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1 依頼は婚約破棄

1-4 メイディは敵わない

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「メイディ。メイディったら!」

 メイディの肩を、エミリーが小刻みに何回も叩く。

「待ってエミリー、まだフーレル先生とのお話が終わってないから」
「ああ、ごめんなさい。つい。でもねメイディ、ほら見て、あなたの恋人が迎えにいらしてるのよ」

 謝りながらもそのまま会話に割り込むと、エミリーは後方を手で示す。その先には、見覚えのある金髪があった。目が合うと、アレクセイが片手を軽く掲げる。鷹揚な仕草が何とも様になる、相変わらずの完璧な造形である。

「……恋人、ですか。彼が?」

 メイディの質問を受けていた教員、フーレルは、灰色の眉をひそめて呟いた。銀縁の眼鏡が不穏に光る。髪の毛を一分の乱れもなく整えた彼は、見た目通り、真面目で厳格だ。
 怒られそうだ、と思ったメイディは、先回りして謝罪を紡ぐ。

「申し訳ありません」
「いや、君が謝ることではありませんが……この本ですね、どうぞ」
「ありがとうございます!」

 メイディは今、卒業研究に全力を注いでいる。特待生は、卒業前に個人研究の成果を献上しなくてはならないのだ。参考にしたい書籍が図書館になかったので、フーレルに頼んで貸してもらった。
 彼は、卒業後に王宮魔導士団で数年働き、その指導能力を買われて教員になったという。魔導士団との伝手があり、珍しい書籍も貸してくれる。忙しい教員だが、授業前後は相手をしてくれるので、隙を見ては質問しているのだ。

「ねえ、ねえ。メイディ!」

 甘ったるく可愛らしい声とともに、くい、くい。制服の袖が引っ張られる。エミリーは、メイディがフーレルと話している間も、ずっと袖を引っ張って急かしていた。

「だめでしょう、あの方を待たせたら。髪を燃やされちゃうかもしれないわ」
「さすがに、そんなことしないでしょ」
「……いや、どうでしょうね。急いだほうが良いと思いますよ」
「先生まで。……じゃあ、今日はこれで失礼します」

 二人に急かされ、メイディは軽く頭を下げてその場を辞する。小走りで駆け寄ると、アレクセイはわずかに表情を緩めた。

「悪い、邪魔して。フーレル先生を怒らせたかもしれねえな」
「先生は怒ってなかったよ。どっちかというと二人とも、アレクを怒らせるのを心配してた。髪を燃やされるとか言われたけど、そんなことしないよね?」
「今はそんなことしねえよ、ガキじゃあるまいし」
「今は?」
「どうでもいいだろ。ほら、メイディ」

 メイディの目の前に、アレクセイの手が差し出される。相変わらず、その指先は綺麗に整えられている。

「見てないで、手を取れよ」
「そうなの?」
「そうなのって……お前、『恋人』っていうのがどういうもんか、全然わかっちゃいねえよな」
「わかってないけど……昼間はけっこう上手くできたでしょ? エミリー、私達のことちゃんと恋人だと思ってたよ」
「できてねえ。お前、ほとんど黙って話聞いてただけじゃねえか。恋人だと思ったんなら、それは俺のおかげだよ」
「ええ……あれで駄目なら、どうしたらいいかわからない」

 あまりの酷評に、メイディの声に困惑がにじんだ。

「勉強すればいい。お前の得意分野だろ?」
「勉強は得意だけど。『恋人のふり』に、教科書なんてないよ」
「俺が教えてやる。まず、手を差し出されたら取れ。常識だ、これは」

 アレクセイが、メイディの手を取る。

 彫刻みたいに端正な顔立ちをしたアレクセイだが、触れた手はやはり温かい。その温もりに、彼の人間らしさを感じる。不思議な感覚に、メイディは何度か手を握り直した。
 ぎゅ。アレクセイも手を握り返してくる。その感触がさらに新鮮で、メイディは彼を見上げた。青い瞳と目が合うと、緩く細められる。

「触れ合ったら、照れろ」
「……テレルナ」
「棒読みじゃ説得力がねえなあ」

 容赦ないダメ出しを受けつつ、手を握り合ったまま廊下を歩く。時折すれ違う人の視線が、必ず一瞬、繋いだ手に向けられる。

「……見られてる気がする」
「俺と手を繋いで歩いたら、見られるのは当然だ。慣れろ」
「わかってるんだけど、気になっちゃうの」

 人の視線が気になるのは、初めてではない。
 入学当初、メイディは、数年に一度しか入学しない特待生を、観察する眼差しに囲まれていた。しかも一代貴族の娘ーーほぼ平民の特待生は数十年ぶり。あの頃も、見られるのは当然だと思いつつ、視線が気になってしまった。
 時間が経つにつれ、メイディの人となりが知れ、好奇の視線は減ったものだが。

