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第四章「集結する忍者」
第七話「遠き初恋」
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昼前の吉原の大門の前に、二人の同心が向かい合っていた。双方、横に若い男女が並んで立っている。
一方は文蔵といつもの面々、もう一方は粟口と若い女であった。
「無事、フネさんを身請けする手続きが出来たようですね」
「身請けとは違うな。それでは俺のものになったみたいではないか。違法な奉公から解放されたと言った方が適切だ」
粟口が連れて来た女――フネは、初音という源氏名で吉原の遊郭杉花で奉公していた。それを粟口が交渉して解放してきたのであった。
「その分だと上手くいったようですね。金など使わずに済んだようで」
「ああ、あんなに悩んだのが嘘の様だ」
フネを解放するために粟口は杉花の主人に掛け合ったのだが、通常花魁を身請けする様に金を支払ったのではない。
フネが奉公に来た時の書類に不備があるのではないかと指摘したのである。
俗に遊女に身を落とす事を身売りなどと言うが、実のところ人身売買というものは徳川幕府により禁止されている。いや、徳川幕府どころか、鎌倉幕府の頃から禁令は幾度となく出されている。
禁令の内容は時代により違い、また取り締まりの厳しさは変化する。親が子を売る事や奴婢を売買する事は容認される事もある。だが、共通的に禁止されているのは、人を拐かして売る事である。また、徳川の時代では一応人身売買自体が禁止されており、遊女も一応は奉公という形式をとっている。
もちろん、実質的に人身売買である事は多々あるのだが、建前上は年季奉公であるし、年季が明ければ自由の身となる事も不可能では無い。
そこでフネの身の上を振り返ってみると、フネを杉花に売り渡したのは当然ながら親ではない。囃子の又左の一味である。
証文では多摩の百姓の某が娘を奉公に出している事になっているが、そんな者は存在しない。粟口が一度身請けの相談をした時に証文を確認し、その内容を調べたのである。
後は百戦錬磨の粟口にとって簡単な事である。
杉花の主人のもとに乗り込み、フネの奉公に係る証文の不備を追及したのである。
杉花の主人は当初抵抗した。
粟口が初音に執心である事は知れたことである。貧乏同心が身請けの金を用意できず、難癖をつけて強引に引き取ろうとしているのだと考えたのだ。
だがそれは違う。
文蔵やフネの証言から拐かしが起きているのは明白であり、証文にも不備があった。不備を理論立てて問い詰めたり、この一件は既に捕縛されている黒雲の半兵衛などともかかわりがある事を仄めかすと、ついに杉花の主人はフネを連れて来た男が怪しいと感づいていた事を自白したのだ。前に一度フネの親を名乗って証文を交わした男の住むという村に使いを出した事がある。フネが病を得た時にそれを知らせるためだ。だが、その様な者は周囲の住民に聞いても存在しておらず、それ以来杉花の主人は不審を抱いていたのだ。
だからといってフネを解放するつもりは無く、年季が明けた時に面倒な事になるとは理解していたのだが、それまでにフネが死ぬ可能性は高いので放っておくことにしていたのだ。
その因果がこうして廻って来たのである。
粟口が大店の真砂屋を締め上げた事は既に江戸中に知れ渡っており、その事もあり観念して粟口に罪を白状したのであった。
「フネさん。良かったですね」
「? ええ、どなたか知りませんがありがとうございます。同心の服装からすると、粟口様の御同輩ですか?」
「え……十五年前に助けて貰った文蔵ですよ。人攫いの根城から逃がしてくれたでしょう」
「そんな事あったかしら? 色々あったから覚えていないの。ごめんなさいね」
文蔵は十五年来心に秘めていた感謝の言葉を口にするが、フネは要領を得ない。何かが文蔵の中で崩れていくような気がした。
「そ……そうですか。それでは仕方ありませんね。ところで、これからどうするんですか? 家族は覚えていないのでしょう? 江戸の近辺だとは思うのですが」
証文の家族は偽物のため、フネに帰る家は存在しない。だから文蔵は探す手伝いをしてやろうと思ったのである。文蔵は運よく家族の元に帰る事が出来たのだが、恩人に寄る辺が無くては心苦しい。
「それならわたし、粟口さんの家に厄介になりたいと思います」
「え?」
フネの言葉に文蔵は驚いた。粟口ですら聞いていなかったのか、フネの方を見て目を剝いている。
「しかし、若い女が独り身の男の家に寝泊まりする訳にも……」
「あら、独り身なら問題ないじゃありませんか。それとも、私では迷惑ですか?」
「いや、そんな事は無いが」
目の前で行われている粟口とフネのやり取りを見て、文蔵は眩暈に襲われた。
粟口を見るフネの熱っぽい眼差しを見れば、その感情は明らかである。粟口も世間体を気にしているが、まんざらでも無さそうだ。
当然のことか。
文蔵は、そう心の中で呟いた。
フネを自由にするために奮闘したのは粟口である。文蔵も多少協力はしたのだが、フネからしてみれば見えないものは存在しないも同じである。
積極的に動いていないくせに、幼い頃からの淡い想いが叶うなどと期待するのは贅沢であろう。
文蔵は少年の頃から心の底に眠らせていた思いが、今潰えたのを感じた。
「粟口さん。今日は一先ずそれぞれ帰るとしましょう。囃子の又左の調査はまた明日からと言う事で。その時は、フネさんを連れて来て下さいね」
「ああ、悪いが家に帰らせて貰う。客人を寝かせる寝具すら無いのでな。これから調達せねばならん」
