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穏やかでない日常
124:鈍い男 カイン
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後宮を改装して造られた特舎の良いところは、面倒くさい出入りの検査と、同僚との会話が記録されなくなった事。たまに抜き打ちの検査が入るが、王族の専属を務める人間に王族の情報を持ち出そうという輩は皆無。
又、所属に関係なく、王族専属に従事する者達と共に生活する事で、人脈や見聞を広げられた事も利点として挙げられるだろう。
だが、少なからず弊害もある。
「?!カイン殿?!レインッ?!………と…皆さん…?……こ、こんな所で…一体何を…?」
「…何を?それはこちらの台詞です。フラン殿下の専属護衛が乱心と言われて来たのですが?」
叔父上とフランから解放され、大浴場で足を伸ばして疲れを癒し、部屋でワインを傾けながら本の世界に身を投じていた俺を現実世界に引き戻したのは、扉をノックする音と、開いた扉の先で苦笑いする同僚達だった。
3階建ての特舎は1階が食堂とサロン、2階が既婚者用の部屋と大浴場、3階は階段を岐点に右手が女性、左手が男性独身者の部屋になっている。
その2階の一部屋に住まう、結婚を間近に控えた幸せの絶頂期に或る筈の男が、部屋の扉の前で叫び悶えているのを何とかして欲しいと聞いた時は、扉を開いた事を心底後悔した。
好奇心を隠しもしないレインと、呼びに来た同寮達と共に向かった先で見たのは、閉め出された扉の前で、声にしたなら恥辱で死ねると言っていた例の台詞を声高く紡ぐネイト殿と、気の毒といった表情を浮かべながら、そっと見守る2階の住人達。
ネイト殿の最後の台詞は、先程手にしていた小説の主人公である司祭の台詞…
恋愛小説のそれよりも余程口にする事を憚れる言葉を叫ぶ姿に、祭壇で組み敷く司祭と組み敷かれる令嬢のあれこれが過ぎりかけたが、隣りで首を傾げるレインに正気を取り戻した。
レイン、お前にはまだ早い…
「…い、いつからそこに…?…」
「途中から…『愛の奇跡だ』辺りからですかね。騎士相手にカイン殿1人ではと思って一緒に来たんですが……乱心というより、痴話喧嘩ですか?」
「ほぼ最初?!…なんで声をかけないんだよっ!恥ずかし過ぎるだろ…」
「何故って、面白か…いえ、声をかける時機を窺っていたからです」
「羞恥心までは失われていない様で、一先ず安心しました」
全てを見られていた事に驚きの声を上げ、こちらに背を向けて扉に縋り付いたネイト殿だが、扉は固く閉じたまま。
エルデ嬢も扉の向こうで羞恥に悶えながら、扉を開ける時機を見計らっているだろう。いや、これだけの騒ぎになってしまっては、開く事も出来ないかもしれない。
後宮の名残りを感じる無駄に重厚な扉を眺めながら、今夜はネイト殿を泊めるしかないのかと溜め息が出そうになった時、開錠の音に続いて重い扉が開いた。
「……お、お騒がせして、申し訳ありません…」
「?!エルデッ!!」
「?!…うぐっ……ネイト様…」
気の毒な程に頬を染めたエルデ嬢が、それでも視線を真っ直ぐに向けて謝罪する姿に、流石未来の王太子妃に仕える身だと感心したが、そのエルデ嬢を締め殺さんばかりに抱き締めるネイト殿に、その場にいる全員の口から溜め息が漏れる。
「良かったな、ネイト。扉が開いて…」
「…何やらかしたか知らないが、エルデ嬢を泣かすなよ」
「それにしても、随分恥ずかしい事を口走ってたな…」
「あら?知らないの?ネイト様が言ってたのは小説の台詞よ。私も若い頃に読んでたわ」
「懐かしいわね~」
「読み返してみようかしら」
「いや、そっちじゃなくて最後のーー」
「皆さん、うちのネイトとエルデが大変お騒がせしました。後は私達で…2人共、サロンに場所を移しましょうか?」
「「……はい」」
最後の台詞は何かなど、エルデ嬢に知られるわけにはいかない…知られた日には再び扉が閉ざされてしまう。
ーーー
「それでは、ネイト殿の事で拗ねているネイト殿に怒っていたのではないと?」
夜も更けたサロンの硝子戸の手前に置かれているのは、伯爵から贈られたオレンジの苗木。
特舎で一番陽当たりも風通しも良いサロンで、レインの背中の傷が治るのを待つ事になった幼木達は、咲かせた数個の花から甘い香りを放ち、擦り減った神経を癒してくれる。
その故郷を連想させる花の香りに頬を緩ませ、改めて謝罪を口にしたエルデ嬢は、ネイト殿の下らない嫉妬ではなく違う理由で腹を立てており、その事が今回のネイト殿の奇行に繋がったと話した。
「余所余所しい態度に、多少は腹も立ちましたが…私にも原因があった事なので起こる理由にはなりません」
「原因て…あの初恋の話ですか?」
「……レイン様にはネイトが初恋だと話しましたが、マリーとネイトが想い合ってる事も知っていましたし、ネイトの事は当時読んでいた主人公に重ねて憧れていた程度なんです…身近な男性はネイトしかいなかったので…ちょっとだけ…見栄を張っちゃいました」
居た堪れないといった様子で話すエルデ嬢だが、好きと言ってもらえなくて拗ねていたと聞いたこちらも居た堪れない…以前にも同じ様な事があったが、あの時はネイト殿の自信のなさが原因だったか…?
