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2 恋の自覚
2-6 メイディとふたりの時間
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「本当にいいの?」
「今日はお前の予定に合わせると言ったろ」
「今日も、だよ」
サロンに行ってから数日間、メイディの生活は、アレクセイに出会う以前とほとんど変わらなくなった。彼は毎日迎えに来るようになったが、行く先はメイディに任される。図書館で卒業研究のための資料を集めたり、ケビンから届いた宿題に取り組んだり、魔導具を作ったり。
「私の予定に合わせてたら、誰にも会えないのに……」
恋人らしく振る舞ったって、誰も見ていないのでは意味がない。当初の約束だった、「アレクセイの婚約破棄に説得力をもたせるための『恋人のふり』」をできている気はしなかった。
「いいんだよ、とにかく今は、これで」
アレクセイは、強引に話を切り上げる。一昨日も昨日も、何度確かめても「これでいい」の一点張りなのだ。
「いいなら、いいけど……」
秋も深まりつつあり、卒業の日は近づいてくる。空飛ぶ魔導具を作るのには時間がかかるから、アレクセイが、メイディに時間をくれるのはありがたい。
ありがたいのだけれど、釈然としなかった。彼の望みを叶えるために、これでは足りないのではなかろうか。
メイディが諦めた身分のしがらみを、アレクセイは抜けようとしている。それを応援したいのに、当のアレクセイが、させてくれない。
「こんにちは、ケビン先生。作業場をお借りします」
「はいよー」
サロンの日ではないが、ケビンに断ってから、研究室の隣にある作業場へ向かう。ごちゃついた作業場の中央に鎮座する球体。メイディは近寄り、表面を撫でる。
作業はまだまだ途上。椅子を球の側へ運び、片手に長い針を持って座る。予め引いておいた下書きに沿って、紋様を刻んでいくのだ。
カリカリカリ、とかすかに音が鳴る。メイディはひたすらに、紋様を刻み込む。
額に汗が滲む。目の奥がちかちかする。指先が疲労で震えそうになるのを、力を込めて押さえる。
「……今日はここまでかな」
ふう。メイディが詰めていた息を長く吐いた頃には、窓の外は夕闇に染まっていた。
「おう。お疲れ」
積まれたがらくたに背を預け、床に寝転がっていたアレクセイは、手に持っていた本を鞄に突っ込む。組んでいた長い脚をほどき、制服の尻を叩きながら立ち上がった。
「なあメイディ。この後、何か予定は?」
「ないよ。部屋に戻るだけ」
「そうか。ならちょっと、出かけようぜ」
アレクセイがあまりにも当然のように誘うので、メイディは首を傾げた。
「出かけるって、外出許可もらってないよ」
「いや、今日は許可はいらねえ。ほら、そっち向いてこれ着ろ。俺は見ねえから、さっさとしろ」
メイディに袋を放ったアレクセイは、くるりと背を向ける。
「これ……服? 何で?」
「つべこべ言うな」
取り付く島がないので、メイディはアレクセイに背を向けて袋の口を開ける。
袋の中に入っていたのは、服だった。それも、ただのワンピース。色は、秋を感じさせる深緑である。
アレクセイが急かすので、メイディは制服のボタンに手をかけた。制服を脱ぎ、ワンピースを持つ。袖に手を通すと、ぺらぺらとした頼りない布の感触がした。メイディは、実家で着ていた服を懐かしく思い出す。
つまりこれは、平民の普段着と同じ。実に素朴で安っぽい服なのだ。
「着たけど……これ、どういうこと?」
「おう、着たか。制服は袋に入れとけ、俺が持ってやる」
「……ええ、アレク?」
疑問符ばかりである。着替えを終えて振り向いたメイディは、目を丸くした。
薄手の青シャツに、茶色のベスト。ベストと同色のパンツに身を包んだ姿は、とても貴族には思えない。ちょっとおしゃれをした平民そのものの姿だ。
「似合うだろ?」
「うん……何でそんなに似合うの?」
違和感がないのがおかしい。アレクセイは、ラミーを抱く高位貴族。こんな、平民の服なんて着たこともないはずなのに、ずいぶんと身に馴染んでいる。
「すぐにわかる。ほら、こっちへ来い」
