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18 いざ、ゲームをプレイ
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「藤乃さん、早いね。待った?」
「1年の教室の方が、昇降口には近いので。いつもと逆ですね」
授業が終わり、部活動に向かう生徒、帰宅する生徒で賑わう昇降口。玄関のところに立っていると、慧が声をかけてくれる。
私たちは今日、いつもの図書室ではなく、ここで待ち合わせをしていた。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
私たちは、並んで外に出る。
噴水の脇を抜け、校外へ。
賑やかな声の飛び交うこの広場を、いつもはひとりで静かに歩いているというのに。
「陽射しが夏らしくなってきたね」
「そうですね」
「そろそろ、上着が暑くなってきたよ」
今日は2人。
会話しながら歩くと、他の人たちが楽しそうに過ごしていても、あまり気にはならない。
外へ出て、そのまま道を行く。
私たちが向かうのは、最寄りのコンビニエンスストアである。
「本当に、受け取れるんですかね」
「そうだよ。便利な世の中だよね」
目的は、ゲームの受け取りだ。
先日注文したゲーム機は、慧によると今日の午前中のうちに、コンビニに届いている予定らしい。
歩いていると、道には学園の生徒より、近くの大学の学生が増えて来る。
「桂一先輩は、外部の大学に出たんだよね」
「ええ。ご存知なんですね」
「たくさん話したからね……藤乃さんが眠っていた間に」
世間話を交わしながら、人に紛れて道を歩く。
「藤乃さん、自転車が来るよ」
「え?」
「危ないから、避けて」
よくわからなくて周りを見ようと首を動かすと、肩がぐい、と引かれる。慧の側に傾いだ私の横を、結構な速度で自転車が通り抜けていった。
「ごめん、乱暴に引っ張って」
「いえ、危なかったですね。すみません」
慧と離れようとすると、あの、淡く爽やかな香りが漂う。
外でこの香りが鼻に届くと、妙に胸が騒めくのは、いったいなんなのだろう。
コンビニは、学園から歩いて10分ほどのところにあった。
中に入ると軽快なメロディが鳴る。私は、慧の後に続いて、学生や大人の間を通り抜けた。
落ち着かない。
慧が機械に向かって何やら操作している間、私は辺りをきょろきょろと見回していた。
「藤乃さん、これ持って、お会計に行こう」
「はい。……えっと」
「こっちだよ」
ぺらり、と1枚の薄い紙を渡される。それを持ち、また慧の後を歩く。
結局私にはよくわからなくて、慧が代わりに、店員さんと話をしてくれた。私は言われるがままに必要なものを示し、その対価に、大きな箱を受け取った。
「思ったより、大きかったね」
「そうですね。重くないですか?」
それほど重くはないが、大きな梱包。慧が両手で抱えられるくらいの箱の中に、今回注文したゲームと機会が入っているようだ。
「重くはないよ。重い本を抱えて、移動してることもあるからね。さあ、戻ろう」
同じ道を戻る。
もう下校のピークは過ぎたようで、人影はまばらだった。
昇降口を抜け、図書室へ向かう。教室に人が残っていることもあったが、誰に見咎められることもなく、図書室へ辿り着いた。
「ごめん、ちょっと持ってもらってもいい?」
「はい」
手渡された箱を受け取ると、ずっしりとした重みが手にかかった。こんなに思い箱を、ずっと持って歩いていたなんて。
慧はポケットから鍵を取り出し、図書室の扉を開ける。
「鍵は慧先輩がお持ちなんですね」
「放課後はね。先に鍵を借りてきたんだ。……はい、預かるよ」
「ありがとうございます」
また慧が箱を持ち、そのまま、カウンターの奥の例の部屋へ向かう。
中央の丸テーブルに、箱をそのまま置く。段ボールに貼られたガムテープを、べりべりと剥がす。封を開けると、ネットで見たのと同じパッケージが出てくる。
「やっぱり、霞ヶ崎学園ですね。どう見ても」
「本当だね。それにこれ、生徒会長じゃない?」
学園を背景に、居並ぶ美男子たち。そのひとりを指して、慧は言う。たしかにそれは、生徒なら誰でも見たことがある、生徒会長によく似ている。
「とりあえず、セッティングしよう。俺がやっていい?」
「はい。お任せします」
慧はあれこれとコードを伸ばし、テレビに繋ぎ合わせていく。リモコンのボタンを押すと、その小さなテレビに、ぱっと明かりがついた。
「よし、これで出来るよ」
画面にはパッケージと同じ、霞ヶ崎学園のイラストが表示されている。
「それにしても、見れば見るほど」
「霞ヶ崎学園ですね……」
