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第二章「当世妖怪捕物帳」
第八話「鈴ヶ森刑場前の茶店」
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遠金が暗殺教団の拠点ではないかと夢野に教えた場所は、品川の少し南にある大井村に存在していた。
了善という修験者が疫神大権現を祀った事が創始だとされており、皆から教光院と呼ばれている。創始者は羽黒山や高尾さんといった各地の霊山を廻って修業を重ね、諸大名や大奥の女中達から絶大な崇敬を受けていた。
その崇敬を隠れ蓑に暗殺をしていたとしたら、これは天下の一大事である。これを知れば江戸の町人達も枕を高くして眠れまい。
暗殺の標的とされるのは、いずれも高位高官豪商であり、庶民には関わりないと言う考えも有るかもしれない。だが、暗殺がまかり通る世の中で、しかも社会の上層部に殺しを用いて政敵を排除し、のし上がるのが状態化されたとしたら、それは庶民にとって不幸である。とても健全な社会とは言えない。
だからこそ夢野は調査にきたのであった。
「という決意でここまで来たんだが、なんかいい考えない?」
「無いわね。もう少し考えて行動した方がいいんじゃないの?」
立派な決意とは裏腹に、夢野は大した考えも無しに教光院のすぐ近くに来ていた。ここは朱引の外であり、近郊ではあるが既に江戸ではない。ここまで少し遠出であるため、歩いている内に何か思いつくだろうと高を括っていたのだが、残念ながら何も思いつかなかったのだ。そして同行してもらった綾女に尋ねたのだが、ぴしゃりと言われてしまう。
「ま、まああそこの茶店で一杯やりながら考えようじゃないか。腹が減っていては思考がまとまらんしな」
綾女は夢野が町奉行所から帰って来るなり、妙な事件に首を突っ込み始めたのが不満なのか、少しご機嫌斜めであった。なだめるために茶店によって腹ごしらえをする提案を夢野はする。
「それにしても、ちょうど良い所に茶店があったもんだ。街道沿いとはいえちょっと中途半端な場所なのにな」
教光院は品川から一里程度である。半刻も歩けばここまで着くので休むにはまだ早い地点である。
「ひひっ、何を言うてなさる。ここはお客さんが大勢来るんじゃよ」
「客?」
茶店の主である老婆が気味の悪い喋り方で夢野の独り言に答えた。
「そう、客じゃよ。今日は何もありゃせんが、あっちの方に松林が見えるじゃろ? あの辺にいつもは見物人が大勢来るんでの。こんな場所でも繁盛しとるんよ」
「見物人ねえ。一体何があるのさ?」
夢野も綾女も老婆の示す方を少し眺めたが、とてもわざわざ見物しに来るような場所には思えない。
「何じゃ、知らんのか? あそこは、鈴ヶ森刑場じゃよ」
「うげっ」
夢野は思わず口に含んだ団子を吐き出しそうになった。確かに考えてみれば、この辺りは処刑場である。そして妖怪だの魔王だのを読本に書いている夢野であるが、現実の残酷な事に耐性があるわけではない。むしろ毛嫌いしている。
「磔や火炙りは、他の刑場じゃやってないらしいからのう。そんな日には沢山の見物人が押しかけて来るんで、儲けられるって寸法さ」
「はあ、逞しいもんだね」
老婆の商魂には夢野も呆れ顔だ。だが、決してそれをもって老婆を見下している訳ではない。むしろ、生きるとはこういう事であろうとさえ思っている。自分は親の残した財産に頼ったり、運よく書いた読本が好評を博しているので戯作者として生きていけるが、それが普通の生き方では無い事くらい重々承知しているのであった。
「ところでさ、あっちの方にある教光院について何か妙な噂聞いた事ないかい? それとか、妙な奴が入っていったとか」
「さてねえ。あたしゃ毎日朝から夕までここに居るけど、妙な噂は全然聞かんけどね。夜は、近くの家に帰っているから知らんけどさ」
「そうですか」
老婆は茶店のすぐ近くにある農家の者らしい。田畑の手入れは子供達に任せ、自分はこうして日銭を稼いでいるのだ。一日中見張るのは無理な相談であった。そして日中に怪しいものを見ていない事についても残念ではあるが、これは仕方がない。その辺の老婆が漫然と見ているだけで暗殺教団の存在が露見してしまうのであれば、既に然るべき役所がその尻尾を掴み、摘発しているに違いない。
「あの、明日の朝までここに泊まらせて貰っていいですか?」
「え、あんた一晩中監視しようっていうの?」
「ああ、本気だ。そうでもしなきゃ、何が起きているのか分からんだろう」
「まあそうかもしれないけどさ」
「あんたら、何だか知らんけど大変そうね」
綾女は嫌そうな顔をし、老婆は呆れ顔である。そもそも若い男女が一晩誰もいない店に泊まらせてくれという提案をしてくる事自体が実に怪しいのである。
ただし、綾女はそういった意味で嫌がっているのではなく、単に面倒くさいだけである。また、老婆も何となく二人はまだそういう関係ではないと察した様だ。もっとも、場を提供する事で何か面白い進展でもあるのではないかなどと、仲人をして回るおせっかいと同じ様な事くらいはちらっと思ったのではあるが、当然そんな事は口にしない。このあたり、齢を重ねているだけあって人の感情の機微には聡い所がある。
