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「ジャズの巨匠 オスカーピ-ターソン」について (前編)
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風の中に春の匂いを感じると、間もなく(毎年の事であるが)学生たちの卒業式のシーズンである。
博多駅のコンコースを歩いている時に、そのような衣装に身を包んだ女子学生を見ると「ああ、今日がその日なんだ」と思ってしまう。
四年間のいろんな思い出を胸に、いよいよ実社会にはばたく彼女ら。相変わらず逆風が強い今日この頃ではあるが、ぜひ負けないで頑張ってほしいと毎回こころの中で願っている。
私にとって大学卒業前の思い出と言えば、ずいぶん昔の話になるが、昭和五十九年二月の米国一周旅行がある。
これは、入学直後から下宿が同じで、今日に至るまで数十年間みっちりお付き合いいただいている、気の置けない柴田君と西尾君との旅だった。
私はこの話を持ちかけられた時に、当初は、前々から行きたかった北海道一人旅を少し前に終えていたので、またさらに卒業旅行を、それも海外へなどとは微塵も考えてはいなかった。
聞くにその旅程は、シカゴに到着後、東海岸を飛行機で南に下って行き、フロリダ半島を見て回り、そして今度は西海岸に移りそこを北上(途中、一部はレンタカー)、最後はハワイに三日滞在して帰国するトータル三週間のツアーだった。
実際に行ってみると、スリルあふれる楽しい体験が山ほどあった。
怖い思いをしたこともあった。それはマイアミでの出来事・・・。
その日宿泊するホテルの一画に着いた時には、周りはもうすっかり暗くなっていた。
「ホテルはこの辺りのはずだよな・・」
そう言いながら三人はスーツケースをガラガラと引きずりながら歩道を歩いていた。リッチとは言えない学生三人の旅である。旅行中に選んだホテルのグレードは中級以下。
かつ、ここマイアミでも現地ガイドなしであるために、分かりにくいところにある宿を探し当てなければならなかった。
と、その時、道の向こうを歩いていた人物が、いきなり私たちの方に向きを変えて、道路を渡って近づいてきた。
黒人だった。それも自分がはめていたブレスレットをカチャカチャと外しながら・・・。一瞬思った「ヘイ、これを買え」と言うつもりだと。
当時マイアミ市街は、ガイドブックでも「治安は良くない」とあった。
早速・・出くわしたわけだ。
が、その瞬間、一人の人物がその黒人に近づいていくのが見えた。その通りに目を光らせていた警官だった。それに気づいた黒人は歩く方向をさっと変え、素知らぬ顔をして過ぎ去っていった・・。
あの時の警察官の動きは忘れられない。彼は終始無言のうちに私たち三人を危機から救ってくれた。感謝の限りだった。
フロリダの次に訪れたのがニューオーリンズ。ご存知の通り、アメリカがまだ、古き植民地時代は、仏領の主都がおかれていた南部有数の町である。ここではジャズと、食事の方では新鮮なカキ料理が目当てだった。南部ゆえにバーボンもしこたま飲んだ。
この街はうわさに聞く通り、ジャズが町中にあふれていた。日中は公園で、夜は中心部に位置するフレンチクオーター(フランス街区)のレストランで、黒人主体のジャズメンが繰り出すリズムに酔いしれた。
このJAZZと言う音楽だが、デキシーランド、ビッグバンド、カルテットの演奏など、いろんな形態がある。もちろん、ポロンポローンと鳴らすピアノ伴奏だけの女性歌手のゆっくりとしたナンバーも心に沁みてくる・・・いろいろと縛りがない。
事実、ロックの曲もジャズミュージシャンにかかればJAZZになる。使う楽器も、電子ピアノで演奏(やっ)たとしてもそれはJAZZだ。楽器を持ち寄って、音を出せば「それがJAZZ」と言うようなものだろう。当時はそう解釈した。・・・今でもそう思う。
さて、私が慶応の学生のころだが、二年生になったのを機にいよいよアルバイトを始めた。
昭和五十六年当時で時給は八百円、まずまずだった。
場所は目黒駅前の大きなマンションの一階だった。今でもこの建物は昔のまま存在している。
そこはジャズにコンセプトを置いたサロンで、昼間はお茶と軽食を、夜は水割りと軽食を出す店だった。店内では、ジャズの名だたる曲を大型のJBLスピーカーで聞かせていた。
そしてさらに、その店では月曜と水曜と金曜の夜に、ピアノと女性ジャズ歌手によるムード有るライブも行っていた。それにとどまらず年に数回は、戦後の日本ジャズ界を引っ張ってきた、すでにレコードも出していたアーティストたちのライブもやっていた。
その目黒のサロンでは、私は最初「料理係」として簡単な料理を作っていた。そして、しばらくしてから係り替えがありフロア担当になった。氷を運んだり、料理を運ぶわけであるが、その係りになってからは来店するプロのミュージシャンと親しく話せるようになった。彼らの音楽の腕前はさることながら、みんな気さくな方ばかりだった。
歌手の素敵な歌声のみならず、即興でのピアノソロやウッドベースのソロは、あの当時は聴きすぎて、耳が慣れてしまっていて特段何とも思わなかったが、今振り返ればタダでプロの音色を夜な夜な聞けたと言う・・・実にもうけもののアルバイトだった。