丸っこいポップなタイトルの後ろに広がる背景には、見覚えしかない。正門から入ったときに見える建物、そのものだ。
「はい、どうぞ、藤乃さん」
慧は、持っていたコントローラーをこちらに差し出してくる。
私は受け取り、画面を見た。押せと言われるボタンを順番に押すと、名前の入力画面が出てくる。
主人公の名前は自分でも設定できるが、予め決められたものを使ってもいいという。予め設定された名前というのが、「早苗」であった。
「やっぱり、彼女は、主人公なんだわ……」
あまりにもできすぎていて、疑うことはできない。主人公の名前を、そのまま、早苗に決定する。
すると、画面が暗転する。
(今日は入学式。特待生として名門霞ヶ崎高校に入学した。これから、どんな生活が待ち受けているのだろうーー)
そんなプロローグから始まり、主人公は学園内に入る。会場はどこだろう、と迷う彼女に、話しかける男性。
「あ、会長だわ」
早苗とよく話している、隣のクラスの学級会長である。その爽やかで甘い顔立ちは、彼そのものであり。
「知り合い?」
「はい。すごい、声までそっくりです」
顔だけでなく、声なんて、本人とそっくりそのまま、変わらないのだった。
会場を教えてもらって向かう道中、先生や部長など、何人かの男子に会う。
「人気者ばかりだね」
「そうですね」
学園内でも有数の、人気者の男性たちが、次々に現れる。
ひと言ふた言、その性格が垣間見える会話をし、そして次の場面に展開する。
「懐かしいな」
「私、この会長の挨拶、聞き覚えがあります」
そうこうしているうちに、漸く入学式が始まる。生徒会長の挨拶が終わり、会場から出ようとした主人公は、いきなり何かにぶつかられて転ぶ。
『痛た……見ない顔だね。君は……ああ、特待生か』
それは、何よりも聞き覚えのある、耳に馴染んだ声。
「海斗さんだわ……」
攻略対象として登場するのは知っていたものの、こうして画面の中で見ると、恐ろしさか、感慨か、腕にぞぞ、と鳥肌が立つ。
画面の中の海斗は、不遜な雰囲気で言葉を投げ、いなくなった。
「……なんだか、高飛車な印象だね」
「海斗さんは、いつもあんな感じです」
早苗に向ける態度がおかしいだけで、普段の海斗なら、あんなものだ。
周囲にクールで、ともすれば冷たい対応をする彼の性格が、よく再現されている。というか、私たちが、それを体現しているというのか。
「ひとりしか選べないんですかね。てっきり、いろんなパターンがあるのかと」
登場した男性たちが、選択肢として出てくる。どうもここからひとり選んで、物語をスタートするらしい。
私の読んできた物語では、ヒロインが全ての攻略対象と親しくなる逆ハーレムエンドを目指したり、悪役令嬢がその位置にはまったりしていた。
しかし、このゲームでは、そういう選択肢はないらしい。
「ああ、逆ハーレムはないってこと?」
「え、慧先輩、わかるんですか?」
「藤乃さんが読んでた本を借りて、予習したからね。なんとなくは」
話が早い。
「とりあえず、海斗さんを選びますね」
「そうだね」
私は迷わず、海斗を選択した。
選んだ瞬間、『僕に愛を教えてくれたのは、君だよ』と、決め台詞のような甘い音声が流れる。
それにしても、声が、本当に生き写しのようだ。奇妙で、ぞわぞわする。
入学式を終え、教室に入った早苗。海斗を見て、(さっきぶつかった人だ……)と考えていると、海斗は鋭い目で睨みつけてくる。
すると画面に選択肢が出てくる。
【話しかける】 【話しかけない】
「どっちを選んだらいいのかしら」
「藤乃さん、入学式の日にふたりが話していたか、覚えてる?」
「そっか……早苗さんがしている通りの選択肢を、選べばいいんですね」
画面を眺めながら、私は考えた。
海斗の背景に映る、桜の花が飾られた黒板の装飾は、見覚えがある。
私は、また海斗と同じクラスだ、と考えながら、彼のことを眺めていた。見つめていても、目が合わないのはいつものこと。
たしかそこへ、見慣れぬ女生徒が寄って行って……。
「話しかけていた、と思います」
海斗に話しかけた女生徒こそ、特待生の、早苗であった。
「なら、話しかけてみたらいいのかな」
「そうします」
話しかける、を選ぶと、物語はまた進み始める。
『さっきは、すみませんでした』
『ん? ああ……さっきの、特待生。何、急に話しかけてきて』
『いえ、ぶつかったことを、謝りたくて……』
気怠げな海斗の声が、テレビから流れる。
あのとき、ふたりはこんな会話をしていたのか。
不思議な気持ちで、私はそれを眺めていた。
『別にいいよ。僕は転んでないし。……そういえば、さっき転んでたね。前はよく見たほうがいいよ』
海斗の顔が、口角を片方だけ上げた、不敵なものに切り替わる。
