね、すみません」
普通に話していたように見えたけれど、やっぱり兄と話して、慧が緊張しないわけがないのだ。
謝ると、慧は「気にしないで」と笑った。
「ちょっとね。……あ、すごいよ。ほら、口が大きい」
慧が、水槽の向こうを指す。
目の前を横切った魚は、口を大きく開けていた。彼らの胴体の幅よりも大きい口だ。
あんぐりと口を開けると、この魚は、口を閉じているときとは全く違う、間抜けな顔になる。
「藤乃さん、桂一先輩に、例の話をしたんだね」
「例の……?」
「ほら、俺と出会うきっかけになった、例の、さ」
慧と出会うきっかけになった出来事。それは、婚約破棄の件のことだ。
「兄とその話をしたんですか?」
「別に、俺から何かを伝えてはいないよ。藤乃さんから話すべきだと思ったからね。ただ、桂一先輩から、そのことを聞かれたから」
私が眠っているときに、そんな話をしたんだろうか。
「家族に相談できて、良かったよね。俺には何もしてあげられないけど、家族ならいろいろできるだろうから……ほら、藤乃さん。あれがマンタだ」
ゆらり。
大きな影が、頭上で揺れた。見ると、大きく左右にヒレを広げたマンタが、ゆったりと羽ばたいている。すう、と、滑るように、トンネルの周りを移動して行った。
「お腹の側は、笑っているみたいに見えますね」
白い腹側には、顔みたいに、口などが配置されていた。まるで、笑っているみたいに、口の部分が曲線を描いている。
「怖くはない?」
「怖くは……ないです。そういえば」
マンタは苦手なはずだったのだけれど。
慧といると、恐怖心は、どこかに隠れてしまったようだった。
「写真を撮ろうか」
慧がカメラを取り出し、自分の手でこちらにレンズを向ける。証拠写真だ。私は、慧に近づく。
「もう少し寄らないと、入らないかも」
慧は私の肩に軽く触れ、引き寄せる。彼の短い毛先が、私の頬をくすぐった。甘く、爽やかな香り。どき、とせまくなる胸。
機械音がして、水色を背景にした私と慧の笑顔が、記録される。
「さあ、出よう。桂一先輩と、合流しないと」
「いるかしら」
「出口の辺りで、待っているんじゃないかな」
歩き始め、青のトンネルを通り抜ける。
出口に行くと、慧の言う通り、兄が立っていた。片足に体重をかけ、ポケットに片手を突っ込んだアンニュイな姿勢で。
通り過ぎる女性たちが、控えめに、熱い視線を投げかけている。
「藤乃さんって、桂一先輩に似てるよね」
「そうですか?」
「そうだよ。顔の雰囲気もそうだし、持っている輝きというか、そういうのも似ている」
そんなこと、初めて言われた。
兄はこちらに気づき、ポケットから出した手を軽く挙げる。
「遅いよ」
「すみません」
待たせてしまって、申し訳ない。謝る慧に合わせて、私も軽く、頭を下げる。
「帰ろうか」
水族館を出ると、夕陽はだいぶ沈み、頭上の空はもう紺色になっていた。
「結局、最後まで楽しんじゃった」
「予定より、遅くなってしまいましたね」
慧が作った計画表と比べると、だいぶ遅れている。
「まあ、こういうのは、計画通りにはいかないものだから。いいんだ、これで」
たくさん歩いて、疲れてしまった。
水族館から帰る人の波は、駅舎まで続いている。
「楽しかったね」
「ああ」
電車を待つ、人の列。
隣に並ぶカップルの睦まじげな会話が、耳に入ってくる。
「また来たいな」
「早苗が来たいなら、いつでも」
……うん?
声のした方に、目を向ける。
私の動きで気づいたのか、向こうも、こちらに目を向ける。
「あっ」
間の抜けた声が、重なった。
「海斗さん」
「小松原さん……に、桂一先輩」
海斗の顔は、いつになく引きつっている。
「海斗じゃないか。奇遇だね、こんなところで」
対する兄は、妙に爽やかな笑顔だ。
「あら、藤乃さん……に、桂一先輩?」
海斗の脇から、早苗が顔を出す。その耳には、キラキラ輝く、イルカのピアスが揺れている。
海斗に買ってもらったのだろうか。
「桂一先輩のこと、知ってるの、早苗?」
「あ、いや……どこかで、お見かけしたことがある気がして」
「え? 僕は君のこと、知らないけど。どこで見たの?」
「どこだったかなぁ~……、文化祭?」
馴れ馴れしい口調の早苗は、わざとらしく視線を逸らす。
「文化祭? いつの話なのかな」
文化祭は、秋に行われる。家族以外の部外者は、立ち入り禁止だ。早苗が文化祭で、兄に会ったはずがない。
「えっと……」
早苗は愛想笑いを浮かべ、頬を軽く掻いて、誤魔化している。
可愛らしい服を着た彼女は、まさしく「ヒロイン」というべき、守ってあげたくなる雰囲気だ。
寄り添う海斗と並べば、絵になるふたり。
彼女がヒロインで、海斗が攻略対象。納得の組み合わせである。
文化祭で兄に会うというのも、彼女がヒロインで、しかもゲームのことを知っているから?