「よそ見しておけばいいだろ。すれ違う奴の顔を見るから気になるんだ。……ほら、お前の名前が貼り出されてるぞ」

 言葉通りによそ見をしたアレクセイが、廊下に貼り出された紙を指し示す。
 講義棟の廊下には、科目ごとの成績優秀者が、一覧になって張り出される。メイディの名前は、上から2番目にあった。次の科目でも。その次の科目でも。

「一代男爵の娘で、これほど優秀なのはすごいことだよな。俺の周りでも噂になってる」
「2位ばっかりだよ。ほら、1位は全部、ミア・ルネール・サグ・ラグシルさん。あの人が、いつも私の上にいるの」

 唯一勝てたのは、魔導具学。それ以外の科目で、メイディは彼女に勝てたことがない。もちろん、越えようと努力した。最善を尽くしても、あの名前はメイディの上に燦然と輝いていた。

「結局、幼い頃から努力を続けてる人には、追いつけないんだよね」

 最初は、悔しかった。
 平民ながらに騎士として活躍し、爵位を得た父のように何かを成すには、身分の差を努力で埋める必要がある。努力しているつもりなのに、それを成せないのは悔しかった。

 そのうち、諦めに変わった。
 努力では埋められないものがある。メイディが努力して進んだとき、同じだけ前に進まれたら、永遠にその差は埋まらない。1位の彼女とメイディの間にある差は、そのような、どう足掻いても埋まらない類のものだ。

「あー……まあ、そう悲観すんなよ。俺は彼女と親しいが、お前のことを認めてるぞ。いつ追いつかれるかわからないから、気を抜かないようにしなくちゃいけない、と言っていた」
「そうやって頑張られたら、永遠に追いつけないんだって。結果を出さなきゃ意味がないのに」
「十分な結果を上げてるだろ。全科目で2位の実績を持つ学生なんて、引く手数多だ」
「貴族ならね」

 メイディは鼻を鳴らして、自嘲的に笑う。

「卒業したら、何にもないの。私は貴族じゃないから、魔導士とか、家庭教師とか、勉強が得意な貴族が就く職種とは無縁だし。騎士にだって、女だからなれない」

 平民であっても実力次第で評価されるという王宮騎士団すら、門戸は男性にしか開かれない。他の職種など、貴族でなければ挑戦の機会すら与えられない。

「どうしてそんなに投げやりなんだ。特待生なんだから、何か道はあるだろ」
「ないの。今までの特待生は貴族だったから、能力が認められて、良い勤め先や嫁ぎ先があったんだって。そうじゃなければ、特待生の肩書きなんて学院の中でしか役に立たない。頑張ったって、卒業したらもう認められない」

 だからこそメイディは、在学中に、何としてでも何かを成したいのだ。そのためにお金が必要で、だからアレクセイの依頼を受けたのだ。アレクセイには、それがわからないらしい。
 考えるうちにいらいらしてくる自分に気づいて、メイディは深呼吸した。アレクセイは持つ者だ。持つ者は、持たざる者のことはよくわからない。その発言に、悪意はないのである。

「ごめん。アレクにはわからない話だよね」
「わからないが……お前の無力感を、多少は想像できる。俺の婚約者は完璧だと言ったろ? 完璧な婚約者を持つと、何かと比較されるんだ。『彼女はここまでできる。ならお前は、どこまでできるんだ?』ってな。比べられるのが癪だから、どうにか勝とうと思ったが、何ひとつ敵わなかった」
「そう、なんだ……」

 共感されるのは、意外だった。

 メイディにとって、身分のある彼は「持つ者」である。しかし相手が変われば、アレクも「持たざる者」になってしまうのだ。
 完璧な婚約者と、そうではない自分。及ばない相手と自分を比較して劣等感を覚える気持ちは、容易に想像できる。メイディもそうだからだ。

「どうせわからないって決めつけるのは良くなかった。ごめん」

 謝罪すると、無言のまま、手が握られる。ぎゅう。許しの色を帯びた手の温もりは、余計に温かく感じられた。
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