『いつもは、見てます。ちょっと緊張してただけで』
『ふうん……まあ、どうでもいいけど。用がないなら、僕はもう帰るから。じゃあね』
やや強引に、会話が切り上げられた。同時に画面には【好感度】という表示が出て、ピンク色のパラメータが少し上昇する。
「こうやって、好感度を上げていくんだね」
「これは、何を選んだらいいと思います?」
画面には、(放課後だ。どう過ごそう?)という文字と、【運動】【勉強】【買い物】【校内散策】などという選択肢が出ている。
「現実の早苗さんは、どんな人なの?」
「うーん……完璧な人です。運動もできるし、勉強もできるし、身だしなみも整っているし……」
改めて、画面を見直す。
「【勉強】から、取ってみますね」
すると、「勉強した。学力アップ」という簡潔なメッセージとともに、「学力」のパラメータが上がった。他にも、「体力」「魅力」というパラメータがあるらしい。
なにしろ彼女は、学年2位の学力を誇っているのだ。その後は【勉強】を中心に、他の選択肢も選んでみた。
時には「イベント発生!」というメッセージとともに、海斗や他の生徒が現れる。ちょっとしたやりとりとともに、好感度とパラメータが、追加で上がった。
「俺たちの学園では、そろそろテストの時期だけど」
「そうですね……あ、テストですって。ミニゲーム?」
画面には、(初めてのテスト……今までの勉強の成果を、発揮しなくちゃ!)と表示されたあと、ミニゲームの説明が始まる。
「ええ……難しい」
飛んできたものに合わせ、タイミング良くボタンを押すというゲーム。練習できたのでしてみたけれど、散々な結果だった。
「早苗さんを、学年2位にしないといけないのに」
「俺、やってみようか?」
「……お願いします」
慧にコントローラーを渡すと、彼は同じ練習画面で、私の倍の得点を叩き出した。
「こういうの、やったことあるんですか?」
「いや……藤乃さんのを見てたからね」
一度見ただけでほぼ完璧にできるなんて、その器用さが羨ましい。
「ちょっと……動きにくいな」
慧は一度、コントローラーを机に置く。
上着を脱いで畳んで置き、ネクタイの結び目に指をかけた。ネクタイを緩めた、ラフな格好になる。
「これでいいや」
「慧先輩、その格好……」
「あ……家ではいつもこうしてるから、楽でさ。ごめん、みっともなくて」
はにかむ慧の、その首筋から、緩く開いたワイシャツの襟元まで視線が勝手に滑る。
制服をこんな風に着ている人など、学園にはいない。
「……すみません、咎めてるわけじゃなくて。いいと思います、楽な格好で」
「うん。ここなら誰も来ないから。……よし、やってみるよ」
ミニゲームの開始が告げられる。
慧は真剣な眼差しで、リズム良くボタンを押してゆく。
「……どうだったかな」
「完璧でした」
素晴らしい反射神経で、ほとんど満点を得たのではなかろうか。
コントローラーを慧から受け取り、私は、物語を次に進める。
「すごい! 2位ですよ!」
「彼女は、2位だったの?」
「そうです。現実と同じですね、怖いくらい……」
張り出される順位を確認すると、早苗は見事、2位に輝いた。
私は、最初のテストを思い出した。張り出される順位を眺める生徒たち。早苗に、海斗が話しかけてくる。
「ああ、このやりとり、見たかもしれません……」
ライバル心を剥き出しにして、早苗を無視できない海斗が、やたらと話しかける。そんなやりとりは、ここから始まったのだ。
「藤乃さん、名前載ってるじゃない」
「え? ……本当ですね」
画面に表示された順位表には、私の名前も、さりげなく映り込んでいる。そんなところまで、現実通りだ。
現実通りというか、現実が、ゲームというか。今までの出来事を追うような展開に、何がなんだか、混乱してしまう。
私は、私の知っている早苗と海斗の進展と同じになるよう、選択肢を選んで進めた。
早苗と海斗は、放課後にばったり会ったり、休日にばったり会ったりしながら、お昼を一緒に食べてみたり、プレゼントを贈りあったりと、着々と距離を縮めていく。やがて強引に生徒会の手伝いをさせられ、長い時間を共に過ごすようになる。
「婚約破棄されたのは、この頃なんですけど」
「出てこないね、そんな描写」
私と海斗の件については、少しも触れられぬまま、カレンダーはどんどん進んでいった。
「これって、藤乃さんだよね?」
「……そうですね」
ある朝の場面。早苗は、(あの人、なんだかこっちを見てくる……)と言い出す。
「画面の中にも、藤乃さんがいるよ」
「変な気分です。気持ち悪い」
自分と同じ顔のキャラクターが、そこで動いている。
『どうした、早苗?』
『なんだか、あの人が……』
『小松原さんか。……僕、ちょっと言ってくるよ』