あの日以降、朝に夕に好きと伝えているのだと鬱陶しい事を言っていたが、拗れた間は伝えていなかったという事か…
「……で?エルデ殿の欲しい言葉は分かりましたか?ネイト殿?」
「………」
まさかの無反応…?
「…もしかして…まだ分からないんですか?」
「その自分は分かっている様な言い方はやめろ」
「分かっているから、こういう言い方をするんです」
「子供のお前に女心が分かる筈ないだろっ!」
「その女心の分からないネイト殿は子供、いえ、最早人間以下…正に獣ですね。エルデ殿、結婚証明書を提出していない今ならまだ間に合います。今度はちゃんとした人を選びましょう」
「お前っ…俺の味方じゃないのか!」
「敵味方の問題ではありませんが、この場合エルデ殿の幸せを優先するのは人として当然では?」
「ネイト殿、先程女性が喜ぶ言葉や行動について考えた事がないと話していましたが、エルデ嬢がどんな言葉で喜ぶだとか、何をしたら喜ぶだとか、そういった事は考えませんか?」
「考えますよ、当たり前でしょう」
「それは何故?」
「好きだからに決まってるでしよう」
「いかがでしょう、エルデ嬢」
「…及第点です」
「………え?」
この場は及第点でも、もらえないよりはいいだろう。
後は自分で何とかしてくれ、俺ももう休みたい…
又、所属に関係なく、王族専属に従事する者達と共に生活する事で、人脈や見聞を広げられた事も利点として挙げられるだろう。
だが、少なからず弊害もある。
「?!カイン殿?!レインッ?!………と…皆さん…?……こ、こんな所で…一体何を…?」
「…何を?それはこちらの台詞です。フラン殿下の専属護衛が乱心と言われて来たのですが?」
叔父上とフランから解放され、大浴場で足を伸ばして疲れを癒し、部屋でワインを傾けながら本の世界に身を投じていた俺を現実世界に引き戻したのは、扉をノックする音と、開いた扉の先で苦笑いする同僚達だった。
3階建ての特舎は1階が食堂とサロン、2階が既婚者用の部屋と大浴場、3階は階段を岐点に右手が女性、左手が男性独身者の部屋になっている。
その2階の一部屋に住まう、結婚を間近に控えた幸せの絶頂期に或る筈の男が、部屋の扉の前で叫び悶えているのを何とかして欲しいと聞いた時は、扉を開いた事を心底後悔した。
好奇心を隠しもしないレインと、呼びに来た同寮達と共に向かった先で見たのは、閉め出された扉の前で、声にしたなら恥辱で死ねると言っていた例の台詞を声高く紡ぐネイト殿と、気の毒といった表情を浮かべながら、そっと見守る2階の住人達。
ネイト殿の最後の台詞は、先程手にしていた小説の主人公である司祭の台詞…
恋愛小説のそれよりも余程口にする事を憚れる言葉を叫ぶ姿に、祭壇で組み敷く司祭と組み敷かれる令嬢のあれこれが過ぎりかけたが、隣りで首を傾げるレインに正気を取り戻した。
レイン、お前にはまだ早い…
「…い、いつからそこに…?…」
「途中から…『愛の奇跡だ』辺りからですかね。騎士相手にカイン殿1人ではと思って一緒に来たんですが……乱心というより、痴話喧嘩ですか?」
「ほぼ最初?!…なんで声をかけないんだよっ!恥ずかし過ぎるだろ…」
「何故って、面白か…いえ、声をかける時機を窺っていたからです」
「羞恥心までは失われていない様で、一先ず安心しました」
全てを見られていた事に驚きの声を上げ、こちらに背を向けて扉に縋り付いたネイト殿だが、扉は固く閉じたまま。
エルデ嬢も扉の向こうで羞恥に悶えながら、扉を開ける時機を見計らっているだろう。いや、これだけの騒ぎになってしまっては、開く事も出来ないかもしれない。
後宮の名残りを感じる無駄に重厚な扉を眺めながら、今夜はネイト殿を泊めるしかないのかと溜め息が出そうになった時、開錠の音に続いて重い扉が開いた。