こうして、夢野と綾女はこの晩、教光院を密かに監視する事になったのであった。
了善という修験者が疫神大権現を祀った事が創始だとされており、皆から教光院と呼ばれている。創始者は羽黒山や高尾さんといった各地の霊山を廻って修業を重ね、諸大名や大奥の女中達から絶大な崇敬を受けていた。
その崇敬を隠れ蓑に暗殺をしていたとしたら、これは天下の一大事である。これを知れば江戸の町人達も枕を高くして眠れまい。
暗殺の標的とされるのは、いずれも高位高官豪商であり、庶民には関わりないと言う考えも有るかもしれない。だが、暗殺がまかり通る世の中で、しかも社会の上層部に殺しを用いて政敵を排除し、のし上がるのが状態化されたとしたら、それは庶民にとって不幸である。とても健全な社会とは言えない。
だからこそ夢野は調査にきたのであった。
「という決意でここまで来たんだが、なんかいい考えない?」
「無いわね。もう少し考えて行動した方がいいんじゃないの?」
立派な決意とは裏腹に、夢野は大した考えも無しに教光院のすぐ近くに来ていた。ここは朱引の外であり、近郊ではあるが既に江戸ではない。ここまで少し遠出であるため、歩いている内に何か思いつくだろうと高を括っていたのだが、残念ながら何も思いつかなかったのだ。そして同行してもらった綾女に尋ねたのだが、ぴしゃりと言われてしまう。
「ま、まああそこの茶店で一杯やりながら考えようじゃないか。腹が減っていては思考がまとまらんしな」
綾女は夢野が町奉行所から帰って来るなり、妙な事件に首を突っ込み始めたのが不満なのか、少しご機嫌斜めであった。なだめるために茶店によって腹ごしらえをする提案を夢野はする。
「それにしても、ちょうど良い所に茶店があったもんだ。街道沿いとはいえちょっと中途半端な場所なのにな」
教光院は品川から一里程度である。半刻も歩けばここまで着くので休むにはまだ早い地点である。
「ひひっ、何を言うてなさる。ここはお客さんが大勢来るんじゃよ」
「客?」
茶店の主である老婆が気味の悪い喋り方で夢野の独り言に答えた。
「そう、客じゃよ。今日は何もありゃせんが、あっちの方に松林が見えるじゃろ? あの辺にいつもは見物人が大勢来るんでの。こんな場所でも繁盛しとるんよ」
「見物人ねえ。一体何があるのさ?」
夢野も綾女も老婆の示す方を少し眺めたが、とてもわざわざ見物しに来るような場所には思えない。
「何じゃ、知らんのか? あそこは、鈴ヶ森刑場じゃよ」
「うげっ」
夢野は思わず口に含んだ団子を吐き出しそうになった。確かに考えてみれば、この辺りは処刑場である。そして妖怪だの魔王だのを読本に書いている夢野であるが、現実の残酷な事に耐性があるわけではない。むしろ毛嫌いしている。
「磔や火炙りは、他の刑場じゃやってないらしいからのう。そんな日には沢山の見物人が押しかけて来るんで、儲けられるって寸法さ」
「はあ、逞しいもんだね」
老婆の商魂には夢野も呆れ顔だ。だが、決してそれをもって老婆を見下している訳ではない。むしろ、生きるとはこういう事であろうとさえ思っている。自分は親の残した財産に頼ったり、運よく書いた読本が好評を博しているので戯作者として生きていけるが、それが普通の生き方では無い事くらい重々承知しているのであった。
「ところでさ、あっちの方にある教光院について何か妙な噂聞いた事ないかい? それとか、妙な奴が入っていったとか」
「さてねえ。あたしゃ毎日朝から夕までここに居るけど、妙な噂は全然聞かんけどね。夜は、近くの家に帰っているから知らんけどさ」
「そうですか」
老婆は茶店のすぐ近くにある農家の者らしい。田畑の手入れは子供達に任せ、自分はこうして日銭を稼いでいるのだ。一日中見張るのは無理な相談であった。そして日中に怪しいものを見ていない事についても残念ではあるが、これは仕方がない。その辺の老婆が漫然と見ているだけで暗殺教団の存在が露見してしまうのであれば、既に然るべき役所がその尻尾を掴み、摘発しているに違いない。
「あの、明日の朝までここに泊まらせて貰っていいですか?」
「え、あんた一晩中監視しようっていうの?」
「ああ、本気だ。そうでもしなきゃ、何が起きているのか分からんだろう」
「まあそうかもしれないけどさ」
「あんたら、何だか知らんけど大変そうね」
綾女は嫌そうな顔をし、老婆は呆れ顔である。そもそも若い男女が一晩誰もいない店に泊まらせてくれという提案をしてくる事自体が実に怪しいのである。
ただし、綾女はそういった意味で嫌がっているのではなく、単に面倒くさいだけである。また、老婆も何となく二人はまだそういう関係ではないと察した様だ。もっとも、場を提供する事で何か面白い進展でもあるのではないかなどと、仲人をして回るおせっかいと同じ様な事くらいはちらっと思ったのではあるが、当然そんな事は口にしない。このあたり、齢を重ねているだけあって人の感情の機微には聡い所がある。
こうして、夢野と綾女はこの晩、教光院を密かに監視する事になったのであった。
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