海斗はそう言い、画面に、また私が映り込む。向き合う私と海斗。海斗の後ろに、守られるように、早苗。
『早苗を睨むなよ。妬いてるのはわかるが、君の出る幕じゃない』
これも、聞いたことのある台詞だ。
「早苗さんは、本当に、私が婚約してたってことは知らないのかもしれません」
「全然、説明されないね。ほら、こんなこと書いてある」
海斗に庇われ、早苗は(この人、千堂くんのことを好きなのかな?)と、呑気に考えている。
早苗がこのゲームをプレイしていたとしても、これでは、私と海斗の婚約のことは知る由もないだろう。
「てっきり私、もっと悪役らしく描かれるのかなって、思ってたんですけど……」
主人公を虐め抜き、最後に華々しく婚約破棄からの没落を決められる。それが、私が今まで読んできた物語の悪役令嬢だった。
そこまでは行かないにしても、もう少し、悪者として描かれると思っていた。
「……物語に彩りを添える、ライバルって感じなのかな」
「彩り。そうですね」
海斗が早苗を守る場面を作るための、彩り程度。慧の指摘通りだ。
物語が進むと、海斗と早苗の勉強会になる。
友人と複数で行う予定だった勉強会は、ひょんなことから、ふたりきりになる。
『千堂くんのお父さんとお母さんって、どっちもすごいんだね』
『だから……俺は、どこに行っても千堂さんの息子、なんだ。いくら努力しても、親の名には敵わない。俺を俺として見てくれるのは、君だけだよ、早苗』
海斗は、どこか寂しげな表情で、そう語る。
「そうなんだ……」
彼には、そんな悩みがあったのか。
素晴らしい両親を持って、千堂家という名家の跡取りで、能力も人望も抜群の彼に、そんな悩みがあるとは思わなかった。
『千堂くん……』
『その、千堂くんって呼ぶの、やめてよ。俺、名前で呼んでほしい』
そうして、早苗は海斗のことを、『海斗』と呼ぶようになる。
「勉強会をしたあと、早苗さんは、海斗さんのことを『海斗』って呼ぶようになったんです」
「へえ。なら本当に、この通りに進んでいるんだ」
「そうみたいです。……やっぱり早苗さんは、ゲームのことを知っているんだと思います」
それはもう、確信以上の、事実としか思えない。
物語のような現実というか、現実のような物語というか、何にせよその中に、私たちはたしかにいるのだった。
ピピ、と電子音が鳴る。
「あ……ここまでだね」
「今のは?」
「閉館に合わせて、アラームをかけておいたんだよ。この部屋は時計もないから、夢中になると時間を忘れそうだろう?」
慧の言う通り、今何時かなんて、気にしないでいた。
「まだ途中なのに……」
「俺も続きは気になるけど、時間は守らないと。それこそ、大騒ぎになるよ」
それもそうだ。仕方がない。
ゲーム機を箱に片づけ、念のため、雑多な棚の奥に隠す。
「まあ、誰もこんなとこ見ないとは思うけど」
慧は言いながら片づけを終え、服装を整えた。
「どうだった、藤乃さん。ゲームをしてみて」
「先が気になります。これだけ現実と重なっていると、物語の展開は、私のこれからと関係があると思うので」
「だよね」
頷く慧。
「また明日、続きを見よう」
「はい、また明日」
挨拶は、いつもと同じ。
この世界はゲームと同じという、衝撃的な事実を、こんなに穏やかに受け止めているのは、きっと慧のおかげだ。
ひとりでは、受け止めきれなかったに違いない。
「それに……」
夜に向かって薄暗くなる空を、窓越しに眺めながら、私は今日見たゲームのストーリーを思い返す。
もうひとつ、私にとって衝撃的だったのは、海斗の本心だ。
いつまでも両親の子供として見られ、どんなに努力しても、親を超えられない。自分を、自分として見てもらえない。
そんな悩みを彼が抱えていたなんて、想像したこともなかった。私はそれを、海斗から引き出せなかったのだ。
私が、早苗には敵わないと劣等感を感じていたように、彼も親には敵わないと、劣等感を感じていた。
私がそれを共有したのは慧であり、海斗は、早苗と共有した。
……ゲームの通りであれば。
だから海斗は、私が慧に心を許したように、あれほど早苗に心を許している。
海斗の態度に納得すると共に、私は改めて、早苗には敵わないと思う。
だって、敵うわけがない。
私にはこれからも、海斗の本心を聞き出すことなんてできないだろう。私と早苗では、そもそもの立場からして、違うのだ。
「きっと、このまま破棄したほうが、彼のためにはいいんだけど……」
兄から与えられた、ふたつの選択肢。
海斗のことを思えば、婚約破棄に進んだほうがいいのは、間違いない。本心を明かせ、熱情に近い思いを寄せる相手と一緒になれるのなら、それは、彼にとっての幸せなはずだ。
ならそれは、私にとっては?
