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30:バタフライナイフ
しおりを挟む――隠し通路での選択が正しかったのか今となっては分からないし、恐らくこのまま自分は殺されてしまうのだろう、とハナコは思う。
ネロが言っていたとおり、隠し通路の先に三人がいなかったということは、すでにムラトのもとへ向かって出発したのにちがいない。
それにしても、こんなに時間が経つまで、なぜ放置されているのだろうか?
拷問されていたのは、時間経過を考えると、たぶん昼の二時あたりだったろうと思うが、それからおよそ六時間ものあいだ、なにもされずに放置されている。
ネロやトンプソンがここにいるのならば、なぜ拷問が再開されないのか?
まさか、アリスたちを捜すほうに力を割いているのか?
いや、おそらく――
――ネロもトンプソンも、今ここにいないのじゃないか?
「おい!」
外の見張りに向かって怒鳴ると、すぐに扉が開いた。
「大人しくしていろ」
顔を出した見張りが、無表情のままで言う。
「拷問の続きはまだなの? ヒマでしょうがないんだけど」
「少佐たちが戻れば、すぐにでも始まるさ」
「残念ね、呑気にピクニックへでも出かけた?」
「……お前にそこまで教える義理はない。つまらん冗談を言う前に、答えをちゃんと考えておくんだな」
やはり。とおくびにもださずに合点すると、無表情のまま「とにかく、大人しくしていろ」と見張りが扉を閉じた。
ネロもトンプソンもここにはいない。
その理由は分からないが、それでもこれは脱出のための大きなチャンスなのではないか?
思い、両手を動かしてみる。縄は少しだけ緩んではいるが、それでもまだ固く、ほどくのは容易でないことが分かる。足のほうも状況は同じで、未だ絶望の淵に立たされているのは明らかだった。
しかし「圧倒的優位に立った者は、その余裕から確実に隙を見せる」という、ドンの六番目の教えが胸に刻み込まれているハナコは、脱出の糸口を見つけるために四方へと視線を走らせた。
だが、小屋の中央に置かれた椅子からは、工具や農具はおろか、右手の壁際に見える干し草にさえも手が届かない。つぎに尻を動かしてうしろのポケットを確かめてみたが、懐中時計は無く、ベルトに差し込んでいた拳銃も当然のごとく無かった。
ハナコは、諦めたようにして天井を仰ぎ、三つ編みが手に触れるのを感じながら、ひとつため息を吐いた。
――敵が隙を見せているからと言って、それを突くチャンスがないのなら、意味が無いじゃないか。
ハナコはドンの教えを今まで極力、胸に刻み込んでいたが、たまに思い出してみたところで、結果がこれでは意味がない。
少しだけこの状況がおかしくなり、小さく自嘲したハナコは、そこでふと「敵の隙を突くために、自分でも普段は忘れてしまうような場所に武器を隠しておけ」という、ドンの十三番目の教えを思い出し、そして手を上げられるだけ上げて三つ編みの中央を探ると、そこに目当ての物があった。
それを取りだして、ホッとする。
バタフライナイフ。
それがハナコの隠し武器だった。
何度か試してようやく手を緊縛から解放し、すぐに足も自由にしたハナコは、少しよろめきながら工具類の置かれた棚に向かった。
扱ったことはないが、それでもこれらは武器になるはずだ。
ハナコはカナヅチを手に取り、そっと扉の横の壁に背をつけた。
だがその先の行動が思い浮かばない。
見張りをたおしたところで、この村にいるほかの兵士の目を盗んで脱出するのは、とても不可能な話なのじゃないか? 今回は、さすがに自分の強運を恃んで、行き当たりばったりの行動を起こすのは、マズイような気がする。
カナヅチを持つ手を下げたハナコは、ふたたび工具類のある棚へ向かい、手動の穿孔機を手に取った。
これを使って壁に穴を空けるという手はどうだろう?