窓辺に向かうアレクセイに手招きされ、メイディは彼の隣へ立つ。窓を開け放つと、秋の夜の涼しい風が吹き込む。藍色の空に、星がきらめいている。雲ひとつない、爽快な夜空だ。
アレクセイの左腕が、メイディの背に回る。右腕が膝裏を持ち上げ、体が宙に浮いた。横抱きの姿勢だ。
「え、なに。え、どうするの?」
「違うだろ。こんな抱かれ方されたら、まず照れるんだよ」
「テレルナ? ……じゃなくて、こんな服で、窓開けて、それって……」
平民の着るような服。闇に紛れる夜。人気のない作業場の、開け放った窓。察しの悪いメイディでも、アレクセイの意図はなんとなくわかる。わかるからこそ、動揺した。
「外出許可なく外出したら、アレクも退学なんじゃ」
「ばれたら、な。行くぞメイディ。ユークよ!」
たったひと言の詠唱で、メイディとアレクセイの体は、風に巻かれて窓の外へ飛び出した。
「待ってアレク、無理、怖いって。落ちたら死んじゃうよ!」
「落ちねえよ。お前、俺の魔法の腕を信じねえのか」
「アレクの名前、魔法実習の優秀者に載ってたことある? ないでしょ!」
「はは、確かにねえな。大丈夫だって、飛ぶのは慣れてるんだ」
「私を持って飛ぶのは初めてでしょ!」
メイディの悲鳴に似た声は、風に吸い込まれていく。ふたりの体は、既に学舎の遥か上に浮き上がっていた。
飛行術は、難しい。自然の風は不規則に吹くので、それに合わせて細かく調整しなければならない。ましてや他人にかける場合、体型や重さを考慮する必要がある。失敗すれば墜落だ。
メイディを抱えたアレクセイの計算に、少しでも狂いが生じれば落ちる。危機的状況に、メイディの体は強張った。両手で、がっしりとアレクセイの胸元を掴む。
「さ、さすがに、死にたくはないんだよ、私……」
「俺だって死ぬ気はねえ。そんなに怖いなら目つぶってろ。すぐ着く」
「ううう」
声にならない声をあげ、メイディはアレクセイの胸板に顔を押し付ける。薄いシャツ越しの筋肉も、甘い香水の匂いも、温もりも、感じる余裕はなかった。ただ目を閉じ、終わりのときを待つ。
「……メイディ、着いたぞ」
地上に降りたアレクセイがそう告げるまでの時間は、メイディにはあまりにも長く感じられた。
「今日はお前の予定に合わせると言ったろ」
「今日も、だよ」
サロンに行ってから数日間、メイディの生活は、アレクセイに出会う以前とほとんど変わらなくなった。彼は毎日迎えに来るようになったが、行く先はメイディに任される。図書館で卒業研究のための資料を集めたり、ケビンから届いた宿題に取り組んだり、魔導具を作ったり。
「私の予定に合わせてたら、誰にも会えないのに……」
恋人らしく振る舞ったって、誰も見ていないのでは意味がない。当初の約束だった、「アレクセイの婚約破棄に説得力をもたせるための『恋人のふり』」をできている気はしなかった。
「いいんだよ、とにかく今は、これで」
アレクセイは、強引に話を切り上げる。一昨日も昨日も、何度確かめても「これでいい」の一点張りなのだ。
「いいなら、いいけど……」
秋も深まりつつあり、卒業の日は近づいてくる。空飛ぶ魔導具を作るのには時間がかかるから、アレクセイが、メイディに時間をくれるのはありがたい。
ありがたいのだけれど、釈然としなかった。彼の望みを叶えるために、これでは足りないのではなかろうか。
メイディが諦めた身分のしがらみを、アレクセイは抜けようとしている。それを応援したいのに、当のアレクセイが、させてくれない。
「こんにちは、ケビン先生。作業場をお借りします」
「はいよー」
サロンの日ではないが、ケビンに断ってから、研究室の隣にある作業場へ向かう。ごちゃついた作業場の中央に鎮座する球体。メイディは近寄り、表面を撫でる。
作業はまだまだ途上。椅子を球の側へ運び、片手に長い針を持って座る。予め引いておいた下書きに沿って、紋様を刻んでいくのだ。
カリカリカリ、とかすかに音が鳴る。メイディはひたすらに、紋様を刻み込む。
額に汗が滲む。目の奥がちかちかする。指先が疲労で震えそうになるのを、力を込めて押さえる。
「……今日はここまでかな」
ふう。メイディが詰めていた息を長く吐いた頃には、窓の外は夕闇に染まっていた。
「おう。お疲れ」