人のことならわかるのに、自分のことはわからなくて。
私は、廊下に響く自分の足音に耳を傾けながら、思いを巡らせ、歩き続けていた。
「1年の教室の方が、昇降口には近いので。いつもと逆ですね」
授業が終わり、部活動に向かう生徒、帰宅する生徒で賑わう昇降口。玄関のところに立っていると、慧が声をかけてくれる。
私たちは今日、いつもの図書室ではなく、ここで待ち合わせをしていた。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
私たちは、並んで外に出る。
噴水の脇を抜け、校外へ。
賑やかな声の飛び交うこの広場を、いつもはひとりで静かに歩いているというのに。
「陽射しが夏らしくなってきたね」
「そうですね」
「そろそろ、上着が暑くなってきたよ」
今日は2人。
会話しながら歩くと、他の人たちが楽しそうに過ごしていても、あまり気にはならない。
外へ出て、そのまま道を行く。
私たちが向かうのは、最寄りのコンビニエンスストアである。
「本当に、受け取れるんですかね」
「そうだよ。便利な世の中だよね」
目的は、ゲームの受け取りだ。
先日注文したゲーム機は、慧によると今日の午前中のうちに、コンビニに届いている予定らしい。
歩いていると、道には学園の生徒より、近くの大学の学生が増えて来る。
「桂一先輩は、外部の大学に出たんだよね」
「ええ。ご存知なんですね」
「たくさん話したからね……藤乃さんが眠っていた間に」
世間話を交わしながら、人に紛れて道を歩く。
「藤乃さん、自転車が来るよ」
「え?」
「危ないから、避けて」
よくわからなくて周りを見ようと首を動かすと、肩がぐい、と引かれる。慧の側に傾いだ私の横を、結構な速度で自転車が通り抜けていった。
「ごめん、乱暴に引っ張って」
「いえ、危なかったですね。すみません」
慧と離れようとすると、あの、淡く爽やかな香りが漂う。
外でこの香りが鼻に届くと、妙に胸が騒めくのは、いったいなんなのだろう。
コンビニは、学園から歩いて10分ほどのところにあった。
中に入ると軽快なメロディが鳴る。私は、慧の後に続いて、学生や大人の間を通り抜けた。
落ち着かない。
慧が機械に向かって何やら操作している間、私は辺りをきょろきょろと見回していた。
「藤乃さん、これ持って、お会計に行こう」
「はい。……えっと」
「こっちだよ」
ぺらり、と1枚の薄い紙を渡される。それを持ち、また慧の後を歩く。
結局私にはよくわからなくて、慧が代わりに、店員さんと話をしてくれた。私は言われるがままに必要なものを示し、その対価に、大きな箱を受け取った。
「思ったより、大きかったね」
「そうですね。重くないですか?」
それほど重くはないが、大きな梱包。慧が両手で抱えられるくらいの箱の中に、今回注文したゲームと機会が入っているようだ。
「重くはないよ。重い本を抱えて、移動してることもあるからね。さあ、戻ろう」
同じ道を戻る。
もう下校のピークは過ぎたようで、人影はまばらだった。
昇降口を抜け、図書室へ向かう。教室に人が残っていることもあったが、誰に見咎められることもなく、図書室へ辿り着いた。
「ごめん、ちょっと持ってもらってもいい?」
「はい」
手渡された箱を受け取ると、ずっしりとした重みが手にかかった。こんなに思い箱を、ずっと持って歩いていたなんて。
慧はポケットから鍵を取り出し、図書室の扉を開ける。
「鍵は慧先輩がお持ちなんですね」
「放課後はね。先に鍵を借りてきたんだ。……はい、預かるよ」
「ありがとうございます」
また慧が箱を持ち、そのまま、カウンターの奥の例の部屋へ向かう。
中央の丸テーブルに、箱をそのまま置く。段ボールに貼られたガムテープを、べりべりと剥がす。封を開けると、ネットで見たのと同じパッケージが出てくる。
「やっぱり、霞ヶ崎学園ですね。どう見ても」
「本当だね。それにこれ、生徒会長じゃない?」
学園を背景に、居並ぶ美男子たち。そのひとりを指して、慧は言う。たしかにそれは、生徒なら誰でも見たことがある、生徒会長によく似ている。
「とりあえず、セッティングしよう。俺がやっていい?」
「はい。お任せします」
慧はあれこれとコードを伸ばし、テレビに繋ぎ合わせていく。リモコンのボタンを押すと、その小さなテレビに、ぱっと明かりがついた。
「よし、これで出来るよ」
画面にはパッケージと同じ、霞ヶ崎学園のイラストが表示されている。
「それにしても、見れば見るほど」
「霞ヶ崎学園ですね……」
丸っこいポップなタイトルの後ろに広がる背景には、見覚えしかない。正門から入ったときに見える建物、そのものだ。
「はい、どうぞ、藤乃さん」
慧は、持っていたコントローラーをこちらに差し出してくる。