粟口はフネを連れて、八丁堀の方へ去って行った。それを見送った文蔵は、朱音と善三に向き直って言う。
「今日はもう、飲むか」
一方は文蔵といつもの面々、もう一方は粟口と若い女であった。
「無事、フネさんを身請けする手続きが出来たようですね」
「身請けとは違うな。それでは俺のものになったみたいではないか。違法な奉公から解放されたと言った方が適切だ」
粟口が連れて来た女――フネは、初音という源氏名で吉原の遊郭杉花で奉公していた。それを粟口が交渉して解放してきたのであった。
「その分だと上手くいったようですね。金など使わずに済んだようで」
「ああ、あんなに悩んだのが嘘の様だ」
フネを解放するために粟口は杉花の主人に掛け合ったのだが、通常花魁を身請けする様に金を支払ったのではない。
フネが奉公に来た時の書類に不備があるのではないかと指摘したのである。
俗に遊女に身を落とす事を身売りなどと言うが、実のところ人身売買というものは徳川幕府により禁止されている。いや、徳川幕府どころか、鎌倉幕府の頃から禁令は幾度となく出されている。
禁令の内容は時代により違い、また取り締まりの厳しさは変化する。親が子を売る事や奴婢を売買する事は容認される事もある。だが、共通的に禁止されているのは、人を拐かして売る事である。また、徳川の時代では一応人身売買自体が禁止されており、遊女も一応は奉公という形式をとっている。
もちろん、実質的に人身売買である事は多々あるのだが、建前上は年季奉公であるし、年季が明ければ自由の身となる事も不可能では無い。
そこでフネの身の上を振り返ってみると、フネを杉花に売り渡したのは当然ながら親ではない。囃子の又左の一味である。
証文では多摩の百姓の某が娘を奉公に出している事になっているが、そんな者は存在しない。粟口が一度身請けの相談をした時に証文を確認し、その内容を調べたのである。
後は百戦錬磨の粟口にとって簡単な事である。
杉花の主人のもとに乗り込み、フネの奉公に係る証文の不備を追及したのである。
杉花の主人は当初抵抗した。
粟口が初音に執心である事は知れたことである。貧乏同心が身請けの金を用意できず、難癖をつけて強引に引き取ろうとしているのだと考えたのだ。
だがそれは違う。
文蔵やフネの証言から拐かしが起きているのは明白であり、証文にも不備があった。不備を理論立てて問い詰めたり、この一件は既に捕縛されている黒雲の半兵衛などともかかわりがある事を仄めかすと、ついに杉花の主人はフネを連れて来た男が怪しいと感づいていた事を自白したのだ。前に一度フネの親を名乗って証文を交わした男の住むという村に使いを出した事がある。フネが病を得た時にそれを知らせるためだ。だが、その様な者は周囲の住民に聞いても存在しておらず、それ以来杉花の主人は不審を抱いていたのだ。
だからといってフネを解放するつもりは無く、年季が明けた時に面倒な事になるとは理解していたのだが、それまでにフネが死ぬ可能性は高いので放っておくことにしていたのだ。
その因果がこうして廻って来たのである。
粟口が大店の真砂屋を締め上げた事は既に江戸中に知れ渡っており、その事もあり観念して粟口に罪を白状したのであった。
「フネさん。良かったですね」
「? ええ、どなたか知りませんがありがとうございます。同心の服装からすると、粟口様の御同輩ですか?」
「え……十五年前に助けて貰った文蔵ですよ。人攫いの根城から逃がしてくれたでしょう」
「そんな事あったかしら? 色々あったから覚えていないの。ごめんなさいね」
文蔵は十五年来心に秘めていた感謝の言葉を口にするが、フネは要領を得ない。何かが文蔵の中で崩れていくような気がした。
「そ……そうですか。それでは仕方ありませんね。ところで、これからどうするんですか? 家族は覚えていないのでしょう? 江戸の近辺だとは思うのですが」
証文の家族は偽物のため、フネに帰る家は存在しない。だから文蔵は探す手伝いをしてやろうと思ったのである。文蔵は運よく家族の元に帰る事が出来たのだが、恩人に寄る辺が無くては心苦しい。
「それならわたし、粟口さんの家に厄介になりたいと思います」
「え?」
フネの言葉に文蔵は驚いた。粟口ですら聞いていなかったのか、フネの方を見て目を剝いている。
「しかし、若い女が独り身の男の家に寝泊まりする訳にも……」
「あら、独り身なら問題ないじゃありませんか。それとも、私では迷惑ですか?」
「いや、そんな事は無いが」
目の前で行われている粟口とフネのやり取りを見て、文蔵は眩暈に襲われた。
粟口を見るフネの熱っぽい眼差しを見れば、その感情は明らかである。粟口も世間体を気にしているが、まんざらでも無さそうだ。
当然のことか。
文蔵は、そう心の中で呟いた。
フネを自由にするために奮闘したのは粟口である。文蔵も多少協力はしたのだが、フネからしてみれば見えないものは存在しないも同じである。
積極的に動いていないくせに、幼い頃からの淡い想いが叶うなどと期待するのは贅沢であろう。
文蔵は少年の頃から心の底に眠らせていた思いが、今潰えたのを感じた。
「粟口さん。今日は一先ずそれぞれ帰るとしましょう。囃子の又左の調査はまた明日からと言う事で。その時は、フネさんを連れて来て下さいね」
「ああ、悪いが家に帰らせて貰う。客人を寝かせる寝具すら無いのでな。これから調達せねばならん」
粟口はフネを連れて、八丁堀の方へ去って行った。それを見送った文蔵は、朱音と善三に向き直って言う。
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