冷徹社長の容赦ないご愛執

真蜜綺華

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愛、始めてみるか?

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 掌を掠めた寒さに、繋いでいた手が解かれたのだと気づいたのは、自宅の玄関前だった。
 恋人がいるはずなのに、なぜ佐織に対し気を持たせるようなことをするのか。
 そんなのは自惚れだと返されかねない疑問は問うに問えず、冷えた手の中にもどかしく握りしめる。
 ルイに言われた言葉が過るも、離さないでほしかったという素直な思いがたまらなく胸を焦れさせた。
 玄関の引き戸を開け母を呼ぶと、突然現れたイケメン社長に、寝巻き姿を隠せないまま焦った様子で「大変お世話になっております」と三つ指をついた。
 佐織だけでなく、母親年代の頬をも赤く染めさせる橘は、やっぱり罪な男だ。
 しかし、佐織は自ら外に出たのにもかかわらず、呼び出してしまったと真摯に謝罪する彼には文句のつけようがない。
 父が外出していてよかったと心から思ったのは、母が是非にと半ば強引にお茶を勧めたからだ。
 あるいは、ここぞとばかりに、という方が正しいかもしれないことは、呆れた目線に込めるだけにした。
「あら、じゃあ帰国子女なんですね」
「そうなりますね」
 リビングの横長の広いこたつに橘と並び、香り高いお茶の旨味にほっと息をつく。
 最初帰省した佐織に出されたものとは、色も香りも格段に違う一級品だ。
 母は橘の正面に座り、まるで恋人でも紹介されているかのように嬉々として質問攻めにする。
「こちらの生活には慣れました? 文化が違うと色々不便なこともあるでしょう」
「多少なりとも違いはありますが、両親から日本文化については身につけさせてもらっていましたから、困ることはないですね」
 丁寧な日本語を話す橘。緊張などする様子もなく、母を前に和やかに打ち解けている。
 佐織は湯呑に口をつけこそこそと隣を盗み見る。
 通った鼻筋が曲線美を描き、見ていて飽きない。良いお茶請けだ。
 今日大半の時間緩められている目元は、あの切れ長の鋭い眼光なんて忘れてしまったかのよう。
 和造りの家の、しかもこたつに座っている姿が驚くほど似合わない外国かぶれの彼は、本当に親への挨拶に来たのかと錯覚しそうだ。
「お茶のおかわり入れますね」
「いえ、お構いなく」
「遠慮しないでくださいね。そうそう、甘い物はお好きかしら。羊羹をいただいてたのよ。近くの神社の門前町で作られてて……」
 深夜という時間にもかかわらず、長居させるどころか禁忌まで犯そうとする母は、返事をもらわないままさっさと腰を上げて隣のキッチンへ行ってしまった。
「すみません、騒がしい母で」
「いいお母さんじゃないか。どこの馬の骨ともわからない男が娘といるのに、こんなに親切にしてくれるなんて」
「当然ですよ、お世話になってる会社の社長なんですから。それに、職業病でもあると思います。うちの旅館に来てくださった方は皆、わざわざ遠方からここがいいって選んで来てくださったのだから、おもてなしは全力でしないといけないって」
「お前の家族も、この町も素敵じゃないか。何もないなんて謙遜しすぎだ」
「そう言っていただけると、救われます」
 謙遜どころか、謙遜するものすらないと思っていたのに。
 この人に褒めてもらえるのなら、この田舎に生まれ育ってよかったと思う自分は呆れるほど現金だ。
「それなのに、……帰り難かったのか」
 心と耳がこそばゆく熱を持ったところで、気恥ずかしくて逸らそうとした視線は彼に捕まった。
 遠慮なく心に触れてくる彼から、簡単には逃げられないと悟る。
 持ち上げた湯呑を下ろして佐織は素直に心を打ち明けた。
「居場所がない気がしていたんです。紛れもなく自分が一方的に抱えていた気持ちのせいで。旅館を背負っている妹に、劣等感を持っていたんでしょうね。しっかりと自分の居場所を確立した彼女と比べて、私は誰にでもできるような仕事しかしてなくて」
 不思議だ。
 今まで自分の中に押し込めていた思いは、誰にも話したことはなかったのに。
 この人になら打ち明けても大丈夫だと思わせられる。
「仕事にやりがいがないなら、帰ってくることもできたんです。みんな、今日みたいに笑顔で私を迎えてくれるってわかってたから」
 代わりなんてすぐに見つかるような仕事を辞めて、帰るのはいつだってよかったのに。
 叔父の店で踊りを続けることで、意固地になっていた。やっと見つけた居場所だと思っていたから。
「私は、今いる場所で精一杯自分を活かして頑張ってるつもりでした。だけどもし私が『田舎に帰る』と言ったとして、私を引き止めてくれる人なんているのかなって思って……。今の場所も、この故郷にも、私でなくてはいけない理由はないんですよね。それが焦燥感の原因だったのかもしれません」
 彼の瞳が心を開かせる。
 この人が現れてから、自分がどうあるべきなのかを強く意識するようになった。
 触れられた心から、誰にも打ち明けたことのない本音がぞろぞろと出てくる。
〝佐織だから〟だと言ってくれたこの人なら受け止めてくれるだろうという期待に後押しされて。
「何も帰る必要はないだろう」
 柔らかさの中にいつもの自信と確かな強さを孕む眼差しで、橘が真っ直ぐに見つめる。
「もしそうすると言うなら、俺はお前を全力で引き止める」
 佐織自身を必要としてくれる気持ちが、目を逸らさせない。
 こんなふうに、自分のことを見てくれる人が他にいただろうか。
「代わりなんていない」
「社長……」
 自分を必要としてくれて、信じてついて行こうと思える人も、他にいなかった。
「どこかへ行こうとする必要はない。ここにいればいい」
 心ごと、胸がぎゅうっと強く掴まれる。
 例えばの話をしていたはずなのに、まるで本当に佐織がいなくなることを止めるように、彼の眼差しが佐織の心に絡みついてくる。
「社長ならきっとそんなふうに言ってくださると思ってました。そんなふうに、言ってほしかった……」
 自分を必要としてくれているのだと伝わってくる。
 勘違いなのかもしれなくても、構わないと思った。
 今だけでもいい。
 ルイが言っていたように、この人がこの国で癒やしを必要とするなら、それはきっと今ここにいる自分の役目なのだ。
 自惚れに逆上せ、心の奥底に生まれていた気持ちが自然と浮き上がってくる。
「社長のそばに、私の居場所をください」
 なんだか告白でもしているみたいだ。
「当たり前だ」
 一切の拒否を見せない橘は、期待を裏切らない言葉をくれる。
(どうしてそんなに、私によくしてくれるんですか? ただの部下の私に)
「ここにいろよ」
 そっと囁かれたかと思うと、腰に大きな掌が触れてきた。
 彼は何も言わずに顔を寄せる。
 彼の声は呪縛だ。
 何かの術が掛けられていて、体を動かせなくなった。
 深く吸い込まれそうな黒の瞳が、ゆっくりと瞼に隠される。
 もっと見つめて取り込んでいほしいのにと思ったときには、柔らかなものが唇を温かく包んでいた。
 音もなく離れる彼の顔を凝視する。
「普通こういう時は、目瞑るんだぞ」
 何をされたのか理解するまでに時間を要し、ようやくキスをされたのだと気づいたのは、ふわりと微笑む彼が視界いっぱいに戻ってきた瞬間だった。
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