私は受け取り、画面を見た。押せと言われるボタンを順番に押すと、名前の入力画面が出てくる。
主人公の名前は自分でも設定できるが、予め決められたものを使ってもいいという。予め設定された名前というのが、「早苗」であった。
「やっぱり、彼女は、主人公なんだわ……」
あまりにもできすぎていて、疑うことはできない。主人公の名前を、そのまま、早苗に決定する。
すると、画面が暗転する。
(今日は入学式。特待生として名門霞ヶ崎高校に入学した。これから、どんな生活が待ち受けているのだろうーー)
そんなプロローグから始まり、主人公は学園内に入る。会場はどこだろう、と迷う彼女に、話しかける男性。
「あ、会長だわ」
早苗とよく話している、隣のクラスの学級会長である。その爽やかで甘い顔立ちは、彼そのものであり。
「知り合い?」
「はい。すごい、声までそっくりです」
顔だけでなく、声なんて、本人とそっくりそのまま、変わらないのだった。
会場を教えてもらって向かう道中、先生や部長など、何人かの男子に会う。
「人気者ばかりだね」
「そうですね」
学園内でも有数の、人気者の男性たちが、次々に現れる。
ひと言ふた言、その性格が垣間見える会話をし、そして次の場面に展開する。
「懐かしいな」
「私、この会長の挨拶、聞き覚えがあります」
そうこうしているうちに、漸く入学式が始まる。生徒会長の挨拶が終わり、会場から出ようとした主人公は、いきなり何かにぶつかられて転ぶ。
『痛た……見ない顔だね。君は……ああ、特待生か』
それは、何よりも聞き覚えのある、耳に馴染んだ声。
「海斗さんだわ……」
攻略対象として登場するのは知っていたものの、こうして画面の中で見ると、恐ろしさか、感慨か、腕にぞぞ、と鳥肌が立つ。
画面の中の海斗は、不遜な雰囲気で言葉を投げ、いなくなった。
「……なんだか、高飛車な印象だね」
「海斗さんは、いつもあんな感じです」
早苗に向ける態度がおかしいだけで、普段の海斗なら、あんなものだ。
周囲にクールで、ともすれば冷たい対応をする彼の性格が、よく再現されている。というか、私たちが、それを体現しているというのか。
「ひとりしか選べないんですかね。てっきり、いろんなパターンがあるのかと」
登場した男性たちが、選択肢として出てくる。どうもここからひとり選んで、物語をスタートするらしい。
私の読んできた物語では、ヒロインが全ての攻略対象と親しくなる逆ハーレムエンドを目指したり、悪役令嬢がその位置にはまったりしていた。
しかし、このゲームでは、そういう選択肢はないらしい。
「ああ、逆ハーレムはないってこと?」
「え、慧先輩、わかるんですか?」
「藤乃さんが読んでた本を借りて、予習したからね。なんとなくは」
話が早い。
「とりあえず、海斗さんを選びますね」
「そうだね」
私は迷わず、海斗を選択した。
選んだ瞬間、『僕に愛を教えてくれたのは、君だよ』と、決め台詞のような甘い音声が流れる。
それにしても、声が、本当に生き写しのようだ。奇妙で、ぞわぞわする。
入学式を終え、教室に入った早苗。海斗を見て、(さっきぶつかった人だ……)と考えていると、海斗は鋭い目で睨みつけてくる。
すると画面に選択肢が出てくる。
【話しかける】 【話しかけない】
「どっちを選んだらいいのかしら」
「藤乃さん、入学式の日にふたりが話していたか、覚えてる?」
「そっか……早苗さんがしている通りの選択肢を、選べばいいんですね」
画面を眺めながら、私は考えた。
海斗の背景に映る、桜の花が飾られた黒板の装飾は、見覚えがある。
私は、また海斗と同じクラスだ、と考えながら、彼のことを眺めていた。見つめていても、目が合わないのはいつものこと。
たしかそこへ、見慣れぬ女生徒が寄って行って……。
「話しかけていた、と思います」
海斗に話しかけた女生徒こそ、特待生の、早苗であった。
「なら、話しかけてみたらいいのかな」
「そうします」
話しかける、を選ぶと、物語はまた進み始める。
『さっきは、すみませんでした』
『ん? ああ……さっきの、特待生。何、急に話しかけてきて』
『いえ、ぶつかったことを、謝りたくて……』
気怠げな海斗の声が、テレビから流れる。
あのとき、ふたりはこんな会話をしていたのか。
不思議な気持ちで、私はそれを眺めていた。
『別にいいよ。僕は転んでないし。……そういえば、さっき転んでたね。前はよく見たほうがいいよ』
海斗の顔が、口角を片方だけ上げた、不敵なものに切り替わる。
『いつもは、見てます。ちょっと緊張してただけで』
『ふうん……まあ、どうでもいいけど。用がないなら、僕はもう帰るから。じゃあね』
やや強引に、会話が切り上げられた。同時に画面には【好感度】という表示が出て、ピンク色のパラメータが少し上昇する。