おかげで、ジャズのスタンダードナンバー(色んなミュージシャンによって長く歌い継がれている名曲)と言われるものは、ほとんどここで覚えてしまった。そんなこともあり、当初はニ~三週間の「ド短期バイト」のつもりだったが、気が付けば、まるまる一年やっていた。
博多駅のコンコースを歩いている時に、そのような衣装に身を包んだ女子学生を見ると「ああ、今日がその日なんだ」と思ってしまう。
四年間のいろんな思い出を胸に、いよいよ実社会にはばたく彼女ら。相変わらず逆風が強い今日この頃ではあるが、ぜひ負けないで頑張ってほしいと毎回こころの中で願っている。
私にとって大学卒業前の思い出と言えば、ずいぶん昔の話になるが、昭和五十九年二月の米国一周旅行がある。
これは、入学直後から下宿が同じで、今日に至るまで数十年間みっちりお付き合いいただいている、気の置けない柴田君と西尾君との旅だった。
私はこの話を持ちかけられた時に、当初は、前々から行きたかった北海道一人旅を少し前に終えていたので、またさらに卒業旅行を、それも海外へなどとは微塵も考えてはいなかった。
聞くにその旅程は、シカゴに到着後、東海岸を飛行機で南に下って行き、フロリダ半島を見て回り、そして今度は西海岸に移りそこを北上(途中、一部はレンタカー)、最後はハワイに三日滞在して帰国するトータル三週間のツアーだった。
実際に行ってみると、スリルあふれる楽しい体験が山ほどあった。
怖い思いをしたこともあった。それはマイアミでの出来事・・・。
その日宿泊するホテルの一画に着いた時には、周りはもうすっかり暗くなっていた。
「ホテルはこの辺りのはずだよな・・」
そう言いながら三人はスーツケースをガラガラと引きずりながら歩道を歩いていた。リッチとは言えない学生三人の旅である。旅行中に選んだホテルのグレードは中級以下。
かつ、ここマイアミでも現地ガイドなしであるために、分かりにくいところにある宿を探し当てなければならなかった。
と、その時、道の向こうを歩いていた人物が、いきなり私たちの方に向きを変えて、道路を渡って近づいてきた。
黒人だった。それも自分がはめていたブレスレットをカチャカチャと外しながら・・・。一瞬思った「ヘイ、これを買え」と言うつもりだと。
当時マイアミ市街は、ガイドブックでも「治安は良くない」とあった。
早速・・出くわしたわけだ。
が、その瞬間、一人の人物がその黒人に近づいていくのが見えた。その通りに目を光らせていた警官だった。それに気づいた黒人は歩く方向をさっと変え、素知らぬ顔をして過ぎ去っていった・・。
あの時の警察官の動きは忘れられない。彼は終始無言のうちに私たち三人を危機から救ってくれた。感謝の限りだった。
フロリダの次に訪れたのがニューオーリンズ。ご存知の通り、アメリカがまだ、古き植民地時代は、仏領の主都がおかれていた南部有数の町である。ここではジャズと、食事の方では新鮮なカキ料理が目当てだった。南部ゆえにバーボンもしこたま飲んだ。
この街はうわさに聞く通り、ジャズが町中にあふれていた。日中は公園で、夜は中心部に位置するフレンチクオーター(フランス街区)のレストランで、黒人主体のジャズメンが繰り出すリズムに酔いしれた。
このJAZZと言う音楽だが、デキシーランド、ビッグバンド、カルテットの演奏など、いろんな形態がある。もちろん、ポロンポローンと鳴らすピアノ伴奏だけの女性歌手のゆっくりとしたナンバーも心に沁みてくる・・・いろいろと縛りがない。
事実、ロックの曲もジャズミュージシャンにかかればJAZZになる。使う楽器も、電子ピアノで演奏(やっ)たとしてもそれはJAZZだ。楽器を持ち寄って、音を出せば「それがJAZZ」と言うようなものだろう。当時はそう解釈した。・・・今でもそう思う。
さて、私が慶応の学生のころだが、二年生になったのを機にいよいよアルバイトを始めた。
昭和五十六年当時で時給は八百円、まずまずだった。
場所は目黒駅前の大きなマンションの一階だった。今でもこの建物は昔のまま存在している。
そこはジャズにコンセプトを置いたサロンで、昼間はお茶と軽食を、夜は水割りと軽食を出す店だった。店内では、ジャズの名だたる曲を大型のJBLスピーカーで聞かせていた。
そしてさらに、その店では月曜と水曜と金曜の夜に、ピアノと女性ジャズ歌手によるムード有るライブも行っていた。それにとどまらず年に数回は、戦後の日本ジャズ界を引っ張ってきた、すでにレコードも出していたアーティストたちのライブもやっていた。
その目黒のサロンでは、私は最初「料理係」として簡単な料理を作っていた。そして、しばらくしてから係り替えがありフロア担当になった。氷を運んだり、料理を運ぶわけであるが、その係りになってからは来店するプロのミュージシャンと親しく話せるようになった。彼らの音楽の腕前はさることながら、みんな気さくな方ばかりだった。
歌手の素敵な歌声のみならず、即興でのピアノソロやウッドベースのソロは、あの当時は聴きすぎて、耳が慣れてしまっていて特段何とも思わなかったが、今振り返ればタダでプロの音色を夜な夜な聞けたと言う・・・実にもうけもののアルバイトだった。
おかげで、ジャズのスタンダードナンバー(色んなミュージシャンによって長く歌い継がれている名曲)と言われるものは、ほとんどここで覚えてしまった。そんなこともあり、当初はニ~三週間の「ド短期バイト」のつもりだったが、気が付けば、まるまる一年やっていた。
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