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1 依頼は婚約破棄

1-5 メイディは恋を知る

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 放課後の図書館は、相変わらず静かだ。空気の揺れすら感じない静謐な空間に、本だけがみっちりと詰まっている。

「ああ、あった。ここだ」

 メイディの手を引きながら、アレクセイは本棚の間を右へ左へと進む。目的の棚に並ぶ華やかな装丁の本は、大衆本のようだ。

「これと、これと……これがいいだろう」

 渡された本は、『公爵に愛されて』『侍女の秘め事』『王太子の一途な恋』という題名であった。明らかに、恋愛を題材にした小説である。

「こういう本も図書館にあるんだ」
「あるだろ。物語だって教養だぞ」

 授業で扱わない教養に、メイディは触れたことがなかった。『公爵に愛されて』をぱらぱらめくってみる。どうやら、主人公は平民の女性。身分差のある恋愛ものらしい。

「そんな風に雑に流し読むんじゃねえ。名作だぞ、失礼だ」
「名作、なんだ」

 メイディは、意外そうに呟く。何となくページをめくった印象だけでも、普段読み慣れている学術書とはずいぶん違った。文体は耽美で情緒的。文意を通すには無駄な飾りがたくさんあるように思える。

「それが教科書だ。読んで、恋人としての振る舞いを勉強しろ。お前が理解してからじゃないと、何を言い出すか怖くて人前に出せねえ。……それで、時間はどれだけかかる」
「うーん。理解するのにかかる時間は、3日」

 恋愛だと思うとよくわからないが、勉強だと思えば見当がつけられる。本を読んで、そこに表れた「恋人」らしさを分析して理解する。一日一冊の計算だ。

「わかった。なら四日後に、お前の成果を見てやる。期待してるぞ」

 そう言われると、メイディの背筋はすっと伸びる。やるのなら、期待に見合った結果を出したい。たとえそれが、恋愛という未知の分野であっても。
 この向上心が、メイディを特待生にし、良い成績を取らせ続けてきたのだ。

「頑張ろうっと」
「何もわかってないくせに、やたらと前向きなのが不思議だな。いや、何もわかってないからか」
「前向きなのは不思議じゃないでしょ。お金ももらったし」
「そんな端金……いや、お前には大金なのか。それなら、俺を満足させたら、報酬を追加してやるよ」
「えっ!」

 メイディの緑の瞳が、きらんっと輝く。今、聞き捨てならないことを聞いた。

「追加って……いくら?」
「金貨一枚でどうだ」
「絶対満足させる」

 即答するメイディを見て、アレクセイは目を細める。

「わかりやすくていいな、お前は」

 彼の手がメイディの頭頂部に乗り、黒髪をぐしゃっと乱す。そうやって触られると、その手のひらはやけに大きく感じられた。

「……親みたい」
「『恋人』だ。それに、触れ合ったら照れろと言ったろうが」
「あっ。テレルナ」
「棒読みなんだよなあ」

 金貨一枚あれば、何を買えるだろう。専門書、魔獣の血。夢が広がる。何はともあれ、メイディの目の前に吊らされた人参は効果抜群なのだった。

「よし、よし。これなら大丈夫。きっと、満足させられる」

 そして、金貨一枚が手に入る。メイディは自信とともに、三冊目の本を机の端に寄せた。

 学生たちが暮らす寮の部屋は、寝室と浴室から成る。窓に面するように置かれたテーブルに向かうメイディは、「ラミーよ」と短く詠唱する。白い光が目元を包み、疲労を癒した。

 それにしても、小説を読むという体験は、なかなか興味深かった。主人公の波瀾万丈な経験を、追体験できるのである。
 アレクセイに渡された本は、『公爵に愛されて』『侍女の秘め事』『王太子の一途な恋』。どれも身分差のある恋愛を扱ったものだった。

『公爵に愛されて』は、公爵と伯爵令嬢の恋模様であった。冷血公爵と名高い公爵の元に嫁がされた伯爵令嬢が、持ち前の魅力で周囲を虜にしていく話である。過去に傷ついた経験から「冷血」となった彼が、伯爵令嬢の天真爛漫さに触れて心を開いていく展開はしみじみと優しく、不器用な彼の思いが令嬢に伝わったシーンでは内心で喝采を送った。
『侍女の秘め事』は、主人である公爵令嬢が隣国の皇太子に嫁ぐことになったのに、身代わりになってしまった侍女の話。主人に騙されて初夜を迎え、彼を愛してしまう。「公爵令嬢」として振る舞っていたけれど、戦争を望む人物に隠していた身分を明かされてしまうのだ。はらはらしながら読み、全ての問題が解決されたときには安堵で胸を撫で下ろした。
『王太子の一途な恋』はその題名の通りで、幼い頃に親切にした侍女に、王太子がずっと思いを寄せていたという筋書きである。大人になった王太子に迫られ、年上の侍女は戸惑いつつも最後は受け入れる。王太子の真っ直ぐな求愛は、気持ち良くさえあった。