「こうやって、好感度を上げていくんだね」
「これは、何を選んだらいいと思います?」
画面には、(放課後だ。どう過ごそう?)という文字と、【運動】【勉強】【買い物】【校内散策】などという選択肢が出ている。
「現実の早苗さんは、どんな人なの?」
「うーん……完璧な人です。運動もできるし、勉強もできるし、身だしなみも整っているし……」
改めて、画面を見直す。
「【勉強】から、取ってみますね」
すると、「勉強した。学力アップ」という簡潔なメッセージとともに、「学力」のパラメータが上がった。他にも、「体力」「魅力」というパラメータがあるらしい。
なにしろ彼女は、学年2位の学力を誇っているのだ。その後は【勉強】を中心に、他の選択肢も選んでみた。
時には「イベント発生!」というメッセージとともに、海斗や他の生徒が現れる。ちょっとしたやりとりとともに、好感度とパラメータが、追加で上がった。
「俺たちの学園では、そろそろテストの時期だけど」
「そうですね……あ、テストですって。ミニゲーム?」
画面には、(初めてのテスト……今までの勉強の成果を、発揮しなくちゃ!)と表示されたあと、ミニゲームの説明が始まる。
「ええ……難しい」
飛んできたものに合わせ、タイミング良くボタンを押すというゲーム。練習できたのでしてみたけれど、散々な結果だった。
「早苗さんを、学年2位にしないといけないのに」
「俺、やってみようか?」
「……お願いします」
慧にコントローラーを渡すと、彼は同じ練習画面で、私の倍の得点を叩き出した。
「こういうの、やったことあるんですか?」
「いや……藤乃さんのを見てたからね」
一度見ただけでほぼ完璧にできるなんて、その器用さが羨ましい。
「ちょっと……動きにくいな」
慧は一度、コントローラーを机に置く。
上着を脱いで畳んで置き、ネクタイの結び目に指をかけた。ネクタイを緩めた、ラフな格好になる。
「これでいいや」
「慧先輩、その格好……」
「あ……家ではいつもこうしてるから、楽でさ。ごめん、みっともなくて」
はにかむ慧の、その首筋から、緩く開いたワイシャツの襟元まで視線が勝手に滑る。
制服をこんな風に着ている人など、学園にはいない。
「……すみません、咎めてるわけじゃなくて。いいと思います、楽な格好で」
「うん。ここなら誰も来ないから。……よし、やってみるよ」
ミニゲームの開始が告げられる。
慧は真剣な眼差しで、リズム良くボタンを押してゆく。
「……どうだったかな」
「完璧でした」
素晴らしい反射神経で、ほとんど満点を得たのではなかろうか。
コントローラーを慧から受け取り、私は、物語を次に進める。
「すごい! 2位ですよ!」
「彼女は、2位だったの?」
「そうです。現実と同じですね、怖いくらい……」
張り出される順位を確認すると、早苗は見事、2位に輝いた。
私は、最初のテストを思い出した。張り出される順位を眺める生徒たち。早苗に、海斗が話しかけてくる。
「ああ、このやりとり、見たかもしれません……」
ライバル心を剥き出しにして、早苗を無視できない海斗が、やたらと話しかける。そんなやりとりは、ここから始まったのだ。
「藤乃さん、名前載ってるじゃない」
「え? ……本当ですね」
画面に表示された順位表には、私の名前も、さりげなく映り込んでいる。そんなところまで、現実通りだ。
現実通りというか、現実が、ゲームというか。今までの出来事を追うような展開に、何がなんだか、混乱してしまう。
私は、私の知っている早苗と海斗の進展と同じになるよう、選択肢を選んで進めた。
早苗と海斗は、放課後にばったり会ったり、休日にばったり会ったりしながら、お昼を一緒に食べてみたり、プレゼントを贈りあったりと、着々と距離を縮めていく。やがて強引に生徒会の手伝いをさせられ、長い時間を共に過ごすようになる。
「婚約破棄されたのは、この頃なんですけど」
「出てこないね、そんな描写」
私と海斗の件については、少しも触れられぬまま、カレンダーはどんどん進んでいった。
「これって、藤乃さんだよね?」
「……そうですね」
ある朝の場面。早苗は、(あの人、なんだかこっちを見てくる……)と言い出す。
「画面の中にも、藤乃さんがいるよ」
「変な気分です。気持ち悪い」
自分と同じ顔のキャラクターが、そこで動いている。
『どうした、早苗?』
『なんだか、あの人が……』
『小松原さんか。……僕、ちょっと言ってくるよ』
海斗はそう言い、画面に、また私が映り込む。向き合う私と海斗。海斗の後ろに、守られるように、早苗。
『早苗を睨むなよ。妬いてるのはわかるが、君の出る幕じゃない』
これも、聞いたことのある台詞だ。
