泡にはならない/泡にはさせない

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第9話 「未遂なので」

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「ふーん、ふーん!」
 水族館から帰った翌日、夏樹は浮かれていた。そのリュックには、最後に貰った”緑のイルカのストラップ”が付けられている。これを見るだけで、あの日の出来事が鮮明に思い出されるのだ(失敗も一緒に思い起こされるのはさておき……)。
 そんな夏樹は、今日も足取り軽く、千歳の練習を見学するべく、プールへと向かっていた。しかし、前方から誰かの声が聞こえて来たことで、その足を止める。

「だからよ、処理ならオレが付き合ってやるって言ってんだろ?もうすぐ、来んだろ?『ヒート』」
 聞こえて来た『ヒート』と言う単語にハッとした夏樹は、咄嗟に身を潜め、声の方をこっそり覗いた。声の出所は、突き当りの自動販売機の前にいた2人の部活ジャージを纏った男達だった。やはりと言うか、片方は千歳。もう片方は厭味ったらしい笑みを浮かべた男だった。夏樹には、すぐにその人物が『アルファ』だとわかった。
「それ、セクハラですよ。それに薬で抑えられるので、余計なお世話です」
 夏樹ですら嫌悪する発言に対し、千歳は冷静に返答した。だが、アルファは嘲る様な言葉を続けた。
「強がんなよ。お前が中学の時、更衣室でよろしく”ヤってた”ことは知ってるんだ」
「(はぁっ!?)」
 アルファから飛び出した言葉に、夏樹は思わず固まった。
「やっぱ、お前も『オメガ』なんだなー。すました顔してるけど、”そう言うこと”、好きなんだろ?あの”童貞っぽいアルファ”で大丈夫なのか?足りてんの?満足させてくれないだろ?」
 アルファが言っている”童貞っぽいアルファ”と言うのは、夏樹のことだろう。確かに、童貞なのは否定しないが、下世話な話しのダシに使われる謂れはないし、何より千歳にそんな言葉を投げかけるのは許せない。
「それにあいつ、お前に変な夢見てそうだしな……お前が”清い身”じゃないって知ったらどうなるかね?」
「おいっ、聞こえてるぞ!」
 耐えきれなくなった夏樹は、ついに2人に割り込んだ。そんな侮辱でしかない言葉を、それ以上千歳に聞かせたくなかった。
「けっ、『番』様の登場かよ!」
 夏樹の姿を認めたアルファは、舌打ちしながら、千歳から離れた。
「後悔すんなよ!?お前みたいな可愛げのない”偽アルファ”を相手にしてやれる奴なんざ、オレくらいしかいないんだからな!?」
 アルファは捨て台詞を残して、足取り荒く去って行った。
「いや、貴方に頼むくらいなら、風俗行きますって」
 それに対する千歳の返答は、やはり冷静な物だった。正直、夏樹としては、そこは”夏樹に頼むからいいです”と言って欲しかったところだ。もちろん、口には出さないが……。

「すみませんね。うちの部員が見苦しいところを見せて」
 アルファの姿が消えると、千歳は夏樹に軽く頭を下げた。
「いや、そんなのいいよ。千歳こそ、あんなこと言われて大丈夫なのか?それに”偽アルファ”って……?」
「”偽アルファ”って言うのは、俺の蔑称?ですよ。”見てくれはアルファっぽいけど、実際はオメガ”と言うことにかけて、”偽物のアルファ”と言う意味だそうです」
「なんだよ……それ」
 あまりにも酷い言い草だ。千歳はもっと怒ってもいいはずだろうに。
「あんなの気にしてたら、キリがありませんよ。第一、4年間1度として補欠にすらなれなかった人の言葉ですよ?負け犬の遠吠え以外の何物でもありません……本当、”本アルファ”なら、一度くらいは”偽アルファ”より好タイム出して欲しい物ですよ。”本物”の名が泣きます」
「(強っ)」
 そこまで言うか。だが、ここで傷ついて座り込む様なオメガだったら、千歳はそもそもアスリート等やっていないのだろう。正しく、鋼の精神だ。アルファでも、ここまでの気概を持つ者はそういまい。
 いや、今、夏樹が気になるのは、千歳の精神力ではなく……。
「なあ、千歳?あいつが言ってたことって……」
 もちろん、千歳がさっきのアルファの言っていた通り、”清い身”ではなかったとしても、夏樹の気持ちは変わらないが、やはり、”友達”としては気になる。
「あれに関しては、事実無根ですよ」
「なーんだ!よかった!」
 千歳から帰って来た答えに、夏樹は胸を撫で下ろした。
「未遂なので」
「はい!?」
 訂正、全く安心出来なかった。”未遂”とは何だ、”未遂”とは?夏樹は、今すぐにその”未遂犯”を半殺しにしてやりたい衝動に襲われた。
「すみません。集合の時間が近いので、失礼します」
 しかし、千歳は、夏樹の内心等知ったことかとばかりに練習に向かおうとする。
「ちょっと!?まだ、話は終わってない……!」
「ここで話すようなことでもないんですよ」
 慌てて呼び止めようとした夏樹だったが、千歳の真剣な表情に口ごもる。
「それに関しては……聞きたかったら、いつもの場所で待っていてください。帰り道で話します」
 千歳はそう言い残して、プールの方へ行ってしまった。

 夏樹はもやもやしつつも、いつもの様に練習を見学した。そして、練習終了後、2人はいつもの様に帰路に就いた。ただ、いつもと違うのは2人の間に会話がなく、どことなく空気が重かったことだ。
 しかし、黙ってばかりはいられないと、夏樹が口を開いた。
「さっきの話の続きなんだけど……『未遂』って言うのは……」
「更衣室で『ヒート』を起こしたのは、事実だからです。周囲がアルファだらけなら、そうもなるでしょう?」
 千歳から帰って来たのは、やはりあっさりした返答だった。もちろん、夏樹にとっては聞き逃せる内容ではなかった。
「ええっ!?マジかよ!?マジで危なかったんだな……」
 アルファだらけの更衣室で、オメガの『ヒート』。AVも真っ青なシチュエーションだ。本当に未遂で済んでよかったとしか言い様がない。
「あれ?でも、普通、薬飲んでるよな?今時、『突発ヒート』なんてほとんど起こらないって聞いたぞ?」
 一般的に、オメガが初めての『ヒート』を迎えるのは、小学校高学年から高校生にかけてだと言われている。だから、『オメガ』と診断された人は小学校に入学した辺りから、抑制剤の服用を始め、それを習慣にするケースが多い。ましてや、アスリートとしてアルファ社会に入る選択を取った千歳だ。その辺りの管理は、普通よりも徹底していた可能性が高い。
「あの時は仕方なかったんです。あの頃の俺は……”アルファの特権意識”を舐めてましたから」
 千歳はぽつりと漏らした。
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