 アレクセイは「どれも名作」だと評していたが、それにも納得できるくらい引き込まれた。分析しながら読むつもりだったメイディは、初読のときには一気に読み通してしまったのだ。
 三冊の分析を終え、明日が約束の四日目。メイディは、書き上げたレポートをざっと確認する。期末レポートを教員に提出するように、これを成果としてアレクセイに見せるつもりである。

 レポートの冒頭は、「恋人」の定義について。日常的に使う言葉でも、改めて定義を確認するのが大切なのだ。辞書によると、「恋人」とは「恋しく思う相手」であり、「一般に、相思相愛の関係に用いる」ものだ。要するに、互いに相手に「恋」をしている関係である。
 では、「恋している」とは、どんな状態を指すのか。メイディはそれを、三冊の本から探し出した。といっても、どの作品にも登場人物が恋を自覚した場面が入ってくるので、それほど難しい作業ではなかった。

 つい、相手のことを考えてしまうこと。相手のために、見返りなく何かしたいと思うこと。異性と親しそうにされると、嫉妬してしまうこと。もっと触れたい、もっと愛されたいと、願うこと。そんな感情を自覚したとき、主人公たちは「恋」に落ちたことに気づく。
 互いに「恋」している恋人が、どんな振る舞いをするものなのか。レポートの続きには、それを表にしてまとめた。「膝枕をする」「手の甲にキス」など、三冊に描かれた甘やかな行為を、逐一書き出してある。

 自分がアレクセイに「恋をしている」つもりで、「恋人らしい振る舞い」のいずれかを場に応じて選択する。そうすれば、上手くいくだろう、というのが結論だ。

「うん、これでいい」

 恋のなんたるかがよくわからない自分であっても、これだけの情報を頭に入れておけば、きっと上手くやれる。メイディには確信があった。
 といっても、アレクセイに要求されたのは、「恋人らしい振る舞いについて理解する」ことだけだ。まだ実践できなくていい。暗記するのは、また今度に回すつもりだ。恋について考えすぎて、食傷気味なのである。

 メイディは立ち上がり、両腕を上げて伸びをしてから浴室に向かった。

「ウリスよ、浴槽に潤いをもたせよ」

 浴槽を満たす大量の水を出すのには、精霊の名を呼ぶだけの詠唱では足りない。水の精霊ウリスに呼びかけ、イメージを付け足すと、浴槽になみなみと水が張られる。

「サモフよ、水に熱を与えよ」

 今度は火の精霊サモフに呼びかける。こちらも、温度の調整をするためには、イメージを付け足す詠唱が必要だ。詠唱を省略して失敗すると、煮えたぎる湯になったり、まったく温まらなかったりする。
 熟練度によってはどんな魔法でも精霊の名ひとことで成せるそうだが、メイディはその域にはなかった。

 水の中に火球が現れ、途端にじゅわわ……! と激しい音がして、蒸気が一気に上がる。細く開けた窓から蒸気が抜けていくと、程よい温度の湯が残る。
 裸になって浴槽に全身を浸すと、溜まった疲れが手足の先から抜けていくような感覚を覚える。

「ふう~……」

 深々と息を吐き、頭まで湯に沈める。ぶくぶく。口から吐いた息が、水面を揺らした。
 暫くそうして湯に浸かり、息が苦しくなったところで顔を出す。前髪から落ちた滴が、ぽたり。湯に落ちる音が浴室に響いた。

 浴槽の縁に、木製の桶が置いてある。メイディはそこに脱いだ制服を入れ、両手で抱えるようにして湯に浮かべる。すると、側面に刻んだ紋様に、赤と青、緑の光が走る。

 精霊の力は、身を包む空気と同じで、世界をふんわりと満たしている。人間や魔獣は、精霊の力を借りて魔法を使うことができる。なぜなのか。それを追求し、魔法の仕組みを再現したものが魔導具だ。

 指を切れば血が出る。生き物の血は、精霊の力を媒介しやすい素材である。そして血が流れる血管は、複雑な模様を成している。詠唱によって精霊の力が体に取り込まれ、血管の一部を通り、魔法が発動する。……というのが、現在の定説だ。

 魔導具を使うと、詠唱しなくとも魔法が発動する。それは魔導具に刻まれた紋様が、詠唱を代替しているからだ。紋様に素肌で触れると、精霊の力が紋様を流れ、特定の魔法を起動できる仕組みになっている。
 メイディが抱える桶は、自作の洗濯機である。紋様に触れていると、水を出し、風魔法で渦を巻いて洗い、火と風の魔法で乾かしてくれる。いちいち詠唱し、魔法を調整しながら洗うよりもずっと楽なのだ。

 目の前でくるくると回る制服は、心を穏やかにさせ、いつまでも眺めていられる。メイディは湯に浸かりながら、ぼんやりとその回転を見つめる。抱えた桶の中の制服が乾く頃には、手足の先までちょうど良く温まっている。
 寝室に戻ると、乾いた制服を窓辺に掛け、寝巻きを着て寝台に横たわる。寮の調度品は貴族仕様なので、ふかふかと全身を受け止めてくれる。四肢を脱力させると、体温が、シーツに心地良く広がる。そうなれば、夢の世界は目前だ。メイディの穏やかな寝息が、月明かりだけが差す寝室に静かに響いた。
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