「早苗さんは、本当に、私が婚約してたってことは知らないのかもしれません」
「全然、説明されないね。ほら、こんなこと書いてある」
海斗に庇われ、早苗は(この人、千堂くんのことを好きなのかな?)と、呑気に考えている。
早苗がこのゲームをプレイしていたとしても、これでは、私と海斗の婚約のことは知る由もないだろう。
「てっきり私、もっと悪役らしく描かれるのかなって、思ってたんですけど……」
主人公を虐め抜き、最後に華々しく婚約破棄からの没落を決められる。それが、私が今まで読んできた物語の悪役令嬢だった。
そこまでは行かないにしても、もう少し、悪者として描かれると思っていた。
「……物語に彩りを添える、ライバルって感じなのかな」
「彩り。そうですね」
海斗が早苗を守る場面を作るための、彩り程度。慧の指摘通りだ。
物語が進むと、海斗と早苗の勉強会になる。
友人と複数で行う予定だった勉強会は、ひょんなことから、ふたりきりになる。
『千堂くんのお父さんとお母さんって、どっちもすごいんだね』
『だから……俺は、どこに行っても千堂さんの息子、なんだ。いくら努力しても、親の名には敵わない。俺を俺として見てくれるのは、君だけだよ、早苗』
海斗は、どこか寂しげな表情で、そう語る。
「そうなんだ……」
彼には、そんな悩みがあったのか。
素晴らしい両親を持って、千堂家という名家の跡取りで、能力も人望も抜群の彼に、そんな悩みがあるとは思わなかった。
『千堂くん……』
『その、千堂くんって呼ぶの、やめてよ。俺、名前で呼んでほしい』
そうして、早苗は海斗のことを、『海斗』と呼ぶようになる。
「勉強会をしたあと、早苗さんは、海斗さんのことを『海斗』って呼ぶようになったんです」
「へえ。なら本当に、この通りに進んでいるんだ」
「そうみたいです。……やっぱり早苗さんは、ゲームのことを知っているんだと思います」
それはもう、確信以上の、事実としか思えない。
物語のような現実というか、現実のような物語というか、何にせよその中に、私たちはたしかにいるのだった。
ピピ、と電子音が鳴る。
「あ……ここまでだね」
「今のは?」
「閉館に合わせて、アラームをかけておいたんだよ。この部屋は時計もないから、夢中になると時間を忘れそうだろう?」
慧の言う通り、今何時かなんて、気にしないでいた。
「まだ途中なのに……」
「俺も続きは気になるけど、時間は守らないと。それこそ、大騒ぎになるよ」
それもそうだ。仕方がない。
ゲーム機を箱に片づけ、念のため、雑多な棚の奥に隠す。
「まあ、誰もこんなとこ見ないとは思うけど」
慧は言いながら片づけを終え、服装を整えた。
「どうだった、藤乃さん。ゲームをしてみて」
「先が気になります。これだけ現実と重なっていると、物語の展開は、私のこれからと関係があると思うので」
「だよね」
頷く慧。
「また明日、続きを見よう」
「はい、また明日」
挨拶は、いつもと同じ。
この世界はゲームと同じという、衝撃的な事実を、こんなに穏やかに受け止めているのは、きっと慧のおかげだ。
ひとりでは、受け止めきれなかったに違いない。
「それに……」
夜に向かって薄暗くなる空を、窓越しに眺めながら、私は今日見たゲームのストーリーを思い返す。
もうひとつ、私にとって衝撃的だったのは、海斗の本心だ。
いつまでも両親の子供として見られ、どんなに努力しても、親を超えられない。自分を、自分として見てもらえない。
そんな悩みを彼が抱えていたなんて、想像したこともなかった。私はそれを、海斗から引き出せなかったのだ。
私が、早苗には敵わないと劣等感を感じていたように、彼も親には敵わないと、劣等感を感じていた。
私がそれを共有したのは慧であり、海斗は、早苗と共有した。
……ゲームの通りであれば。
だから海斗は、私が慧に心を許したように、あれほど早苗に心を許している。
海斗の態度に納得すると共に、私は改めて、早苗には敵わないと思う。
だって、敵うわけがない。
私にはこれからも、海斗の本心を聞き出すことなんてできないだろう。私と早苗では、そもそもの立場からして、違うのだ。
「きっと、このまま破棄したほうが、彼のためにはいいんだけど……」
兄から与えられた、ふたつの選択肢。
海斗のことを思えば、婚約破棄に進んだほうがいいのは、間違いない。本心を明かせ、熱情に近い思いを寄せる相手と一緒になれるのなら、それは、彼にとっての幸せなはずだ。
ならそれは、私にとっては?
人のことならわかるのに、自分のことはわからなくて。
私は、廊下に響く自分の足音に耳を傾けながら、思いを巡らせ、歩き続けていた。
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