「……お、お騒がせして、申し訳ありません…」
「?!エルデッ!!」
「?!…うぐっ……ネイト様…」
気の毒な程に頬を染めたエルデ嬢が、それでも視線を真っ直ぐに向けて謝罪する姿に、流石未来の王太子妃に仕える身だと感心したが、そのエルデ嬢を締め殺さんばかりに抱き締めるネイト殿に、その場にいる全員の口から溜め息が漏れる。
「良かったな、ネイト。扉が開いて…」
「…何やらかしたか知らないが、エルデ嬢を泣かすなよ」
「それにしても、随分恥ずかしい事を口走ってたな…」
「あら?知らないの?ネイト様が言ってたのは小説の台詞よ。私も若い頃に読んでたわ」
「懐かしいわね~」
「読み返してみようかしら」
「いや、そっちじゃなくて最後のーー」
「皆さん、うちのネイトとエルデが大変お騒がせしました。後は私達で…2人共、サロンに場所を移しましょうか?」
「「……はい」」
最後の台詞は何かなど、エルデ嬢に知られるわけにはいかない…知られた日には再び扉が閉ざされてしまう。
ーーー
「それでは、ネイト殿の事で拗ねているネイト殿に怒っていたのではないと?」
夜も更けたサロンの硝子戸の手前に置かれているのは、伯爵から贈られたオレンジの苗木。
特舎で一番陽当たりも風通しも良いサロンで、レインの背中の傷が治るのを待つ事になった幼木達は、咲かせた数個の花から甘い香りを放ち、擦り減った神経を癒してくれる。
その故郷を連想させる花の香りに頬を緩ませ、改めて謝罪を口にしたエルデ嬢は、ネイト殿の下らない嫉妬ではなく違う理由で腹を立てており、その事が今回のネイト殿の奇行に繋がったと話した。
「余所余所しい態度に、多少は腹も立ちましたが…私にも原因があった事なので起こる理由にはなりません」
「原因て…あの初恋の話ですか?」
「……レイン様にはネイトが初恋だと話しましたが、マリーとネイトが想い合ってる事も知っていましたし、ネイトの事は当時読んでいた主人公に重ねて憧れていた程度なんです…身近な男性はネイトしかいなかったので…ちょっとだけ…見栄を張っちゃいました」
居た堪れないといった様子で話すエルデ嬢だが、好きと言ってもらえなくて拗ねていたと聞いたこちらも居た堪れない…以前にも同じ様な事があったが、あの時はネイト殿の自信のなさが原因だったか…?
あの日以降、朝に夕に好きと伝えているのだと鬱陶しい事を言っていたが、拗れた間は伝えていなかったという事か…
「……で?エルデ殿の欲しい言葉は分かりましたか?ネイト殿?」
「………」
まさかの無反応…?
「…もしかして…まだ分からないんですか?」
「その自分は分かっている様な言い方はやめろ」
「分かっているから、こういう言い方をするんです」
「子供のお前に女心が分かる筈ないだろっ!」
「その女心の分からないネイト殿は子供、いえ、最早人間以下…正に獣ですね。エルデ殿、結婚証明書を提出していない今ならまだ間に合います。今度はちゃんとした人を選びましょう」
「お前っ…俺の味方じゃないのか!」
「敵味方の問題ではありませんが、この場合エルデ殿の幸せを優先するのは人として当然では?」
「ネイト殿、先程女性が喜ぶ言葉や行動について考えた事がないと話していましたが、エルデ嬢がどんな言葉で喜ぶだとか、何をしたら喜ぶだとか、そういった事は考えませんか?」
「考えますよ、当たり前でしょう」
「それは何故?」
「好きだからに決まってるでしよう」
「いかがでしょう、エルデ嬢」
「…及第点です」
「………え?」
この場は及第点でも、もらえないよりはいいだろう。
後は自分で何とかしてくれ、俺ももう休みたい…
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