扉のほうの壁は見張りの存在を考えると不可能だし、外からこの物置小屋を見たときのことを思い出すと、扉の真向かいの壁は、教会の右がわの壁にぴったりと沿うかたちになっていたから、ここも無理だ。干し草のあるほうは通りに面しているから、穴を空けたところでマヌケもいいとこ。やはり棚をどかして雑木林に抜けるために、ここの壁に穴を空けるのがベストだろう。
思い、棚の横にまわって肩で押してみたが、その軋む音が意外なほど大きく響き、すぐに押すのをやめたハナコは小さくため息を吐いた。
これではすぐにバレてしまう。
万事休すか……
「ネエさん」
その時、壁越しに聞き慣れた声が呼びかけてきた。
「バカ、なんで戻ってきた?」
「ネエさんと、おなじ理由ですよ」
「ちょうどいま縄をほどいて、これから脱出しようと思ってたとこなのに」
「ありゃ、助け、いらなかったですか?」
「いや……ありがとう」
壁の向こうの相棒に感謝し、ハナコはホッと息を漏らした。
「でも、どうするつもり?」
「もうすぐ合図があります」
「合図?」
ハナコが眉を顰めるのとほぼ同時に、大きな爆発音が聞こえ、時を置かずして、その威力を物語るように床が揺れた。
「敵襲! 敵襲!」
見張りが叫び、そして走り去る音が小さくなると、扉の向こうから錠前を外す音が聞こえ、トキオが入ってきた。
「行きましょう」
ふたたび爆発音が轟き、それに呼応して銃声が聞こえてきた。
「なにが起きてるの?」
「話はあとです!」
言って、ナイロン地のサマージャンパーを脱いだトキオは、それをハナコに放って渡してきた。
こういうときにまでよく気が利くものだと嘆息して、それを引き裂かれたシャツの上から羽織ったハナコは、ふたたびカナヅチを手に取り、トキオのあとについて物置小屋を出た。
遠くで火の手があがり、空が真っ赤に染まっている。
「さあ、こっちです」
トキオに先導されて教会の裏手に回り、そのまま楢や杉がまばらに林立する雑木林へ入ってしばらく行くと、大きな松の枯れ木があり、その洞の底部に敷き詰められた落ち葉を払ったトキオは、下からあらわれた迷彩柄の布をどけた。
そこには明らかに不自然な真四角の穴があり、トキオに言われずとも、それが《晦日の夜明け》の作った、べつの隠し通路だということが分かった。
トキオがそこへ入り、暗い穴からはハシゴを下りる金属音だけが聞こえた。それに続いて錆びついたハシゴを降りると、すぐに隠し通路へたどり出た。
「ここまで来れば、ひとまず安心です」
「どうやってここを見つけたの?」
「レーダーマッキーのダンナですよ。ネエさんを助けるために一役買ってくれました。まあ、高くつきましたがね」
言って、懐中電灯をつけたトキオが前方を照らす。
そこに、アリスがいた。
「なんで――」
言いかけたハナコにアリスが抱きついてきた。
アリスは無言のままだったが、それでも……
「……心配かけたね」
小さく震える少女の肩をつかんで優しく引き離したハナコは、そのままかがみ込んで頭を撫でてやった。
「アリスも戻るとしつこかったもんで、結局、みんな戻って来ちゃいました」
「みんな?」
「ええ、ダンナも」
――マクブライトまで戻ってきたのか。
「じゃあ、あの爆発は」
「ダンナのお手製爆弾です。でも陽動のはずなのに、威力がありすぎますよね」
言って、トキオが笑う。
「悪かったな」
うしろから声が聞こえ、振り返るとマクブライトだった。
「ついでに敵の戦力を削ぐのが、プロってもんだろ」
得意げに鼻を鳴らし、マクブライトがなにかを放ってよこす。
受け取って見ると、それは特殊警棒だった。
「……これは諦めてたんだけどね」
「あの懐中時計は見つけられなかったが、それがありゃ充分だろ」
「ああ――」
あそこに忘れたなと思いながら、マクブライトに目を向けるハナコ。
「本当に、ありがとう」
「お前に礼を言われたのは、これが初めてかもしれんな」
柄にもなく殊勝なハナコを、マクブライトが笑う。
「とにかく、急ぎましょう」
トキオに促され、ハナコたちは再開の余韻に浸る間もなく、出口を目指して歩き出した。
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