早苗の様子を見ていても、その答えはわからない。
しかし、今までのことを繋ぎ合わせると、その嘘みたいな話は、どんどん現実味を帯びてくる。
「では、僕たちは……」
「……さよなら、2人とも」
兄の前から逃げるように、海斗は早苗の手を引き、私たちの前から姿を消す。その背中は、不思議なほど小さく見えた。
「……あれは」
「ごめんね、慧くん。なんだか、我が家のごたごたを見せてしまったみたいで」
「いえ……俺も会ってみたいと思ってはいたので、お気になさらず」
兄と慧の会話を聴きながら、私はざわつく心を、そっとなだめる。
教室で早苗と海斗が「水族館に行く」という話をしていたのは、聞こえた気がする。泉も、そんなことを言っていたような。
だとしても、まさかこんなところで、鉢合わせてしまうとは思わなかった。
教室でも散々見せつけられてはいるものの、ああして、ふたりが親しくなっているのを見ると……どうしたらいいのかわからない、複雑な気持ちになる。
「先に聞いておいて良かったよ。何も知らずにあんな風に鉢合わせたら、僕、どう対応していいかわからなかったからね」
確かに。
海斗が婚約破棄を言い出したことを知らずに、早苗とデートしているのを見たら、兄は困惑しただろう。激怒したかもしれない。
先に話しておいて良かった。
兄の言葉にそれを気付かされ、私は小さく息を吐く。
「とりあえず、帰ろう」
「そうですね」
帰りの電車でも眠気に駆られ、起こされたときには、もう駅に着いていた。
「藤乃は、ひとりでは電車に乗らない方がいいね。寝ちゃうから」
「そうね。なんだかあの揺れ、だめみたい。眠くなっちゃう」
顔に載せられていたハンカチを、また兄に返しながら、私は頷いた。
もう、すっかり夜だ。
「今日はありがとうございました、桂一先輩」
「こちらこそ。突然お邪魔して、悪かったね」
「いえ……また明日、藤乃さん」
「はい。慧先輩、また明日」
特別な1日も、終わりはいつもの挨拶。
慧の背中を見送り、私と兄は、迎えに来た車に乗り込んだ。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、山口」
車は、電車のように揺れないから、眠くはならない。
流れる車窓を見ながら、私は今日1日を反芻していた。
楽しかった。
久しぶりの水族館は、子供の頃とはまた違う楽しみがあった。
慧との会話も……慧には気を遣わせてしまったが、兄と慧が徐々に打ち解けていくのを見るのも、楽しかった。
「藤乃の言う通り、いい人だったね、慧くんは」
「そうでしょ。お兄様が心配するようなことでは、なかったのよ」
この1日を通して、私が慧に信頼を寄せる理由を、兄にもわかってもらえたらしい。
それは、何よりだ。
肩や首を軽く回すと、疲れた頭もほどけていく。
「それは何とも言えないけど……」
兄は脚をゆるりと組み、リラックスした様子だ。その手には、山口が用意してくれた熱いコーヒー。
車内に、コーヒーの香ばしい香りが広がる。
兄はコーヒーもよく似合う。
「彼の話をする前に、藤乃とは、まずしなくちゃいけない話があるからね」
「え?」
兄の表情が、妙な笑顔になる。
ああ、これは、仮面のほうだ。
「藤乃からは、何も聞いてないから。帰ったら聞かせてよ、海斗とのことを」
「そうね。……相談に乗ってくれると、嬉しい」
今までずっと、慧以外の人には、内緒にしていたこと。
漸く、兄に相談する機会を得られたらしい。
それにしても、どう説明したらいいんだろう。
私は、駅で出会った早苗と海斗のことを思い出し、途端に、胸が重くなった。
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こちらは全話投稿してますので、先を読みたいと思ってくださればそちらからもよろしくお願いします。
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