積まれたがらくたに背を預け、床に寝転がっていたアレクセイは、手に持っていた本を鞄に突っ込む。組んでいた長い脚をほどき、制服の尻を叩きながら立ち上がった。
「なあメイディ。この後、何か予定は?」
「ないよ。部屋に戻るだけ」
「そうか。ならちょっと、出かけようぜ」
アレクセイがあまりにも当然のように誘うので、メイディは首を傾げた。
「出かけるって、外出許可もらってないよ」
「いや、今日は許可はいらねえ。ほら、そっち向いてこれ着ろ。俺は見ねえから、さっさとしろ」
メイディに袋を放ったアレクセイは、くるりと背を向ける。
「これ……服? 何で?」
「つべこべ言うな」
取り付く島がないので、メイディはアレクセイに背を向けて袋の口を開ける。
袋の中に入っていたのは、服だった。それも、ただのワンピース。色は、秋を感じさせる深緑である。
アレクセイが急かすので、メイディは制服のボタンに手をかけた。制服を脱ぎ、ワンピースを持つ。袖に手を通すと、ぺらぺらとした頼りない布の感触がした。メイディは、実家で着ていた服を懐かしく思い出す。
つまりこれは、平民の普段着と同じ。実に素朴で安っぽい服なのだ。
「着たけど……これ、どういうこと?」
「おう、着たか。制服は袋に入れとけ、俺が持ってやる」
「……ええ、アレク?」
疑問符ばかりである。着替えを終えて振り向いたメイディは、目を丸くした。
薄手の青シャツに、茶色のベスト。ベストと同色のパンツに身を包んだ姿は、とても貴族には思えない。ちょっとおしゃれをした平民そのものの姿だ。
「似合うだろ?」
「うん……何でそんなに似合うの?」
違和感がないのがおかしい。アレクセイは、ラミーを抱く高位貴族。こんな、平民の服なんて着たこともないはずなのに、ずいぶんと身に馴染んでいる。
「すぐにわかる。ほら、こっちへ来い」
窓辺に向かうアレクセイに手招きされ、メイディは彼の隣へ立つ。窓を開け放つと、秋の夜の涼しい風が吹き込む。藍色の空に、星がきらめいている。雲ひとつない、爽快な夜空だ。
アレクセイの左腕が、メイディの背に回る。右腕が膝裏を持ち上げ、体が宙に浮いた。横抱きの姿勢だ。
「え、なに。え、どうするの?」
「違うだろ。こんな抱かれ方されたら、まず照れるんだよ」
「テレルナ? ……じゃなくて、こんな服で、窓開けて、それって……」
平民の着るような服。闇に紛れる夜。人気のない作業場の、開け放った窓。察しの悪いメイディでも、アレクセイの意図はなんとなくわかる。わかるからこそ、動揺した。
「外出許可なく外出したら、アレクも退学なんじゃ」
「ばれたら、な。行くぞメイディ。ユークよ!」
たったひと言の詠唱で、メイディとアレクセイの体は、風に巻かれて窓の外へ飛び出した。
「待ってアレク、無理、怖いって。落ちたら死んじゃうよ!」
「落ちねえよ。お前、俺の魔法の腕を信じねえのか」
「アレクの名前、魔法実習の優秀者に載ってたことある? ないでしょ!」
「はは、確かにねえな。大丈夫だって、飛ぶのは慣れてるんだ」
「私を持って飛ぶのは初めてでしょ!」
メイディの悲鳴に似た声は、風に吸い込まれていく。ふたりの体は、既に学舎の遥か上に浮き上がっていた。
飛行術は、難しい。自然の風は不規則に吹くので、それに合わせて細かく調整しなければならない。ましてや他人にかける場合、体型や重さを考慮する必要がある。失敗すれば墜落だ。
メイディを抱えたアレクセイの計算に、少しでも狂いが生じれば落ちる。危機的状況に、メイディの体は強張った。両手で、がっしりとアレクセイの胸元を掴む。
「さ、さすがに、死にたくはないんだよ、私……」
「俺だって死ぬ気はねえ。そんなに怖いなら目つぶってろ。すぐ着く」
「ううう」
声にならない声をあげ、メイディはアレクセイの胸板に顔を押し付ける。薄いシャツ越しの筋肉も、甘い香水の匂いも、温もりも、感じる余裕はなかった。ただ目を閉じ、終わりのときを待つ。
「……メイディ、着いたぞ」
地上に降りたアレクセイがそう告げるまでの時間は、メイディにはあまりにも長く感じられた。
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