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小料理 志乃
しおりを挟む「あらいらっしゃいませ」
女将のしのぶが、料理を小皿に盛りつけしていた手を止めて、白木のカウンター越しに笑顔を浮かべてそう言った。
「小料理 志乃」は、大分駅前の、老舗百貨店トキワの丁度裏手にある、カウンター八席と四人掛けテーブルが二つある、割と雰囲気が良いこじんまりした和食の店だった。
酒の肴だけでなく、女将が日替わりで作る炊き込みご飯と、お汁が美味しいために、界隈に住む関東や関西からの単身赴任者には人気の店だった。
そして、いつも着物姿で、しなやかにしている彼女の雰囲気も人気がある要因だった。
料理人は、ひとりだけ、六十を過ぎて初老に少し足をふみいれた短髪の寡黙な男がいた。
「このところ、お一人が多いですね」
「ああ、いろいろと考える事もあるのでね」
しのぶは笑顔でそんな挨拶をしながら、最初の小鉢をおいた。
彼女はその男を親しげに真(しん)さんと呼んだ。
「お飲物は、何になさいますか」
「ビールを・・・」
「いつもの瓶のヤツですね」
そう言うと、客席からは見えない位置に置いてある足元の冷蔵庫から一本取りだした。
他の客はと言えば、カウンターの一番奥に三十代前半のOL二人組くらいだった。
彼女らは、お酒と共に会話を楽しんでいたが、こんな店での客としての礼儀はわきまえているようで、邪魔にならない程度の声で、一週間後の連休に行くのであろう、旅の話をしていた。
コースターと小ぶりのグラスをカウンターに置くと「おひとつどうぞ」と男にビールをさした。
それから十二~三分ほど、彼は暗い面持ちの手酌で一人で飲んでいた。店にはしのぶが好んで選んでいるボサノバの曲が低い音量で心地よく流れていた。
照明も彼女の趣味で、シーリングやブラケットに暖かい色の明かりが、やや量を落として灯っていた。
「お仕事疲れですか?」
それは、男が次の酒を、焼酎のお湯割りに替えてしばらくたった頃のことだった。
「まあね。仕事で疲れるのは社会人になってずっとのことだが・・・」
「このところ根(こん)を詰めているって感じですね」
さっきから、一人で飲みながら「ちっ」とか、眉間にシワをよせて「うーん」と無意識に言っていたことを、しのぶは聞いていた。
「なんかねぇ、頓に(とみに)最近は、寝不足も重なってね」
「あらら、それはうつ病の前ぶれかも・・・ですよ。そんな方が前にもいらっしゃったわよ」
女将の心配するやさしい声を聞いて、男は言葉数がしだいに多くなった。
その間、店に流れる曲は、女性ボーカルの甘い歌声から、ピアノがメインの調べに変わっていた。
「でもね、しんさん・・」と、少し真面目そうな表情で言った
「心をゆっくりして、これまでの経験をプラスの方に生かしながら、仕事をされたらいいんじゃないの」
そして、しのぶは「おかみさんも飲みなよ」と勧められた焼酎の水割りをすっと飲みながら、
「そんな‘責任は自分だけかよ’とか‘学歴は俺が上なのに’とかは、もう頭の中からお捨てになったらよろしいのに。カラダが楽に動くようになりますよ、きっと」と続けた。
「・・・・」
右手でつかんでいるグラスを病的に見つめながら、しのぶがかけたこの言葉には無言でいた。
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